隣の国から来た男
第1章 ハビタルの晩餐会
フィンとアウラが旅立ってから一月と少しが過ぎたある日、ハビタルの水上庭園でメイはただ呆然としていた。
《これって……前のなんてお話にならないじゃない……》
眼前に広がる大広間の光景にはもう唖然として声も出ない。
ここには以前に一度来たことがある。一年ちょっと前、フィンと一緒にベラに派遣されたときだ。そのときはロムルースが王女来訪の報せに喜んで開いてくれた宴のおまけだったわけだが……
「メイちゃん……前もこんなだったの?」
グルナが目を丸くして尋ねるが、メイはぷるぷる首をふる。
「いえ、あのときはもっと小さな部屋だったんで……」
それでもガルサ・ブランカ城の大広間並みだったのだが―――今回案内されたのは水上庭園最大の広間なのだ。
そこに見わたすかぎりに並べられた数々のテーブルの上には、様々な形を模した生け花が飾られていて、その周囲には山海の珍味が山のように盛り付けられている。その全体がまさに一つの芸術作品だ。
しかももてなしをする館の侍女たちは全員が盛装で、生きた花々があたりを動き回っているかのようだ。
「この規模のものは私も初めてです……」
ガリーナでさえ驚いたようすで眺めている。
リモンやコルネはただただ圧倒されている。
「ルースったら、本気みたいねえ」
控えの間の中央に陣取っていたエルミーラ王女も少々緊張気味だ。
ベラには『よき報せをもたらしてくれる者は歓待せよ』というしきたりがある。これが庶民ならば来訪者をちょっとしたご馳走でもてなせば良いのだが、事が国家レベルになるとその規模が桁外れになる。
前回の“よき報せ”はエルミーラ王女が秋に訪れたいというものであった。
確かに隣国の王女がやってきて滞在するというのだから十分大きな話ではあるが、元々フォレスとベラは非常に親密な間柄で、それこそ国長がアポなしで来訪して来ても問題ではないのだ。
そのもてなしがあれだったわけで……
《だったらこうなるわよねえ……》
何しろ今回やって来るのは、エクシーレ王国のセヴェルス王子なのだ。
ご承知の通りベラとエクシーレは長年の仇敵同士だ。国境線もこの百年の間に何度も間を行ったり来たりしている。そんな関係なので王族クラスが互いの都を訪れることなど、ここしばらく皆無だった。
ナーザがもたらした素晴らしい報せというのがこれだった。
「ナーザ様ってすごいお方なんですねえ……」
ガリーナが感極まった風につぶやく。
「ですよねえ……」
メイも同感だ。
戦後彼女はアイザック王の命を受けてエクシーレに赴いて交渉を行っていたのだが、その結果ティベリウス王がベラとの和平を行っていく方向で同意してくれたのだ。
もちろん確執の多いある間柄であるから一朝一夕に済む話ではない。しかしそのための第一歩として、第三王子のセヴェルスが公使としてベラに派遣されることになったのだ。話の重要度の桁が違う。
そしてエルミーラ王女にとってもここが一つの正念場だった。
なぜならその会見の立会人を彼女が務めることになったのだから。
本来ならばこれはアイザック王の役割だ。だが王はナーザと共にエクシーレでもっと実務的な会談を行うことにして、このセレモニーの立ち会いを王女一人に任せたのだ。
《確かに条約とかを締結するわけじゃないから……》
今回の来訪はベラの長とエクシーレの王子の会見そのものが目的であって、そこで何かを決定するような場ではない。
《要するにケンカさえしなきゃいいのよね?》
未来に向けて仲良くしましょうというポーズが最も重要なのだ。
従ってある意味王女の本格的な初仕事ではあったが、比較的気持ちは楽だった……
―――そんなことを考えていると……
「皆様、準備はいかがでしょうか?」
「はい。こちらは万端です」
やってきたベラの侍従頭セリウスに、グルナがにっこり笑って答える。
「承知致しました」
セリウスもグルナに微笑み返す。
《うわ。なんかもう完全な恋人同士みたい》
前回のフォレスへの帰り際にプロポーズされたという話だが―――本人たちはもう間違いなくそのつもりのようだ。
《あはー。早く仕事覚えてあげないとー……》
セリウスにはメイとコルネが一人前になるまでという約束で待ってもらっているのであるが……
《王女様も意地悪だなー。ははーっ》
メイはともかく、コルネが一人前のフロアマスターになれるまでなんて、一生結婚するなと言ってるようなものではないか? ま、そう言ってコルネをしっかりさせようという腹づもりなのだろうが―――と、そこでゴーンと大きな銅鑼が鳴った。
「国長様のー、ご入場ですー」
そんな声と共に多数の従者を従えたロムルースが入ってくる。
広間の中央にはどーんとひときわ大きなテーブルがあって、彼がその上座に座る。その様子を見てグルナが合図をした。
「次よ?」
全員が黙ってうなずくとエルミーラ王女が立ちあがる。
再び銅鑼が鳴った。
「フォレス王国、エルミーラ王女様のー、ご入場ですー」
それと共に一行は広間に入っていった。
先導はグルナ。その後ろに王女が続き、メイとコルネがその両脇。その後ろからリモンとガリーナが薙刀を担いで続いていく。
公式の場で王女が移動する際はこんな隊形だ。そして今後メイが正式な秘書官になった暁には先導役が彼女になるわけだが……
大広間にいた人々の視線が一気に王女に集中した。
《あはー。緊張する~》
人々の視線は中央の王女に向かっていると分かっていても、落ち着かないこと甚だしい。
一行が中央のテーブルに来ると、側にいた係の女官が椅子をさっと引いた。王女は軽く会釈して優雅に腰を下ろす。
「それでは皆様方はこちらへ」
セリウスに案内されて少し後ろの侍従の席に着くと、目の前にはメイでさえもほとんど見たことのない料理がずらっと並んでいた。
「わあ、すごい……」
思わずコルネがつぶやく。
エルミーラ王女が会談の立会人である以上、その従者の扱いもVIPクラスなのである。
「どうかごゆっくりなさって下さい」
「ありがとうございます」
グルナがにっこり笑うが、さすがに少々引きつりぎみだ。
続いてセリウスは居心地悪そうに座っていたガリーナに、にやっと笑いかけた。
「それではガリーナ殿もごゆっくり」
「あ、はっ」
ガリーナが慌てて礼をする。
聞けば彼女はこれまで何度も宴の警備はしたのだが、客としては初めてだという。しかもつい先日まで勤めていた場所なので、顔なじみばかりなのだ。
《確かにばつが悪いだろうなー》
先ほどから館の侍女たちが何くれとなく世話してくれているのだが、ガリーナに対してはみんなあからさまに大げさに振る舞っているのが傍目にもよく分かる。
メイも秘書官補佐として晩餐に同席するようになってからは、結構そんな視線にさらされたものだが―――などと考えていると、最後の銅鑼が鳴った。
「エクシーレ王国、セヴェルス殿下のー、ご入場ですー」
会場から低いどよめきが上がる。
続いて入り口から数名のお付きを従えた若い男が入ってきた。
中肉中背で派手な衣装ではないが、なかなか上品な感じだ。だが威厳があるという感じではなく、今も物珍しそうにあちこちを見回している。何か町の中を散策しているといった風情だ。
《あれがセヴェルス様かあ……》
その名はメイもよく聞き知っていた。エルミーラ王女の婿候補の一人とも数えられていたからだ。
しかし王女の結婚は様々な問題をはらんでいた。
通常なら王家の婚姻では姫が輿入れしていくものなのだが、王女が一人娘である以上それができない。
そんな場合は婿養子を迎えて夫が国を継ぐというのが常道なのだが、エルミーラ王女の場合は諸般の理由で自身が王位を継承することになっているため、結婚相手は女王の単なる婿―――王婿という微妙な立場になってしまうのだ。
なので格式のある王族を婿に迎えるというのは、かなり厳しい話だろうということになっていた。
『だからル・ウーダ様あたりがわりとちょうどいいんだけど……』
などと王女がこぼしていたのを耳にしたこともあるが……
《でもあの人、アウラ様一筋みたいだし……》
今度の視察旅行は何だか心底楽しそうだったし、それにわりとちょうどいいなどと言われてもあんまり嬉しくないだろうし―――そうこうしているうちに宴は始まった。
《うおー、しかし何度見てもすごいなー》
ついこの間まで厨房に勤めていた関係で、こんな素晴らしい料理を見るとどんな味かとか、どうやって作るのかとかいったことが気になって仕方がない。だが前回と違って今回は王女の従者である。いつ何時呼び出されるか分からないのだ。
《まあでもここではそんなことないと思うけど……》
会談は午前中に終わってしまっているし、宴に関わることならセリウス配下のベラの侍女たちが全てやってくれる。あとは食事を堪能していればいいはずなのだが……
だがさすがに中央テーブルの三人のことを気にせずにはいられなかった。
何しろベラ、フォレス、エクシーレの王族が一堂に会することなど、ここ数十年来なかったことだ。まさに歴史的瞬間に立ち会っているのだから。
《でも結構変わった人みたいなのよねえ……》
当然ながらセヴェルス王子の足跡や人物は前々から調査されていた。メイはその報告書を見せてもらったこともあるのだが……
《何でもすぐに一人でふらふらどこかに行っちゃうとか?》
エクシーレ王国では国王の長男アルティオス皇太子が次期国王になることが決まっている。だがその際に次男のヴィクトゥス王子と継承争いが発生していて、国内にはまだヴィクトゥス派もかなりいるという話なのだ。
それに対して三男のセヴェルス王子は少し年齢が離れていることもあって、継承争いとは無関係だった。そのため飄々と一人で遠乗りなどに行っては何日も戻らないこともよくあるそうだ。
そんな彼に対して国民はおおむね好意的なイメージを抱いているという。
《何でも王子様が身分を隠して市井を回って、悪い奴らをやっつけてくれてるとか?》
何処かの物語にでも出て来そうな話だが―――しかし見た感じそんな正義漢といったようにも見えないのだが……
メイがそんなことを思っていると……
「え? エクシーレ王国ってベラより古かったんですか?」
「そうなのよー。エクシーレって、実は歴史は古いのよー?」
ガリーナとコルネが話しているのが聞こえてきた。
「でも、大聖様が来るまではこの地に国などなかったと」
「うんうん。こっちじゃみんなそういう風に教わるんだけど、でも真実は一方からだけじゃ見えない物なのよ?」
コルネがなにやら調子に乗って喋っている……
《それってあの本の受け売りじゃないのよ!》
確かに彼女は、内容は偏っているのだが、読書量という点ではわりかし人並み外れていたのだ。
《食前酒でもう酔っ払ってるのかしら?》
こんな場だから少々飲むのは構わないのだが、へべれけになられても困る。そのあたりはグルナやリモンがしっかりと手綱を締めてくれるだろうが……
《でも、そうなのよねえ……》
ベラとエクシーレの確執にはこういった歴史問題も影を落としていた。
メイも学校で習った歴史では、大聖様が来るまではこの地には国はなく、人々は飢えてやせ衰えた獣のような暮らしをしていたとあった。エクシーレの人々はそんな大聖に置いて行かれた人々だ、だからベラやフォレスを憎んでいるのだと。
ところがそのあとに読んだ『始まりの物語』という世界中の国の起源伝説を収めた本には、全然別のことが書いてあったのだ。
そこにはエクシーレの人々は大聖が来るはるか以前に“虹の獣”によって文明化されていたのだという。そのためわざわざ大聖についていく必要がなかったのだと。
その本の前書きにあったのが『真実は一方からだけでは見えないものだ』という、今コルネが偉そうに喋ったセリフだった。
「……って、エクシーレではこんな風に伝わってるそうなの」
コルネが鼻高々に説明するが……
「いったいどちらが本当なのでしょうか?」
ガリーナの素直な問いに、コルネは言葉に詰まった。
「えーっと、それは……」
もちろんそれはそんなに簡単に結論が出せる問題ではない。
ベラでは虹の獣などエクシーレ人が後からでっち上げた話だということになっているのだが、何しろ大昔のことだ。どちらにも確たる証拠があるわけでなく、議論は平行線のままなのだ。
《そう言えば……イービス様がその時代の研究してたんだっけ?》
あのぽけっとしていたサルトスの王女様は、それで学位を取ったとか言っていたが―――こんなことならもっと話を聞いておけばよかったのか?
「でも、虹の獣って、いた方が面白いわよね?」
「え?」
「だって獣が喋るのよ? 絶対会ってみたいって思わない?」
「そうですか?」
ガリーナはあまりぴんとこないようだ。そこで……
「そうよねー? メイ~」
何でここであたしに振るかね?
だがそれについては昔、夜っぴて語り合ったことがあって……
「まあ、私もいた方が嬉しいって言ったけど……」
聞いたコルネがにたーっと笑う。
「そうなのよ。メイったらねえ、馬とお話しできるといいななんてずっと言ってたんだから」
「それは小さいころのお話でしょうが!」
「お二人は夢があるんですねえ……」
ガリーナが大人の微笑みで二人を眺める。
《あーっ。もしかして子供っぽいって思われた?》
だがコルネは懲りなかった。
「ちっちっち。老いというものはねえ、夢を失ったときに忍び寄ってくるものなのよ? だからいつまでも若く美しくありたければ、夢を忘れちゃダメなの」
………………
これも何かの受け売りのようだが―――しかもそんな結論だったか?
《だからあんたの頭の中にはもう少しリアルって物が必要なんじゃないかしら?》
だがガリーナはそんなコルネを感心したように見つめた。
《あー、ガリーナさーん。騙されちゃダメですよーっ》
最近リモンとかグルナがあまり相手にしてくれないので大人しくなっていたと思っていたが、どうやら新しい獲物を探していたらしい。妙な感化をされないといいのだが……
それはそうと、そんなわけでエクシーレ王国は他国とはちょっと違った独特の文化を持っていた。この世界のほとんど全ての国では、その建国に多かれ少なかれ大聖やその子孫が絡んでいたのだが、エクシーレだけがそれとは無関係なのである。
そのせいもあって、これまで多くの国がベラ派と白銀の都派に分かれて対立してきた中、エクシーレだけがどちらにも属さないという中立の立場を貫いてきた。
だがこの世界では魔導師がいないと国は成り立たない。それでエクシーレがやってこられた理由は二つある。
一つはその立場ゆえにベラや都であぶれた魔導師が流れ着いてくることだ。そのためエクシーレにもかなり強力な魔導軍が存在していた。
そして二つ目は、そこがまさに辺境の地だったということだ。
ベラからはともかく都からだと遠すぎてほとんど認識されていないような場所だ。またエクシーレの国土はそれほど肥沃ではなく、ベラからも積極的に奪いたくなる土地ではない。
そんなわけでベラとエクシーレはちまちまとその国境地域を取ったり取られたりする歴史を繰り返してきたのである。
《でもそろそろそれに終止符を打たなきゃってことなのよね……》
もしアイザック王の危惧が現実になって中原で動乱が発生した場合、まさにこんな辺境で小競り合いをしている場合ではないのだ。そのためにはフォレス、ベラ、エクシーレの三国が足並みを揃えて危機に立ち向かわなければならない。
今回の会談はそのための第一歩なのだが……
「その虹の獣とはどんな獣だったのです?」
「その姿は大きな馬のごとく、ときには大きな豹のごとく、その毛皮は煌めくような七色の炎に包まれて光り輝いていたそうなのよ」
「燃えてて熱くなかったんでしょうか?」
「え? うふ。それはね……」
彼女たちはそういう緊張感とは無縁のようだった。
《いや、まあ仕方ないんだけどね……》
メイだって厨房勤めの頃はそうだった。だが王女の秘書官という立場になって魔導大学にも留学した結果、否が応でもそんなことを考えざるを得なくなってしまったのだ。それ以前ならメイだってエクシーレといえば虹の獣 程度の認識だったのだが……
《ふふふっ。どっちが幸せだったのかしら……》
などとメイが悟ったようなことを思っている間に……
「伝説ではねえ、エクシーレの建国の祖、アルウェウス公がその背中に乗っかってるの。だから熱くないのよ」
「ええ? どうやって乗ったんです?」
ガリーナが目を輝かせる。
「それがねえ……」
コルネはますます調子に乗っていった。
―――かつて大聖が、邪悪な魔導師に支配された東の帝国から七つの家族を率いて旅立ったその遙か前から、地上には帝国から追放された人々が住んでいた。
だが彼らは自らの手で生き延びる術を知らず、多くの者は放逐されて間もなく飢えてやせ衰えて死に至り、生き延びられた僅かな者も、まるで獣のような生活をしていた。
ある川の畔にそんな人々のみすぼらしい集落があった。そこに住んでいた者はみな生きるのに精一杯で、それ以外のことは何もかも忘れ果てていた。
そんなところにある日、空から光り輝く一頭の獣が降りてきた。その姿は大きな馬のごとく、ときには大きな豹のごとく、その毛皮は煌めくような七色の炎に包まれて光り輝いていた。
人々は恐れおののき、われ先に逃げ去っていった。
だがその中に逃げ遅れた者がいた。アウィスという少女とその幼い弟アルウェウスだった。少女の足では弟を負ぶって遠くまで逃げることができなかったからだ。
二人の前に獣が降りたった。少女はその前に立ち塞がると獣に向かって叫んだ。
『食べるんならこんな小さな子供でなく、大きな私を食べなさい!』
もちろんケダモノにそんな言葉が通用するはずもない―――アウィスはその獣が二人ともぺろっと一口で飲み込んでしまうだろうと思った。
ところがそんな彼女に獣が答えたのだ。
『どうして私がお前なんかを食べるというのだ?』
そう問い返されて、アウィスは驚くと同時に困ってしまった。
『だってあなたは獣なんだから、獲物を狩りに来たのでしょう?』
それを聞いた獣はやれやれといった表情で答えた。
『お前は食べられるものが目についたなら、何でもその場で食べるのか?』
ところがアウィスはどうして獣がそんなことを尋ねたのか分からなかった。
なぜなら彼女はいつもそうしていたからだ。そうしなければ彼女も、また幼い弟も生きていくことができなかった。
そこで彼女がそう答えると、獣は天を仰いで言った。
『ああ、なんということだ。これが世界をあまねく支配し、遙か星の彼方まで足を伸ばした一族の末裔なのか?』
もちろんアウィスには獣が何を言っているのか分からない。
『全く困ったものだ。ちょっと来い』
獣がそう言ったとたんに、二人の体はぽーんと宙に跳ね上げられ、気づいたら獣の背中の上だった。その体はまるで燃えさかる炎に包まれているかに見えたのに、その上はほのかに暖かいだけで全く熱くなかった―――
「ってことだそうなの」
「へえ。不思議ですねえ。それでアウィスはどうなったんです?」
ガリーナもこういう話が好きだと見えて、興味津々で尋ねる。
「それから二人は獣の背中に乗って空を飛んでいったの」
コルネはさらに話を続けた。
―――それはもう目もくらむような出来事だった。見る間に地上が遠ざかり、雲の間を抜けていき、獣はやがて高い山に囲まれた緑の谷間に降りた。
『さあ着いた。お前達にはこれからやってもらうことがある』
アウィスは生きた心地もしなかった。やってもらうって? 彼女にいったい何ができるというのだ?
だが彼女に抗う術などなく、弟を背負って黙って獣の後に従った。
すると二人の行った先には、もこもこした動物がたくさんいた。
『私にだって選択の権利はあるのだ。人間なんて骨ばっかりで全然身がないし、おまけに大きくなるのに時間がかかりすぎる。その点、この動物は美味しいしすぐに増えるのだ』
獣がそう言うと動物がメエ~ッと鳴いた―――
「あはは。その獣はなかなか美食家だったのですね」
「そうなのよ。そして獣はアウィスにこう言ったの」
―――驚くアウィスに獣は言った。
『だが困ったことにこいつは食べると毛が歯に絡まって難儀するのだ。だからお前にはその毛を刈ってもらおう。見ての通りこの爪は獲物を引き裂くのには十分だが、細かい仕事には向いていないのだ』
そこでアウィスは動物の毛をむしろうとしたが、丈夫でなかなか抜けない上、動物が痛がって逃げてしまう。
『やれやれ。それはそうするのではなくて、その石の破片を使うのだ』
そう言って獣は近くにあった黒くてキラキラする石を指した。アウィスがその石を割ると、非常に鋭利なかけらができたので、それを使ってしゃりしゃりと毛を刈ることができるようになった。
しかしやがてあたりは動物の毛だらけになってしまった。
『あの、これはどこに捨てたらいいでしょうか?』
『ああ? 捨てるなんてもったいない。それを糸にして編めば冬でも暖かく過ごせる衣服ができるのだが?』
そう言って獣はアウィスに糸のつむぎ方と編み方を教えてくれた。
アウィスがそれを覚えている間に、獣は何頭かの動物を食べていたが、そのうち彼女もお腹がすいてきた。
『あの、その残りで結構なのですが、この子と私にも少し分けていただけないでしょうか?』
『ああ。構わんぞ? 好きなだけ食べるがいい』
そこでアウィスは動物の肉を小さく切って弟に与えようとした。
だがそこでまた獣が言った。
『おいおい。そんな小さな子に生肉を食べさせるのか?』
そうは言われても、彼女にはそれ以外の食べ方など思いも寄らない。
そこで獣は不思議なことをアウィスに命じた。
『乾いた苔と木の枝を集めてきて、そこに積み上げるのだ』
アウィスはわけも分からず言うとおりにした。
『それからその固い石を二つ持ってきて、思いっきり打ち合わせてみろ』
再びアウィスが言うとおりにカチンと石を打ち合わせると、火花が飛んで苔の上に小さな炎が上がった。やがてそれは大きなたき火となった。
『それで肉をあぶって食べてみろ』
アウィスがまた言われたとおりにすると―――今度はそれ以上獣に促される必要はなかった。なぜなら焼けた肉からはとても美味しそうな香りが漂ってきたからだ。
こうしてお腹いっぱいになったところに、獣が言った。
『大体分かったな? お前達にやってもらいたいのはそういうことだ。おまえたちはこの動物を増やして、私がいつでも食べられるようにしてくれればいい。毛とか肉の残りは好きにしろ。私はしばらく散歩してくるから後はよろしく頼んだぞ?』
そう言って獣は姿を消してしまった。
そこでアウィスは弟と共に、ときどき戻ってくる獣のために、その地で羊を飼って暮らすようになった―――
「なんだか親切ですねえ……もしかして最初から助けてあげるつもりだったんでしょうか?」
「そうなのよ。だからこの獣はねえ、東の帝国を滅ぼす前の白の女王とかが姿を変えてたって話もあるのよ?」
「へえ。それからどうなったんです?」
興味津々なガリーナを見て、コルネもますます話に力を込める。
「このあと、今度は弟のアルウェウスが故郷に戻っていって国を作っていくお話になるんだけど……」
「だけど?」
「何てか、ちょっと残念なのよねえ」
「どうしてですか?」
「アルウェウスのお話ばっかりになってお姉さんが出てこなくなるの」
「え?」
その点はメイも同様の意見だったのだが……
「ま、昔話には良くあることなんだけど。尻切れ蜻蛉だったり、重要な登場人物が途中で消えちゃったりなんてのは。でも、このお話ってむしろ主人公はアウィスの方じゃない。最初に一番彼女が頑張ったから、弟だって大きくなれたんじゃないの?」
「そうだよねえ」
え?
「なのにそんな洟垂れ小僧のアルウェウスだけが英雄だ何だってもてはやされて、お姉さんのことはガン無視とかおかしいじゃないの?」
コルネはそう力説していたのだが……
………………
…………
やがてあたりに異様な沈黙が下りているのに気づく。
《コルネーっ! 横! 横っ!》
メイが慌てて目で示したのを見てコルネがふり返ると……
「あははー。開祖様が洟垂れ小僧かあ」
セヴェルス王子とバッチリ目が合った。
「セ、セ、セヴェルス様ぁ?」
いつの間にか王子がコルネの横にしゃがみ込んで、テーブルに腕を乗せていたのだ。
「いや、その、アルウェウス様の洟が垂れていたとかそういうわけじゃなくってーっ」
コルネは真っ青だが、セヴェルスはニコニコ笑って答えた。
「いやあ、でもそうだものねえ。あれじゃあアウィス様も可哀相だよねえ」
「あ、あ、あ……」
言葉の出ないコルネに王子が笑った。
「でもね、田舎だと別の伝承もあったりするんだよ?」
「別の?」
「うん。実はアウィス様は虹の獣の妻となって一緒に天に昇っていったって伝説もあるんだ」
「えーっ? そうなんですか?」
思わずコルネが食いついた。メイもその話は初耳だった。
「聞きたい?」
「はいーっ……いや、でも……」
コルネは条件反射的に答えてしまってから泡を食う。そこにグルナが青い顔で言った。
「あの、王子様、えっと……椅子をお持ちしましょうか?」
「いや、お構いなく」
などと言われても彼女としても困るわけで……
と、そこにセリウスが駆けつけてきた。
「セヴェルス様。いかが致しました?」
「いやあ、お手洗いに行って戻ったら、何やらおもしろい話が聞こえてきたんで」
「あらまあ、どんなお話しですの?」
そこにエルミーラ王女とロムルースまでがやってきた。
「エクシーレの昔話なんだけど、彼女が詳しくってね」
それを聞いた王女が笑った。
「あらまあ。その子はそういうことだけは詳しいんですのよ? おほほっ」
王女は何やら上機嫌だが……
《もしかしてお酒をたくさん?》
だとしたらまた変な暴走をしないよう注意をしておかねば―――メイがそんなことを思っていると……
「へええ。素敵な侍女さんが一杯でいいですねえ、フォレスは……あ、それでね、アウィス様と虹の獣の結婚の話なんだけど……」
王子が話を続けようとしたときだ。
「アウィス様のご結婚のお話を?」
エルミーラ王女がひどく驚いた様子で尋ねたのだ。セヴェルス王子がえっという表情で振り返るが―――そこにセリウスが口を挟む。
「あの、お話しをなさるのであれば、テーブルをくっつけましょうか?」
「あ? そんなことできるのかい?」
「もちろんですが」
王子の問いにセリウスがうなずく。
「ならばお願いしようかな? いいよね? 君たちも」
などと問われて“いいえ”と答えられようか?
そこでセリウスの指示の元、わらわらっと侍従たちがやってくると、見る間にメイ達のテーブルは中央テーブルにくっつけられてしまった。
「それではごゆっくりご歓談下さい」
「ありがとう」
王子がセリウスに手を振った。
《あ、あ、あ……》
一体全体どういう展開なのだ? 単なる侍女や秘書が主賓と同席したりして本当にいいのか? だがともかく相手の意向なのだから四の五言っても始まらないわけだが―――などと泡を食っている間に、王子は話を始めていた。
「それでねえ、ほら、開祖様はその後、人々の元に一人で羊の群れと共に現れたことになってるけど……」
そこで王子はエルミーラ王女の顔を見てにこっと笑う。
「それはですね、アウィス様は自分は獣と約束があるからって、一人残ったためなんですよ?」
「え? 獣との約束? だったのですか?」
「はい。そうなんです」
セヴェルス王子は伝説の続きを語り出した。
―――弟が谷間を出てからしばらくして、虹の獣が散歩から帰ってきた。獣はそこにアウィス一人しかいないのを見て尋ねた。
『どうしてお前は弟と一緒に行かなかったのだ?』
それに対してアウィスは答えた。
『助けてもらったときにあなたのお世話をすると約束したからです』
それを聞いた獣は言った。
『だったら私は十分に食べた。契約は満了にしよう』
それを聞いたアウィスは胸が潰れるような気持ちになった。彼女は思わずこう言っていた。
『それでも私はずっとあなたと一緒にいたいのです。お側に置いて下さい』
だが獣は言った。
『お前と私とでは住む世界が違うのだ。お前の伴侶はお前の仲間の人間であって、私ではない』
だがアウィスは必死に答えた。
『いいえ、私の仲間はあのとき誰も助けてくれませんでした。それならばあなたの方がどれほどいいことか』
アウィスの決意が固いのを見て、獣は答えた。
『だったら好きにするがいい。だが私はこのようにいつもお前の側にいてやることはできないのだぞ?』
獣が散歩と称して出ていくと、何ヶ月も、ときには何年も戻らないことはよくあった。だがアウィスは答えた。
『それでも構いません。お待ちします』
『よかろう』
そうして獣はまた姿を消した。
それからその谷間でアウィスが一人暮らしていると、ある日のこと立派な身なりの男がやって来た。男は言った。
『アルウェウス公の姉君とはあなたでしょうか。どうか私と結婚して下さい』
だがアウィスは、私には約束を交わした方がいるのだと言って断った。
次に若く美しい男が来て求婚したが、同様にアウィスは断った。
さらに強くたくましい男がやってきて求婚したが、やはりアウィスは断った。
そして年月が流れ獣は帰らぬまま、アウィスは老いさらばえた老婆となった。彼女が小屋の中で今際の床に伏せっていると、やっと再び獣が戻ってきた。
獣はそんなアウィスを見て言った。
『どうしてお前はこんな所で孤独に死にかけているのだ?』
アウィスはまっすぐに獣を見つめながら答えた。
『それはずっとあなたをお待ちしていたからです。そしてその望みはいま叶いました。私にはもう思い残すことはございません』
それを見て獣は答えた。
『やれやれ。まったくそれほど儚い存在がどうしてここまで頑固になれるのだ? そこまで決意が固いなら仕方がない。だが私と一緒になるというのは、もうお前の仲間とは二度と一緒にいられないということなのだぞ?』
だがアウィスはにっこり微笑んでうなずいた。
『今の私はどうせここで果てる身の上でございます。今さら何を恐れることがありましょうか?』
獣はうなずいた。
『ならばアウィス。起きるのだ』
彼女の体からはもう命の灯火が尽きかけようとしていた。だからもうそんなことはできないと答えようとしたときだ。アウィスは自身が虹色の光に包まれていることに気がついた。
体を起こすと老いさらばえてしわくちゃになっていた肌が、若い頃のようにすべすべに戻っていく。
だが変化はそれに留まらなかった。滑らかな肌が輝く獣毛に包まれていき、急に立って歩くのが困難になった。彼女は恐れて何か言おうとしたが、口からは獣の雄叫びのような声が漏れるだけだ。
そのとき頭の中に声が響いた。
『恐れるな。これがお前の望んだことなのだから。私とてお前を憎からず思っていた。だが私の時とお前達の時は異なっている。私にとっての一時がお前達にとっては一生にもなる。だから私はいつも忘れ去られる運命だった。そんな私が少しばかりお前を試してみたくなっても仕方なかろう?』
その日、人々は遠くの空を駆け上っていく二条の光を見た。
その後アウィスの姿を見た者は誰もいなかった―――
「へえー。そんな素敵なお話しだったんですか?」
コルネが感極まったように言う。
「ええ。そうなんですよ」
そう言ってセヴェルスがエルミーラ王女ににこっと笑った。
「あらまあ、そうでしたの。おほほほ」
うーむ……何だか王女の様子がおかしいのだが? どうしたのだろう?
「でもこんないいお話がどうしてあの本に載ってなかったのかなあ?」
コルネがつぶやくのを聞いて、セヴェルスが尋ねた。
「あの本って『始まりの物語』?」
「え? はい」
「あれってほら、編纂したのがウィルガの人だったじゃない?」
「ええ。そうでしたけど」
すると王子はにこーっと怪しげな笑みを浮かべる。
「あそこってほら、表向きはわりと潔癖な所だったじゃない。だから載せられなかったんじゃないかなあ」
「はい???」
メイにも王子の意図がよく分からなかったのだが……
「ですよねえ?」
そこで王子がエルミーラ王女に問いかけると……
「おほほほ。何をおっしゃってるのでしょう?」
どうも王女は何かを分かっててごまかしてるようにも見えるが、今は席が遠いので尋ねているわけもいかないし―――そんなことを考えていると王子が言った。
「あの本ねえ、すごく役に立つ本なんだけど、やっぱり色々ウィルガ風に脚色されてるところも多いんだよ」
「そうなんですか?」
このあたりは大好きな話題なので、コルネはもう完全に食らいついている。
「うん。ほら例えば約束の地の話なんかでも、こっちじゃウルトゥス公が単にやってきた大聖たちをもてなしたので、そのお礼にって話なんだよ」
「えーっ? そうなんですか?」
メイの読んだ話では、ウルトゥス公とはエクシーレの古い王様で、大聖がやって来ると自ら出向いて行って、自分の領地を差しあげますと言ったことになっている。それを聞いた大聖が喜んで、山脈の向こうにここよりもずっと肥沃な土地があるから、代わりにそこをあげようと答えたことになっているが……
「なんだか話が違いますねえ」
「まあ、昔話なんて変わってしまうものだからねえ。だいたい約束したのも大聖じゃなくって虹の獣だったって伝承もあったりするし」
「え? そんなのもあったんですか?」
「うん。ほら、ベラに伝わる獣伝説では、そう書かれてるのもあるんだよ」
と、それを聞いていた王女が眉をひそめた。メイにもその理由が分かったのだが―――まあ、これだけならばまだ角も立つまいと思った瞬間だ。
「あ、そういえば、ベラ北部にも獣伝説ってありましたねーっ!」
コルネが大きくうなずいた。
「あは。よく知ってるねえ」
「ああ、それだったらもしかして……」
と、そこでコルネはちょっと伏し目がちに考えこむ。
メイは何か嫌な予感がした。この小娘は調子に乗るとTPOをわきまえない発言をしかねないわけで……
「ユリアヌス様のお師匠様の森の老夫婦って、ほら、最後は光り輝く鳥になって飛んでいったっていうじゃないですか。もしかしてそれが虹の獣とアウィス様だったとか?」
「はあ?」
王子の目が丸くなる。
メイもそれとこれとなんの関係が? と思った瞬間だ。
「だって古い写本に、獣の姿になって飛んでいったっていうのもあるんでしょ?」
………………
…………
そういえば『始まりの物語』のベラ伝承の項に、そのような注釈があったような気がするが……
《ムダな記憶力だけはいっちょ前でーっ》
あたりに気まずい沈黙が漂った。
特にロムルースが苦虫を噛みつぶしたような顔をして見ている。
「ん?」
コルネが不思議そうにあたりを見回すが―――王子がにっこり笑って答えた。
「あはは。そういうことを言ってる人もいるかもねえ」
ユリアヌスとはベラの初代首長に与えられた大聖の息子で、ベラ魔導師の祖となる人物だ。その最初の大魔導師を導いた師というのが、今の魔導大学の森に住んでいた不思議な老夫婦だったと伝えられるが……
《でも、この話って、付合してる?》
この会談に先駆けて、メイはエクシーレに関する色々な予備知識を勉強させられていた。その中にエクシーレ王国の学者が提唱している“エクシーレ古王国説”というのがあった。その予習中にコルネが遊びに来たので資料を見せてやったら、おもしろがって読んでいたような記憶があるが……
これは大聖がやってくる前に、現在のエクシーレ・ベラ領域の全土にまたがる古王国があったというものだ。
その根拠の一つが、ベラの北部地域にも獣伝説があることだった。すなわち本来はこの地域全土に獣伝説を信じる人々が住んでいたのだが、ベラ首長国が新しく間にできたせいで、その分布が分断されてしまったというのだ。
ユリアヌスの師匠の話はメイも知っていて、最後に鳥に変わって飛んでいったというのも昔話ならそんな物だろうと思っていたのだが……
《ユリアヌス様に魔法を教えたのが実は虹の獣だったらって?》
これって要するにベラの地は元々エクシーレの物であって、その誇りとする魔導師たちもエクシーレの始祖に魔法を教わったということになって……
《これっていま話すのはちょっとまずいでしょ……》
せっかくのベラとエクシーレの歴史的な和平会談なのだ。ここでそんな起源を主張するようなことを言いだしたら話がこじれてしまいかねないわけで……
そこでメイは話をそらそうと思ったのだが―――少々遅かった。
「それじゃやっぱりベラもエクシーレも元は同じ国だったんですねえ。だったら仲良くできるんじゃないですかあ?」
………………
…………
……
気まずい沈黙が漂う。
《あちゃー。やっちまったよ、この小娘は……》
このあたりのこだわりが、特にエクシーレ側の敵愾心の元凶となっているのだ。起源伝承なんて物が絡むと、利害を度外視した感情のこじれになってしまうわけで……
「あっはっは。そうだねえ。仲良くできるといいよねえ」
だがどうやらセヴェルス王子は空気を読んでくれたようだ。
「まったくですわ。仲良くできるとよろしいですわねえ。そうでしょ?」
エルミーラ王女も同調してロムルースに微笑みかける。
「あ、ああ。もちろんだ」
ロムルースもともかくうなずいた。
「ああ、それじゃせっかくこうしてみんな集まれたんだから、何か親睦のイベントでも開きませんか?」
「イベント? それは素敵ですわね。例えばどんな?」
セヴェルス王子の話題逸らしにエルミーラ王女も乗って尋ねる。
「そうですねえ……」
王子はちょっと考えこむと、ぽんと膝を叩いた。
「ああ、それじゃこれなんてどうです? エクシーレじゃ秋に国中でお祭りがあるんですが……」
「ええ」
「そこであの伝説にちなんで羊を焼いて獣に捧げるんですけど、なかなか食べに来てもらえなくって、たくさん余ってしまうんですよ」
「あらまあ。それは仕方ありませんわね?」
そこで王子はドヤ顔でみんなを見わたした。
「それで羊の大食い大会が開かれるんですけど、それなんてどうです?」
聞いた一同の目が丸くなった。
それからエルミーラ王女が苦笑しながら尋ねる。
「それを……この三国の代表で?」
「おもしろいでしょう?」
………………
…………
この人、わりと本気で言ってる?
「あれ? どうしました?」
不思議そうなセヴェルスにエルミーラ王女が答えた。
「いえ、何と申しますか、国対抗の大食い大会というのは、ちょっとどうでしょう?」
「そうですか?」
何やら残念そうな表情だが―――そこにロムルースも口を挟む。
「うむ。それならば魔導合戦などはいかがか? これならば国同士の勝負としてもふさわしいだろう?」
途端に王女がぎろっとロムルースを睨んだ。
「ちょっと、ルースったら! そんなのベラが勝つに決まってるじゃないの! 勝敗の分かりきった勝負なんてどこが面白いのよ!」
「いや、ならばどうする?」
ロムルースはたじたじだ。それを見たセヴェルスが言った。
「ああ、それでしたら中間を取って剣術大会などはいかがです? これならばどこが勝つか分かりませんよね?」
それって中間なんでしょうか? なんてのはともかく……
「まあ、それでしたらよろしいかも知れませんが……でもやはり私たちには……」
フォレスはちっぽけな国なので人材の層が薄いのだ。まともにやったらベラやエクシーレにはちょっと適わないのだが……
「え? しかしフォレスにはあのガルブレス殿が直々に育てられた、とんでもない女剣士がいらっしゃると聞きましたが?」
セヴェルスが驚いたようすで尋ねた。
「え? アウラですか? 確かに彼女がいれば良かったんですが……今ちょっと外遊中でして」
彼女ならまさに適任だっただろうが……
「そうだったんですか……」
セヴェルスはさも残念そうにうなずいた。
ところがそこにまたロムルースが口を挟んだ。
「でもその弟子が強くなっていると言っていなかったか?」
「え? まあ、それは……」
王女は曖昧にうなずくが……
「この間、その弟子が親衛隊を五人抜きしたとか言っていたと思うが」
「親衛隊を五人抜きですか? それはすごい」
聞いたセヴェルスも目を丸くする。
《確かに本当だけど……》
それまでわれ関せずといった様子で黙々と食べていたリモンが、慌てて居住まいを正す。そんな彼女に王女が尋ねた。
「えっと、それじゃリモン。どうかしら?」
「は、はいっ⁉」
「なんかそんな話になっちゃったんだけど、出てみる?」
「え? しかし……」
さすがのリモンも目を白黒させている。
「おお、この方が?」
だがセヴェルスに見つめられているのに気づいて……
「お、王女様の仰せとあらば……」
リモンは赤くなってうなずいた。
「あはは。これは楽しみですねえ。では試合の日取りとかはどうしましょうか?」
王女は少し考えて尋ねた。
「準備にどのくらいかかりそうでしょうか?」
「ああ、一月もあればこちらは大丈夫だと思いますが」
「一月ですか? このあと私たちはまた国内視察に出かけるのですが……一月後ってどこだっけ?」
王女がメイに尋ねる。
「え? あ、はい。確かエストラテ川を下ってまして、その頃にはアウローラの波止場の予定だったと思いますが」
聞いた王子がにっこり笑う。
「アウローラですか? あそこならば国境にも近いですし魚も美味しいし、いいですねえ! 長殿はいかがですか」
問われたロムルースもうなずいた。
「ああ。こちらもそれで構わんぞ」
「ではそういうことに致しましょうか」
「はい。楽しみですねえ」
―――といった調子で、あれよあれよという間にベラ・エクシーレ・フォレス三国の剣術親善試合が決まってしまったのだった。
あまりにも急な展開にリモンは固まってしまっている。
《うわあ。今さら嫌だとは言えないだろうし……》
間違いなく勢いで答えてしまったに違いないが―――確かに彼女は強くなっているとはいえ、薙刀を始めてからまだ二年弱だ。大丈夫なのだろうか?
だがこうなってしまったらもうメイの出番はなかった。
さて、メイは昨年来、そこはかとなく一つの疑問を抱いていた。
この“よき報せをもたらした者をもてなす宴”の主賓が女だったら、“夜の部”とはいったいどんな物になるのだろう? というのだったのだが……
「えーっ……これ、全部頂いちゃっていいんですか?」
「はい。どうぞ。お好きなだけお召し上がり下さい」
答えたのはファリーナだ。
彼女たちの目の前には、様々なお菓子が部屋一杯に広がっている。作ってくれたのは昨年のフレーノ卿事件で一緒になった彼女だった。
「これを全部あなたが?」
「まさか。みんなに手伝ってもらいましたよ」
彼女は長の館のパティシエールのチーフで、あのグレイシーもお気に入りなのだという。その彼女が腕によりをかけて作ったお菓子バイキングというのが、今回の女性に対する夜の部なのだった。
今回のと言ったのは、そういうことがあまりないために特に決まった作法がなかったからだ。
《でも全くのノープロブレムよね》
あたりに漂っている甘い香りに、既によだれが垂れそうになっている。
《しかし……》
最大の問題はいったいどこから手を付けたらいいのかということだった。
何しろ目の前にはお菓子の山があるのだ―――それは比喩などではなく、中央のテーブルにはどどーんとお菓子のジオラマができていた。
「フォレスをイメージして作ってみたんですが、いかがでしょう?」
確かにそれは高原の王国の雰囲気を見事に醸し出していた。
チョコレートケーキでできた山々の麓に、クッキーをクリームで固めたお城が建っている。とんがり屋根に赤いイチゴが乗っていて、お城の横には透明なゼリーでできた湖があった。そこから流れ出す川はやがて飴細工の滝になっていて、その周りを砂糖菓子でできた森が取り囲み、牧場では焼き菓子でできた動物が草を食んでいる……
「これ、みんな食べられるんですか?」
「もちろんですよ。特にその雪山なんかは早めに食べていただいた方が」
ファリーナがニコニコしながら答える。
「あ、これってシャーベットですか?」
そこでファリーナが雪山をすくってガラスのお皿に盛り付けてくれた。
一口食べるなり口の中に爽やかな柑橘の香りが広がり、細かな氷の結晶が舌の上でさらっと融けていく。
「これってもしかしてフェリエさんが?」
「はい。おかげで氷菓子が捗って捗って」
ファリーナがぽっと赤くなる。
「あはは」
聞いたメイまで何だか顔が熱くなってきたが……
「ああ、それは古アルカが結構入ってるので、食べ過ぎると酔ってしまいますからご注意下さいね」
「え? お酒が?」
口当たりが滑らかなので気づかなかったが、言われてみればお酒の味がする。
「アルカ酒が入ってるんですか?」
アルカ酒とは兵隊達の飲む安酒というイメージなのだが……
「はい。奥地の洞窟で長年熟成させたアルカだと、そんな風に甘くなるんです。でもわりと強いからお気を付けて下さいね」
「わかりましたー」
メイとファリーナがそんな話をしていると、コルネがため息をつきながらやってきた。
「うー、どうして言ってくれなかったのよー」
「だってしょうがないじゃない。セヴェルス様が向こうからやってくるなんて思ってもなかったんだし」
あの後コルネは王女からさんざん絞られたのだ。本当に口は災いの元で、せっかくの和平会談がおじゃんになるかもしれなかったのだから仕方がないが。
だが彼女が単なる趣味で読んでいた昔話ネタが、あんなにピーキーな話題になるとはメイだって想像もしていなかった。
「ま、ともかくそれでも食べて気を取りなおしたら?」
「うわあ……迷っちゃう」
途端にコルネの目が輝く。
《まあ、こいつはこれでいいんだけど……》
それよりも何よりも、今回の一番の被害者といえばリモンだろう。三国対抗の剣術試合なんかに出ることになってしまったわけだが……
そこでメイは二人の姿を探した。するとリモンはガリーナと一緒に何やら黙々とケーキを食べていた。
《あはは。まずは食べてから考えようってことかな?》
こんなお菓子の部屋に放りこまれてしまっては、だれだってそうなるに違いない。
そこに今度はエルミーラ王女がグラス片手にやってきた。彼女も素晴らしいお菓子の芸術を見て目を見張る。
「まあ、本当に素敵ねえ……」
王女がつぶやくと横にいたファリーナがお辞儀をした。
「ありがとうございます」
「あら、もしかしてあなたがファリーナさん?」
「え? はい」
王女がにこーっと笑った。
「フェリエさんともうすぐご結婚とか?」
「あ、はい……」
ファリーナがぽっと赤くなる。
「そう。フェリエさんも幸せ者ねー。うふっ」
王女がファリーナの豊かな胸元をちらちら見ながら言うが……
《あー、何てかもう……》
彼女が手にしているグラスに入っているのは間違いなくお酒だ。
《昼間から結構召し上がってらしたけど、大丈夫かしら?》
メイの脳裏にあのクレアスでの大騒動がフラッシュバックする。今のところ大人しいがファリーナにセクハラでも始めたら事だ。
そこでメイは話題を変えた。
「ところで王女様。アウィス様のお話って、ご存じだったんですか?」
ところがいきなり王女の目が丸くなった。
「え? どうして?」
「いやほら、セヴェルス様が話してたとき、なんか驚いてたみたいなんで」
「ま、気づいてたの?」
「そりゃまあ、秘書官ですから」
聞いた王女がにたーっと笑った。
「ふふ。まあ、知ってたって言えば知ってたんだけど? ちょっと別なお話だったんで」
「別なお話?」
「そう。別なお話。聞きたい? ふふっ」
なんだ? この笑いは? 嫌な予感がするが、これはちょっと注意しなければ―――メイがそう思ったときだ。
「アウィス様の別なお話があったんですか?」
コルネが目を輝かせて割りこんできたのだ。
「そうなのよ。実はねえ、アウィス様の伝説にはもう一つのバージョンがあってね むしろグラースとかではそっちの方が流布してるみたいなんだけど……」
「はいっ」
メイはますます嫌な予感がしてきたのだが―――王女は怪しげな笑みを浮かべながら続ける。
「セヴェルス様は、アウィス様が獣との約束があったから残ったって言ったんだけど、実はねえ彼女は見ちゃったからなのよ」
「見ちゃったって?」
「朝方にむくむくと大きくなってた獣の、モ・ノ」
………………
…………
……
ぶーっ! ちょっと待てっ! それって!
「それが忘れられなくって、やってきた男たちのじゃ全然満足できなくって」
あははははっ!
「それで獣に頼みこんでついに結ばれたんだけど、すると彼女の体が輝く炎に包まれて、気がついたら彼女も獣になってたんだって」
………………
…………
いや、なんかすごく納得できる話ではあるが……
「な、なんでそんなお話を知ってるんですかーっ!」
「アサンシオンにグラースから来た子がいてね? その子がアウィス様みたいにしてーっ! なんて言うものだから……うふ」
やっぱり王女は完全に酔っ払っていたのだった……