寒い国まで来たスパイ 第2章 夜の乗合馬車

第2章 夜の乗合馬車


 そんな騒ぎから数日の後、また午後に少し時間が空いたのでメイは久々に城の厨房に足を踏み入れていた。

《おー、何かここに来るとやっぱり心が落ちつくなあ……》

 そこは彼女が城に雇われてからずっと過ごしてきた職場だ。その空気はまだまだ体にしっくりくる。

 そう思って厨房の香りを満喫していると……

「おや、誰かと思ったらメイじゃないか。かわいい格好してるから分からなかったぞ?」

 出て来たのは料理長だ。

「あ、どうも。お久しぶりですー」

「どうだ? 秘書官なんてのにはもう慣れたのか?」

「まあ、ぼちぼちで……あはは。あ、それでフィエルさん、いますか?」

「ああ、控えにいると思うよ」

「ありがとうございますー」

 メイは料理長に挨拶して、料理人の控え室に向かった。

 そこには数名の料理人がたむろしていたが、入ってきたメイの顔を見るとその中の一人が親しげに声をかけてきた。

「まあ、メイちゃん。最近顔見ないから、どうしてるかって噂してたのよ」

 二十代後半くらいの笑顔がかわいい人だが、彼女が先輩のフィエルだ。メイは厨房に入ったときからこの人の下についていろいろと教わってきた。料理の師匠である。

「いや、暇がなかなかなくって。それにここ、遠いでしょう?」

 今メイが住んでいるのは、王宮の上階にある王女のフロアの片隅だ。そして日中はおおむね王女に付き従っていなければならないので、用もないのにここまではなかなかやって来づらいのだ。

「メイちゃん偉くなったものねえ」

「あはは。どうなんでしょねえ。前よりももっと雑用が増えただけ、みたいな……」

「へえ、そんなもんなのかい?」

「そんなもんなんですよー」

 肩をすくめるメイにフィエルが尋ねた。

「それで今日は? もしかして?」

「ええ、そうなんですよ。この間お願いしてたお話しなんですが……」

 聞いたフィエルは大きくうなずいた。

「あ、それならいい子たちがいたわよ?」

「え、本当ですか?」

「ええ。ルーネって子とマルテって子が、お菓子係をやってもいいって」

 メイはその名に馴染みがなかった。

「え? そんな子いましたっけ? 私の後に入ったんですか?」

「違うわ。西棟住み込みの侍女をしてるの。窓から二人が練習してるのが見えるんで、ずっと憧れてたんだって」

 侍女?

「え? ああ、でもそれじゃお菓子の方は……」

「それはオルナとかが準備しておくことになってるわ」

「えーと、何だか大げさなことになってますねえ」

 メイが二人に差入れしていたときは、余ったお菓子を自分で確保して持って行ってたのだが―――だから係は厨房の下働きの子だとばかり思っていたのだ。

「でもそれじゃ、いつ練習してるかっていうのは?」

 メイの場合はコルネ経由で情報を仕入れていたのだが……

「それならどこかから聞こえてくるから大丈夫よ」

 フィエルは笑った。

「あは、そうなんですね……」

 お城の侍女ネットワークというのはなかなかに凄いのだ。以前アウラがフィンと“戯れて”いたときに、彼の居場所がなぜか彼女に筒抜けになってしまったのもそのためだ。

《要するに二人が練習を始めたらそれを見た子が通報してくれて、厨房ではお菓子の準備をして、ルーネかマルテが取りに来て持っていくってわけね……》

 確かにみんながその気になれば十分に可能なシステムだ。

 と、そこにフィエルが尋ねた。

「それでガリーナさんも一緒なのよね?」

「え? あ、はい。今後はそうでしょうねえ。あ、だったら三人分いるわけですね」

 ガリーナも結構食べそうだから、ずいぶん分量が増えるかも……

「それもそうだけど、マルテが心配してたから」

「心配? どうしてですか?」

「あの子はガリーナさん派だから」

「え?」

 一瞬ぽかんとしたメイにフィエルが笑って言う。

「おかしいけど、もう派閥ができてるのよ?」

 メイは吹きだしそうになった。

「派閥って、じゃあリモンさん派とガリーナさん派が?」

「そうなのよ」

 彼女が来たのは何日前だ?

 いや、確かにガリーナというのは見栄えがするのだ。

 すらりと背は高く、フォレスでは珍しいショートカットで、その顔立ちは凛々しくきりりと引き締まり、ぴたりと背筋の伸びた歩き方も相まって、下手な男よりは間違いなくダンディーである―――なので彼女は城の侍女達のハートを一気にゲットしてしまったらしい。

「あはははは。確かにガリーナさんもカッコいいですもんね」

 メイ自身は間違いなくリモン派だが、ガリーナ派の気持ちも百パーセント理解できる。

「ま、だから今後皆さんのお菓子は大丈夫よ」

「あは。ありがとうございます。じゃあみんなにはそう伝えておきますので」

 いきなりだとアウラ達も驚くだろうし。

「お願いね。それにしても……」

 フィエルがふっと遠い目になる。

「どうかしましたか?」

「いや、ほらあのリモンが。隔世の感って言うのかしら?」

「え? あ、ああ、でしょうねえ……」

 彼女がこんな人気者になるなんて、確かにそう言われたらそうである。

《あの頃はひどい言われようだったものね……》

 メイが城に来た頃は例の王女の事件の直後で、そんな王女に仕えている侍女たちまでが陰ではかなり悪し様に言われていたのだ。

《コルネだってあのときは……》

 まさに大ピンチだったと言っていいが―――そこから否応なく思い出されることといえば……

「そういえばトランキーロさん、お元気ですか?」

「元気よー。最近メイちゃんがお見限りって寂しがってたけど」

「あはは。じゃ、後で久しぶりに行ってみます。最近あっちにも行く暇なくって」

「行ったら喜ぶわよ」

 トランキーロというのは雇われ御者の一人だ。厨房にいた頃はメイが良く車庫に顔を出していたせいで顔なじみになっていた。

 それからもうしばらくメイはフィエル達と雑談した後、城の車庫に足を向けた。

《おー、やっぱりここも来ると心が落ちつくなあ……》

 その場所は厨房からはかなり近いため、あの頃は暇があれば遊びに来ていたものだが……

「おー、ポリー! 久しぶりだねえ」

 車庫に隣接した厩から顔を出しているのは、去年のベラ行きで同行した馬車馬だ。

 馬もメイの顔を見て喜んでいなないた。馬というのは頭がいいから可愛がってやったら覚えていてくれるのだ。

 と、そこに四十前くらいのおじさんが現れた。

「おお、メイちゃんか?」

「あ、トランキーロさん。ご無沙汰してまーす」

「おいおい、いいのかい? そんな綺麗な格好でこんな所に来て」

 彼女が着ている王室メイド用の制服は、普通の侍女の物よりワンランク上なのだ。そういった人は普通はこんな所に来ないとしたものだが……

「え? あ……大丈夫ですよ。注意しとけば」

 町育ちの侍女の中にはこういった場所を毛嫌いする人もいるのだが、メイは農場育ちなので全く気にならなかった。だが確かにこの制服を汚したらまずいかもしれない。

「そうかそうか。ゆっくりしておいで」

 トランキーロは嬉しそうに笑った。そこにメイはとっておきの話題を振る。

「はい。あ、ところでトランキーロさん、ファルクス工房の馬車に乗ったことあります?」

 途端に彼も目が輝いた。

「ファルクス? ハビタルのかい? いや、何回か見たことはあるけど、乗ったことは……」

「ふふふふふ。実は私、乗っちゃいましたよ

「え? どこで?」

「この間留学してたときなんですけど。フレーノ卿って人のところで、ファルクス工房で一年かけて作ったベルリンの新車に初乗りさせてもらって、うはっ。もう速いのなんのって。それなのに全然揺れないし……」

 トランキーロは目を丸くした。

「ほう? ラットーネと比べてどうだ?」

「え? いやあ、難しいですねえ……どっちか選べって言われたら、悩んじゃいますよ。ベラじゃよくファイヤーフォックスにも乗せてもらってたんですが……」

「ファイヤーフォックスと互角? そりゃすごい。何か銘はあるのかい? その馬車」

「ああ、いや、一品物なので名前はフレーノ卿が決めるんですけど、どんなのがいいか悩んでるって言ってました」

「一品物かあ……そんなのが買える身分になりたいもんだなあ」

「ですよねー」

 そんな調子で二人が盛り上がっていたときだ。車庫の方でちらりと誰かが動くのが見えた。

「あれ? ガリーナさん?」

 その姿は一瞬であってもほとんど見間違えようがない。

「ん? あの人、ガリーナっていうのか?」

「はい。今度親衛隊に仮入隊しまして、王女様の護衛を務めることになってますが」

「へえ、そんな方がここに何の用かねえ?」

 トランキーロが首をかしげた。

「用向き、聞いてないんですか?」

「ああ、さっき来てちょっと車庫を見せてくれって言ったからさ」

「へええ、何の用なんでしょうねえ」

 そこでメイはトランキーロと分かれてガリーナの方に向かった。

「ガリーナさんっ!」

「はいっ!」

 ガリーナはびくんとしてふり返った。

「馬車がご入り用? どこかにお出かけですか?」

 と尋ねてみたが、そうならトランキーロにそう言えばよかっただろうし……

「いや、そういうわけでは」

 ガリーナは慌てたようすで首をふる。

「それじゃ馬車が見たかったとか?」

「え? まあ……」

 おおお! 何とこんな所に同好の士が!

「だったらそんなところから見てないで、中を案内しますよ? さあこっちです」

 メイはガリーナを引っ張って車庫に入っていった。

「入っていいんですか?」

「見るだけなら大丈夫ですって。乗ってお昼寝までしてたら怒られますけど」

「そりゃ……そうですね」

 車庫の中にはガルサ・ブランカ城で使われている各種の馬車が並んでいる。

「おー、ベル君じゃないですか。綺麗になってー」

「ベル君?」

「ああ、去年の夏にベラまで行ったときにはこの馬車で行ったですよー。あのときはドロドロに汚れちゃったんですが」

 その姿を見ていれば否が応でもあの事件のことが思い出されてしまう。メイがその話を始めそうになったところに、ガリーナが尋ねた。

「エルミーラ様もこの馬車をお使いに?」

「え? いえ、これは城の人の公用車で。王女様には専用のがありますよ。こっちです」

 メイは車庫から出ると、少し離れた所にある別な車庫に向かった。

「王室のご家族がお出かけになるときは、こちらの専用の馬車を使うんですよ。ほら、これです」

 メイが横の扉からガリーナを中に導き入れると、ガリーナも驚嘆の声をあげた。

「ああ、すごいですねえ……」

「でしょ? この手前のランドーがルクレティア様用のウォーターリリーで、その奥が王様用のウインドストリームですよ。共に先代ベルッキの作で、ウォーターリリーはルクレティア様がお輿入れされたときにお使いになったそうです」

「へえ……」

「その奥がエルミーラ様のフェザースプリングに、その向こうの赤いのがファイアーフォックスで、この間のベラ視察旅行はあれで行ったんですけど、見てませんか?」

「いえ、私は……王女様は二台馬車をお持ちなのですか?」

「ああ、近場に行くときはフェザースプリングを使いますけど、ベラとかの遠方に行くときはあのベルリンで行きますよ。元々ルクレティア様が里帰りなさるときにお使いになってたんで朱塗りなんですが。今回はそれをずっと借りてて。王様とかが遠出なさるときは、あそこにある黒のメイルストロームをお使いになりますけど」

 その説明をガリーナは目を丸くして聞いていたが……

「メイ殿ってお詳しいんですねえ」

 まさに感嘆したという様子だ。

「え? いやまあ、わりと好きだからよく来てて……ガリーナさんも馬車がお好きなんですか?」

「え? いえ、それほどでもないんですが……でもそうすると……」

 それほどでもない? お仲間じゃなかったのか?

「そうすると?」

 ガリーナは少し口ごもりながら答える。

「いや、その、ほら王女様ってその、ちょっと変わったところにいらっしゃるとか……」

「変わった所って……もしかしてアサンシオンですか?」

 あっけらかんとメイが尋ねるので、ガリーナはちょっとぽかんとしてからうなずいた。

「え、まあ……」

「あはは。そうなんですけど……それで?」

 それとこれとがどう関係あるのだろうか?

「そこにもこの馬車でいらっしゃるのですか?」

 ガリーナがフェザースプリングを指さした。

「はい。そうですけど?」

 メイがまたうなずくと、ガリーナがすこし驚いた様子で尋ねた。

「……それって……目立ちませんか?」

「もちろん。目立つなんてもんじゃありませんけど? でも王女様、そんなこと全然気にしてらっしゃらないし」

「そうなんですか?」

「はい。おかげでみんな楽しみにしてるんですよ」

「え? 楽しみ? 何を?」

 さすがにこれだけでは意味不明だろう。

「実はそんな日には王女様のフェザースプリングに乗せてもらえるんです。相乗りって言いまして」

「相乗り、ですか?」

 ガリーナはまだ首をかしげている。メイは大きくうなずいた。

「そうなんですよ。普通なら庶民がこんな馬車、一生乗れないじゃないですか。でも王女様が息抜きに行かれるときには、町まで何人か乗せてもらえるんです。だからもう城中の女の子は一度は乗ってるんじゃないでしょうか?」

 ガリーナは目を見はった。

「へええ……またどうしてそんなことが?」

 そこにメイが頭を掻きながら答えた。

「あははー。それがちょっと自慢話みたいになっちゃうんですが……お聞きになります?」

「え? はい。是非に」

 ガリーナが興味深そうにうなずいた。

「あー、それじゃこんな場所で立ち話も何だし、どこか座れるところに行きますか?」

「ああ、構いませんよ」

 二人がいるのは薄暗い車庫の中だ。ガリーナもうなずいた。

 そこで二人は城の中庭に移動した。

「ここ、いいでしょう」

「気持ちいいですね」

 二人は中庭の中央にある噴水の脇に腰を下ろした。今日も天気がよく風が心地よい。

「実はここでル・ウーダ様がアウラ様に告白したそうなんですよ?」

 途端にガリーナの目が輝いた。

「え? 本当ですか?」

「そうなんですよ。で、それ以来、それまでちょっと暗い感じだったアウラ様がすごーく明るくなられて」

「以前はそうではなかったのですか?」

「はい。何か思い詰めたような感じで、あんまり笑ったりもなされなかったんですが、それ以来ずーっとあんな感じでニコニコと。ほら、アウラ様って結構子供っぽいところありますよね?」

「まあ、そうですね……」

 ガリーナも苦笑いする。まだこの何日かの付きあいだが、アウラのそういう側面を知るには十分だ。

「アウラ様ってお幾つなんでしょうねえ」

「さあ、実は確かなところはよく分からないそうで」

「え?」

「ガルブレス様が旅の途中に拾われたそうなので……それ以前をあまり覚えてらっしゃらないようで。でも大体リモンさんと同じくらいじゃないでしょうか」

「えっと、リモン殿は?」

「私より三つ上ですから……今二十一歳ですか?」

「えええっ?」

 ガリーナが驚愕した顔でメイを見た。

「どうしましたか?」

「あの……私も今年で十八なんですが……」

 ………………

 …………

 ……

「えええええええええ?」

 メイと同い年?

 二人はしばし互いを見つめて―――それから大声で笑った。

《絶対に二十歳超えてるって思ってたけど……》

 そして彼女の方は、絶対に十五歳くらいだって思っていたに違いない。

 これ以上考えていたらもう立ち直れなくなりそうなので……

「えっーと、で、なんでしたっけ。そうそう。相乗りの話ですよねーっ?」

「は、はい、そうでしたねっ!」

 メイはけほんと咳払いした。

「それでですね、ほら、王女様付きにコルネってのがいるでしょう?」

「あのかわいい方ですか?」

 あー? カワイイだと? とんでもない。見かけと中身が完全に背反しているというのはああいう奴のことを言うのだが―――まーいーが……

「いや、あの子、実はすごくドジででして。昨日もグルナさんに怒られてたの、見ましたよね?」

 ガリーナはうなずいた。

「え? あー、結構派手に怒られてましたねえ」

「そうなんですよ。どうやらグルナさん本気みたいで」

「?」

「実はベラからの帰り際にセリウス様に求婚されたんだそうですが……」

 聞いたガリーナの表情が変わる。

「あの……セリウス様が?」

「やっぱりセリウス様って、そちらでは人気だったんですか?」

 ガリーナがちょっと赤くなる。

「そりゃまあ。あんなお方ですから……」

 若くて仕事ができて、結構イケメンな部類でもあるし、まさにポイントが高いのは間違いないが……

「あー、でもあのグルナ殿なら……」

 ガリーナが仕方ないというようにうなずく。

 グルナさんもまたよく気がつくし、家事一般任せたら万能に近いし、その実、意外に綺麗でスタイルも良かったりするし、メイの目から見てもお嫁さんにするならナンバーワンといった人だ。要するにまさに完璧な取り合わせなのだ。

「ふふ。そうなんですよ。ところがグルナさん、私が一人前の秘書官になるまで待って下さいってお断りしたそうなんです。私まだ“秘書官補佐見習い”なもんで。いきなり放り出されてもこちらも困りますし」

「それはそうでしょうね」

 ガリーナはうなずいた。

「で、グルナさんがその話を王女様にしたそうなんですよ。そうしたら王女様がですね、コルネも一人前のフロアマスターにならないと許可できないなんて言ったそうで。それからなんですよ。グルナさんがコルネに厳しくなったの」

 まー、ざまーみれーなんですけどねー。あはははは。

 だがちょっとガリーナの反応は薄かった。

「そうなんですか。で、そのコルネ殿がどうなされたのです?」

 うぬ。コルネのアレさ加減はもっと付きあってみないと分からないからしょうがないか?

 で、何だっけ? そうそう……

「そうなんですよ。それで乗っちゃったんですよ。間抜けにも。息抜きにいらっしゃろうとしていた王女様の馬車に」

「はい?」

 ガリーナは不思議そうに首をかしげるが……

「ほら、その頃はまだ王女様がすごく危ない人だって思われてた頃なんです。女の子は王女様には近づいちゃいけないって本当に言われてたんですよ? 分かりますよね? あんなことされた後じゃ」

 彼女はそれを聞いて納得したようにうなずいた。

「ところがコルネの奴がですね、事もあろうに考えなしにそんな王女様の馬車に乗っちゃったんです。ほら、王女付きって住み込みじゃないですか。するとなかなかお休みがもらえないんですけど、そういう日はうちに帰っていいことになってたんです」

「はい」

「それでコルネが大荷物抱えてふらふら歩いてると、その横を王女様の馬車が通りかかって乗せてくれたんだそうですよ。コルネはそのときはもう、王女様がそんな人じゃないことは分かってたんで、もう大喜びで」

 あの後さんざん自慢されたことを覚えているが……

「そうしたら、それを見てた人がいて、コルネも一緒に郭に行ってるって噂を流されちゃって……」

「ああっ、それは大変でしょうね」

 メイはうなずいた。

「そうなんですよ。こういう噂って否定すればするほど広まっちゃうじゃないですか。もうあの子、ノイローゼみたいになっちゃって……」

「はい」

「で、もうお城勤めはできないかなって感じになっちゃって。でもそういうのってお城をやめてもずっと言われ続けちゃうわけでしょ? だったらそんな噂の届かない遠くに預ける方がいいかも、なんて話まで出て来て。ほら、王妃様つながりでベラにはいくらでもコネはありますから」

 それを聞いたガリーナが目を見はった。

「でも……ベラって遠くありませんか? 気候も違うし」

 それはまさにそうだった。

「ですよねー。私も行ってみてびっくりしましたが、あの夏の暑さってのはちょっと洒落になりませんよね。まあ、冬にあんまり雪が降らないっていうのはいいですけど」

「え? そんなに暑かったですか?」

 あー、ここにもこういう人がいたか……

「暑かったですよー。私なんか暑さでぶっ倒れちゃいましたし」

「え? 大丈夫でしたか?」

「あは。まあ水ぶっかけられて息を吹き返したんですがね」

「もしかして水も飲まずに頑張られたとか? それはいけませんよ? 本当に死にますから」

「いや、本当に身にしみて感じましたけど、ともかくですね、そんな遠くに一人でやられるってだけで可哀相なのに、悪い噂なんて届くときは届きますよね。そうなったら一生それから逃げて暮らさなきゃならないってことじゃないですか」

 ガリーナはうなずいた。

「それは……辛いですよね」

 メイはガリーナの顔を見る。

「でもあの子の場合ですよ? はっきり言って何も悪いことしてないんですよ。単にちょっと迂闊だっただけで。その程度のうっかりならだれだってやるし。そんなので一生がダメになるなんて、いくらコルネだってちょっと可哀相すぎるじゃないですか」

 ガリーナは黙ってうなずく。

「それで私思ったんです。私にはコルネが悪くないってことが分かるのに、みんなに分からないのはどうしてだろうって。そして分かったんです。みんな王女様とお話ししたことがないからなんですよ」

 ガリーナがまた少し驚いた。

「メイ殿は王女様とよくお話しをなさってたのですか?」

「あ、はい。よくお菓子の差入れとかを持って行ってたりしてたんです。コルネもいたし。そんな感じで王女様もよく声をかけて下さって」

「そうなんですか」

「はい。だから私、ちょっと頑張ってみたんです」

「頑張った?」

「はい。今考えたらよくあんなことできたと思いますが……」


 ―――その日はさすがにメイも緊張していた。

「ねえ、やっぱりやめない?」

 コルネが愚図るのはしかたがない。でもここは彼女に協力してもらわなければ話にならない。

「どうして? あなたのためでしょ?」

「でも……」

 コルネは胸に彼女の半身くらいもある大きな鞄を抱きしめている。そもそも彼女が王女様に声をかけられたのは、そんな大きな鞄を持ってよろよろ歩いていたせいだ。しかもそれに留まらず自分から乗せてくれと頼んだと言うが……

《大体そんなもの持ってなければこんなことになってないのに!》

 しかもだ。その中に何が入っているかと思えば―――大きな枕なのだ。

 その気になったらどういった所でも寝られたメイにとっては、枕が変わったら眠れないとかいう人だけは理解不能だった。

「大丈夫。あたしも一緒だから」

「…………」

 コルネは不安そうにメイを見る。メイとてそこまでの確信があってやっていることではない。彼女の中にも不安の種が広がってくる。

 実際、もし失敗したら彼女までコルネと同じようなひどい噂を立てられることになるのでは? そんなことになったら……

 もう少し王女の馬車が来るのが遅かったらメイの勇気も萎えてしまっていたかもしれない。だが運良くそんなことを話している所に王女の馬車がやってきた。見間違えるはずがない。あのブルーベリー摘みの時に乗せてもらったベルッキ55年型のランドー“フェザースプリング”だ!

 メイは大きく息を吸うと、ばっとその進路の前に飛び出して大きく手を振った。御者が驚いて馬を止める。メイは馬車の横まで走っていって、扉を叩いた。

 王女と、同乗してるナーザが驚いて顔を出す。

「王女様! 今日は私も乗せていって頂いて構いませんか?」

「え?」

 王女とナーザは驚いた表情でメイと、その後方でおろおろしているコルネを見つめた。

「あなた……メイちゃん?」

「はいっ!」

 メイは勇んでうなずいた。だが王女は首を振ると答えた。

「これは王室の専用馬車だからあなたはだめなのよ」

 そう言って王女は馬車を出させようとした。

 メイは焦った。このままでは元の木阿弥だ。

《こうなったら……》

 メイは動き出しかかった馬車のデッキに飛び乗った。

「あ、おい!」

 それに気づいた御者が慌てて馬車を止める。

「何してるの。危ないでしょ? 下りなさい」

 王女が慌てて叫んだ。実際危ない。こんなことをして落ちたらいきなり後輪に巻き込まれてしまう。

 だが今はそれどころではないのだ。

「いやです。コルネばっかりこんなランドーに乗せてもらうなんて、ずるいです!」

 メイは馬車の側面に張り付いたまま叫び返した。

「ずるいって、あなた何を言ってるのよ?」

「私も乗りたいんです!」

 これではまるでだだをこねる子供では?―――とは思ってもメイはそれで精一杯だ。

 王女はむっとして眉をしかめた。

「さっさとそこから下りないと引っぺがすわよ?」

 これ以上何と言ったらいいのだろう? メイの目から思わず涙がこぼれ落ちた。

「でも、でも……」

 そのときだ。ナーザが軽く王女を抑えると、囁くように尋ねた。

「どうしてそんなに乗りたいの? 知ってるでしょ? あなたも?」

 そう言って後ろで半泣きになっているコルネの方を見る。

 メイは大きくうなずいた。

「ならどうして?」

 メイは大きく息をすると答えた。

「でもコルネは途中まで乗せてってもらっただけじゃないですか。それでひどいこと言われるなんてひどいです」

「でもね、メイちゃん……」

 ナーザは首を振って何か言おうとしたが、メイはそれを遮ってまくし立てた。

「だから私達を乗せてって下さい。そして表通りの、みんながいるところで下ろして下さい! そしたらこの間も本当に乗せてってもらっただけだって分かると思うんです!」

 ナーザは驚いて目を見開いた。

 それから振り返ると王女の顔を見る。王女も無言でメイを見つめ、それからナーザとしばらく顔を見合わせた。

 やがてナーザが振り返ると答えた。

「でもあなたまでがひどいことを言われるかもしれないのよ?」

 メイは首を振った。それについてなら考えてある!

「言われたら言い返します。あんたは王女様とお話したこともないのにどうしてそんなことが分かるんだって。嘘だと思ったら馬車に乗せてもらってみろって」

 それを聞いた王女が尋ねた。

「じゃあ何? これからみんなをこの馬車に乗せてやれって? そう言うの?」

「え? まあ、その……はい」

 二人はしばらく何も言わずにメイを見つめた。次いで腹を抱えて笑い始める。

 メイは頭の中が真っ白になった。やっぱりだめだったのだろうか?

 だがやがてエルミーラ王女が言ったのだ。

「面白いことを考える子ね? 私そんなこと思いつきもしなかったわ」

「そうですわね」

 ナーザもうなずく。

「どう思う? これ。彼女がいいって言うならやってみてもいいんじゃない?」

「でもうまくいかなかったら?」

「そのときはベラに送るメイドが二人になるだけでしょ?」

「まあ……そうですわね」

 ナーザは再びうなずくと馬車の扉を開けた。ぽかんとしているメイに彼女が言う。

「さあ、お乗りなさい。メイ。それにコルネも。街まで送っていってあげるわ」

 これは―――もしかしてうまくいったのか? 本当に?

 ぽかんとしているメイに王女が言う。

「それともあなた、そこに乗って行くつもり?」

 メイはやっと自分が馬車の外壁にヤモリのように張り付いていたことを思い出した。

「いえ、あの、あの、ありがとうございますっ!」

 こうして彼女はあこがれのフェザースプリングに再び乗ることができたのだった―――


「そんなことをされたんですか?」

 ガリーナが少々呆れぎみに尋ねる。

「あははは。本当に今考えたら冷や汗ものですよねえ。まったく」

「…………」

 ともかく若気の至りというか結果オーライというか―――実際ここから“相乗り”の習慣が始まったのだが……

 そこにガリーナが尋ねた。

「でもそれでよく、一緒に乗ってくれる方がいましたね。私だったらそう言われても、ちょっと考えてしまうと思いますが……」

 確かにまさに最初はその点が心配だった。だがメイには強い味方がいたのだ。

「ああ、それはそうなんですけど、でもフィエルさんがいるから大丈夫かなって思ってました」

「フィエルさん?」

「はい。厨房の先輩の方で、お料理なんかをいろいろ教えてもらったんですが、この方が私の馬車道の師匠でもあるんですよ。あはは」

「馬車道?」

 ガリーナが一瞬ぽかんとして、それからクスッと笑う。

「そういえばメイ殿はとても馬車にお詳しいようでしたね」

「はい。そのフィエルさんのうちが馬車の修理工房なんですよ。それで小さいころは自分も馬車職人になるって思ってたそうで。でもやっぱり女じゃちょっと無理だったんでそれは諦めたそうなんですが、でも今も馬車が大好きで」

 メイがブルーベリー摘みに行って始めて王女の馬車に乗ったとき、それがランドーという型だということを教えてくれたのが彼女だった。それ以来彼女の話を聞いたり、工房にお邪魔したりしているうちに、メイもこのように詳しくなったのだ。

「だから次の日、心配して来てくれたときに私が誘ったら、一緒に乗ってくれたんです。さすがにちょっとは悩んでましたが」

「ちょっとは……ですか?」

「はい。でも乗った後はフィエルさん大はしゃぎで、みんなに言いふらしてくれたんですよ。あの人すごく顔が広いから。それにあんなすごい馬車でしょ? やっぱりみんな乗ってみたいって思ってたんですよ。だからその話を聞いてやってくる人が増えて」

 このようにして一人から二人、二人から三人と王女本人と触れあえた者が増えて行くにつれて、段々王女の悪評も減っていったのだ。

《でも結局王女様が王女様でなければああはなってないわよね……》

 直接話したからといって、誤解が解けるかどうかはまた別だ。

 それどころか彼女たちの乗った馬車の最終目的地がアサンシオンだったのは紛れのない事実なのだ。

 だが王女はそれを隠そうともせず、ただこう言った。

『人にはそれぞれの役割があります。私には私の、アサンシオンの娘にはアサンシオンの娘の。そしてあなた方にはあなた方の。それを果たしてくれている限り私はそれ以上を求めません』

「はあ……?」

 ガリーナは何やらよく分からない風だ。メイは微笑んだ。

「ま、何だかよく分かりませんよね?」

「え? はい……」

「それで今度は王女様がこんな話を始めるんですよ……」

 そして以前グリムールにも話した、王女様のお仕事についての話をした。

 …………

「え? 王女様が、遊女と同じって……そんな……」

 聞いたガリーナも目を白黒させている。

「もうわけが分からないでしょ? そしてですよ? 今度は、だから自分は王女様になるのはやめて、女王様になることにしたんだけど、なんて言ってですねえ……」

 …………

「首を刎ねられる覚悟って……」

「あはは。もうそんな話されても困るじゃないですか。でも一つ分かるんですよ。みんな。言ってることはよく分からないけど、騙そうとかごまかそうとしてるんじゃなくて、少なくとも王女様が真剣だってことは」

 おかげでその話はずいぶん昔から聞いていたのに、自分にも関わっていると分かったのはつい最近のことなのだ。

「変わったお方ですねえ……」

 しみじみとそうつぶやいてしまってから、ガリーナはあっという顔で口を塞ぐ。

「あは。いいんですって。みんなそう思ってますから」

「…………」

「だって本当に郭に行ってるんだし、いろいろ性格悪いし……でも女王様になったらフォレスに住む人々のために、一生懸命に力を尽くそうとしてることは分かるんで……」

 そうやって王女に対する悪い印象が抜けてしまえば、あとは一国の王女と素晴らしい馬車の中で語らったという事実が残る。

 そして前日まではこそこそと陰で囁いていた人が、相乗りの後には一変して王女を賛美しているのを見ると、メイはいろんな意味で笑いがこみ上げてきたものだが……

「ともかくそんなわけでみんな、王女様が息抜きに行かれるのを心待ちにしてるんですよ。でもそんなだから競争率が激しいんで、なかなか当たらないんですけど……でもガリーナさんだったら……あれ?」

 そのときふっとメイの頭によぎる物があった。

「どうされました?」

「ん、いや、ガリーナさんってずっとベラの後宮にお勤めだったんですよね?」

「はい。十二のときからずっと」

「お勤めって後宮の中だけですか? それとも水上庭園なんかは?」

「そこも後宮の一部のような物ですから。必要とあらば」

「だとしたら、あそこですごい宴会があるときの警備なんかも?」

「もちろんそれも務めますが?」

 ガリーナが不思議そうに尋ねるが……

「その、夜の部のときなんかも?」

「え? あ、まあ……」

 意図を理解してガリーナが頬を赤らめた。

《ってことはもしかして?》

「どうかされました?」

「いや、王女様、もしかしてまた怪しいことをお考えなんじゃと思って……」

 あの王女様は結構やることに裏の意図があったりすることがあって……

「怪しいこと?」

「ほら、王女様が郭に行かれるとき、もちろん護衛がいるんですが、そういう場合男じゃダメだから、以前はナーザ様で、今はアウラ様がその担当なんですが……」

「はい?」

「でもお一人だといろいろ困る場合もあるでしょ? でもリモンさん、そっちの方はだめで……」

 ガリーナは一瞬ぽかんとしていたが、それから赤面した。

「……え? それじゃ私が?」

「もしかしたらそんなことを期待されてるかも……」

「えええええ?」

 いや、根拠なんて全くないんだが。でもこの想像、全くの絵空事とは言えないんじゃ?

「だから私がそう思っただけで証拠なんてありませんし、それに嫌だってきっぱり言えば分かってもらえますよ? きっと」

「あー、えー……あはははは」

 あはは。この笑いはいったい何を意味してるのだろう?

 それからガリーナはげほんげほんと咳払いをすると、真顔になって尋ねた。

「あー、そのそれでその……」

「なんでしょう」

「王女様が郭に行くときに使われる、そのフェザー何とかは、結局王女様専用なんですよね?」

「フェザースプリングですか? そうですけど?」

「だったら予約が重なって困るようなことはないわけですね」

「そうですねえ。ベル君とかの公用車なら予定表がありますけど……どうしてですか?」

 どうしてそんなことを訊くんだろう?

「いえ、その以前、後宮でグレイシー様が出かけようとしたら馬車がなくって大騒ぎになったことがあって……」

「ああ、そりゃ大変だったんじゃないですか?」

 結構気難しそうな人だったから……

「はい……もうえらくどやされました……」

 そうか。困ったご主人様に仕えているお付きの人がまたここにも一人……

《そういえばアスリーナさんとか元気かな?》

 帰ったら手紙をくれるとか言っていたが、サルトスは遠いから来るにしてももう少し先だろうが……

 二人がそんな話をしていると、若い侍女がやってきた。

「ガリーナ様。こちらでしたか」

「え? はい」

「そろそろ練習の時間なのでと親衛隊の方が」

「あ、そんな時間でしたか?」

「うわ、本当だ。長々とごめんなさい」

 ついペラペラと長話をしてしまった!

「いえ、面白かったですよ。メイ殿のお話。それでは」

 ガリーナは立ちあがるとメイに礼をする。それからその侍女と一緒に去っていた。

 その去り際にその侍女がちらっとふり返ってメイを見たが……

《うえっ……》

 何かすごく怖い目で睨まれてなかったか?

 そういえば最近とみにこういう視線を感じるのだが―――もしやリモン様やガリーナ様の周囲を飛び回るうるさい小バエとか思われてるんじゃ?

《だーってしょうがないじゃないのーっ!》

 王女の秘書官をするなら、王女の護衛とだって一緒にいることになるのだ。

 それはともかく……

「うわあ、会議があるんだった!」

 メイも慌てて城の中に戻っていった。