ベラトリキス最後の作戦 第1章 ヴェーヌスベルグ文化問題

ベラトリキス最後の作戦


第1章 ヴェーヌスベルグ文化問題


《とは言われてもなあ……》

 フィンは困惑していた。

 彼が今いるのは水月宮の小応接室の一つ、波光の間だ。ここには比較的よく出入りしていたので彼はそろそろ慣れていたが、目の前に座っている男―――カサドールはこの豪華な空間に圧倒されたと見えて、キョロキョロ落ち着きがなかった。

 この後宮はルナール王が元ウィルガ王国の建築家を招いて作らせたものだ。

 元々のレイモンは草原の小国で、このルナール王がウィルガ王国やラムルス王国を滅ぼしてあの大帝国を建設したわけだが、文化的にはウィルガの足下にも及ばなかった。

 王国の首都アキーラもまさに質実剛健といった都市で、地方になると本当にただの田舎だ。

 そんな国の下級兵士だったカサドールがこんな場所に馴染みがないのは仕方のない話だった。

 しかし彼がそわそわしていた理由はそれだけではない。

「もう彼女が何を考えているのか分からないのです。どうしたらよろしいのでしょうか?」

 カサドールはいまマウーナのお腹にいる赤ん坊の父親である。

 彼が解呪されたのはカナパという村で、フィン達が活動を開始してすぐのことだった。

 彼はそこで出会ったマウーナの美しさに完全にノックアウトされて、元気になった後にダメ元で口説いてみたという。すると何故か一発OKで、その夜納屋の中で二人で楽しんでしまったらしいが……

《いや、まだ色々と仕組みができあがる前だったしなあ……》

 それは大変にまずい行動だった。

 なにしろヴェーヌスベルグの女たちは先祖代々呪われていて、彼女たちと交わった男は死んでしまうのだ。せっかく助かった男がそれで失われてしまっては元も子もない。そこで現地の男たちと交際するのは禁止というルールになっていたのだが……

《実際マウーナって美人だからなあ……》

 彼女たちの中で美女といえばアーシャとこのマウーナが双璧といえるが、他の娘だって決して負けていない。みんな明るく健康的でそれなりにそそられるポイントがあるのだ。

 そんな彼女たちを見て若い男がどういう気持ちになるかは言うまでもない。蘇生した男たちが彼女たちに並々ならぬ興味を示していたため、エルミーラ王女が早々にもう一度、現地の男とは交際するんじゃないぞと釘を刺していたのだが―――マウーナとカサドールが関係してしまったのはその前のことであった。

 ところが何の因果か、アロザールの呪いとヴェーヌスベルグの呪いは原因が共通していたようなのだ。すなわちアロザールの呪いが効かない者に対しては、ヴェーヌスベルグの呪いも効かなかったのである。

 元々男にだけ効果があるという共通点はあったのだが、それだけを頼りに実験してみるわけにも行かない。それでこの問題に関しては後回しになっていたのだが、彼らのフライングのおかげでそれが正しかったことが証明されてしまったのだ。

《しかも男の子だっていうし……》

 子供はそろそろ六ヶ月になる。するとニフレディルならそれが男か女か見ることができるのだが、ヴェーヌスベルグの呪いは胎児にもかかってしまうので、生まれる子は娘と決まっていた。すなわち二重に正しさが示されていたのだ。

 ―――というわけで先日、彼女たちのお見合いの宴が行われた。

 何しろ大皇后の女戦士たち(ベラトリキス)と言えば、レイモンでは文字通りの“救いの女神”たちだ。そんな彼女たちと連れ添えるかもしれないチャンスだ。全土から男たちが集まってきて、その選考は大変なことになっていた。

 また彼女たちにとっても男を得ることは一族の存亡に関わる大事だ。だからこれはレイモン解放に尽力してくれた彼女たちに対する最大のご褒美だということで、両者ともに心待ちにしていたイベントだった。

 だが―――結論から言えばそのお見合いパーティーは大失敗だった。

《こればっかりはあいつの責任じゃないよなあ……》

 そのパーティーを大喜びで仕切っていたのがティアだったというのが、そこはかとない不安要素だったのだが―――それ以前に彼らはもっと熟考しておかなければならなかったのだ。ヴェーヌスベルグの娘たちとは一体どういう存在だったのか? と、いうことを……

 そのとき応接間の扉が開いてメイがワゴンを押して入ってきた。

「あ、コーヒーをお持ちしましたー」

「え? 君が?」

 フィンは少し驚いた。そんなことくらいレイモンの侍女にやらせればいいと思ったのだが……

「いやほら、これって私がお願いしたお話だし」

「ああ、まあ……」

 彼女がサフィーナとつるみ始めて以来、よく辰星宮に行ってはヴェーヌスベルグ娘たちとも交流していたので、お見合いの顛末についても彼女はよく知っていた。

 そしてカサドールやマウーナがちょっと凹んでいるから相談に乗ってくれないかと頼んできたのがメイだった。

《でも、恋愛相談とか柄じゃないんだが……》

 彼だってそういうことにあまり精通しているわけではないのだが……

 それはともかく、お見合いはティアが厳選した三十人くらいの男たちと、アーシャ、シャアラ、マジャーラ、リサーン、ハフラ、アルマーザ、アカラ、ルルーの八名で行われた。

 マウーナには既にカサドールという相手がいるし、サフィーナはメイにべったりだったから不参加だった。

 それはそうと、そもそもこの時点では誰も将来の詳細なビジョンを持っていなかった。

 みんな、男と女が出会えばカップルができるだろうし、余った男も一緒にヴェーヌスベルグに行けば相手などいくらでも見つかるだろう―――くらいにしか考えていなかったのだ。

 お見合いに参加した男たちも当然、新天地で一家を構える事になるのだと思っていた。

 ところが娘達の方はこちらの“一家”という概念がよく分かっていなかったのだ。


 ―――お見合いの会場はアキーラ城の大広間だった。

 広間の中央には立食形式の豪華な食事が並んでいて、テーブルの片側には美しく着飾ったヴェーヌスベルグ娘たちが並んでいた。

 そこに男たちが緊張した面持ちで入場してくるが、そんな彼らを彼女たちがにこやかに手を振って出迎える。

「うわー。いっぱいいるーっ!」

「すごいすごい!」

 そんな彼女たちの姿に男たちは呆然と見とれて、それから慌てたように一礼を返す。

 それからその場のホステスであるティアの挨拶が始まった。

「えーっとみなさん、今日はよくいらっしゃいました。ヴェーヌスベルグ女王、ティアと申しま~す

 もちろん彼女もここで長々と演説をぶつような野暮な真似はせずに早々に切り上げると……

「それではみんな、ゆっくりと歓談してね

 ―――こんな調子でお見合いの宴は始まった。

 まず全員がざっと自己紹介を済ませると、男達がそれぞれお好みの相手を取り囲む。

 そうなればどんなことが好きかとか、将来どんなことがしたいかという話が始まるのだが……

 娘の一人が答える。

「へえ、そうなんだ。あなたも馬の世話が得意なんだ。レイモンっていい馬が多いものねえ……で、あなたは?」

 すると尋ねられた男も意気揚々と、自分ならばもっと良い馬が育てられると力説する。

「えー? あなたもそうなの? さっきからみんな牧場仕事が得意だって言うけど、他のお仕事が得意な人は?」

 そう問われてもレイモンは馬と平原の国だ。牧場でなければ農園で農業に勤しんでいる者もいるのだが、いずれにしても男たちの仕事といえば大抵はそういうものだった。

 ところが……

「えー? そうなの? ほらそれじゃ子守が得意な人とかはいないの?」

 子守⁉

 男たちは顔を見合わせるが、娘はうなずきながら続ける。

「そうなの。あっちじゃ最近急に子供が増えすぎて、トゥフーラの人手が足りなくて大変なのよ?」

 トゥフーラというのはヴェーヌスベルグの保育園のようなものなのだが、それを聞いた男の一人が、その子の母親は何をしているのかと尋ねた。

「あ、そりゃもちろん、畑仕事したり、狩りをしたり、牛や馬を育てたり色々よ」

 彼らも既にヴェーヌスベルグが女ばかりの村だということは知らされていたから、その話には納得ができた。なので、それならばその仕事を代わってやれるがと答えると……

「えー? でもほら、シャアラみたいなのに子供の世話とか無理だし。アーシャだって不器用だから……」

 ―――といった調子で何だか話がかみ合わない。

 だがその程度のことならばじっくりと話しあえれば何とかなるだろう。

 それよりも男たちの胸の内の最大の懸案は、誰が彼女のお相手となれるかだった。

 こういう場所ではそのうちに適宜カップルができていくものだ。だが今回は明らかに男が余っている。当然全員がその栄誉に預かることはできない―――というわけで水面下で男たちは壮烈なライバル心を燃やしていた。

 もちろん最終的に選択するのは彼女たちの方だから、そうなれば潔く諦めるつもりだったのだが―――なぜかいつまで経ってもそんな雰囲気になって来ない。

 そこでついにある男が、あちらで二人で話しませんか? と誘ってみたのだが……

「えー? みんなで話してた方が楽しいじゃない

 ―――と、瞬殺されてしまったのだ。

 男たちは顔を見合わせる。これは吉兆なのか? 凶兆なのか?

 と、そのときだった。

「うわーっ! これ美味しい!」

 見ると美女が一人、テーブルの食事をぱくついている。だが彼女は紹介された娘たちの中にはいなかったのだが?―――しかしその雰囲気は間違いなくヴェーヌスベルグの娘だ。

 そして明らかなのは彼女のお腹がずいぶんと大きくなっていることだった。

「えー? マウーナ、どうしてここにいるのよ?」

「だってすごいお料理がいっぱいあるって聞いて……」

 男たちはマウーナの事情については知らされていなかったが、“羚羊(かもしか)のマウーナ”についてはよく知っていた。

「へえ、こんなにいっぱいいるんだ~

 マウーナはそんな男たちににこやかに笑いかける。

 男たちはこの場にやってくるヴェーヌスベルグの娘であれば、当然目的も同じだと考えた。来るのが遅れたのには何か事情があったのだろうと。

 そして男たちが彼女の回りにも集まった。

 彼らどうやら彼女のお腹に興味津々なのを見て、マウーナは答える。

「あは 戦ってるときに出会って~、それでちょっと~

 その答えを聞いた男たちは一瞬面食らうが、聡い者が気づく―――もしかして子供の父親はその後の戦いで戦死してしまったのでは? と……

 だが……

「え? そんなことないわよ? 彼ならピンピンしてるし」

 男たちはいっせいに首をひねった。

 もしかして本当に食事につられてやってきただけなのか? 確かにここに出てきている料理は彼らもほとんど食べたことのないような素晴らしいものばかりであったが……

「でもこんなに男の人がいっぱいいるなんて凄いわあ

 マウーナはそう言っては手近な男の体をペタペタ触り始める。

「うわあ、立派ねえ

 これはもしかして誘われているのだろうか? と、そんな彼女の振る舞いに男たちが困惑し始めたときだ。人々をかき分けるようにして男が一人近づいてきた。

「マウーナ、こんな所にいたのか?」

「あら、カサドール。どしたの?」

「どしたのじゃないっ! これは一体どういうことだ?」

 カサドールは男たちに囲まれているマウーナを見て体を震わせた。

「どういうことって?」

 マウーナはぽかんとしている。

 その様子を見てカサドールは首を振ると……

「私がその子の父親ですから」

 そう言ってマウーナのお腹を指さす。男たちの方もそういう事情ならと渋々その場を離れようとしたのだが……

「えーっ? 別にいいじゃないの。みんな一緒でも」

 マウーナがびっくりしたように言う。

「いや、だからそれじゃ困るだろ? みんなお相手を探しに来てるんだから」

「お相手って、私じゃどうしてダメなのよ?」

「は?」

 その言葉に今度はカサドールがぽかんとしてマウーナの顔を見るが……

「二人目は別なパパでもいいんじゃないの?」

 ………………

 …………

 ……

 場に沈黙が訪れた。

 男たちは目を丸くしている。

「どうしたの?」

 そこに他の娘たちがやってきた。

「いや、だから彼女が二人目は別なって……」

「あ、それは聞こえてたけど。こっちじゃ結婚したら、他の人の子供を作っちゃいけないのよね?」

 男たちはその娘がマウーナをたしなめようとしてくれていると思ったのだが……

「でもどうしてなのかしら? 前々から不思議に思ってたんだけど」

「そうそう。みんなで一緒の方が楽しいんじゃないの?」

 娘たちが口々にそのようなことを言い出したせいで、何が何だか訳の分からないことになって、結局カップルは一組もできることなく、しかもマウーナとカサドールの関係までが微妙なことになってしまったのだった―――


 カサドールがため息をつきながらつぶやく。

「どうして彼女はあんなことを言うのでしょうか?」

 あはははは!

 確かに彼女たちは通常の常識では図れなかった。

 特に彼女たちの貞操観念がこちらの標準から完全に外れているということは、フィンも何度も思い知らされていた。

《だってそれどころじゃなかったし……》

 レイモン再興という大事業の前に、そんなことはまさに大事の前の小事だった。

 確かに彼は一見、文字通りに若くピチピチな娘たちに囲まれたバラ色の生活を送っていたのだが―――毎日の“解呪”のせいで、そんな彼女たちを見ても何とも思わなくなっていたわけで……

《でか、じゃなかったらヤバかったよな……》

 アーシャを筆頭に見事な容姿のの娘たちだ。

 フィンはあまり胸の大きさにはこだわらない質だったが、その代わりになぜか完璧なプチ・アウラの娘までいたわけで……

《結局彼女とは……あはははは!》

 訳が分からない夜だったが、何かこう、きゅっと締まってて素晴らしかったことは事実だし―――じゃなくって!

 ともかくまさに極限状況の連続だった。

 そもそも二十三人でレイモンを再興しようなどというのがまず普通ならただの妄想だ。ところがそれが何とかなってしまったと思ったら、今度はあの秘密兵器騒ぎである。

 いつでも一歩踏み違えただけで軽く破滅していたのは間違いない。そんな大変な状況だったから、みんな頭が回っていなかったのだ。

 そしてティアが調子に乗って話を進めているのを少々不安には思ってはいたが、ともかく何とかなるだろうと高をくくっていたのだが……

 と、そのときだ。

「あはは。大丈夫ですよ フィンさんに任せておけば

 メイがカサドールに何やら言っている。

「そうでしょうか?」

「ええ。絶対ですから!」

 おいこら! メイ! 何でそこで変な煽りを入れてるかね? と、フィンが突っ込もうとすると……

「だってフィンさんってこっちの男の人の中じゃ、みんなと一番付き合いが長いんですよ? みんなもフィンさんのこと、慕ってるし。大丈夫ですって!」

 ………………

 いや、確かにそれはそうだった。あの呪いのせいで彼女たちと長く付き合えた男は存在しなかったのだ。唯一の例外があのキール/イルドだが……

《あははは! あいつらはやっぱノーカウントだよな?》

 彼らがこういう場合の相談相手になれるとは思えない。イルドはまさに論外だし、キールはちょっと気弱すぎる。こういう場合ハッタリでもびしっと言える方が良かったりするので……

《でもまだ半年だしなあ……》

 普通ならまだ出会ってすぐ、ぐらいの間柄なのだが―――などとフィンが躊躇していると……

「ってことで、私行きますけど、よろしくお願いしますね?」

「え? あ、ああ……」

 メイはそう言ってすたすたと行ってしまった。エルミーラ王女の秘書官として、彼女には色々とやることはあるのは分かるのだが……

《まったくもう……》

 実際、こちらの男でフィン以上に彼女たちと付き合っている者はいなかった。

 そんなわけでともかく引き受けてしまった以上、何とかしなければならないわけで……

《しかし……どうやって説明したもんかなあ……》

 ここ最近、彼女たちについて理解したことが一つあった。

「えっと……彼女たちが生まれたときから呪われてたって話は聞いてますよね?」

 カサドールはうなずいた。

「それはもちろん……本当に可哀想な話です」

 レイモン人はあのアロザールの呪いによって筆舌に尽くせぬ辛酸を舐めていた。それが生まれたときからというのだから! 彼らが深く同情したのは言うまでもない。

 だが、それがどんな状況だったとしても、人とはそれに適応してしまえるものなのだ。

 少なくとも彼女たち自身はそれが不幸だとはさらさら考えていなかった。

 しかしそのような場合には得てして、こちらとは物の考え方が甚だしく変わってしまうことがあるのだ―――すなわち、彼女たちの感覚では、セックスの相手というのは男ならば誰でも良かったのである。

 それを実感したのはサフィーナとロータに潜入したときだ。

 そこで二人は捕らえられてフィンは地下牢へ、サフィーナは司令官グルマンの部屋に連れ込まれて乱暴されそうになったのだが―――グルマンはぶち切れたサフィーナにボコボコにされて、三階の屋根から逆さ吊りにされてしまったのだった。

 そしてその後彼女が語るには、腹を立てた理由が風呂もない所でいきなり始めようとしたことで、そうでなければむしろ役得だったとか何とか……

 それを聞いたときのフィンは大立ち回りの後で、その後の地獄のフライトもあって、その話は頭の中から綺麗に吹っ飛んでいたのだが……

《いや、マジそんなことできるのか?》

 遊女でもないのに好きでもない男に身を任せるというのは―――いや、彼女たちはそれがビジネスだからであって、プライベートのときはまた別だ。

 だが二日目の夜、サフィーナは完全に本気だった。あそこで薬を盛られなかったら間違いなくあの夜は彼女とお楽しみしていたわけで……

 あのときはまだ彼女がフィンのことを好きだと信じていたので、そんな気持ちを無碍にはできないと思っていたのだが―――その後判明したのは、それはみんなの完全な誤解で、サフィーナの意中の人とはメイだったのである。

 すなわち彼女にとってはその日の晩も完全な“役得”だったのだ。

 聞けば、ヴェーヌスベルグの娘たちにとってはそれがごく当たり前だった。

《いや、考えてみたらそうなんだけど……》

 彼女たちは子孫を残すためにヤクート・マリトスという一種の“公演”を行うのだが、それで一度に入手できる男の数はわずか数名。しかも完全に相手の意思に任せられていて、彼女たちの方から男を選ぶことはないのだ。

 その上交わった相手はやがて死んでしまうという呪いのために、彼女たちにとっては男とはまさに一期一会の存在で、えり好みをして機会を逃すことなどあり得なかった。

 今でこそ呪いの効かない男たちが増えて相手を選べるようになったのだが、これまで培ってきた習慣だ。そうは簡単には変えられないわけで……

《でも、それってとんでもない尻軽にしか見えないもんな……》

 今、事情は理解できているとはいえ、まだ違和感バリバリなのだから―――そんなところをカサドールにどう説明したらいいのだろうか?

 そしてもう一つ問題を複雑にしているのが、マウーナの方もまたカサドールのことを随分気に入っているようなのである。

 彼女にとって彼がただの役得だったのならば、とっとと諦めろで話は終わっていた。

 しかもヴェーヌスベルグの女たちはこれまでずっと男親無しで子供を育ててきた。だからお腹の子の父親に対してその責任を取れなどとは言わないのだ。

 しかし……

『ん? マウーナ? うん。あれって完全にお気に入りよね。間違いなく

 仲間に聞けばみんなそんな答えが返ってくる。

 カサドールはレイモン軍の下士官なので今も郊外の駐屯地に住んでいるが、休日には二人で出かけていく姿をフィンも何度か見かけていた。とても仲睦まじい様子で、まさに恋人同士としか言いようがない。

 相思相愛なのに、そんな文化的理由で連れ添えないというのも心が痛む。というわけでこれに先だってマウーナ本人からも話は聞いていたのだが……


 ―――マウーナと話をしたのは辰星宮の彼女の部屋だった。こうやって二人で改まって向かい合っていると、フィンまで何だかドキドキしてきてしまう。

 何しろ彼女にはもしかしたら一番お世話になっているかもしれないのだから……

《あはははは!》

 レイモン解放のための解呪の日々―――当然フィンはそちらの趣味は全くないわけで、大の男をみて興奮することなどあり得ない。そこで考案されてしまったのが、最初は彼女たち相手に始めて、途中で“対象”を入れ替えてしまうという奸計だった。

 そのときの最初の相手というのがほぼ、ヴェーヌスベルグ娘で一二の美貌を誇るアーシャとこのマウーナだった。

 彼女はまさに魅惑的なお尻を持っていた。

 そんな彼女に甘い声で『ねぇ~、こちらに頂戴』などとおねだりされて、そそられない男など存在し得ないのだ。

 そしてフィンは主観的にはずっと彼女のその豊満なお尻を蹂躙し続けていた。

 目を閉じれば手のひらにはあのお尻の感触がまざまざと蘇ってきて……

「そうなの~。何かあれ以来ね、カサドール、何だかよそよそしくって……」

「ん、え?」

 フィンの頭の中にそんなピンク色の思いが渦巻いていたため、彼女の言葉を聞き逃してしまった。

「だから、あれ以来、カサドール、何だかよそよそしいのよ。どうしてかしら?」

「いや、だからほら、君も話は聞いてるだろ? こちらじゃ彼の目の前で、他の男の子供が欲しいとか言うのはあんまり良くなくってな……」

「みんなそんなこと言うんだけど、どうしてなのかしら?」

 そういうことを面と向かって尋ねられても困るのだが……

「こちらの習慣としか……だからそういう彼の気持ちも汲んでやらないと……」

「でもね、ハフラが言うのよ? こっちの本を読んでると、結婚したら男はみんな浮気するんだって」

 ぶはっ!

「どうしてかって聞いたら、やっぱり同じ人ばっかり相手にしてたら飽きてくるからじゃないかって……そうなの?」

 あの娘は―――読書姿をよく見ると思っていたら、そんな本を読んでいたのか⁈

「いや、まあその……ほら相手にもよるんだが……みんながみんなそういうわけじゃないんで……」

「そうよねえ。アウラ様みたいだったらとっても上手だからいいんだろうけど……」

 いや、だから……

「でね? カサドールに言ったのよ。そっちもあたしにばっかりサービスしなくていいから、他の子ともしてみたらって」

 ぶはっ!

「ここに気に入ったのがいなくても、ヴェーヌスベルグに行けばもっと一杯いるし、ヴェガなんかアーシャよりずっと美人よ? とか言ったら、何だかますます挙動不審になるし……嫌われちゃったのかしら?」

 あはははは! 悪魔か! こいつは!

「いや、決してそれで彼が君を嫌いになったとかそういうわけじゃなくって、そういうのには慣れてないから、こっちの人はみんな」

「そうなの?」

「ああ」

 マウーナは何だかほっとした様子だったが―――


《あはは。カサドールって真面目そうだけど、困っただろうなあ、こんなこと言われて……》

 ともかくこちらから見ている限りは二人は完全に両思いのようだが、生まれ育ちが違いすぎて、このままでは破綻してしまうのが目に見えている。

 しかしこういう場合、一番の根っこのところが重要なわけで……

「まずね、一つ信じていていいのは、彼女が君のことを好きだってことだよ」

 カサドールの表情が明るくなる。

「そうでしょうか?」

「ああ。でもほら、本当にヴェーヌスベルグってのは特殊な所だから、色々と常識が違っているんで、誤解し合うことも一杯あると思うけど、でも相手を信じていられれば解決できるんじゃないかな?」

「はい……」

 そう言いつつも、フィンだってアウラが別の男に抱かれていたりしたらぶち切れてしまうのは間違いないのだが……


 ―――彼女にはまだ懸念事項があった。

「だったらいいんだけど……でも、こっちの人ってみんな二人でやってるの?」

 そう言うマウーナは何やら自信なさげな様子だが……

「二人?」

「うん。だからカサドールが家を建てようって言うから、どんな家? って聞いたら、僕たち夫婦と子供たちの住む家だって言うんだけど……ほら、みんなで泊まってた隠れ家みたいな所みたいなんだけど……」

「ああ」

「ああいう所に二人で住むの?」

 マウーナは首をかしげる。

「え? そりゃ、子供ができるまでは……多分君の場合、まずは三人なんじゃ?」

「この子はいいのよ。それよりそんな家に二人だけって、大変なんじゃないの?」

 あの家はちょっと大きめの農家ではあったが、まあこちらからすればわりと普通の所だと思ったのだが……

「え? いや、そうでもないんじゃ? こっちじゃみんなあんなところで普通に暮らしてるし……」

「そうなの? でも里じゃみんな一緒に住んでるでしょ? そうすれば家事なんかもずっと楽になるんだけど……大体どちらかが怪我したりしたら、残り一人じゃどうしようもないじゃない?」

「え? いや、まあそうなんだけど……そういう場合は近隣の人たちが助けてくれるし」

「でもそれだったら最初っからみんなでわーって住んでた方が良くない?」

「え? ああ……」

 彼女たちの感覚にはこのような問題もあった―――


《何てか……こっちの結婚って概念がよく分かってないんだよな……》

 実際ヴェーヌスベルグでは男と女が結婚するということはあり得なかった。

 かといって女同士で結婚するかというと、時たまアルマーザとアラーニャとかメイとサフィーナのようにすごく親密なペアが生まれることもあるが、その二人で独立して家を作るようなことはない。

 彼女たちの家とは同じ男と結ばれた母親たちと、その娘たちからなるグループのことだった。

 それは少なくて七~八名、多ければ二十名近くになる大所帯で、彼女たちの日常生活はそんな仲間たちとの共同生活であった。

 娘たちは最初はトゥフーラで一律に育てられるが、やがて成長するにつれてそれぞれ得意なことを担当するようになる。

 それは古くからの伝統に従って大きく男仕事と女仕事に分かれている。

 男仕事とは例えば狩で獲物を仕留めてきたり、馬やラクダなどを飼育したり、畑で作物を育てる仕事だ。

 女仕事とは料理を作ったり裁縫をしたり、子供たちの世話をすることなどだ。

 しかしその役割は厳密に定まっているわけではなく、状況に応じて柔軟に互いの仕事を助け合っていた。

 例えば文字通り女戦士型のシャアラやマジャーラも、手が空いていれば普通に料理の下ごしらえなどを手伝っていたし、戦いで人手が必要な場合は普段は料理や裁縫を担当していたアカラやルルーが出て行くこともある。

 アルマーザに至っては器用で何でもできるので、どこに行っても彼女の姿を見かけていた。

《とにかく集団行動がスムーズなんだよな……》

 アキーラの解放作戦がうまくいった一つの大きな理由が、彼女たちのこの特性だったのは間違いない。

 あの小鳥組作戦のときもそうだったが、個人の能力がどれだけ高くとも、勝手に独断専行されたりしたら小隊としての力は全く発揮できないものだ。

 だがその点に関する心配は全くなかった。

《ハフラとかリサーンの指揮力もあるんだろうけど……》

 同じようなことはメイも言っていた。

『いやあ、みんなほんと手がかからなくって。夕食の支度とか、献立の相談に乗ってあげるくらいで、後はアカラさんとかにお任せしてたらあんなのが出てくるんですよ?』

 解放作戦中の毎日の夕食は想像以上に美味しく、日々の戦いを勝ち抜くための大きなモチベーションとなっていた。

 その理由はレイモンの協力者から良質の食材を得られたことと、メイが旅の過程で集めた各地のレシピがあったおかげだが、それを毎日二十三人分作るというのはまた話が別だ。

 彼女も最初はパミーナと二人でこの人数分の料理を毎日作らなければならないのかと戦々恐々としていたらしいが、夕食の支度の時刻になるとそれこそみんながわーっと集まってきては、主にアカラの指示の元にてきぱきと作業を進めていったのだ。

 おかげでメイは秘書官としての各種業務に集中できたし、フィンの方も現場の細かい指示を出す必要がなく、全体の戦略と解呪(笑)に腐心することができたのだ。

 このように彼女たちは集団で行動することが身に染みついていて、これまでの作戦ではそれが大いに役立ったのだが、逆に結婚して二人暮らしになるというところに大きな心理的抵抗を感じているのだった。

《どうするよ? これって……》

 このままじゃどう見てもうまくいきそうにないのだが……

「ともかくね、二人とも生まれも育ちも全く違うんだから、ゆっくり時間をかけて理解し合っていくしかないんじゃないかなあ。まだまだ時間はあるんだし……どっちにしたって帰るのは来年の春以降になるだろうし」

 これから冬になる。身重の女に厳しいマグナバリエ山脈越えなど論外だ。

「はい……」

 カサドールは曖昧にうなずく。どうやらあまり役に立っていないのは明らかだが……

《と言ってもこれ以上何と言えば?》

 そのときだった。

「リーブラ様はこちらにいらっしゃいます」

 部屋の外から侍女の声が聞こえてきて、次いで入り口からがっつりとした体格の三十過ぎの男が入ってきた。男はフィンの姿を見ると手を上げて挨拶した。

「お邪魔しますぞ。リーブラ殿」

「あ、どうぞ」

 入ってきた男はラルゴ。あの地下室にもいたアリオールの腹心で、今では大皇后一行の世話役でもある。

 彼は部屋の中を見回すとカサドールがいるのに気がついた。

「ん? おまえがどうしてここへ?」

「いえ、ちょっとリーブラ様にご相談がございまして……」

「相談?」

 ラルゴは一瞬戸惑ったような表情になったがすぐににやっと笑った。

「なるほど。マウーナ殿のことだな?」

 カサドールはあからさまに赤くなる。

「なにやら最近ケンカをしたような話を聞いたが……」

「いえ、滅相もございませんっ!」

 ラルゴはじろっとカサドールをみる。

「そうか? ならいいが……だが、もしマウーナ殿を泣かすようなことがあったら……」

 ラルゴがにたーっと笑う。

「と、とんでもございませんっ!」

 カサドールは今度は真っ青になった。

 彼がマウーナと親密な関係にあることは一般的には公開されていなかった。

 なにしろ彼女たちは文字通りにレイモンの英雄で救いの女神なのである。そんな娘に手をつけた男がいるという話になれば、国中の男女の注目の的になるのは間違いないし、よしんば捨てたなどという話になったりしたら……

《あはははははっ!》

 リアルに命はない。

 そういう意味でも彼は崖っぷちに立っているのであった。

「えっとそれで、私にご用ですか?」

 カサドールが少々可哀想になってきたので、フィンはラルゴに尋ねた。

「ああ、日程が決まったのでお知らせに来ました」

「公会議のですか?」

「はい。十一月の十五日です」

「うわ、もう一ヶ月もありませんね。忙しくなりますね」

「はい」

 コルヌー平原の戦いと白銀の都の大魔法“マグナフレイム・エテルナム”によって、アロザール軍は総崩れになった。

 それによって新生レイモン王国に差し向けられた部隊が壊滅してしまい、メリスに駐留していたアロザール第一軍が、アイフィロス軍とレイモン軍に挟撃される形になってしまったからだ。

 そうなればシフラの第二軍か第三軍を援軍に出さざるを得ないが、すると今度はシルヴェストとサルトスの連合軍が動き出して中原は大混戦になってしまうだろう。

 もしそうなっていたら間違いなくアロザールは惨敗していただろう。

 満を持して投入した秘密兵器が完膚なきまでに打ち破られ、さらには差し向けた部隊が逆に敵の秘密兵器で文字通り消え去ったのだ。

 兵士たちの士気低下は甚だしく、特に傭兵主体の第一軍と第二軍からは逃亡兵が続出していたのだ。

《あの逃げ足の速さは見事だったよな……》

 彼らは即座に第一軍をシフラまで撤退させ、さらにシルヴェストが動く素振りを見せると今度は全軍でバシリカまで退却していったのだ。

《アルデン将軍の判断かな?》

 フィンはアロザールでは帝国評議会相談役なる地位について、軍の視察を何度も行っていた。見たところ第一軍と第二軍は傭兵主体であまり練度が高くなかったが、生粋のアロザール人で構成された第三軍は士気も高く、アルデン将軍もなかなかの傑物であった。

 アロザール全軍がバシリカに集結するとなると少々やっかいなことになる。

 バシリカは元々が城塞都市で、普通のやり方ではなかなか攻略できない場所だ。

 アロザールがバシリカを攻略できたのはあの呪いのせいだ。それで普通には落ちないはずのバシリカが簡単に陥落してしまったせいで、レイモンの防衛網は一挙にガタガタになってしまったのだ。

 しかし今度は攻守が逆になる。

 バシリカはアロザールに力任せに落とされたのではないので、砦や城壁などの防衛施設そのものは無傷なのだ。だがこちら側にはもうそれを強引に突破できる秘密兵器はない。

《あれをもう一度やれってのも無理だし……》

 あの“マグナフレイム・エテルナム”のときは、ニフレディルとファシアーナが瞬間移動の魔法が使えたからこそ、何とか全員が生還できたのだ。そのタイミングはまさにぎりぎりで、次回も生還できる保証は全くないのだ。

《それであのお方の登場になるわけだが……》

 フィンは背筋がぞくっとした。

 あのお方とは―――白銀の都のカロンデュール大皇だ。

 バシリカに籠もっているアロザール軍を攻めるにはレイモン軍だけでは全く力不足だ。それにはシルヴェスト王国、サルトス王国、それにアイフィロス王国の全軍をあげて戦う必要があるだろう。

 だが直前まで敵同士でだった各国の足並みが簡単に揃うとは思えない。

 そこでその国々を束ねるために、都から大皇が直々に親征することになったのだ。

《まさに空前なんだよな……》

 この世界で白銀の都は、魔導師を派遣するという手段で間接的に各国に影響を与えていた。都の大皇が直々に戦場に出たという記録は、黎明期のほとんど伝説と化している時代を除いては絶えて無かったのだ。

 それが可能になったのはもちろんメルファラ大皇后の活躍による。

 都側としては彼女の招請を断る選択などあり得なかった。

 そもそも今回の戦乱における白銀の都の立場は大変に微妙であった。誰も表だって口にはしなかったが、彼らがアロザールを恐れて大皇后を売り渡したのでは? と多くの者が疑っていたからである。

 実際それは正しかった。白銀の都はアロザールの呪いに対抗する手段を持たず、言われるままに大皇后を渡すことで事を収めようとしていたのだから……

 だがそうなったらもはや都の面目は丸潰れだ。実際あのままでは都の権威は完全に失墜してしまったことだろう―――それはこれまでの世界秩序の完全な崩壊を意味していた。

《それがこんなことになるなんて……》

 ここでまさに誰もが想像もしていなかった大逆転―――すなわちメルファラ大皇后とその女戦士たち(ベラトリキス)によるレイモン王国の再興という大事件が起こったのだ。

 しかしそのようなことが彼女たちの力だけで成し遂げられたなどとは、誰にとっても俄かには信じがたい話だった。

《自分たちでも正直、しばらくは信じられなかったもんな……》

 ならばこの奇跡の背後には一体どのような力が働いていたのか?

 ここに都が面目を保つ唯一の手段が生まれた―――すなわちこれが“大皇の遠大な計画”であったとすることだ。大皇后が大皇の密命により相手の要求に乗ったふりをして、レイモンを解放したというシナリオにするのである。

 それはフィン達が苦し紛れにジタバタしていたら何とかなってしまった、という“事実”よりは遙かに信じやすい“物語”であった。

《ま、何かみんな微妙な顔だったけど……》

 事情を知っていたらこれは都がタダで得をしたような話なのだが―――別な言い方をすれば都には莫大な借りができてしまったということでもある。

 それ故に中原の争いに大皇が直々に出馬して連合軍の旗頭となるなど、まさに前例のない話だったのだが、それを断るという選択肢は都にはなかったのだ。

 ―――というわけで、来る十一月十五日の公会議では白銀の都、シルヴェスト王国、サルトス王国、アイフィロス王国の首脳が集まって、まずはどのようにバシリカ攻めを行うか協議することになる。

 多分そうなればアロザールは抵抗できないと思われた。

 アロザール王国は建国以来の都派の国であり、アロザール人はずっと都に高い崇敬の念を抱いているのだ。その彼らが大皇直々に“朝敵”とされてしまったら―――生粋のアロザール人たちは完全に戦意喪失してしまうことだろう。

《そうなったら第三軍までがガタガタになってしまうだろうし……》

 そんな状態で国をまとめ上げるだけの統率力が今のザルテュス王やあのアルクス王子にあるとは思えない。

 もちろん油断はできないから戦いの準備は万端に整えておかなければならないが―――これまでの戦いに比べたらもう雲泥の差といえる。

《何だかもうギリギリの戦いばっかりだったからなあ……》

 あのコルヌー平原の決戦まではずっと、負けたら即死といった戦いばかりだったのだから……

《たまにはこんな楽な戦いをさせてもらったって罰は当たらないよな?》

 フィンの脳内にそんな思いが去来するが―――と、そのときラルゴが尋ねた。

「あ、それとメイ殿はこちらにはいらっしゃいますか?」

「メイですか? 奥にいると思いますが……彼女に用が?」

 エルミーラ王女に用があるというのなら分かるが、メイを直接名指しとは?

 すると……

「いや、実は馬車が完成いたしまして。アリオール様のお約束なさった」

「え? あ!」

 フィンはうなずいた。

 そういえばアリオールがみんなに報償を与えたいと言っていた。あのような偉業に匹敵する報償はなかなか難しいのだが、メイはそれで二輪の馬車をもらうことになっていたのだ。

「それじゃ呼ばせましょう。間違いなく飛んできますよ」

 フィンが呼び鈴の紐を引くとクリンという侍女が現れた。彼女はここにずっと仕えていて最近ではもう顔なじみだ。

「はい。何でしょうか?」

 彼女は体が大きかったから最初はもっと年上かと思っていたのだが、実は十五才で侍女の中では最年少だった。

「あ、メイを呼んできてくれないか? 何でも報償の馬車ができたとかで」

「承知しましたっ」

 クリンはたたたっと奥に駆けていった。

《あはは。何だかいつも元気がいいなあ……》

 彼女たちレイモンの侍女にとっても大皇后とその女戦士たち(ベラトリキス)に仕えられるというのは大変名誉なことで、国中から希望者が殺到していた。

 だが、フィンやティアの正体とかヴェーヌスベルグの呪いなど、いろいろと表沙汰にするにはまずい話もあったので、アリオールの腹心の部下の家族から選別された口の堅い信頼できる者で構成されていた。

 そんな事情だったため彼女たちの数は意外に少なかった。

《おかげで結構みんな働いてるんだけど……》

 本当ならここにいる全員が王侯貴族並みに何もせず傅かれていても良かったのだが、そんな立場にはまさにみんな慣れていなかった。

 またここにいる連中はみんな癖が強い。メルファラの身の回りの世話はやはりパミーナでなければできないことが多いし、エルミーラ王女もリモンやメイの世話に慣れ親しんでいる。

 ヴェーヌスベルグの娘たちも同様で、何もせずゴロゴロしているというのは居心地が良くないようで、さらにはキール/イルドという少々ヤバい奴もいる。

《アルマーザなんかシアナ様の専属メイドみたいになってるし……》

 魔法使いの世話というのもまた地元の侍女たちには未知の世界だ。

《シアナ様は中でも特別だけど……》

 彼女は都では孤高の魔導師として知られていて、その私生活は秘密のヴェールに包まれていたりしたのだが―――要するに秘密にせざるを得なかっただけだった。

《でも結構気に入られてるみたいだよな?》

 最初はアラーニャの訓練を手伝うという目的だったと思うのだが、何だか今では彼女の世話の方が本業のようになっていたりする。

 そんなこんなでメルファラ大皇后とエルミーラ王女、それに某“女王様”以外はそれなりにみんな働いていたりするのだ。

 そんなことを考えながら戻ってくると、フィンは何の気なしにラルゴに尋ねた。

「えっとメイの馬車って何でしたっけ? カブとかいいましたか?」

 ラルゴはにっこり笑ってうなずいた。

「はい。マレオス工房のエクレールというカブリオレで、ご要望に従って改造も加えておりますが」

 するとそのときそれまで黙っていたカサドールが口を挟んだ。

「え? エクレール?」

 それを聞いたラルゴがにやっと笑った。

「何だ? 欲しいのか?」

「いえ、それは……でも、あははは」

「えっと……マレオス工房って高級な所なんですか?」

 フィンが尋ねるとカサドールが答えた。

「もちろん! アキーラで一番なのは間違いないです! だから私の給料などではなかなか手が出なくて……」

 そこでラルゴが尋ねる。

「ん? おまえは結構な報償を貰っていなかったか?」

 カサドールは早々に解呪された関係で、色々と目覚ましい活躍をしていたのだ。

「いえ、あれを使えば買えますが……でも彼女とのことを考えると……」

「はは。いい心がけだ」

 どうやらマウーナとの結婚資金にしようとしているようだが……

「しかしエクレールかあ……」

 カサドールはうっとりしている。

《こいつも馬車好きなのか?》

 フィンにとっては馬車というのは単なる乗り物以上でも以下でもないのだが……

 と、そのときだ。


「できたんですかーーーっ


 そんな叫び声と共にメイが本当に窓から飛び込んできたのだ。

「ああっ?」

「へ?」

 ラルゴとカサドールが思わず驚いて声を上げる。

 もちろんメイはアラーニャに抱きかかえられていて、その後ろには何故かクリンがしがみついているのだが……

《おいおい……》

 フィンはそろそろ見慣れていたが、二人が驚くのは無理もない。

 メイは部屋にフィンとカサドールの他にラルゴがいるのに気づくと慌てて居住まいを正した。

「あ、いや、アラーニャさんが近くにいたもんだから思わずお願いしちゃって……ほら、フィンさん。彼女上手になったんですよ?」

「え? あはははは!」

 あのフライトは今でも悪夢に出てくるのだが、彼女はあの後練習を重ねて今ではこの程度なら全く問題なく飛べるようになっていた。

《でも何でクリンがくっついてんるんだ?》

 思わずフィンが彼女を見ると、クリンは赤くなって……

「え? いえ、メイ様がエクレールを貰えると聞いて、私も見てみたいって言ったらじゃあ一緒に来るかって言って……」

 この子も馬車好きなのかよ?

「えっと、それでどこにあるんですか?」

 メイが尋ねる。

「中庭に持ってきていますよ」

 ラルゴがそう答えると……

「じゃあ行きましょうー!」

 そう言ってメイがアラーニャを見る。しかし……

「あの……飛ぶのは離宮の中だけってお約束なんですが……」

「うぬう……」

 魔法使いの少ないこの国でアラーニャが飛び回っていたら変に目立ちすぎるので、そういう約束になっていた。

「ははは。それでは参りましょうか」

「はいっ!」

 その様子を見てカサドールが何やらうずうずしている様子だが……

「おまえも見に来るか?」

「よろしいのですか?」

「そのくらい構わんだろう?」

「ありがとうございます!」

 カサドールが勇んで立ち上がる。

 それからメイを先頭にラルゴとカサドール、クリンがそれに続くが、座ったままのフィンにメイが尋ねた。

「フィンさん、来ないんですか?」

「え?」

 別にどうでもよかったのだが、フィンは何だかその場の雰囲気に流されてついていった。

 離宮からアキーラ城の中庭に行くためには正規のルートだと城内を経由して行くことになるのだが、ラルゴは従業員用の通用門を経由した。こちらは少々無粋だが距離は近いのだ。

 中庭に行くとそこには見事な栗毛の馬に引かれた小型の二輪馬車が鎮座していた。

 赤い漆塗りでピンクのかわいい幌が付いている。車体はなめらかなカーブで構成されていて、遠目には水滴型に見える。座席のシートはふかふかで座り心地が良さそうだ。

 フィンの目から見ても大変上等な作りであることが見て取れる。

「うわーっ、うわーっ、うわーっ!」

 メイは感激のあまりまともな言葉が出てこない。

「うわあ……エクレールにこんな幌をつけたんですか?」

 クリンの問いにラルゴが答える。

「メイ殿のたっての希望でな」

「へええ……」

 クリンも目を丸くしてその馬車を見つめている。

「いや、でもこうすると名前に似合わず可愛らしいですねえ」

「うむ」

 カサドールもラルゴも目を細めてその新車を眺めている。

「エクレールというのはどういう意味なんです?」

 フィンの問いにカサドールが答えた。

「ああ、古い言葉で稲妻を意味するそうです。その名に恥じず、速いですよ? 大会で何度も優勝してますし」

「へえ、稲妻ですか……」

 確かに可愛らしい稲妻だ。

「で、これもう乗っていいんですか?」

 メイがラルゴに尋ねるが……

「もちろん構いませんが、今からですか?」

 それを聞いたメイは頭を抱えた。

「…………う、ああっ! あれやんなきゃならなかったっ!」

 ラルゴが微笑む。

「大丈夫ですよ。こちらの車庫に入れておきますから。ご入り用になったら馬丁に言いつけてください」

「はいっ! ありがとうございますっ!」

 そんな彼らを見ながらフィンはつい思ったことを口にしてしまった。

「あー、でもこれからは寒そうですよね?」

 これって箱型の四輪馬車と違って吹きさらしなのだが―――しかし……

「そりゃ冬は寒いですよ?」

「この型はこういう物なんですが?」

「だからたくさん着ていくんです

「こっちの冬なんてフォレスに比べたら全然じゃないですかーっ?」

 と、何か残念な人を見るようなまなざしで、一斉に突っ込まれたのだった。

 草原の国レイモンは馬と馬車の国だが―――何なんだ? 最後の奴は……