寒い国まで来たスパイ 第4章 私を廓に連れてって

第4章 私を廓に連れてって


 メイとガリーナは王宮の中庭に向かった。

 そこではアウラとリモンが親衛隊に混じって訓練をしている最中だった。だが……

「あ、どうも。ロパスさん」

「やあ、メイ殿。それにガリーナ。役目は終わったのか?」

「いえ、それがまだなんですが……あの、どうしてお二人がドレス姿で?」

 アウラはひらひらしたドレス姿、リモンはおなじみのメイド服姿だ。しかも手にしているのは薙刀ではなくショートソードだ。

「いや、彼女たちの場合、あれで戦えれば色々と便利だろう?」

「あ、まあそれはそうですよね……」

 ご存じの通りアウラは元々黙ってさえいれば一国の王女のように振る舞えるし、リモンはつい最近まで王女付きメイドが本職だ。そんな格好で戦えれば応用範囲が広いのは間違いないだろう。

「へえ……」

 二人はしばしアウラとリモンの練習を眺めた。

「アウラ様、さすがですねえ……」

 ガリーナが感極まったように言う。

 なにしろそんな動きづらい格好なのに多数の隊員を相手にして一歩も引かない。まるで風にひらひらと舞う花びらのようだ。

 それに対してリモンの方はかなり苦戦していた。

「あっ!」

 先ほどからほとんど防戦一方で、とうとうメイの見ている前で相手の剣を受け損ねて尻もちをついてしまった。彼女の服はもう泥だらけで、何カ所か破れてもいるようだ。

「よーし。そこまで! 少し休憩するぞ」

 ロパスの声にみんなが動きを止める。それから彼がリモンに言った。

「リモン殿。守りに徹しろとは言いましたが、受けてばっかりではいけません。隙あらば逆襲するという気概を見せていないと、守ることさえできませんよ?」

 相手は彼女より一回り以上も大きいのだが、そんな相手に逆襲って―――メイだったらそんな文句を言いたくなりそうなのだが……

「はい……申しわけありません」

 リモンは素直にうなずいた。

 このあたりについてはもうメイの理解の範疇を越えた世界のようだ。

 そんなことを思っていると、アウラとリモンがメイ達の姿を見てやってきた。

「リモンさん、大丈夫ですか?」

 リモンはにっこりと笑う。

「ええ。大丈夫よ。これ古着だし」

「いえ、着物じゃなくって、そこ、痣ができてますけど」

「別に大したことないわ」

 彼女はいつもこうなのだが……

「それでお役目は終わったの?」

 逆に彼女が心配そうに尋ねてきた。

「いや、それがまだで、そこでアウラ様にお話を聞きたくって……」

「ん? 何が聞きたいの?」

 アウラが首をかしげる。

「それが色々調べたんですが、お城の中ではもうこれ以上難しくって、それで王女様が郭に行かれてるときの話をお聞きしたいんですが」

 アウラはうなずいた。それから近くにいたロパスに声をかける。

「なんだって。ロパス。ちょっと抜けていい?」

 ロパスもうなずく。

「構いませんよ」

「じゃあリモン。頑張ってね」

「はい」

 そこでメイ、ガリーナ、そしてアウラの三人は、庭の噴水脇にやってきて腰を下ろした。

 するとアウラが尋ねた。

「そういやメイ、フィンは今日もまた会議なの?」

「あー、そうみたいです。何しろあっちもこっちもきな臭くって……」

 そもそもフォレス王国は山間の小国だ。この間のような勝利はまさに奇跡的と言ってよく、二度とああいう目にあうのはご免だというのがみんなの正直な気持ちである。

 アイザック王とエルミーラ王女は中原に対する対策を一番考えたいようなのだが、そのためには背後のエクシーレとの関係が良好でなければならない。ところがあの国はこの間のように、ちょっと隙を見せれば侵攻してくるような所なのだ。

 またベラはベラで国内に色々な問題を抱えている。この間の視察でも王女が色々と提言していたが、これは半分ベラの面倒も見ているような物だ。

 その上国内では反王女派がまだ壊滅したわけではない。

 黒幕と思われたエクセドル家には、下っ端が勝手にやったことと、蜥蜴の尻尾切りで逃げられてしまったのだ。まあしばらく大っぴらには動けないだろうが……

《秘書が首つりって……うー……》

 絶対に深く考えてはいけない案件だ。

 ともかくそんなわけであちらもこちらも大忙しなのだ。

「そうなんだ……」

 アウラがとても残念そうにこぼす。

「あ、でも明日なら多分何とかなるんじゃないでしょうか」

「え? ほんと?」

「はい。明日は会議とかはお休みなんで」

「そうなんだ、ふふっ

 アウラがいきなり満面の笑みになる。

《あは。すごく幸せそう……》

 メイもこんな笑顔が浮かべられる日が来るのだろうか?―――などと考えたらまた嫌なことを思い出しそうなので、仕事に専念することにする。

「えっとそれでお聞きしたいんですが」

「うん」

「えっとまず、アサンシオンにも予約帳みたいな物はあるんですよね?」

「そりゃあるんじゃない? 売れっ子は半月くらい埋まってるのが普通だし」

「そういうのって、やっぱり実名とか書きませんよねえ」

「うーん。こっちのは見たことないけど……あ、そこに王女様の名前がないかって?」

 メイはうなずいた。

「多分書いてないんじゃ? ヴィニエーラもそうだったし。特に偉い人とか」

 まあ予想どおりとはいえ、メイはため息をついた。

「どうしてなんでしょうねえ? そんなに恥ずかしい物なんですか?」

 それを聞いたガリーナが不思議そうに尋ねる。

「え? それが当然では?」

「そうなんですか? 村の連中とか、アサンシオンなんかに行ったら大喜びで吹聴してますけど……」

「うん。なんか偉い人ほどコソコソするわよねえ」

 メイの言葉にアウラも相づちをうつ。

「でも高貴な家なら体面という物がありますよね?」

 ガリーナが不思議そうに食い下がるが……

「それって……そんなに大変な物なんですか?」

「うんうん」

 二人のその反応にガリーナは一瞬面食らったが、それからあっといった表情でうなずいた。

「えっと、メイ殿は村の生まれなんですね? アウラ様も、ガルブレス様にお会いするまでは……」

 二人はうなずく。メイもアウラもつい最近までそんな高貴な人々とは無縁の生活だった。

 そこでガリーナが説明を始めた。

「あの、高貴な方々の場合、結婚相手としては血筋が最も重要視されまして、可能な限り高貴な血筋の家と結ばれようとなされます。そうしますと得てしてお二方の意思とは無関係な結婚になりまして……」

「あ、それはそうですね」

「でも、建前上は円満な関係となっていないと、両家の間にひびが入ることになってしまいます。ですので大っぴらに郭に出入りするのは憚られるのです」

 そう言われてみれば理解はできるが……

「あー……でもほら、妾妃って人いるじゃないですか。正式な奥さんじゃない人。そういう人ってよく郭からもらったりしますよね? てか、グレイシーさんがそうでしょ?」

 ガリーナはうなずいた。

「ああ、それはですね、奥方側の立場が弱い場合ですね。強いことが言えないときなんです。なので妾妃が迎えられるというのは、ある意味その家の格式が高いことを意味します。なので、できうれば妾妃を迎えたいとみな内心では思っているのです」

「そーなんですか?」

 何だか頭がごちゃごちゃしてきた。

「そういう意味では長の家というのがベラでは最も高貴な家ということになりますから、後宮には妾妃が何人もいるというのが当然なのです」

「はあ……」

 まあ、要するに高貴な人たちの結婚とはメイの考えているような単純な物ではないということらしい。ともかくただ一つ言えることは……

《うー、あの縁談、断っといて良かったー!》

 うっかりOKしていたら、えらいことになっていたところだ。

 と、そこにアウラがぼそっと尋ねた。

「あー、だからフィンがいろいろコソコソしてるのかしら?」

「はい?」

「アサンシオンにお馴染みがいるのに、変に我慢したりして……」

 えっとー? 何の話で?

「都の貴族ってそんなもんなのかしら?」

「それは私に聞かれましても……」

「そうよねえ」

 この二人の仲というのも何やら不思議な感じだが、今はそこが問題ではない。

 そこでメイは尋ねた。

「あのー、それで話を戻しますが、その、郭で王女様ってどんなことをなされてるんでしょう?」

「それはお戯れになってるけど」

 アウラがしれっと答える。

「あ、それは分かるんですが、もっとその全体的な手順と言いますか、例えば最初入ったら受付とかするんですか? あ、例えば宿帳みたいなのってあります?」

「ううん。王女様はもう顔パスだし、予約もあるから、姉御さんに挨拶したらそのまま奥の間まで行っちゃうけど。そこでみんなもう待ってるから」

 そうか、宿帳なしか……

「そこではお食事とかを?」

「うん。まずは腹ごしらえしないと。あそこのお料理も美味しいのよ」

 それを聞くと俄然興味が出てくるが―――今は関係ない。

「お食事を召し上がったら?」

「そうしたらみんなでお風呂に入るの。すごくいい香りのお湯なのよ」

「お風呂場って、そのお部屋にあるんですか?」

「奥の間のお風呂は大きいからみんなで入っても十分だけど。他の部屋のだと狭くて。だからゆっくり体を伸ばしたかったら大浴場に行くの」

「それでお風呂から上がったら?」

「まず体の拭きっこをするの。髪の毛とかもしっかり拭いとかないともつれちゃうから」

「はい……」

「それからはまあいろいろかな? その日の気分でいきなり始めたり、ゲームしようとか言いだしたり、いろいろ」

「いろいろ、ですか?」

「うん。他にも、来た子をあたしに相手させて、それを見てるとか」

 うー。これって、何かよく分からないけど、もっと詳細に訊いてもいいものだろうか?

 既に何だか変な気分になって来つつあるが……

 見るとガリーナもちょっと顔が赤い。

「あー、はい……えっとその……」

「なに?」

「いろんなお道具? とかは使われるんですか?」

「うん。いつもじゃないけど?」

 アウラは平然と答える。

「それって、その、郭の物を借りるんですか?」

「そうだけど?」

 まさか個人持ちなんてことが―――あるはずなかった。

「それって例えば、借りるときに借用証みたいな物が必要だったり……」

「んなのないけど?」

「ですよねー」

 何かメイはもう尋ねるのにいちいち必死の覚悟だが、アウラは全く意に介していない。

「そんな感じで結構遅くまでわいわいやってるけど。そして気がついたらこてっと寝てるのよ。満足そうに」

 そう言うアウラの表情は、子供が遊び疲れて寝てしまったと言ってる母親のようだ。

「はあ……えっと、それで次の朝は?」

「うん。起きたら普通に服を着て、朝食を頂いて、馬車で帰るだけ」

「お支払いは?」

「帰りがけに姉御さんに払うけど」

「受け取りとかはもらえないんですよね?」

「んー、いちいちもらってないけど。言えばくれると思うけど」

 これも仕方ないか……

「他に何かもらったりとかしませんか?」

 とりあえずそう尋ねてみたのだが……

「うーん。見たことないけど。ミーラ、そういうの集めてないみたいで」

「え? そういうのって?」

「ああ、よくお客におみやげあげたりすることがあるのよ」

「おみやげ? ですか?」

 アウラはにこっとうなずいた。

「うん。お馴染みの人に、例えばお手製のぬいぐるみとか、いろいろ」

「え? そんな可愛らしい物を?」

 遊女といってもやっぱり年頃の女の子なのだ。何かほのぼのとした光景が目に浮かぶが―――アウラは首をかしげた。

「ん? 可愛いっていうのかなあ? あ、帽子をかぶったおちんちんのならカワイイかも」

「…………」

「あ、それとか履いた下履きとか、下の毛とかを欲しがる人も多いみたい」

 ………………

 …………

「あっはははははは……」

 アウラは動揺しまくりのメイ達を不思議そうに眺めている。

 もしそんな物が王女の部屋から見つかれば、証拠になるかもしれないが……

「でも王女様、そういうおみやげはもらってないんですよねーっ?」

 アウラは平然とうなずいた。

「うん。なるべくお馴染みを作らないようにしてるみたいで。だから毎回来る子たちはみんな違うし」

 みんな違う?

「そうなんですか? ……って、“来る子たち”って、一人じゃないんですか?」

「うん。三人ずつだけど?」

 メイは思わずガリーナと顔を見合わせた。

「……ええ? それって良くあることなんですか?」

 アウラは首をかしげた。

「いや、あまりそういう人いないんじゃないかな?」

「はあ……」

 何とコメントすればいいのだろう? 少なくとも“男の敵”―――か?

「だからあそこの子はみんな、女相手が上手なの」

「そうなんですかー」

「だから最近、良家の奥方がお忍びで来たりもするんだとか」

「あはー、そうなんですかー……あ、それで誰を選ぶとかは? 王女様が指名されるのですか?」

 アウラは首をふった。

「それは姉御さんに任せてるから。でも新人は優先して来てもらってるけど」

「若い人を?」

「いや、アサンシオンの新人。だからすごく年季の入った人がいたりもするのよ」

「へえ。どうしてなんでしょう?」

「あ、それはからかい甲斐があるからじゃないかな」

「は?」

「だって王女様相手なんて絶対初めてじゃない? 上がってかちかちになってるから、そういう子をほぐすのがお好きみたいで」

「…………」

 あー、なんとなく分かる気がするー。そういえば相乗りのときも、初乗りの子には例の王女様と女王様のお話をして、顔見て喜んでるみたいな……

「あー、どうもありがとうございますー」

 メイはこれ以上何を尋ねていいのか分からなくなった。

「あ、ガリーナさん、何か訊きたいことありません?」

「いえ、私もこれ以上は……」

 ガリーナも同様のようだ。

「そうですかー。ありがとうございましたー」

「こんな感じでいいの?」

「まあ。はい……また何かあれば訊きに来るかも知れないので……」

「うん。いいよ」

 アウラはにっこり笑う。

 いや、ある意味いろいろ興味津々とはいえるのだが、今の目的は王女が郭に行っていることの証拠探しだ。ここで手段と目的をはき違えても仕方ないし―――少なくともメイが今まで知らなかったことを色々教えてもらえたが、そこからは即座に証拠になりそうな物は見つからなかった。

 おみやげというのはなかなか優れたネタだったのだが、王女がもらっていなければどうしようもないし。

「じゃ、どうもありがとうございましたー」

 こうして二人はアウラに礼をするとその場を辞して、またメイの部屋に戻った。

 そこで再びソファーに座りこむと、お互いを見つめあって大きなためいきをつく。

「じゃあ後は、実際に行ってみるしかないんでしょうか?」

「はあ……」

 ガリーナも不承不承うなずく。

《でもこの二人で?》

 彼女も同じことを思っているのは明らかだ。

 郭に行くとなるとこの二人では心許ないので、同伴者が欲しいところなのだが―――アウラにそんな暇がないことはメイにはよく分かっていた。

 これから夕方にかけては王女の謁見があるので、その護衛についていなければならない。また明後日からは王女がしばらく地方視察に出るので、その同行もしなければならない。しばらくはその準備で大忙しだ。

 そこでメイはダメ元で尋ねてみる。

「えっと、ガリーナさん、もちろん、郭とか行かれたこと、ないですよねえ?」

「そりゃそうです」

 ガリーナは即座にうなずいた。というより、行ったことがある方がおかしい。

 その点ではむしろメイの方が経験があるわけだが―――フレーノ卿事件のときにハビタルのマルデアモールに入ったことはある。だが……

《だってあのときはル・ウーダ様にくっついてただけだし……》

 …………!

 そして次なる名案が浮かびあがった。

「あーっ!」

 いきなりの叫びに、ガリーナがちょっと退いた。

「と、どうしました?」

「いや、こういう場合、あの方がすごく頼りになりますよ?」

「あの方?」

「ル・ウーダ様です!」

「え?」

 ぽかんとするガリーナにメイは説明した。

「この間のフレーノ卿のときにも、ル・ウーダ様がまさに八面六臂の大活躍で。だから今回も大丈夫ですよ。きっと!」

「そうなんですか?」

「はい! 何しろ都から来られた方ですから!」

 ガリーナは信じられないという表情だ。

「多分そろそろ会議も終わると思うから、行ってみましょう!」

 そこで二人は城の広間に向かった。

 そこではちょうど会議が終わったところで、中からがやがやと人が出てきているところだった。その中にフィンが混じっている。

 二人はその方に近づいて行った。

「ル・ウーダ様、ル・ウーダ様!」

 声を聞いてフィンがふり向く。

「あ、メイちゃんか。どうしたんだ?」

 彼とは会議のときには良く顔を合わせるのだが、それ以外のときにあまり話す機会はない。こんな風に面と向かって話すのは―――もしかしてあの旅行のとき以来か?

「いや、実は折り入ってお話しがあるのですが……」

 同時にガリーナも大きく頭を下げる。

「どうかよろしくお願い申し上げます」

 それを見たフィンは少々面食らった。

「えっと、こちらは?」

 不思議そうにメイに尋ねる。

「ああ、ガリーナさんです。先月から親衛隊にいるのですが。王女様の護衛のために」

 フィンはあっといった様子でうなずいた。

「あ、あなたが? アウラから聞いていますが」

「初めまして。ガリーナと申します」

「あ、ル・ウーダ・フィナルフィンです」

 二人が挨拶を交わす。

 それからフィンはメイを見ると不思議そうに尋ねる。

「で、どんな話なんだい?」

「えっと、単刀直入に申しますと……」

「うん」

「私たちを郭に連れていってもらえませんか

 ………………

 …………

 ……

「ぶはーっ!」

 フィンは吹きだした。

「い、いきなり何言いだすんだ?」

 え? どうしてそこまで驚くのだろう?

「えっと、ほら、私たちが王女様からちょっと密命を帯びてる話、お聞きじゃありません?」

「え?」

 フィンはぽかんとしている。

「アウラ様からてっきりお聞きなのかと」

「いや、何も聞いてないけど?」

 うへ? こんなおもしろい話なのに、彼には話していないのか? 確かにアウラというのはこちらから話せば色々喋ってくれるが、自分からはあまり話さない人だが……

「いや、実はその……」

 そこでメイは二人が王女の郭行きの証拠を探している話をした。

「……そんなわけで、ちょっとアサンシオンまで情報収集に行かなきゃならないんですが、ほら、私たち二人じゃちょっとその……なのでル・ウーダ様に一緒に来てもらいたいんですよ」

「えー……?」

 フィンは目を白黒させている。

「それほど時間はかからないと思うんですが……明日の午後は会議もないし」

「え? 明日? いや、会議はないけどアイザック様からちょっと呼ばれてて。夜もネブロス連隊長と会う約束が……」

 それを聞いてメイは慌てた。

「えっ? それじゃ明日も早く帰れないんですか?」

「ああ……」

 フィンがうなずく。

「うわあ!」

「どうした?」

「いや、さっきアウラ様に言っちゃったんですよー。明日はル・ウーダ様がお暇だって。そしたらすごく喜んでてー」

「えーっ?」

 フィンは一瞬驚いて、それから大きくため息をついた。

「ごめんなさい!」

「いや、いいよ。俺から言っとくから。みんな忙しいんだし……」

「どうもすみません……」

 それを聞いたアウラが意気消沈する姿が目に浮かぶようだが―――だがこちらにもこちらの事情がある。

「えっとそれで、明後日とかはいかがでしょう?」

 だがフィンは首をふった。

「いや、こっちも東の防衛線の現場を見てくることになってて。その準備をしなきゃ」

「え? じゃ、ル・ウーダ様もお出かけなんですか?」

 フィンはうなずいた。

「ああ。エクシーレがまたいつ動くか分からないし。砦を増やそうかって話もあって」

 アウラがあれだけ喜んだのは、こういった訳もあったのだろう。

「そうだったんですか……」

 落ちこむメイにフィンが残念そうに言う。

「悪いね。手伝ってあげられなくて」

「いや、いいんですよ。そちらの方がずっと重大ですから」

「どうもお手数をおかけ申した」

 二人は意気消沈してその場を離れた。

 ともかく人に頼れないとなると、あとは二人で行くしかないわけだが……

《だけどどうやって?》

 客の振りをして入るか? アウラもそんな客がいるという話はしていたが……

《いや、行ってどうするのよ?》

 文字通りどうしたらいいか全く分からない。大体女二人づれの客とか、何かすごく上級すぎるし―――ならばこっそりと忍び込むか?

《いやいや、そんな泥棒みたいな真似、したことがないし……》

 あっという間に見つかってしまうに決まっている。

 だとすれば―――正面突破しかないわけで……



 翌日の午後。メイとガリーナはアサンシオンの門前に立っていた。

 二人とも正装で―――メイは王家付きメイド服、ガリーナはベラ後宮護衛隊の制服を身に纏っている。

《あっははは。すごい違和感バリバリ!》

 道行く人々が明らかに不思議そうに二人を見て、それから慌てて目を逸らしていくのが分かる。

 何しろメイの服はともかく、ガリーナの衣装は完全なベラ夏服―――すなわちとても開放的で、あちらこちらのスリットから肌が見え隠れしている。この時期のベラならばまあ普通というより、やや大人しいくらいの露出度だが、ここガルサ・ブランカではちょっとお目にかかれない風体だ。

《もしかして私がガリーナさんを売りに来たとか思われてないわよね?》

 さすがにそれはないと思うが……

「では、参りましょうか!」

「はい」

 メイは深呼吸するとアサンシオンの門をくぐった。が……

『メイ殿。右手と右足が同時に出てますよ?』

「えっ?」

 ガリーナに囁かれてみれば、確かにそうなっているが……

《あれ? じゃあ正しい歩き方ってどうだったっけ?》

 今までどう歩いていたのか思い出そうとしても思い出せないが?―――いや、どれだけ緊張しているのだ?

「もしもし? 開くのは夕方からですよ?」

 などと混乱しているところに、入り口のホールを掃除していたおばさんが声をかけてきた。

「あー、いえ。えーと、ちょっとお尋ねしたいことがあるんですがー、こちらの姉御さん、いらっしゃいますかー?」

「えっと、ご用の向きは?」

「それがー、ちょっとした調査なんですがー、こちらの方がそのためにわざわざハビタルからいらっしゃっててー、エルミーラ様も協力して差しあげろとのことでしてー」

「どうかよろしくお願い致します」

 ガリーナも深々と頭を下げる。

「あ、はあ……」

 掃除のおばさんは首をかしげながらも怪しげな二人を取り次いでくれた。

 二人が通されたのは何とも華やかな応接間だった。

 メイは最近は城住まいなので高級な調度という物は見慣れていたのだが、ここはまったく趣が違う。城の絨毯や家具、タペストリといったものはアイザック王の趣味でかなり地味な色合いで統一されていた。

 だがこの部屋を一言でいえば“色鮮やか”だった。幾何学的な模様の絨毯に、ソファーは大きな花柄のサテンだ。磨き抜かれた真鍮のテーブルには様々な紋様のタイルがはめ込まれていて、壁には何枚もの美人画がかかっていた。

 だがいつぞや入ったマルデアモールという所では、壁の模様がからみ合った男女の絵になっていたりして、目のやり場に少々困ったものだが、ここの物はどれも思ったほどには性的ではない。

《派手だけどわりと上品っていうんじゃないの? これ……》

 そしてもう一つ特徴的なのは、ここの空気に漂う香水と女性の香りだ。

 かつて厨房にいたときには料理人が香水を匂わせるなんて論外だったので使っていなかったのだが、エルミーラ王女の側仕えになってからは自分でも少しは嗜んでいる。

 だがここの香りというのは何かもっとねっとりと濃厚で、少々息苦しいほどだ。

 ―――そんなことを考えているとアサンシオンの姉御がやってきた。

「えっと、王女様のご用でいらっしゃったっていうのは……」

 と、そこまで言って二人の姿を見て絶句する。

 メイは慌てて立ちあがると自己紹介した。

「あ、どうもっ! お初にお目にかかります。私、エルミーラ様の秘書官をやってます、メイと申します」

「あ、はい……」

「こちらはベラからやってこられた後宮警備隊のガリーナ様です」

「よろしくお願い致します」

 ガリーナも立ちあがって流麗にお辞儀する。

「はあ……えっと、で?」

 姉御は二人の顔を見比べながら不思議そうに尋ねた。メイは大きくうなずくと深呼吸した。

「あ、それが実はなんですが、少し困ったことがあるんです。というのが、ベラでのことなのですが、あちらではよく水上庭園に遊女の方々を呼び出して宴を開くことがあることはご存じですか?」

 姉御はうなずいた。

「はい、もちろん存じておりますが?」

 なるほど。あれはその筋では有名なのか……

「実は先日もそのような会が催されたそうなのですが、そこで少々もめ事が起こりまして……」

「はい」

「呼ばれた遊女の一人がベラの国長様の逆鱗に触れて、処刑されそうになってるんだそうです」

「え? それは……でも……」

 姉御は、確かに可哀相だがそれがいったい何の関係が? といった表情だ。まあそれが普通の反応だろう。メイは話に力を込める。

「ところがその理由なんですが、なんでもその子が、フォレスでは遊女が王女の相手をしているって話をしてしまったからなんですが……」

「はい?」

 今度はどうしてそんな当たり前のことで逆鱗に触れるのだ? といった表情だ。まあフォレスの住人ならそうだろう。

「国長様がエルミーラ様のことを大変好いておられることはご存じですよね?」

「ええ。もちろん」

 この間の戦争はそもそもそれが原因と言ってもいいようなものだ。

「ところが実はその、国長様は、なぜか王女様が郭通いなさってることを信じてらっしゃらないんですよ」

「はいいぃ⁇」

 今度はもう全く訳が分からないという表情だ。

「なので国長様が、そんな王女様の名誉を汚すようなことを言う奴は許さんって激怒されてしまって、その子がもう少しでその場でお手討ちになってしまいそうだったのを、ここのガリーナ様がなんとかお止めしたんですが……」

 姉御は目を丸くしてガリーナを見る。ガリーナは黙ってうなずいた。

「そこでガリーナさんも、フォレスから来た商人などからそんな話を聞いたと証言したそうなのですが、国長様はそんなのは誹謗中傷の輩の戯言だと全くお信じにならなくて……」

「はあ……」

 姉御は目を白黒させている。

「そこまで言うのなら動かぬ証拠を見せてみろ、でなければこの女ともどもお前も処刑するなどと、そう言い渡されてしまったそうなのです」

「えええええ?」

 姉御はもう呆れかえったという表情だ。

「その話をお聞きになったエルミーラ様も大変深くご同情なされて、それで私たちが、そのような証拠がないか探しているのですよ」

 姉御はまさに同情の眼差しで二人を見た。

《あははは。何かすごく信じてくれちゃってるみたいだけど……》

 もちろんそんな話は夕べ二人ででっち上げたものだが、しかし本当にそんなことが起こったとしても全くおかしくはない。話していて自分で信じてしまいそうだ。

「まあまあ、そういうことだったんですか。分かりました。協力致しますよ。で、その子の名前は何と言うんです?」

「はい。カンナさんというらしいんですが」

「カンナ? いたかしら。そんな子」

 姉御は首をかしげるが……

「いえ、フォレスから来たんじゃなくて、ベラの出身だそうです。フォレスから来た誰かにそんな話を聞いたそうで。田舎の出だったみたいで国長様がエルミーラ様にぞっこんだったことをあまりよく知らなかったそうで……」

 フォレスから来た遊女にしてしまうとボロが出そうなのでこのような設定だ。

「まあまあ、まあまあ、そうだったんですか……でもそんな証拠って……」

 姉御さんも天を仰いで考えこんでしまった。

「そこでまず、こちらも予約表というのがあると思うのですが、それはどういった書き方をされてるんでしょうか?」

 だが即座に姉御が答える。

「え? あれに王女様のお名前を書いたりなんて致しませんよ?」

「じゃ、どうやって王女様のご予約と?」

「星のマークを書いておくんです。王女様の場合は」

「ああ、そうなんですね」

 ほとんど予想どおりの話なので、メイは驚きもしなかった。

「その他に何か、王女様がいらっしゃったことが分かるような資料とかはございませんか?」

「えええ?」

 姉御はしばらく考えこんだが……

「いいええ、そのような物はございませんねえ……回状に乗るようなこともございませんし……」

「回状?」

 姉御は慌てて手を振った。

「いえいえ、ほら、それこそ遊ぶだけ遊んでお金は払わないとかいう方もたまにいらっしゃって。そういう場合はそんな回状が回ったりすることもあるんですが」

「そうなんですかー」

 王女様は優良顧客だったと。

「それではお城とやりとりするような場合はどうやってるんですか? 予約の変更とかあったりしますよね?」

「そんな場合はメッセンジャーを使いますので。みんな口頭で済ませてしまいますから」

「あー、そうですかー」

 何というか、こういう当たり前のことを証明しろと言われると結構難しい物なのだ。

「えーっと、それではこちらの娘さんで、王女様になにかおみやげのような物を差しあげた方はいませんか? 王女様もアウラ様も記憶にないとおっしゃってますが、本当に忘れてることもあると思うので」

 姉御はそれを聞いて目を見張る。

「おみやげ、ああ……だったらあの子たちに聞いてみないと」

 姉御は即座に立ちあがると先だって歩き出した。

「まずは大部屋に行ってみましょう」

 姉御は部屋を出るとすぐに従業員用の通路に入った。そこには飾り気は一切ないシンプルな通廊だ。またあたりには窓という物が一切なく灯りもほとんどないので、この時間だというのに真夜中のようだ。

「さあこちらです」

 案内された“大部屋”は、大きな部屋が一つあるのではなく、そこそこの広さの部屋が幾つも連なった区画だった。中には二段ベッドが並んでいて、薄衣一枚の遊女たちがごろごろと寝ているのが見える。

「ほらー、みんなちょっと起きてー!」

 姉御は入り口の側に下がっていた鐘をカランカランと鳴らした。

「えー? まだ早い~……」

 誰かがそんなことを言うが……

「お客様よ。王女様のご用って方がいらっしゃってるのよ!」

 途端に遊女の多くが飛びおきた。

「ええ? 王女様がーっ?」

「どこー? どこー?」

「だから王女様のご用の方! ほら、他の部屋の子もみんな起こして、ここに連れてきて頂戴」

「は~い!」

 そんな光景をメイは目を丸くして見ていたが……

「ごめんなさいね。みんな寝ぼけてて」

「あ、いや……そうですよねえ。夜遅くまでのお仕事だから……」

 そんなこんなでメイ達の前にアサンシオンの大部屋遊女たちが勢揃いした。

 彼女たちはみな薄衣一枚しか羽織っておらず、そこからは見事な体のあちらこちらが見え隠れしていて、部屋は先ほどとは比較にならない濃厚な女の香りで満たされた。

《うっわー……男の人なら天国っていうんだろうなあ、これって……》

 だがメイにとってはむしろ地獄だった。

《ぐぬー、胸が~、くびれが~、肌のきめが~……》

 そこにはまさに現実という物があった。

「ともかくどうも、皆さんお集まりいただきまして、ありがとうございますっ」

 ならば後はひたすらそれに目を背け、目の前の役割をこなすしかないっ!―――そんなことを考えていたため……

「えっと、私はエルミーラ王女様の秘書官補佐をしております、メイと申します。こちらはガリーナ様といいまして、ベラから来られて、今はアウラ様のお弟子になられてるんですが……」

 メイは思いっきり間違えてしまった。

 途端に遊女たちの目が爛々と輝き始めた。

「アウラ様の……?」

「お弟子様……?」

 全員のうっとりするような視線がガリーナに集中した。

 ??

 ガリーナとメイが訳が分からずにぽかんとしていると、最前列の一人がガリーナにすり寄ってきた。

「ガリーナお姉様とお呼びしてよろしいですか~

「え? あ?」

「どうか私で練習なさって下さいな……それでいらっしゃったのね?」

「あーっ! レッタ、抜け駆けはずるいわよ!」

 次の瞬間、ガリーナはそこにいた遊女たちにもみくちゃにされていた。

「うわっ、いや、なんですか?」

「おとぼけになってー、王女様がお忙しくて来られないので、アウラ様のお弟子様をお寄越しになったのでしょう?」

「うわー、すてきーっ!」

「私もおねがい~

「えっと、ちょっと待って下さい!」

「あーん。素敵なお身体っ

 そしてメイは思いだした。アウラが強くて優しくて、とってもお上手なお姉様と呼ばれていたことを……

《もしかしてこれが?》

 強いのと優しいのはよく分かるが、最後のお上手なという意味が今ひとつだったのだが……

「あのー、みなさまーっ。違うんですよーっ。ガリーナさんは、薙刀のお弟子さんなんですっ! そっちの方じゃなくってっ!」

 ………………

 …………

 ……

「「「「えーっ!」」」」

 遊女たちの間から一斉に不満の叫びが上がった。

「ごめんなさい。誤解させてごめんなさい。でも違うんです。すみません。すみません」

 遊女たちは黙って引き下がったが……

《うわー、何だか全員敵に回してない? これ……》

 メイを見る視線はまるで氷点下だ―――とっとと役目をこなしてしまわなければ!

 そこでメイは一同に先ほどの話をした。

「……そんなわけで、王女様がこちらにいらしている証拠を見つけないと、その子とガリーナさんが大変なことになってしまうんです」

 その話を聞いて遊女たちも深く同情してくれたようだ。

「それであんたたち、王女様に何か差し上げたりしなかったかい?」

 姉御が彼女たちに尋ねた。

「えー? おみやげですか?」

「んー、どう?」

 遊女たちは互いに顔を見合わせるが、どうやらみんな心当たりはないらしい。

「だったら手紙とか出したのはいないかい?」

「えー? だってお城ですよ~?」

「まあ、そうだよねえ……」

 うなずく姉御にメイが尋ねた。

「お手紙を出すことがあるんですか?」

「ああ、お馴染みさんには良く出すことがあるんだけどねえ。でもほら、相手によってはまずいこともあるだろ? 奥さんに内緒で来てたようなときとか」

「あ、そうですねえ」

 これも当然だった。

「はあ……その、おみやげって例えばどんなのがあるんですか?」

 アウラの話では何やら怪しそうな物体らしいが……

「ああ、それは人それぞれで。例えば……ほら、リネア。あんたの見せてやりなよ」

「はーい」

 そうして彼女が持ってきたのはピンク色のコサージュだ。メイとガリーナはそれをのぞき込むが……

「うわー。綺麗!」

 メイが思わずそうつぶやくと、遊女たちの間からくすくすと笑い声が上がる。

「この子は手先が器用だからねえ。でもそれ付けて人前にはお出にならない方が」

「えっ?」

 そしてそのコサージュをよく見ると……

「あ、その花びらは……」

「うわあぁ!」

 あたりが大爆笑になる。

 見事に偽装されているが、まさにそれは女性のアソコそのもので……

 メイは真っ赤になった。

「器用な子はそういうのを作るけどねえ」

「あはは。じゃあそういうのが得意じゃないとどうするんですか?」

「そうだねえ。例えば下の毛なら誰だってあげられるね。たまーに生えない子がいるんだけどさ」

「あはははは」

 アウラ様もそんなことをおっしゃってましたねー。男の人の考えはよく分からないなあ―――などと思っていたのだが……

「お守りにって欲しがるお客さんが多くてね」

 姉御が真面目な表情で言った。

「お守り?」

「ああ。この間の戦争のときなんかもそうだったけどさ。それ持ってたら敵の矢に当たらないんだそうで」

 …………

「そうなんですか?」

「そう信じてる兵隊さんは多いねえ」

 えっと―――これって結構シビアな話?

「あと、下着を欲しがるお客もいるけど……」

「それは何のお守りなんですか?」

 途端に遊女たちが爆笑する。

「ん、いや、そっちは大抵それがご趣味なんだけど」

「あはははは……」

 やっぱり分からないや!

「その他にも……色紙とかもあるわね」

「色紙?」

「ああ。このくらいの色紙にキスマークを付けて、何とかさんに、誰それって署名してやるのよ。それだったら誰でも作れるし」

「へええ……」

 いろいろあるものだと思っていたら遊女の一人が言った。

「本当のお馴染みになら、下の唇でキスしてあげることもあるのよ?」

「え?」

 メイとガリーナは一瞬ぽかんとして、その意味を悟って顔から火が噴き出した。

 再びあたりは大爆笑だ。

「あはははは」

「そういうのを集めてる男は多いからねえ」

「あははは。そうなんですねー」

「でもさすがに王女様は集めてなかったわよねえ」

 遊女たちはうなずいた。

《はあ、やっぱダメなのかしら?》

 メイがそろそろ諦めかかったときだった。

「あ、でも……」

 遊女の一人がつぶやいた。

「ん? どしたの?」

 隣の遊女が訊き返すと……

「ほら、アヴリル姉さんの宝物!」

「「「あーっ!」」」

 あたりの遊女たち何人かが同時に声をあげた。その中には姉御も叫びも混じっていた。

「あの、どうしたんですか?」

 メイは姉御に尋ねた。

「いや、アヴリルって売れっ子がいるんだけど、その子がねえ……」

「はい」

「エルミーラ様から色紙をもらったって大切にしてるのよ」

 ………………

 …………

 ……

「はいいいい?」

 っていうか、どうして客が遊女におみやげをあげているのだ?

「ずいぶん昔だけど、何だか少々酔っ払ってたみたいで、ゲームに勝った子に色紙をやろうって言いだされたみたいで」

「げーむ、ですか?」

「何のゲームだったっけ?」

「確か“鳴かない小鳥”だったと思いますけど」

「鳴かない小鳥?」

「ああ、鳴かない小鳥ってのはねえ……」

 姉御が説明を始めようとするが―――いや、詳しく聞きたい気持ちもあるが、今はそれどころではない!

「いや、それはいいんですけど、それに勝った子が王女様から色紙をもらったってことですか?」

「ああ」

 …………

 そんなバカな。いくら王女様でも―――って、酔っ払ってた?

 脳裏にクレアスでの大騒動がフラッシュバックした。

《あはははは。多分……いや、間違いなくその程度のこと、やるかも……》

 メイは咳払いをすると姉御に尋ねた。

「それって……見せていただけます?」

「ああ、こっちにいらっしゃい」

 そこで姉御は郭の奥の方にメイとガリーナを誘った。

 一行は今度は従業員用の裏通路から表の通路に出た。

 そこは広いホールになっていて、中央には噴水らしい丸い池があった。ここにも窓は一つもなく、所々に篝火がぽつんと灯されているだけなので、ほとんどあたりは真っ暗だ。しかしその足触りだけでも、とても高級な絨毯が敷かれていることはよく分かる。

「こちらですよ」

 案内されたのは扉がたくさんある廊下だった。

「ここがうちのプリマの部屋なのよ」

「プリマになると専用の部屋があるんですか?」

「そうよ? だからみんなここに入るために必死なのよ」

「へえ……」

 姉御はその扉の一つを叩いた。

「アヴリル。ちょっといいかしら?」

「…………はい~?」

 しばらくしてから中から寝ぼけた声がする。それから……

「……どうしたんです~?」

 そう言いながら素晴らしい体つきのブロンドの美女が出てきたのだが……

「ひえっ」

 メイは思わず一歩退いていた。なにしろ彼女は一糸纏わぬ姿だったからだ。

 だが姉御は全くそんなことは全く意に介さずに言った。

「ちょっとお客さんなのよ。いいかしら?」

「はい~。ど~ぞ~」

 アヴリルはすたすたと奥に行くとガウンを引っかける。それから部屋の灯りをつけたのだが……

《うわー……》

 その光景にメイは少々度肝を抜かれた。

 何しろ壁一面に色々なサイズの刺繍が架けられていたのだ。一目でそれが非常に高度な技で作られた物だと分かるのだが―――ただその柄はいずれも男女がからみ合ったり、局部がリアルに再現されたりといったものばかりだ。

 横にいたガリーナも目を丸くしてそれを眺めている。

「えと~、それで~?」

 何だかまだ頭は寝ているようだ。そこで姉御が彼女の頭をぽんと叩く。

「ほら! しゃんとしなさい! お客さんよ! お客さん!」

 それを聞いてやっと彼女は二人の存在に気がついたようだ。

 彼女はメイをぼーっと見て、それから着ている服に目を留めると……

「………………え? お城からーっ?」

「そうよ。ご用があっていらっしゃったの」

「まあ、どうしましょう? 王女様がいらっしゃるんですか? それならそうと早く言って下さればいいのに……」

「違うのよ。いいから顔を洗ってらっしゃい!」

 アヴリルは慌てたようすで奥に引っ込んでいった。

「昔っからあの子、寝起きが悪くて」

「あははは」

 しばらくしてアヴリルは身支度して戻ってきた。今度は胸元の開いたドレス姿だが、その生地は薄く、その下の乳首などがうっすらと透けて見えている。

《結構大人しいのかな? ベラより……》

 あのマルデアモールで見たマリキータという人は、なんかもう限界ぎりぎりの露出だった気がするが……

《これならガリーナさんの方が露出してる?》

 そう思ってちらっとガリーナの制服を見るが―――確かにあちこちにスリットはあって肌は露出しているが、何というか機能的な感じで、アヴリルのように淫靡ではない。

《なるほどー。単に出せばいいというわけじゃないんですねー》

 などと思っているところにアヴリルが優雅な物腰で挨拶した。

「どうもお待たせしました」

「あ、どうも。初めまして。私、エルミーラ様の秘書官をしております、メイと申します」

「私はベラから参りました、ガリーナと申します」

「あ、はい……」

 ガリーナを見てアヴリルがぽっと赤くなる。それから彼女は姉御に尋ねた。

「それでこの方々は?」

「ああ、それがだねえ……」

 姉御はメイ達が来た理由をざっと説明した。

「そんなわけでほら、あんたが王女様にもらった色紙、この方々に見せてやんなさい」

「はい。わかりました」

 彼女は立って奥の間に行くと、しばらくして大切そうに一枚の四角い色紙を持って戻ってきた。

「これですけど」

「拝見させていただきます」

 メイは彼女からそれを受け取ってよく観察したが……

《こ、これって……》

 一辺が十五センチくらいの金箔で縁取りされた台紙にキスマークがついていて、そこには……


アヴリルへ         

         エルミーラ


 ―――とサインされていたのだが。

「うわーっ、本物ですよ。これ、間違いなく!」

 メイはまだ秘書官補佐見習いとはいえ、それを見まごうことはなかった。その筆跡はエルミーラ王女の物に間違いない!

「本当ですか?」

「本当ですっ!」

 メイとガリーナは顔を見合わせた。

「これだったらいかなロムルース様でも、信じないわけにはいきませんって。王女様の署名付き手紙ならいくらでもあるだろうし。それとこれとを照合して見れば、王女様の自筆ってことはもう一目瞭然じゃないですか!」

「ああ……」

 ガリーナは肩の荷がおりたという表情で大きなため息をついた。

《それにキスマークだって照合できたりして……》

 王女様の口紅がついたカップをくすねるかどうかすれば―――何だか頬が自然に緩んできてしまう。

《でも、あれ?》

 心の底に何か引っかかる物があるのだが、はて?

 と、そのときだった。

「あの、でも……」

 アヴリルが心配そうにメイに尋ねた。

「はい?」

「それ、返していただけるんでしょうか?」

「え?」

「人のお命がかかっている以上、お貸しするのはやぶさかではないのですが……」

「………………」

 メイとガリーナはまた顔を見合わせた。

 証拠品として提出する以上、これは一旦ベラに送らねばならない。そこでグレイシーがロムルースに見せる事になるわけだが……

《それを見たロムルース様がこれをどうするかって?》

 ………………

 …………

 ……

 あはははは!

 んなの、返してくれるわけがない! その場で破り捨てられるか―――いや、これは預かっておくとか言って隠匿するか―――ともかくどっちにしたって戻ってくることなんてあり得ない! あの人なら絶対そうだ!

 二人の表情から真実を悟ったアヴリルの瞳から、玉のような涙がこぼれ落ち始めた。

「……エルミーラ様から頂いた……大切な……でも……人の命には……」

 ぽろぽろぽろぽろとこぼれる涙が止まらない。

《ああああーっ! こんなのダメーっ!》

 メイは心臓をぎゅうっと握られたような気分になった。

 命が危ないというのは、そういう世界線もあるかも、みたいな話で。

 ガリーナも彼女の悲痛な様子を見て、固まっている。

《うわーっ! こういう場合、一体どうすれば?》

 確かに王女様の命令だと言って強引に取り上げることは可能だが……

《ダメーっ! 無理ーっ!》

 彼女にそんな度胸はなかった。本当に誰かの命がかかってるのなら別だが、あれは彼女がでっち上げたヨタ話なのだ。

《でもそれじゃどうすれば……》

 メイは頭をかかえた。それからアヴリルに尋ねる。

「えっと、あの、王女様、他にもこんなの書いてませんでした?」

 アヴリルは黙って首をふる。

「さすがに恥ずかしかったんじゃないでしょうか? あれ以来そういうことはなされなかったみたいで」

 姉御も同様だ。

 まさに究極の一品物なのである。

《あ、でも王女様だったらもう一枚くらい……》

 作ってくれるだろうか? 明らかに酔った勢いでやったことのようだし―――一応頼んでみることなら不可能ではないが―――いや、だがこれって郭通いというよりも……

《王女様が遊女をしていたことの証拠って取られても、おかしくないんじゃ?》

 ………………

 …………

 ……

 王女様が体を売って……⁉

 メイは背筋が寒くなった。いや、マズいなんてもんではないのでは?

「えー、ですからまだ、これじゃなきゃって決まったわけじゃないですからー」

「本当ですか?」

 アヴリルがまさに神を見るような目でメイを見る。

《ひえーっ!》

 この状況、何となく覚えがあるような気がしないでもないが―――それはともかく……

《ひー、どうしよう?》

 そうは言ってみたものの、単に言ってみただけでまったくのノープランだ。

 そこにガリーナが尋ねた。

「えっと、王女様のサインって全くないんですか? 何かの伝票にとか?」

 あ、そうか。何の書類でもいいからそんなものがここにあれば―――だが姉御は首をふる。

「特にそのような物は……」

 要するに星印のついた予約表しかないわけで―――と、そのときだった。


「あーっ! 予約表ーっ‼」


 崖っぷちのメイの脳内に名案が降ってきたのだ。

「はい?」

 三人が驚いてメイを見た。

「あの、予約表なんですけど、その星印って王女様以外でも使ってるんですか?」

「いいえ? 王女様のときだけですけど? 特別なので」

 姉御は首をかしげるが……

「やたーっ! じゃあそれとお城の記録を照合すればいいだけじゃないですかっ!」

 どうしてここに早く気づかなかったかな?

 三人はまだぽかんとしている。

「だから王女様ご休息の日付と、星印のお客の日付がいつもぴったり合ってることを示せば、そのお客が王女様だって分かるじゃないですか!」

「ああ!」

「まあ、確かに!」

「うわあ、メイさん! ありがとうございます!」

 感極まってアヴリルがメイを抱きしめる。すると顔面がもろに彼女の豊満な乳房に埋まってしまうわけで……

《ぎゃー、息ができないー》

 メイが男だったなら最高の感謝だったことだろうが、少々残念なご褒美だった。