エルミーラ王女のすてきな家族計画 第2章 不都合な真実

第2章 不都合な真実


「ふう~、疲れましたねえ……」

 水上庭園に向かって走るバレーナ工房製のランドーの中でメイは思わずつぶやいた。これはベラナンバーツーの馬車工房で乗り心地も超一級品なのだが、さすがに今はそれを堪能している余裕はなかった。

「そうねえ……」

 隣のグルナもげっそりした様子で相づちをうつ。

 二人の向かいに座っていたセリウスが、同じく憔悴した顔で言う。

「ともかくこれでしばらくは何とかなると思いますから」

「そうあってほしいですわ」

 三人はいま、長の館で行われた一般会見からの帰り道だった。

 問題は山積であった。

 あれから約一週間。王女はこんなのは病気でも何でもないからと旅行の継続を主張したのだが、もちろんロムルースが首を縦に振るわけがない。他の侍従達もさすがにそんなことは呑めるはずもなく、一行は視察旅行を中断してハビタルに取って返していた。

 しかしそのようなことが人々の耳目を集めないわけがない。王女と国長の視察旅行は今では国民の大きな関心事となっていたのだ。そこでその理由を説明しなければならないわけだが……

《いきなりご懐妊だなんて言えるわけないし……》

 他国の王女が外遊中にその国の国家元首との子供ができてしまったとか―――まさに空前絶後のスキャンダルである。だからまずはエルミーラ王女が旅行中に体調を壊されてしまって、静養するために戻ってきたという建前になっているのだが……

《でもいつまでも隠し通せるわけじゃないだろうし……》

 秘密というものはバレたら一瞬で全てがパーなのだ。それをごまかすために嘘で嘘を塗り固めていったら、最後にはにっちもさっちもいかなくなるわけで……

 だが、中にはそんな意見もあるのだ。こんなこと公表なんてできないから、御子はどこかで秘密裏にお育てした方がいいと―――しかしそうなれば、そのお育て役というのは数少ない事情を知る者で、なおかつ絶対の信頼がなければならないわけで……

《あははは! 誰かな~? そんな人たちって……》

 まさにコルネの好きそうな貴種流離譚のプロローグだが、自分がその登場人物になってしまうとは! あはは!―――いや、正直笑い事じゃない。

 だが今のところその可能性は低かった。王女が強硬に反対していたからだ。

 彼女は『私が作ると決めたのだし、その子をどう育てるかは私が決めます!』の一点張りだ。確かにエルミーラ王女が即位した暁には、誰も文句は言えなくなるわけだが……

《王様、何ておっしゃるかなあ……》

 フォレスには早々に状況を記した書状は送ってあるが―――間違いなく仰け反っているに違いない。

 ともかくそのあたりの決着がつくまでは、王女様はご病気ということでごまかしておくしかないのである。

 しかも話はそれで終わりではない。

 その問題に片がついたとしても、もっとややこしい問題が横たわっていた。継承権である。

 確かに王女がベラの長の継承権を放棄すると宣言はできる。だがその御子がベラの現首長の長子であるという事実は変わらない。後にベラで世継ぎ争いとかが起こったとき、巻きこまれないという保証はないのだ。あのリザ―――何とかさんのように!

《聞けば聞くほどエグいからなー……》

 今のフォレス王家のように世継ぎが少ないのも問題だが、世継ぎがたくさんいたらいたで今度は骨肉の争いが始まるのだ。

《エクシーレでも結構あったみたいだし……》

 あの後、風の噂にエクシーレのヴィクトゥス第二王子のバックについてかなり権勢を振るっていた大臣が失脚したとか何とか……

 もちろん生まれたのが姫であったならまだ少し話は楽になるが、それでもその血筋に計り知れない価値があるということは変わらない。だいたい王女は自分で『あなたは王家の血筋というものにどれだけの価値があるか、分かっていないようですね?』なんて嘯いていたのだが―――ぶつぶつ。

 そしてその混乱に拍車をかけているのが、ロムルースが王女が后になれば万事解決だと相変わらず主張していることで……

《いや、ある意味いちばんまともな落し所かもしれないし……》

 フォレスの王位継承が何とかなれば、むしろそれが一番いいとメイも思うのだが……

《でももしそうなったら、私の立場って?》

 後宮住まいの后に秘書官なんて要らないのではなかろうか? ならば侍女という形で行くことになるのだろうが……

《え? あそこに住むの?》

 ベラの後宮はすごく美麗ではあったが、しきたりとかがややこしそうだし―――いや、そもそも彼女は侍女としては半人前だ。頭数に入れてもらえる保証もないわけで……

《だったら……クビ⁉》

 いやいや……

《ともかくいったいどうなっちゃうのよ??? あたし……》

 メイの未来は何やら一瞬先は闇という状況になっていた。

 ―――というわけで、そんなことをぐだぐだと思い悩んでいても仕方ないので、目下の任務に集中しているわけだが……

《うはー、びっくりした……いっぱい来るんだもんなー》

 今日行われた王女急病に関する会見だが、発表するのは当然王女の代理人の役目だ。現在はまだそれはグルナの役目なのだが、原稿を読むだけでいいかと思っていたら、色々とご容態に関する質問が出てきたりして、軽くパニックになりかかったところをメイやセリウスが大慌てでフォローしていたのだ。

《とにかくはやくグルナさんを楽にさせてあげないと……》

 メイだって人前で話したりするのは得意ではないのだが、彼女がおろおろしているのは見ていて辛いのだ―――そんなことを思っていると、馬車は水上庭園の中門をくぐった。

 前庭の一角に馬車が到着すると、三人はそこから降りてその先に伸びる小径を辿っていく。美しい庭園内をしばらく歩いていくと、やがて離宮の門が現れた。門番をしていたのは薙刀を持ったリモンだ。こんな状況なので離宮は秘密を知る最低限のメンバーで回していかなければならないのである。

「あ、ただいま」

 グルナが声をかけると彼女が答える。

「おかえりなさい。いかがでした?」

「まあ、なんとかね」

 グルナが大きくため息をつくと、リモンも苦笑しながら答えた。

「中でお休み下さい」

「ありがとう」

 一行が門をくぐると、その奥にはまた見事に手入れされた庭園が広がり、その先に王女が静養中の離宮があった。

 その建物の大きさはそれほどでもなく華美な造りというわけでもないのだが、その落ちついたたたずまいが光景に調和していて、まるで一幅の絵画のようだ。水上庭園は元々湖に浮かぶ小島だったのだが、ここはその裏手にあたりとても静かな場所だった。

 だが、一行が離れに近づいて行くと……

「だーかーら、いつまでここで油を売ってるのよ!」

「何を言っている。さっきだって具合が悪かったじゃないか」

「つわりなんだからしょうがないでしょ? それより政務はないの?」

「そんなことよりお前の体の方が大事だろう?」

「そんなことって何よ! あなたは国長なのよ? 政を放り出していいわけないでしょ!」

 あー、またやっている……

 この国長様の王女へのこだわりようは、メイから見てもちょっとどうかと思っていたのだが、今回のことでそれに拍車がかかってしまって、もはや暴れ馬大暴走状態なのだ。

 ちらっとふり返るとセリウスがああっという顔で額を押さえていた。

《あはははは。この姿も最近よく見るなー》

 それから彼はふーっとため息をつくと、大きな声で言った。

「お館様! またこちらにいらっしゃっていたのですか?」

 ロムルースがふり返る。

「あ? なんだ、お前か」

「午後から謁見がございますが。そろそろ館に戻って頂かないと間に合いません」

「ああ? そうだったか?」

「どうかお急ぎを」

「相手は誰だったか?」

「ラガヌムより来た商人の一行でございますが」

「あ? だったら待たせていてもいいだろう?」

 セリウスはまたため息をついた。

「しかし本日はフレーノ大臣もご同席なさいますが?」

 ロムルースはしばらく絶句してから、さも嫌そうにうなずいた。

「ん、分かった……」

 あはははは!

 あのフレーノ卿は昨年の夏、晴れてベラの大臣に任命された。だがちょっとくらい修辞学を学んだところであの性格が治るはずもなく、びしびしとロムルースに意見をするので彼も戦々恐々としていたのだ。

「それではミーラ、ちょっとだけ席を外すからな」

「どうかしっかりとお勤め下さいまし」

 それから王女はロムルースの首に手を回すと、口づけをした。

《もう何だか様になっちゃってるんだけど……》

 旦那様を送り出そうとしているお妾さんみたいな風情がもう―――あはは。

「それでは行くか」

 ロムルースがセリウスに声をかけたが、彼は首をふった。

「いえ、私はこれより後宮に行く用向きがございまして」

「ああ、そうか」

 うなずくとロムルースは去っていった。

《ふえ~、本当に大変だな~》

 メイはしみじみと思った。

 そこに今度は王女が尋ねた。

「それでどうだった?」

 グルナがうなずいた。

「はい。あの説明でとりあえず納得はして頂けたようですが、でもひどい病気なのではと勘ぐる方もおりまして……」

「まあ、そうよねえ」

 王女の病状に関しては、冬の長旅で疲れが溜まったせいで胃腸がひどく衰弱してしまって、しばらく静養が必要だといった説明になっていた。だがそのくらいで完全な面会謝絶というのはどうなのだ? というのも素直な感想だ。

「お館様の慌てようも少々度を超しているように思われておりますし……」

「そこを本当にどうにかしないとダメよね?」

 そう言って王女がじとっとセリウスを見るが……

《だからそういう板挟みにするのは可哀相なんじゃないですか?》

 グルナが困った様子で二人の顔を見比べているが―――セリウスは事務的にうなずいた。

「承知しております。それでフレーノ様にもお忙しい中、色々無理を申し上げて……」

「まあ、それであれなの。しょうがないわねえ、本当に……」

 王女は呆れたようにつぶやいた。

 あはははは。

 と、そこでセリウスがふり返る。

「それでは私は参りますので。メイ殿。よろしいでしょうか?」

「あ、はい」

「それじゃメイ、頑張ってね?」

 王女がニヤニヤしながら手を振る。

「はい。分かってますって!」

 正直、かなり気が重い―――なぜならメイがこれから向かおうとしているのはグレイシーの元へだったからだ。

 というのはあの朝王女が別室で一人寝ていた件に関しても、確認は取っておかねばならないからだ。ところが何しろこんなあり得ない事態だ。周りはみんなてんてこ舞いで、おかげでそのお鉢がメイに回ってきたというわけだ。

《でもちょっとあの人苦手なんだよなー……》

 そもそもからしてグレイシーとエルミーラ王女はそりが合っていない。その上ガリーナの件で脅迫状を送りつけたりもしているわけで……

《視線、冷たかったもんなー》

 王女一行が再びベラにやって来ると立場上彼女も挨拶に来たのだが、見るからに他人行儀だったし、しかもメイを見る視線までが冷え切っている。

《あの代筆、私だったしなー……》

 比較的重要ではない書状の場合、秘書官が代筆してサインだけもらうことはよくあるが、その際には『以上、エルミーラ王女様のご意向をメイ秘書官補佐が記した物なり』というあとがきがつくわけで……

 後宮に向かう道すがら、セリウスが言った。

「まあともかく状況を確認するだけですから、角も立たないでしょう。それにこれで誤解を解くこともできるでしょうし」

「そうですよね」

 確かにちょっと話を聞くだけだし、いろいろと予行演習なども済んでいるわけで……


 ―――昨夜そんな話を振られたときだ。

「えー? 私が行くんですか?」

 思わずメイはそう答えていた。

「だって他に行けそうな人、いないじゃないの?」

「あー、まあそうですけど……」

 グルナは対外的なことで色々忙しいし、コルネは王女様のお世話でつきっきりだ。リモンとガリーナも護衛の方で忙殺されている。フィンとアウラは別件でほとんど姿を見せられない。

 というのは、ハビタルにはアウラに目通りしたいという客が大勢いるのだ。すぐ忘れてしまいがちなのだが、彼女はロムルースの伯父ガルブレスの養女なのでベラの継承権と無関係ではないのだ。おかげで二人ともこちらにあまり関わっている余裕がない。

 だとしたら仕方がないのだが……

「でも、ちょっと尋ねるだけなら、セリウスさんでも構わないのでは?」

 思わずメイはそう言って側にいた彼の顔を見た。

 彼は役目柄、後宮にもよく出入りしていてグレイシーとも昵懇(じっこん)なのだ。話を振られたセリウスはうなずいた。

「それはお安いご用ですが、でも何という名目でお尋ねしましょうか?」

「名目?」

 言われてみれば確かにそれは問題だった。

 聞きたいこととは要するにあの宴の夜、ロムルースと寝ていた遊女を彼女がどうしたかということだが……

「あー、確かに今さらそんなこと尋ねたら、何でそんなことを聞くんだって思いますよねー。誰でも」

 もちろん本当のことを言うわけにはいかない。特に彼女に対しては……

「そうねえ……ああ、それじゃこういうのはどうかしら?」

 それを聞いていた王女が言った。

「どういうのですか?」

「旅先でルースと雑談していたらあの晩の話になって、私が『どんな綺麗所とお休みになったの』って聞いたらルースが『いや、自分はグレイシーと寝ていたから』なんて言い張るから、そんなわけないじゃないって言い争いになったとか?」

「あは、ありそうなお話ですね」

 メイはうなずいたが、セリウスは首をかしげた。

「でもどうしてお館様がそのような嘘を?」

「え?」

「あの後お話ししたと思いますが、別に宴でお館様が遊女と一夜を共にしたところで、グレイシー様が気になさるとも思えませんし、お館様がそれを隠すのはやや不自然に思うのですが?」

「ああ、そういえばそうですねえ……」

 あのときはセリウスが倒れたり何やかやで有耶無耶になってしまったが、実はこのようなわけでロムルースが遊女と一緒だったからといって、グレイシーが放り出させることなんてないのでは? という意見も出ていたのだ。

 でも彼女がそうしたと考えないと辻褄が合わないから、何か特別な理由があったに相違ないわけで、今回の任務はそれを探ってくることなのだが……

 と、そこでコルネが口を挟んだ。

「えっと、それではこんなのはどうでしょう?」

「どんな?」

 王女が尋ねると彼女は勇んで話し出した。

「ほら、ロムルース様もさすがに王女様の郭通いを認めたじゃないですか。だからロムルース様が一緒だった遊女が、もしかしたら王女様のお知り合いだったかもって話になったっていうのはどうでしょう? でもロムルース様は名前とかは覚えてなくって、それで詳しいことを知りたいって感じで……」

 話を聞いたセリウスがうなずいた。

「ああ、それならばよろしいかもしれませんね。それにあのケンカの原因もなくなるわけですし」

「ケンカ?」

 セリウスが首をかしげる王女に答える。

「ほら、ガリーナがそちらに行くことになった一件ですが」

「あら、そうね

 確かにそうだ。あれはそもそもロムルースが王女は郭になど行ってないと信じこんでいるために起こったことだ。だが彼が間違いに気づいてくれればもう諍う理由もなくなるわけで……

《あー、ガリーナさん、喜ぶわよね? きっと……》

 だがセリウスがそこで少し考えこむと言った。

「それならばメイ殿にも同行して頂いた方が助かるのですが」

「え? 私もですか?」

 セリウスはうなずいた。

「はい。その理屈ですとこれは王女様の私事ということになりまして……そもそもグレイシー様は私がずっと王女様のお世話を命じられていることを、あまり良くは思っておりませんので……」

 えっと、それってどういうこと?

 みんな一瞬わけが分からなかったが、そこでコルネがぽんと膝を叩いた。

「あー、それじゃ要するにグレイシーさんが、セリウスさんは王女様のパシリじゃないんだぞって怒りだすとか?」

 セリウスは苦笑しながらうなずいた。

「まあ、平たく言えばそのようなことに……」

 あはははは! あー、難しい難しい!

 そこでメイは大きくうなずいた。

「わかりましたー。私も同行しますので、というか、同行して頂けますよね?」

 一人で行けとか言われたら―――泣くぞ?

「それならば構いませんが?」

「ありがとうございますー」

 こんな展開だったわけだが―――


 後宮は水上庭園に隣接しているのだが、何しろこの規模だ。しかも王女の離宮はちょうど反対側にあたるので、後宮に行くには庭園を突っ切らなければならない。

「しかし、本当に迷路みたいですよねえ……」

 思わずメイがつぶやくとセリウスが答えた。

「美しさを優先して作ったらこうなってしまったと聞きますが」

「あー、確かに綺麗なのはすごいですが……迷子になったりしません?」

「いえ、コツが分かれば大丈夫ですよ。目印になる場所が幾つもありますので」

「そうなんですかあ……」

 そんなことを話していると、後宮への門が見えてきた。

 ぴたりと閉ざされた門の前には長薙刀を持った若い門番が二人立っている。彼女たちはセリウスの顔を見ると会釈して門を開けた。

《ふえー……》

 ここにやってくるのは二度目だが、やはり緊張してしまう。

《前回はとんでもないことになったもんなー》

 だがあの事件のおかげでガリーナという素敵な仲間ができたのも事実だが……

《でもあんな騒ぎはもうご免よね……》

 あのときはどうなるかと思ったが―――ともかく波風は立てぬよう、メイはセリウスの後をくっついて歩いた。

 後宮に入るとすぐに係の女官がやってきたが、セリウスが二言三言言うとすぐに奥に下がっていった。

「さあこちらです」

「はい」

 メイは彼に案内されて、後宮の応接間に通された。

 この部屋は出入りの業者などが通される部屋でやや質素な作りであったが、それも比較の問題だ。メイから見たらすごいお城の中としか言いようがない。

 そこでしばらく待っていると、奥からグレイシーが現れた。

《うわー……いつ見ても綺麗だなあ……》

 今日身につけているのは普段着のドレスなのだろうが、まさに国長の妾姫に恥じない艶やかさだ。

「これは姫様、ご機嫌麗しゅうございます」

 グレイシーはセリウスに軽く会釈すると、背後にいたメイをじろっと見た。

「あ、グレイシー様。いつもお綺麗で何よりでございます。エルミーラ様のお側勤めを仰せつかっておりますメイでございます」

 メイがやや慌てぎみに挨拶をすると彼女は軽くうなずいて、それから不思議そうにセリウスを見た。

「今日は夕月の間のお話では?」

 セリウスは答えた。

「ああ、その件もございますが、その前に少しこちらから姫様にお尋ねしたい儀があるとのことで、しばしお時間を頂きたいとのことです」

「そうですか。それで?」

 グレイシーはうなずくとメイに促した。そこでメイは一礼をすると話しはじめた。

「それが、セヴェルス様をお招きしたときに開かれた宴の夜のことなのですが……」

「あの宴の夜?」

「はい。それがその、ちょっと私の主人がそのときのことを知りたがっておりまして……」

「エルミーラ様が?」

 グレイシーが眉をひそめる。

「はい。ロムルース様といろいろお話しをされているうちにあの晩のお話になってしまって、それで色々とご興味を持たれてしまって……」

 グレイシーは冷ややかな目でじろっとメイを見つめた。

《ひーっ。怒られるかな?》

 だが彼女はふんと鼻を鳴らしただけだった。

「あの晩の話と言われましても、逐一話せと?」

 それはもっともだ。

「いえ、王女様がお知りになりたいのは、あの晩ロムルース様がどのようにお休みになられたのかということで……」

 それを聞いたグレイシーはじとっとした目つきでメイを見た。

《あはははは! なにゲスな勘ぐりをしてるのかしら? って目よね、これって……》

 だがグレイシーはまたふんと鼻を鳴らすと答えた。

「あの晩はお館様と一緒にセヴェルス様をおもてなししておりましたが」

「あ、はい」

「あたりはまるで花園のようでございましたので、セヴェルス様もなかなか手折るのに難儀をされておられたご様子で……」

「はい……」

「気づくとお館様のお姿が見えなくなっておりましたが、手洗いに行っているのかと放っておきましたが……」

「え?」

 そこで思わずメイは声をあげていた。確かあのときロムルースはセヴェルスに断るため一旦戻ったと言ったが?

「はい?」

 グレイシーが不思議そうに首をかしげる。

《いや、グレイシーさんには言うわけないもんね!》

 うっかりついてこられたら大変なことになる。多分セヴェルス王子にだけこっそり耳打ちしたとかそういうところなのだろう。

「いえ、何でもありません!」

 グレイシーはちょっと首をかしげたが、そのまま話を続けた。

「ところがそれからいつまでたっても戻ってらっしゃらないので見に行かせたら、翠玉の間で寝ていると。それで私も行ってみたら、確かに酔い潰れて一人でお休みになっておりました」

 ………………

 …………

「え?」

「お一人で、ですか?」

 その答えにメイだけでなく、セリウスも思わず問い返す。

「はい。そうでしたが?」

 一人? で?

 思わずメイとセリウスが顔を見合わせる。それを見たグレイシーが不審そうに尋ねた。

「それが何か?」

 メイは慌てて首をふった。

「いえ、それでその後、どうなさったのでしょう?」

「もちろん添い寝して差しあげましたが?」

 ………………

 …………

 えっと、これはどういうことだ?

 ロムルースが朝目ざめたら横にグレイシーがいたというのはこれで納得いく。だがそれなら王女はどこに行ったのだ?

 そこにセリウスが尋ねた。

「あの、お館様がいなくなってから姫様がいらっしゃるまで、どのくらいの間がございましたか?」

「さあ。時計を見ていたわけではありませんから。でも一時間くらいでは?」

「姫様がいらっしゃる前に、部屋に誰かがいたようなことはございませんでしたか?」

 グレイシーはちょっと考えたが首をふった。

「いえ、別に? 特に寝具が乱れていたとか、そのようなこともございませんでしたし」

 再びメイとセリウスが顔を見合わせるのを見て、ついにグレイシーが尋ねた。

「あなたのご主人はどうしてそのようなことをお尋ねになるのです?」

 いきなり問われてメイは軽く飛び上がった。

「あ、いえ、ですからその……ちょっとエルミーラ様とロムルース様が口論をなさってしまいましてっ!」

「口論?」

「はいっ! それがその、王女様が『あんな綺麗な人たちが一杯いたならさぞ楽しい夜だったでしょうね?』なんておっしゃいましたら、ロムルース様が『いや、私はずっとグレイシーと一緒だったぞ?』などとおっしゃいまして。そうしたら王女様がそのお言葉をお信じにならなくって、それでちょっと……」

「まあ……」

 グレイシーはしばし目を見張ると、それからふっと可笑しそうに笑った。

「でしたらご主人様には残念な結果でございましたね」

「あは、そのようで……」

 ともかく難局はのりきったようだが―――メイはそこで思わず尋ねていた。

「あの、でもそんなことがあるんですか?」

「え?」

「いえ、それこそベラでも最高の美女が揃った夜に一人で酔い潰れて、その、お休みになってるとか……」

 メイも既に何度か最高級の郭の美女というのを見ているのだが、男がそんなもったいないことを果たしてできるのであろうか?

 だがグレイシーは不思議そうに答えた。

「別に? お館様ならあの程度の娘たちならいつでも手折れますし。お気に入りが見つからなければそのようなことも間々ございますが?」

「あ、そうでしたか……あはは」

 さすがベラの首長様は下々の者とはちょっと違うのであった。

「ご主人様へのお答えはこれでよろしゅうございますか?」

「あ、はい。今日はわざわざお時間を取って頂いてありがとうございました」

 ぺこぺこお礼をしながら、メイは内心冷や汗ものだった。

《うわぁ、あってよかった別プラン~》

 あの説明でとりあえずグレイシーは納得してくれたようだが―――それはともかくこれは一体どういうことなのだろうか?



「ということなのですが……」

 メイが王女の部屋に戻って報告をすると、そこにいた一同も首をかしげた。

 そこにはグルナとコルネ、それにアナトラという信頼のおけるベラの侍女だけでなく、ロムルースがまた舞い戻っていた。

「ルースが一人で寝てたって?」

 王女が不思議そうに尋ねた。

「はい。そのようにおっしゃってましたが……」

 帰る道すがらメイも色々理由を考えたのだが―――少なくともグレイシーがそんな嘘をつく理由がない。

 彼女の口ぶりでも、ロムルースが遊女と一緒だったところでどうということはない風だったし、よしんばそれが王女だと気づいたとしたなら―――大騒ぎになっていたのは間違いない! 何らかの理由でその場はそうしたとしても、それなら後から絶対なにか言ってくるはずだ。

 要するに、本当にグレイシーが来たときには既にロムルースは一人で寝ていたのだ。

 彼女の話によればロムルースがいなくなってから一時間くらいはあったらしいから……

《それだけあれば事を済ませるには十分よねえ……》

 いや、聞いた話によればだがっ!

 ともかく、ならばどうして王女が別の部屋で寝ていたかだ。

 何者かが翠玉の間に侵入して王女だけをこっそり運び出した?―――なんてのはあり得ないし……

 そこでメイは王女に尋ねた。

「えっと、それでですね、そのあとお手洗いに起きたとか、そういうことはありませんか?」

「え?」

「ほら、あの水上庭園ってもう迷路みたいじゃないですか。しかも夜になったら暗いし。それで帰りに迷ってあの部屋で寝ちゃったとか、そういうことは?」

 それを聞いたグルナがうなずいた。

「ああ、そういうことならば……いかがでしょう?」

 だが王女は考えこんだ。

「うーん。何か覚えがないんだけど……」

「でもあの晩、相当お酒を召し上がってらしたんでしょ?」

「んー、まあ、そうだけど」

「他にもまあ同じようなことなんですけど、例えばグレイシーさんが来たのに気づいて逃げだしたけど、帰り道が分からなくなったとか……」

 王女は笑って首をふる。

「いいえ、それだったら一緒に寝ようって誘うけど?」

 いやいやいや!

 ハビタルに戻って早々に実況見分は行っていた。

 王女が寝ていたのはロムルースと過ごした翠玉の間の近くの小部屋だったが、客用ではなく従業員の控え部屋だった。そのため従業員用の裏通路沿いにあって、こちらは美観を損ねないようにとわざとあちこち迂回していたりして、ますます道は込み入っている。

 すなわち暗い中、酔っ払って迷い込んだら分からなくなってもおかしくない。

《うーん。やっぱりそういうことなのかしら?》

 その他にどんな可能性があるというのだろうか?

 あたりを見回してもみんな、それならありそうかな? という表情だ。

 そこにロムルースが言った。

「さて、事情が分かったのならもうこの件はいいか?」

「あー、はい……」

 メイは曖昧にうなずくしかなかった。

「ではミーラ、体に気をつけるんだぞ? これから私はまた謁見があるのでな」

「どうかしっかりとお勤め下さいまし」

 王女はロムルースの首に手を回すと口づけする。

《これってさっきやったばかりじゃないの?》

 ベラの長の館というのはとにかくだだっ広く、公務が行われる館と水上庭園はとりあえずは同じ敷地内とはいえ、行き来には馬車が必要になるほどだ。それをちょっと暇があれば行ったり来たり……

《本当に王女様も果報者よねえ……》

 いや、同じくらいエルミーラ王女もロムルースにぞっこんなわけだが―――もはや永遠の謎である。

 いそいそと去っていくロムルースの後ろ姿を見ながら、しかしメイは釈然としていなかった。

《いいのかしら? これで……》

 何かが引っかかるのだが……

《そういえば、セリウスさんが尋ねてたけど……》

 グレイシーがやってくる前に部屋に誰かがいた形跡がなかったかと問われて、彼女はなかったと答えていたが……

《でもあれって、それこそ組んずほぐれつ、するんでしょ?》

 ………………

 …………

 いやー、なんだろう? 顔がちょっと熱いなあ。いやあはは。それはともかく……

《布団とかは乱れるのよね?》

 そうなのだ。そういうことをしていれば、それこそ色々と形跡がのこるわけで……

《でも寝具は乱れてなかったって言ってたのよね?》

 とすれば? 王女がお手洗いに行くときに、そのあたりをきっちりと整えていったということになるが……

《は?》

 メイは首をかしげた。

 王女はそんな几帳面な性格だっただろうか? 普段の姿からは全く想像がつかないのだが―――それともこんな場合だから特別にそうしたのだろうか?

 何だかそれもイメージに合わないのだが……

《じゃあ別な可能性として、仮にグレイシーさんの話が本当だとすると……》

 その場合ロムルースは本当に酔っ払って夢を見ていたわけで―――では王女はどうしていた? 例えば―――遊女の姿をして行ってみたけどロムルースが見つからないので、あちこち探しまわっているうちに酔いが回ってあの部屋で寝てしまったとか……

《あは、いや、王女様は実際にご懐妊なさってるわけだから、そういうことでは……》

 ………………

 いや、あり得るか? 王女様のお相手が―――別な男だったなら……

 ………………

 …………

 ……

《ちょと待てーーーーーーーーーーーーーーっ!》

 その場合、王女様は遊女の格好をしてそこらで寝ていたということになって、そんなところを見咎められたりしたら……

 ………………

 いや、でもそもそも二人の話がぴたりと付合しているわけで、だったらやっぱり王女様のお相手はロムルースであったと考えるべきで……

 ………………

 でも、あれ? えーっと、お二人の“話が合ってる”のではなく……


《お二人が“話を合わせてる”って考えたら?》


 ………………

 …………

 ……

「ぶーーーっ!」

 メイがいきなり吹きだしたので、横のコルネが不審そうに言った。

「どうしたのよ? さっきから一人でぶつぶつ何か言ってるけど?」

 メイは慌てて手を振った。

「いや、なんでもないから。その、ちょっとあれ、忘れてた! 行かなきゃっ!」

 メイは駆け出してみんなから見えないところまで行くと、木陰にしゃがみ込んで頭をかかえた。

「えと、えと、えと……」

 もしかしてこれってとんでもないことに気づいてしまったのでは?

 要するにあの晩、王女様が誰か別な人と間違いを犯してしまって、それを知ったロムルースが必死に彼女をかばっているのだとしたら?

 ………………

 …………

 ……

《いやいやいや、さすがにいかなロムルース様でもそんなことは……》

 いくら何でも国長なのだぞ? 王女様の完全無欠のチョンボと言う以外にあり得ないのに、そんなのを身を呈してかばうとか、そんなこと―――するかな? しないかな? あのお方だったらそうしてもおかしくない?

 それに―――さっきの様子も何だか早急な幕引きをしようとしてるようにも?

 ………………

《いやいやいや……》

 だが―――考えてみれば妊娠というのは四ヶ月にもなるまで気づかないものなのだろうか? むしろ本人はもっと前に気づいていて……

 ………………

 …………

 ……

《あは! ないよね? んなわけないよね? そんなのあたしの思いすごしよね?》

 そんなことになったら大スキャンダルどころではないのでは? そもそも生まれる御子はベラ首長の御子でもあって、それはそれでややこしいのだが、それが実は全然違っていたなんてことになれば……

《えっと……こういう場合一体どうしたら……》

 ………………

 …………

 ……


 うん。そんなことはない。ないはずだ。ないことにしーようっ!


 ―――で、済ませられれば一番いいのだが……

《ともかく確認だけは必要よね?》

 いわゆる後顧の憂いを断つという意味でも、その可能性はないということを示しておかねば……

 でも―――どうやって⁉



 というわけでその日の夕方、メイはガリーナと一緒に離宮の奥にある木立の中を、人目を避けるように歩いていた。

「えっと、それでどちらまで?」

 ガリーナが少々不審そうにメイに尋ねる。

「すみません。もうちょっと人のいないところまで」

 メイがコソコソあたりを見回しながら答えると、彼女はさらに不審な表情になったが、黙ってついてきた。

 やがて二人は庭園の片隅にある東屋にやってきた。その脇にちょっとした岩場があってその上から清流が流れ下っている。

「これなら……声も聞こえないわよね……」

 メイが周囲を見ながらつぶやくと……

「……それで、たっての用向きとは?」

 ガリーナが甚だしく不審な様子で尋ねた。

「いや、実はガリーナさん。ちょっとお願いしたいことがあるんですが……」

 そう。こんな場合の協力者といえば彼女しかいなかった。

 グルナ、リモン、コルネは論外として、フィンならば力になってくれそうな気もしたが今は忙しい。だとしたら……

「お願い? ですか?」

「えっと、それでですね……」

 しかしそこまで言って急に不安になってきた。

《えっと……いいのかなあ、ガリーナさん引きずり込んじゃって……》

 確かに以前似たようなことを二人でやったことはあるのだが、あのときは一応“主命”であった。だが今回はむしろその反対なわけで……

「どうなさったのです?」

「えっと、その……」

 思わずメイがガリーナを見つめると―――なぜか彼女が赤面した。

「ど、どうしたのですか? メイ殿!」

 何やら声が裏返りぎみだが?

「ガリーナさん……その……私……」

 本当に―――いいんだろうか?

 ところがガリーナは慌てて手を振った。

「え? あの……いえ、それは私もそのような体験がないとは申しませんが、今ここでというのは……まだ風も冷たいですし……」

 ???

「あのう……何をおっしゃってるんですか?」

 ぽかんと尋ねるメイに、ガリーナが赤い顔で答えた。

「メイ殿こそ、一体ここで私と何をなさりたいのでしょうか?」

 何を? なさる?

 ………………

 …………

 ぶーっ!

「違いますって! そんなんじゃなくって!」

「は?」

「いや、ちょっとその、協力して欲しいことがあるんですよ。調査に」

「調査……ですか?」

 ガリーナは何か拍子抜けした様子だ。

「はい」

「いったい何の?」

 そこで大きくメイは深呼吸をした。こうなったらもうなるようになれだ。

「それがですねえ……」

 そして彼女はガリーナに、今抱いている疑惑を説明した。

 最初は当惑の表情だったガリーナも、ことの重大性を理解するにつれて顔から血の気が引いていく。

「……あの、それでともかく、これが私の単なる思いすごしだってことを証明しておきたいんですよ。じゃないと……」

「でも……もしそれが本当だったら?」

 ガリーナが蒼い顔で尋ねる。

「あはは! いや、まずそんなことないと思いますから。ほら、例えばですねえ、ガリーナさんは宴の警備をなされたことがあるんですよね?」

「はい。それはもちろんですが」

「あそこって外から来た人とか、すごく迷いやすいと思うんですがどうですか?」

 ガリーナはうなずいた。

「ああ、それは大抵誰か迷ってますね。見張りというのはむしろそういう人の道案内だったりしますし」

「え? じゃあ行き先まで同行するんですか?」

 彼女は首をふる。

「いえ、持ち場がありますから……お客様の場合ならそうすることもありますが、遊女だったら方角を示すだけで普通分かりますし」

 それを聞いてメイは大きくうなずいた。

「だとしたら、王女様がいきなり行ったら、うろうろと迷ってしまってもおかしくないわけですよね?」

「え? それはまあそうですね」

 ガリーナはうなずいた。

「で、その二次会なんですが、ここでは従者の方々も含めてその“歓待”を受けるんですよね?」

「はい」

「それであぶれるお客様なんていないんですよね?」

「それはもちろんです。そんな失礼なことは致しませんよ。あぶれるとしたらむしろ呼ばれた遊女の方ですね」

「ああ、じゃやっぱり多めに呼んでおくんですか?」

「はい。中には一人で複数のお相手をする方もいらっしゃいますし……それで?」

「あはは……いや、だとしたらまず、何というか相手がいなくてがっついている男性なんていないってことですよね?」

「ああ、まあ、そうでしょうね……」

「だとしたら王女様がうろうろしてても、いきなり乱暴されるなんてことはないわけですよね?」

「あー……それも、そうかもしれませんが……」

 ガリーナがうなずく。メイは語りに力を込める。

「それにですよ? 王女様が寝てたのは従業員用の小部屋だったんですよね?」

「そうです。見張りなどが仮眠をとるための部屋でしたが」

「あそこをお客様が覗くなんてことはまず考えられませんよね?」

「ああ、まあ、そうですねえ……あの通路自体、お客様は普通入りませんし……」

 通路の入り口は分かりにくくカムフラージュされていて、検分したときも言われるまで入り口が分からなかったくらいだ。

「なので王女様がうろうろ迷ってたり寝てる間に乱暴された可能性はほぼないと思っていいんですよ」

 それを聞いてガリーナはほっと安心した表情になった。

「なので王女様のおっしゃっていることが正しいとは思うんですが……でも仮にですね、違っていたら大事なので、ともかく裏だけは取っておきたいと思って……それでほら、宴の見張りをしていたのって、ガリーナさんの昔なじみだったりしません?」

 ガリーナはうなずいた。

「あ、それで私なのですね?」

「はい。もしかして迷っている王女様を見たり案内したりした人がいれば、もっと色々分かると思うんですが……」

 だがそれを聞いたガリーナは、一応うなずきはしたが何やら沈んだ表情になった。

《ん? どうしたんだろう?》

 だが彼女はすぐに顔を上げると答えた。

「分かりました。では行ってみましょうか?」

「はい。お願いします」

 こうして二人は秘密調査を開始した。