エピローグ 歴史の始まる日

エピローグ 歴史の始まる日


 開け放たれた窓から爽やかな秋風が吹き込んでくる。

 その心地よい感触を楽しみながら、メルファラはのんびりと離宮の庭園を眺めていた。

《静かね……》

 こんなにも満ち足りた気分になれたのは、いつ以来だろうか?

 思い出そうとしてみると……

《もしかして……ハネムーン以来?》

 彼女がまだメルフロウだったときにエルセティアと結婚して過ごしたハネムーン。あのときがまさにこんな気分だった気がする。

「ふふっ」

 思わず笑みがこぼれる。

《あれ以来、何をしてきたのかしら……》

 本当に何をしてきたのだろう?

「何か楽しいことが?」

 エルミーラ王女の声だ。

 あの戦いが終わって以来、王女はほとんどいつも一緒にいてくれる。

「いえ、ちょっと昔のことを……」

「そうですか」

 王女はそれ以上何も尋ねては来なかったが、代わりにつぶやくように独りごちる。

「でも……本当にのんびりできるようになりましたねえ」

「ええ」

 あのときはまさに拍子抜け、といった気分だった。

 コルヌー平原の戦いは、それその物は数千の軍同士による中規模の一戦闘だったといえるが、その価値は計り知れなかった。

 アロザール王国とは確かに未知の兵器を投入してくる厄介な相手だが、戦略・戦術ともにその運用はまさにお粗末だということが浮き彫りにされたのだ。

 例の呪いにしても、あそこでそれに頼って一気に東部に戦線拡大せずにきっちりと足下を固めておけば、そもそもこんなことになってはおらず、彼女は今ごろ間違いなくアルクスの妃だったはずだ。

 アロザールとは牙だけは鋭かったが、実は張子の虎だったのだ。

 侮ることはできないにしても、決して戦えない相手ではない―――というより水面下であれだけの駆け引きを繰り返してきたアラン王などに比べれば、むしろ与しやすい相手だったのだと……

 実際、レイモン軍がロータを押さえて睨みをきかせると、メリスの第一軍は抗いもせずに撤退していった。

『ということは、敵は第三の秘密兵器は擁していないのでしょう』

 アリオールとフィンがそう言っていた。

 もし彼らがそのような物を持っていたなら、もう少しは粘るはずだと。

 だが彼らの逃げ足が速かったのは別な理由もあった。

『あと、敵の間では永遠なる業火(マグナ・フレイム・エテルナム)の噂でもちきりで』

 メイの考案した秘密兵器は、これは白銀の都に伝わる究極魔法ということになっていたが、それが敵兵たちを恐怖で震え上がらせていたのだ。

 彼らはこれまで自分たちの秘密兵器に頼って、こちらにはそんな物が無いからと相手を舐めきっていた。

 ところがここでこちらの秘密兵器を出してこられて、かかって来るならばまさに命がけということが分かった途端に、一挙にその腰が引けてしまったのだ。

 おかげで傭兵主体の第一軍と第二軍では兵の逃亡が後を絶たず、アロザールに付いていた元レイモン兵もほとんどがこちらに“表返って”きた。

 そんな状態で戦ってもまさに勝ち目はない。彼らが撤退していったのも当然だった。

『現在第一軍はシフラの第二軍と三軍に合流しましたが、シルヴェストとサルトスの連合軍が動き出したとの報を受けると、バシリカまで退却する様子を見せています』

 先日の戦況報告会議では前線から来た兵士がそのように報告していた。

《ということは……》

 そう。アロザールの危機が本当に去りつつあるのだ。

 確かに彼らがバシリカまで撤退すれば、アロザール全軍がアキーラを攻められる体勢だとは言える。

 だが……

『秘密兵器のない奴らに、草原の戦いでわが軍が敗北するなどあり得ません』

 アリオールが胸を張って言っていた。

 実際、呪いから回復したり、アロザールから戻ってきたレイモン正規兵達が続々と増えている最中だ。

 しかもかつては全方面を敵としなければならなかったのに対して、今回はただ南一点に戦力を集中すればいい。

 数の上でも士気の上でも地の利でも、さらに戦略戦術の能力も含めて全てが相手を上回っているのだ。

『勝てるかじゃなくって、もうどうやったら負けられるのか想像も付かないですよ』

 フィンもそう言って笑っていたが……

《彼が言うのならそうなのでしょうね》

 メルファラは戦争のことはよく分からない。だが彼は都を出てから、様々なところで実戦を経験してきているのだ。そんな彼がそう言うのだ。間違いはないだろう。

「でも……あの子達がいないと本当に静かですね」

 エルミーラ王女がクスッと笑う。

「ええ……」

 いつもならば離宮はヴェーヌスベルグの娘達の歓声で溢れかえっていた。だが今日はみんな、お見合いに行ってしまって留守なのだ。マウーナと、あとサフィーナは別にしてだが……

 そう。マウーナの妊娠が発覚して、アロザールの呪いとヴェーヌスベルグの呪いが同根の物なのでは? という仮説がやにわに真実味を帯びてきた。

 そこで、ちょっと命知らずの男達を集めてみたらという話になったのだが、例の秘密兵器がまだ脅威だったときだ。そちらの対応でそれどころではなかったのだが、あの勝利によって実際にそんな男達を募集することになったのだ。

《何だかすごい数が来ていたそうですが……》

 何しろ今ベラトリキスの名を知らない者はいない。そんな彼女たちの旦那さん募集なのだから、全国から候補者が殺到して大混乱になるのは目に見えている。

 そこで年齢は三十五歳以下、戦争で身寄りを失ったもので、彼女たちと一緒に西の砂漠にまで行ける者、といった条件をつけたのだが、それでも城の中庭が一杯になるほど人が集まってしまったのだ。

《なんだかティアが張り切っていましたが……》

 彼女がこうなったら自分が面接でふるい落としてやると息巻いていたのだが……

《大丈夫なんでしょうか……》

 一抹どころでない不安がわき上がってくるのだが……

 だがここでベラトリキスの相手に選ばれなくとも、ヴェーヌスベルグには何百人もの彼女たちの仲間がいる。その中にはきっと連れ添える相手もいるだろう。

 ともかく彼女たちにとって今日は歴史的な日になるのだ。

《新しい歴史が始まる日……ですか……》

 それは彼女たちだけでなく、誰にとってもがそうだった。

 そしてそれはこの世界の東西から集まった仲間達による、奇跡的な日々の終わりが近いということでもあった。

 ヴェーヌスベルグの娘達はやがて選ばれた男達と共に西のオアシスに帰っていくことだろう。

 同様にエルミーラ王女やアウラ、メイ、リモン―――それにフィンは、東の山国に戻っていくだろう。

 ティアとアラーニャ、キール/イルドは一旦都に行ってさらに魔法の修行をするというが、アラーニャは言っていた。砂漠には自分たちのような呪われた子供達がたくさんいるから、そんな子達のためになりたいと……

 だとすれば、彼女とキール/イルドは間違いなく砂漠に戻っていくだろうが―――そのときティアはどちらに?

 だがメルファラは黙って首を振る。

 なぜなら彼女はもう気づいていたからだ―――ティアもまた彼らと共に西に行ってしまうだろうということに……

 そして彼女は……

 ………………

 …………

 ……

 なぜか胸が潰れるような切ない気持ちになってくる。

 メリスからアロザール軍が撤退したおかげで、アイフィロス王国やフォレス王国、ベラ首長国、それに白銀の都とも行き来ができるようになった。

 もう少ししたらアルバ川の東岸から敵はいなくなるはずだ。そうなればシルヴェスト王国やサルトス王国とも容易に往来が可能になる。

 そこで今回の事後処理のための会議をこのアキーラで行おうという計画が持ち上がっているのだ。

 それはまさに歴史的な会議になるだろう。

 なにしろそれまで都派とベラ派に分かれて対立していた国々の元首が皆集まって、かつての仇敵であったレイモン王国の首都で会議を行おうというのだから。

 その会議には都からカロンデュール大皇もやってくる。

 話が出たときはアリオール以下全員がその蒼々たるメンバーに息を呑んでいたが、実際にそれが実現に向けて着々と準備が進んでいるのだ。

《デュール……》

 だがそれを思うとメルファラは一人沈んだ気分だった。

 彼女は大皇后。彼の后なのだが―――いったいどんな顔をして彼と再会すればいいのだろうか?

 正直彼との結婚生活はあまり印象に残っていない。

 彼とは何度も床を共にしたはずなのに、あまり楽しかったという思い出がない。

 そしていつしか彼とは疎遠になってしまって―――ティアを妾姫にという話が出たときにはとても嬉しかったのだが、なのに彼女は姿を消してしまって……

《そして一人であんな大冒険をして、あんな仲間達と一緒に帰ってきて……》

 いや、彼女だってあの後、ちょっとだけ冒険はしたのだ。

 東の方から変わったお客がやって来て、彼女たちと過ごした日々は本当に楽しかったが……

 そして今回のこの事件。

 これはもう楽しいとか楽しくないとかではなく、ただもう毎日がめまぐるしく過ぎ去っていって―――でもこれほど充実した日々はこれまでなかったのも確かで……

《そして……それがこんなに静かになってしまって……》

 彼女だけがこの先どうしていいのか分からなかった。

 だがそのときふっと頭の隅をかすめた想いがあった。

《でも、ティアと夫婦だったとき、あんな風にできていたなら……》

 エルミーラ王女やアウラから、ちょっといけない楽しみを教わってしまったのだが、あのときこれを知っていたらどうだったのだろう?

 途端にちょっとお腹の奥がうずく。

「うふっ」

 メルファラは小さく吹き出した。

 もしあのときあんな楽しみ方を知っていたなら、ハネムーンのときは二人で部屋に籠もりっきりで、やってきたデュールにあんな姿を見られることもなかっただろう。

 そうなれば彼がメルフロウの妹姫にこだわることもなく、彼女はフィン達と共に都落ちしていたに違いない。そうなれば……

「ふふっ」

「どうしました?」

 エルミーラ王女が尋ねる。

「え? いえ……歴史とは案外簡単に変わってしまうものなのかなと思って……」

「はい?」

 王女が首をかしげる。

 そう。もしかしたら簡単なのかもしれない。

 あのときは王女の方から手を差し伸べてくれた。

 今度はこちらから手を差し出すことになるが―――前と違って今ならできそうな気がする。

 そのようなことを考えていると……


 トントン……


 ノックの音がした。

「メイですが」

「お入りなさい」

 王女が答えるとドアの開く音がして、彼女が入ってきた。

「えっと……何のご用でしょう?」

 王女は小さなため息をつくと彼女に言った。

「メイ、夕べのことなんだけど……」

「はい?」

 メイが不思議そうに首をかしげる。

「茂みでサフィーナと抱き合って何かしてたっていうんだけど……」

 メイはあっさりとうなずいた。

「あ、はい。何かいけませんでしたか?」

 聞いた王女が一瞬絶句する。

「まあ、この子、開き直ったわ……」

 メイが眉を顰める。

「だって王女様だっていつもコソコソするなっておっしゃってるじゃないですか? それに夕べはお仕事もなかったし、外が気持ちよかったから……あ、でも時と場所をわきまえろということでしたら、以後注意しますので……」

 それを聞いていたエルミーラ王女がつぶやいた。

「……もう。どうしてこんな変な子になっちゃったのかしら」

 途端にメイの目が三角になる。

《ここはいわゆる突っ込みというのをすべきなんでしょうか?》

 メルファラは悩んだ。


シルバーレイク物語 第14巻 禁じられた火遊び おわり