第4章 彼らのアイドル
十二月の初頭、水月宮の月虹の間には珍しい客人が訪れていた。
「もう、お父様ったら本当に心配性なんだから……」
上等の便箋にしたためられた手紙を読みながらエルミーラ王女が苦笑しているが……
「何を言っているのですか? 心配しないわけがないでしょう?」
王女をたしなめているのは、地味な黒いドレスを纏った切れ長の目をした女性だ。
《いったい何歳くらいなんでしょう?》
アルマーザは不思議に思った。
一見すると三十代のようだが、その醸し出す雰囲気には独特の落ち着きがあって、もっとずっと年を重ねているようにも見える。
彼女の名はナーザ。今朝やってきたフォレスからの使節団の一人で、エルミーラ王女やアウラ、リモン、メイとは家族のようなものだったという。そこでこうして今、プライベートに再会を祝っているのだった。
そんな彼女とアルマーザ、アラーニャ、サフィーナ、パミーナが一緒にお茶をしているのは、また例によって出迎えを手伝っていたらベラトリキスの一員だからと席を勧められてしまったためだ。
しかしこの雰囲気、他人の家族団欒にいきなり同席させられているようで、結構なアウェイ感に満ち溢れているのだが……
しかしフォレス組の人たちが見せるこんな表情はなかなか新鮮だった。
《エルミーラ様のお世話役って言ってましたが……》
彼女の名前はエルミーラ王女やメイ、リモン、アウラの口から何度となく聞いたことがある。
何でも以前王女がとんでもない不祥事をしでかして勘当されかかっていた所を、彼女が取りなしてくれたおかげで事なきを得たという。それ以来ずっと面倒を見てもらっていたのだと。
いつだったか王女の口から実際に『ナーザがいなければ今の私はなかったから……』と聞いたことはよく覚えているが……
《確か王女様がさらわれたときにもアウラ様と一緒に助けに行ったんですよね?》
アウラというのは薙刀に関しては恐るべき腕前なのだが、潜入調査のようなことには全く向いていない。実際彼女も『あれってみんなナーザがやったみたいな物だし』と笑っていたが……
《うーん……わかんないですよね……》
こうやって見てもそんな凄そうにも見えないのだが―――しかし、アウラを始め王女もリモンもメイも、彼女に対して特別な尊敬を抱いているのは間違いなかった。
「ルクレティア様など、新しい知らせが来るたびに卒倒しかかっていましたよ?」
ナーザが少し眉をしかめてそう言うと……
「お母様も大げさねえ」
エルミーラ王女がしゃあしゃあと答えるが……
「何が大げさですか? こちらからしたら最初の手紙をもらったっきり、ずっと音信不通だったのですよ?」
ナーザの額に青筋が立ちそうだ。
《やっぱそれって当然ですよね?》
アルマーザでも母親が娘の心配をする気持ちはよく分かるのだが……
「あは。だってしょうがないじゃない。中原ではずっと戦争してたんだし」
王女は相変わらずだ。
まあこういう人だから自分たちを率いて行けたような気はするのだが……
「それは分かっておりますが……でも最初っからもうとんでもなかったじゃありませんか」
ナーザは大きくため息をついた。
「ま、それはそうね」
そう言って王女がアウラにニコッと微笑みかける。
「え? あ……だからフィンが来てるかなって思って……」
アウラがばつが悪そうにうなずくが……
「それって結局どういうことだったのですか? 手紙には帰ったら詳しく話すとしか書いておりませんでしたが?」
ナーザの問いに王女はああっといった表情でうなずいた。
「あ、そうだったわねえ。でもいきなりレイモンが攻めて来ちゃうんだもの。そちらの方がよっぽど重大でしょ?」
「それはそうですが……」
ナーザがじとっと王女を見る。そこで王女が答えるが……
「ま、何というか要するに、アウラがファラ様のお屋敷に押し入って、警備の兵隊とか魔導師をみんなやっつけちゃったみたいで」
「はあぁ?」
ナーザの目が丸くなった。
「あの、だからフィンが来てるかって思って……」
きまり悪そうにアウラが口を挟むが、王女はニコニコしながら続ける。
「そうしたら何でかファラ様に気に入られちゃったみたいで、それであたし達にも会いたくなったみたいなの。ファラ様、あちらでは結構寂しい生活をされてたみたいで」
ナーザが首をかしげる。
「大皇后様が?」
「そうなの。あたし達が来て凄くいい息抜きになったみたいよ?」
そう言って王女がまたアウラにニコッと笑いかける。
「え? うん……」
ナーザはじとーっとした目で二人を見るが……
「それは良いのですが……その後は何ですか? どうして貴方が大皇后様に随行してアロザールまで行かなければならなかったのですか?」
エルミーラ王女はそっぽを向いて答える。
「え? だって、ファラ様一人じゃ可哀想じゃないの。それにあのときはちょっと本気で腹が立ってたし……それにリーブラ様もいらっしゃったわけだし」
ナーザはじろっと王女を見る。
「どうして彼が裏切っていなかったと信じられたのですか?」
「それはアウラが信じてたからよ? だったら信じられるでしょ?」
ナーザはうっと言葉に詰まって……
「それはそうですが……はあ……」
また大きくため息をついた。それから首を振って言った。
「それを聞いたときは、ルクレティア様だけでなくアイザック様まで寝込んでしまわれましたよ?」
「え? あら、お父様まで?」
「当然です! もしあれがなければ、そのままお二人とも伏せってしまわれましたが!」
「あれ?」
首をかしげる王女にナーザが怒ったように答える。
「アキーラ解放のニュースですっ!」
「あ、あれね? 誰から聞いたの?」
「シルヴェストのアラン様からです! 滅びたはずのレイモンが再興し、アキーラが奪還されたと。それを成功させた立役者が何とメルファラ大皇后様で、その協力者の女戦士たちの中にあなた方の名前があったと聞かされたときは、私も仰天しましたがっ!」
「あはは。それでお父様もお母様も良くなったのかしら?」
エルミーラ王女が苦笑しながら答えると、ナーザはまたため息をつく。
「まあ、お二人ともベッドから飛び起きて参りましたが……でも秘密兵器の話を聞いてまたがっくりとなさって」
「あらまあ……」
「あげくにそれを撃退して、敵を全滅させたと聞いては、もう開いた口が塞がりませんでしたよ?」
「あれはほら、機甲馬についてはセロの戦いの後、色々研究してたじゃない? ロパスもいたし」
「そうですね……本当にあの検討をしておいて良かったと思いますが……しかし、その後の秘密兵器とはいったい何なんですか? 都には本当にそんな大魔法が伝わっていたのですか?」
「あは。あれはね、メイのお手柄なのよ?」
「え?」
ナーザが驚いてメイの顔を見る。
「いや、まあ……おかげで大変なことになりまして……」
メイが頭を掻きながらうなずいた。ナーザは信じられないという表情で彼女の顔を見つめる。
「いったい何をどうしたというの?」
「いや、ちょっと酒樽を爆発させただけなんですが……ほら、炎の魔法とかで水とかを一気に熱くしたら爆発しますよねえ?」
ナーザはうなずいた。
「ええ。まあ……で、酒樽って中身は?」
「はい。こちらのフランマという強いお酒なんですが……」
それを聞いたナーザは一瞬ぽかんとした表情になるが、次いで目が丸くなった。
「そ……それをどのくらい?」
「六樽でしたけど」
「どんな大きさの樽です?」
「ほら、酒蔵で熟成させるときの大樽で、それしか手に入らなかったんですけど」
「………………」
「いやあ、大したことないかって思ってたら、リディール様が瞬間移動してくれなかった死ぬ所でした。あはははは」
………………
…………
ナーザはしばらく口をぱくぱくさせていたが、それから大きなため息をついた。
「まったくもう……」
「で、危なすぎるからってあれは今後は禁止ということになってまして」
メイが頭を掻くが……
「そうですね……まったくもう……」
再び彼女は大きくため息をつくと、気を取り直したように続けた。
「ともかくそれで中原は混戦状態になるかもしれないとアラン様から連絡があったのですが、敵が思いのほか迅速に撤退していったと聞いて、即座にこうしてやってきたのですよ」
エルミーラ王女がうなずいた。
「ああ、そうだったの? 早いと思ってたけど、じゃあ私の手紙とは行き違いかしら?」
「手紙を出されたのですか? だったらそのようですね。私どもはラーヴルを経由して来ましたし……しかし……」
再びナーザは首を振る。
「もう、あまり心配をかけないでくださいな……」
「本当に。あはははは! でもほら、結果的にはすごく上手くいったんだし……」
ナーザはため息をつくが、次いでぎろっと王女を睨む。
「確かに今回は奇跡的に上手くいきましたが、この次があるとは思わないでくださいよ?」
静かな声なのに迫力がある。
「あはは。もちろん! さすがにもう一回やれって言われてもお断りだわ」
王女もたじたじといった様子だ。
「当然です! はあ……」
この人が心から心配しているのはまさによく分かる。あれは危ないことをしている娘をオロオロしながら見ている母親の表情だが―――アルマーザ達が出てくるときの母親達の顔があんな感じだったが……
《あはは。早く帰って元気な顔を見せてやらないとね……》
そんなことを思っているとメイがナーザに尋ねた。
「そういえばグルナさんとかはお元気ですか?」
ナーザがにっこりと笑う。
「ええ? もちろん。ペルルちゃんもカワイいですよ?」
「ペルルちゃん?」
メイが不思議そうな顔をするが……
「娘さんですよ。もうすぐ一歳になりますよ」
メイの目が丸くなる。
「あーっ、そうなんだ!」
「フォレスを出てから一年半ですものね」
リモンも感慨深そうにつぶやく。
それを聞いていた王女が尋ねた。
「まあ……ディーンは元気かしら?」
ナーザはまたにっこりと笑った。
「はい。もうとんでもないやんちゃで。城の中を駆けずり回ってすぐいなくなるんで、グルナもコルネも大変みたいで」
「あはー。そういえばコルネは?」
メイが尋ねると……
「あ、彼女からは手紙を預かっていますよ? メイとリモン宛てに」
そう言ってナーザはポーチから薄緑の封筒を取り出した。
「えー、どれどれ……」
メイとリモンが頭を寄せてその手紙を読み始めるが……
………………
…………
しばらくしてメイが驚愕の表情でナーザを見あげた。
「ちょと、何ですか? これってマジですか?」
「コルネが?」
リモンも同様に驚いた顔だ。
ナーザが苦笑する。
「ん、まあ、そうなんだけど……」
「いやーっ、だめーっ! それはダメでしょう?」
何やらメイが大慌てなのだが……
「いったい何が書いてあったの?」
エルミーラ王女が不思議そうに尋ねると……
「コルネの奴が、看護師になるための勉強を始めたと……」
………………
…………
……
エルミーラ王女も愕然とした表情で黙り込む。
場に謎の沈黙が訪れる。そこで思わずパミーナが……
「コルネさんってときどき名前は聞いてたけど、彼女が看護師になると何かまずいの?」
そう尋ねると、メイが青い顔で答えた。
「いや、それがもう天然のドジっ娘なんで……」
「えっ?」
「ドジっ娘看護婦ってフィクションならいいけど、リアルに存在されると恐怖でしょ?」
「あはははは」
パミーナ以下、アルマーザ達も笑うしかなかった。
そこでナーザがフォローするが……
「まあ、でも彼女なりに考えたことみたいだし。それに元はと言えばあなた方がこちらで大活躍していたのがきっかけなんだし」
「えー、でも、それはダメですよー」
そのコルネという人はそんなにヤバい人なのだろうか? まあ、確かにお薬ちょっと間違えちゃいました~。てへ とか言われたら困るのは間違いないが……
「あ、それとガリーナからの手紙もあるわよ? アウラとそれからリモンへって」
今度はナーザが二人に茶色の封筒を渡した。
「え? 本当?」
今度はアウラとリモンが頭を寄せて手紙を読み始める。
………………
…………
しばらくしてアウラが顔を上げるとにっこり笑って尋ねる。
「へー。弟子が一杯できたんだって?」
ナーザはうなずいた。
「そうなんですよ。彼女教え上手で、結構強くなってる子もいますよ」
「あはは、サフィーナもうかうかしてられないね」
「ん」
その言葉にサフィーナがうなずくと、ナーザがちょっと意外そうに尋ねた。
「彼女もお弟子さんなの?」
アウラはうなずいた。
「うん。強くなるよ」
普通はサフィーナが凄く小柄なのを見て意外に思う物なのだが……
「まあ……でも確かに……」
ナーザは素直にうなずいた。
《へえ? 見ただけで分かるんですか?》
アウラも相手が強いかどうか一目で見抜いてしまうのだが、この人もそうなのだろうか?
しかし……
「それでね、今はメイと結婚してるの」
「え?」
これには彼女も驚きを隠せなかった。
「ちょと! 結婚じゃなくって……」
慌ててメイが口を挟むが……
「んじゃ何なの?」
と、ストレートに聞かれるとメイも口ごもる。
「何なのと言われましても……」
目を丸くしているナーザにエルミーラ王女が言った。
「まあこの子もいろいろと死線をくぐり抜けて来たりしたんで、ちょっとばかり変な子になっちゃったんだけど……」
メイが三角の目で王女を睨むが……
「でもそんじょそこらの男より頼りになるわよ?」
王女がニコッと笑いかけると、サフィーナとそしてメイも赤くなる。
「まあ、そうだったの……」
何やらナーザはそれで納得したらしい。
メイは何やら言いたげな表情だが―――そんな彼女たちを見ていたアラーニャが小声でアルマーザにささやいた。
『ナーザさんってまるでみんなのお母さんみたいですね』
『あは。そうだね』
すると近くにいたアウラが言った。
「しばらく一緒に住んでたもんね。メイは別だったけど」
「まあ、そうでしたわねえ。ちょーっと意地悪なお母さんでしたけど」
王女がそう言ってにやーっと笑うが……
「まあ、そんな風に思ってらしたんですか?」
「だってそうじゃない」
エルミーラ王女がすねたような表情を見せるが……
「貴方にはそのくらいが必要だったのです」
あっさりとナーザはそう切って捨てる。
見るとリモンやメイも苦笑している。
《へえ……エルミーラ様が……》
このお方は常に落ち着いて超然としていて、まさにベラトリキスの重鎮という存在だったのだが、今の彼女はまるで子供のようだ。
確かにまだ半年ちょっとの付き合いでしかないから、まだまだ知らない側面があるのだろうが―――などとアルマーザが思っていると……
「あ、それでナーザはいつまでこちらにいるの?」
王女が尋ねるとナーザはうなずいた。
「それがあまり長くは。実はアイザック様とも相談したのですが、やはり今度のアロザールの呪いや機甲馬については、もう少し調べなければということになりまして」
王女の目が丸くなる。
「え? 一人で?」
「はい。でもあのあたりは昔、放浪していたこともありますし」
「え? そうなの?」
ナーザはうなずく。
「はい。東方に流れてくる前、一時期シーガルに滞在したこともありました。いい人が多くてとてもあんなことをしでかす国とは思えませんでしたし」
「あ、リーブラ様もそんなことを言ってたわね。生粋のアロザールの人たちはいい人だって」
ナーザはうなずいた。
「はい。小国連合ができてから、アロザールは積極的に傭兵を雇い入れて軍備を増強していきましたが、その前は本当に鄙びた良い所でした……それがどうしてああなってしまったのか私も知りたいのです」
それを聞いた王女が尋ねる。
「えっと、アロザールにフィーバスの一味がいたことは?」
ナーザはうなずいた。
「あ、それに関してはアラン様からの手紙にありました。それが分かったときはちょっとした騒ぎになっていましたが……でもフィーバスという方を知る人は、決して彼はそんな邪悪な人物ではなかったと言ってまして。そのあたりも含めて調査したいと思うのです」
王女はうなずいた。
「ああ、そうなの……分かったわ。気をつけて行ってきてね?」
「はい。もちろんです」
と、そこでアウラが彼女に言った。
「えー? それじゃすぐ行っちゃうの?」
「すぐと言っても二~三日はこちらにおりますよ?」
「えー……」
何やらアウラが残念そうな表情だが……
「どうしたのですか?」
「いや、ナーザだったらあれの後半、知ってるかと思って」
「あれ?」
「ほら、あの踊り。ベラ行ったときに教えてもらった」
聞いていたメイが尋ねる。
「もしかしてドニカとディーネで踊ってたあれですか?」
「うん。そうそう」
ナーザが思い出したようにうなずいた。
「ああ、あれの後半?……まあ、知ってはいますが?」
「あれね、いちどグリシーナで踊って、後ろがあるのを知らないで、ちょっと恥かいちゃったの」
ナーザが目を見張る。
「まあ、そんなことが……でも……」
何やら気が乗らない様子だが……
「んで、あれ、アーシャだったらどうかなって思って。ほら、戦勝祈念式典で何か出したいって言ってたじゃない」
それを聞いてエルミーラ王女がはっとした顔になる。
「アーシャさん? 確かに彼女なら……」
「その方は?」
ナーザが不思議そうに尋ねる。
「ベラトリキスの仲間の一人なんだけど、凄く踊りが上手なのよ? 彼女の踊りを見た男は思わずふらふらと付いて行っちゃうくらい」
あたりの者がクスクス笑うが、ナーザはよく飲み込めていないようだ。
「それこそ百聞は一見に如かずよ。ねえ、ちょっと呼んできてもらえないかしら?」
「はーい」
そこでアルマーザはコーラを呼び出して辰星宮に使いにやった。それから戻ってくるとナーザが彼女たちのことを尋ねている所だった。
「それにしても西から来たという方々はどういう素性なのですか? 誰に聞いても要領を得ませんし」
王女が笑って答える。
「まあ、そうよね。ヴェーヌスベルグから来たなんて言ったらびっくりする人が多いでしょうねえ」
「ヴェーヌスベルグ⁉」
ナーザの目が丸くなる。
「まあ、知ってるの?」
「噂だけは……砂漠の奥にある呪われた村だと……」
王女はうなずいた。
「そうなのよ。そこに何の因果かティア様が……リーブラ様の妹姫なんだけど、彼女が流れ着くことになって、これまた何故か彼女がそこの女王様になってしまって、それでリーブラ様がアロザールの手先になっているって聞いてぶち切れてやってきたというのが真相で」
「んな……」
ナーザの目がさらに丸くなる。
「こんなこと公にできないから、西の砂漠にある黒の女王の末裔の隠れ里から云々って話になってるんだけど……でも、彼女たち、さすらいの一族の末裔なんだって。だったらそれほど間違いじゃないでしょ?」
「ええ、まあ……」
「んで、何でかそこの呪いとアロザールの呪いが同じ根っこだったみたいで……」
またまたナーザの目が丸くなる。
「え? そうだったのですか?」
「うん。だからアロザールの呪いが解けた男なら、彼女たちと交わっても死ななくて済むの。すでにマウーナに男の子ができてるし」
「まあ……」
ナーザは目を丸くして黙り込んでいたが、しばらくして顔を上げると尋ねる。
「あの、他には何か?」
「他って、呪いに関して?」
「ええ」
「えっと……何かあったかしら?」
そこでメイが答えた。
「そういえばティア様がハフラさんとリサさんと一緒に呪われた山に行った話は?」
「ああ、そうそう。そこで深層の扉を見つけたとか」
ナーザが本気で驚愕する。
「え、え、え?」
「すごいでしょ? お父様なら大喜びよ。絶対行きたいって言い出すわ」
「全くですわ……そこで何か見つかったのですか?」
「いえ、大した物はあまり見つからなかったみたいで……綺麗なガラス瓶がたくさんと、それから文字が出るパネルとか?」
「文字が出るパネル?」
「端っこを触っていたら変な文字列とか、蛾の絵とかが出てくるのよ」
「まあ……それは今あるのですか?」
「あ、ティア様が持ってきててニフレディル様に預けたんだけど、今は都の魔法使いに見てもらってる所じゃないかしら」
「ん、まあ……」
「ナーザも見たいの?」
「え? まあ、もし良ければ、ですが……そんな深層の扉の下から拾ってきたような物ですし」
「ま、そうよね」
一同がそんな話をしていると……
「アーシャさんです」
コーラがやってきてアーシャを中に通した。
「あの、お客様がお呼びだそうで?」
いきなりの呼び出しに緊張気味だが、その姿を見てナーザは目を丸くする。
彼女は今はカジュアルなドレス姿だが、そのスタイルと身のこなしは一目で見る者を引きつけてしまうのだ。
「彼女が?」
「ええ。ヤクートダンスのプリマなのよ?」
ナーザはもう一度彼女の姿を上から下まで眺めると真剣な表情になった。
「ああ、それではその扇子を貸して頂けますか?」
「いいわよ?」
王女から扇子を受け取ると、ナーザはつっと立ち上がり、ふわっと扇子を振り上げながらくるりと回った。
それからアーシャに扇子を渡すと……
「今の、できますか?」
アーシャはちょっと首をかしげるが、言われたとおりに彼女の動作を真似た。
「これでいいですか?」
ナーザの目がまた丸くなる。
それから今度は扇子を優雅に回しながら、一~二歩歩いて今度は片足立ちでピタリと静止する。
「これは?」
「はい」
アーシャもまたその真似をする。
《アーシャはこういうのって得意ですもんね……》
小さい頃から彼女はその才能は秀でていたわけだが……
ナーザはさらにいくつかの振りをして見せては、アーシャがそれを再現していった。
「まあ……」
ナーザは本気で驚いているようだ。
それから扇子を王女に返すと、今度はリモンに尋ねた。
「薙刀はあるかしら?」
「あ、はい」
リモンが立ち上がって彼女の薙刀を持ってきてナーザに渡すと、彼女はそれを構えてぐるりと振り返してピタリと中段に構える。
「これは?」
「え? はい……」
アーシャはまた同じようにナーザの動きを真似するが……
《あれ?》
見た目はピタリ同じに見えるが、今までのとは違って何だかちょっと受ける印象が違うような気もするが……
「ああ、やっぱり……」
ナーザが小さくつぶやいた。
「どうなの?」
王女の問いにナーザが答える。
「あの舞は大変難易度の高いもので、その本質を伝えようと思えばミュージアーナやファルシアーナといった天賦の才が必要になるのです。私がアウラに前半しか教えなかったのは、彼女には後半を舞いきることが難しかったからなのですが……」
「アーシャは?」
「彼女は逆に前半が無理でしょう」
「あー……」
王女が残念そうな声を上げるが、そこにメイが尋ねた。
「えっと、それじゃ前半をアウラ様に、後半をアーシャさんにお願いしたらどうですか?」
「え?」
ナーザが一瞬ぽかんとして、それから愕然とした表情になる。
それからアウラとナーザを交互に眺め始めた。
「二人で踊ると?」
睨みつけるようなナーザの視線に、メイは慌て気味に答える。
「えと、ほら、一人じゃできなくっても、二人ならできるかも……じゃないですか? あはっ」
………………
…………
突然の沈黙にメイが慌てて何か言おうとしたときだ。
「ちょっと考えさせてもらっていいですか?」
ナーザがエルミーラ王女に向かってそう言うと、下を向いてブツブツ言いながらあたりを歩き始めた。
《えっと……どうしたんでしょう?》
一同が顔を見合わせる中、しばらくナーザはそうやって歩き回っていたが、ふっと顔を上げると、にっこりと笑って一同にうなずいた。
「おもしろそうですし、やってみましょうか?」
エルミーラ王女の表情がぱっと明るくなる。
「え? 本当? じゃ式典まではこっちにいるのかしら?」
「まあ、そういうことになりますね」
一同がにっこりと笑う。
《へえ……確かにおもしろそうですねえ……》
何だかお花を振っているだけよりはずっと楽しい祈念式典になりそうだった。
正月が過ぎ、ついにその戦勝祈念式典の日がやってきた。
アルマーザたちはアキーラ城の大広間の一等席で今か今かと始まるのを待っていた。
前面にはあのお披露目のときのようにまたカロンデュール大皇を初め、各国の首脳が勢揃いしている。
《あちらに行ってあげられたら喜ばれたんでしょうけど……》
本来ならば前線に出向いて全兵士の前で大皇后が祝辞が述べられると良かったのだが、バシリカ攻めは北部と東部から別々に行われる。そこを大皇后一行が移動するのは危険ということで、このように各国の首脳と各軍の将軍クラスを集めての式典となっていた。
「エッタさん、遅いなあ……」
ルルーがつぶやく声が聞こえる。
確かにそれはちょっと心配だった。アルエッタは既にシフラに引っ越していたが、まだもう少しこちらでやり残したことがあるのと、あの衣装の出来映えを見るために式典に参加することになっていたのだ。
実際今アルマーザが身に纏っているのがその服なのだが……
《これ、すごく綺麗だし、着心地もいいし……》
元がヴェーヌスベルグの民族衣装だ。彼女たちにとっては一番気が休まる格好だ。アルマーザもそんな素敵な服を考えてくれたアルエッタに一言お礼を言いたいと思っていたのだが……
「アルエッタさん、来ませんねえ。雨ってひどく降ったんでしょうか?」
横でアラーニャがつぶやく。アルエッタの席は左手シルヴェスト王国のエリアに用意されているのだが、その席とその隣がまだ空席のままだ。
ちらっと聞いた話ではあちらの方で季節外れの嵐があったそうだが……
「大丈夫ですよ。アイオラさんも一緒だし」
「うん。だといいけど……」
そんな会話をしていると、朗々たるファンファーレが響き渡った。式典の始まりだ。
《あちゃー、始まっちゃいましたね……》
こうなっては後は幸運を祈るだけだ―――というように一部の人はやきもきしつつも、式典はつつがなく進行していった。
今回の式典ではアルマーザはそれほどやることがない。
大皇后の祝辞の後に彼女たちが一斉に花束を投げるというイベントはあるが、それ以外はほとんど見ているだけなのだ。なぜなら―――そのときレイモンの侍女がやってきてアウラとアーシャに何事かを囁くのが聞こえた。
二人は軽くうなずくと、立って彼女と一緒に行ってしまう。
その横顔をみながらアルマーザは思った。
《アーシャ、大丈夫みたいですねえ……》
今回の式典では大皇后の祝福の他に、ベラトリキスからの激励としてその代表二人―――アウラとアーシャの舞が披露されることになっているのだ。
この後、もう少ししてからその本番があるのだが、二人とも思ったほどには緊張していないようだ。
《怪我はもう全然大丈夫みたいですね》
実はこの舞の練習をしているときにアウラの錫杖がこめかみにヒットしてしまって、アーシャがしばらく伸びてしまうという事故があったのだ。
そのときにはアウラもナーザも大慌てで、その部分の振り付けを簡便化しようかという話も出ていたのだが、それを断ったのがアーシャだった。
《あの舞のすごさはアーシャが一番分かってるんでしょうし……》
アーシャというのは踊ることが心から好きで、だからそれに関しては妥協が大嫌いなのだ。
《ほんとに楽しそうでしたし……》
ヤクート対決のような勝負事でもなければ、彼女は踊っているときが一番幸せだった。
《それにアウラ様も凄いんですよねえ……》
ここに来るまで彼女に舞が舞えるなどとは思ってもいなかったが、その練習を見ていたら鳥肌が立った。
《確かにありゃアーシャには無理でしょうが……》
あの背筋が冷たくなるような迫力はまさに余人の追従を許さぬ物であったが―――そんなことを考えていたら、広間の扉が開いて女性が二人入ってくるのが見えた。
「あ! エッタさん、間に合ったんだ!」
ルルーが小声で叫んで二人に手を振ると、アルエッタがそれに気づいて手を振り返した。
「あ、良かったですねえ」
「うん」
アルエッタとアイオラが用意された席に着くのが見える。これで心配事は終わりである。ならば後はその本番を見るだけだ。
アルマーザが式典に注意を戻すと、レイモンの子供達が歌を歌っている所だった。
アウラとアーシャの舞を披露すると決まった関係で、急遽式典に舞台がしつらえられることになったわけだが、せっかくだからそれを有効活用しようとこんなイベントも用意されていた。
《あは。カワイいなあ……》
子供の歌声というのはいつ聞いても心が和むのだが……
《だったらアラーニャちゃんの歌も披露してあげても良かったかも……》
二人の舞が決まった際に、それだったら彼女の歌もどうかと言おうと一瞬考えたのだが、そうなればアルマーザも一緒に歌えとなることは必定で、やっぱり黙っていたのだが……
《やっぱ上がっちゃいますよね?》
うん。判断は正しかった。間違いない―――などと考えていると子供達の歌が終わり、舞台右後方に椅子と足台が持ち込まれてきた。
《いよいよですね……》
アルマーザの心臓まで高鳴ってくる。
「それではこれよりベラトリキスのアウラ様、及びアーシャ様による舞をご披露いたします」
ラルゴの声が会場に響き渡ると、まず最初に舞台の袖からリュートを携えた見目麗しい女性が入ってきた。
「伴奏は白銀の都のイーグレッタ様でございます」
会場からおおっと声が上がる。
紹介されたイーグレッタは優雅に礼をすると、椅子に座ってリュートの調弦を始めた。
これにはこんな経緯があった。
―――アーシャの舞を見てナーザは祈念式典の参加を決意したのだが、まだ懸念すべきことが残っていた。
「この二人がいれば舞の方は何とかなるかもしれませんが、伴奏がちょっと……」
「ん? ナーザ、上手じゃないの?」
アウラが首をかしげるがナーザは笑って首を振る。
「あれこそただの真似事で、かような観客の前で披露できるような代物ではございません。なのでこちらにリュートの演奏家がいたりしないでしょうか?」
そう尋ねられてもさすがに誰もが首を捻るばかりだが、そのときパミーナが顔を上げると言ったのだ。
「ああ、それではイーグレッタさんはどうでしょう?」
「え? あの大皇様の側女の?」
エルミーラ王女が首をかしげるが……
「はい。実は彼女、楽器の腕前は都中に知られておりまして、それは遊女の嗜みというよりも、名手が嗜みで遊女をしているとの評判で……」
「まあ、そうなの? だったらその方にお頼みしたら?」
と、そこでメイが言った。
「でも、大皇様のお側勤めなんですよね? 私たちのために時間を割いてもらえるんでしょうか?」
王女は一瞬考え込むが……
「だったらファラ様から大皇様にお願いしてもらえばいいんじゃないの?」
「あー、まー、でも……」
メイが何やら口ごもっているが……
「でも?」
「いや、喧嘩売りに来たんじゃないかって思われないかなーって……」
一瞬王女の目が丸くなるが―――次いでにこ~っと例の黒い笑みを浮かべる。
「うふ。ま、そのときはそのときよ」
この頃にはアルマーザも王女のそんなところがよく分かってきていた。
―――というわけでその場の一同はまず天陽宮のメルファラ大皇后の所に赴いた。
そこはしばらく住んでいただけあってアルマーザの勝手知ったる場所だ。
しかしあの頃は結構がらんとしていたのが今ではどこもかしこも都の侍女だらけだ。
もちろんエルミーラ王女やベラトリキスがぞんざいに扱われることはないのだが、むしろ慇懃すぎるところが少々居心地が悪い。
それはともかくメルファラ大皇后は自室で休んでいる所であった。
彼女は王女達の顔を見るとにっこり笑って出迎えた。
「あら? いかがなされたのです? こんなたくさんで……えっと?」
その中に一人、見知らぬ顔があるのを見て大皇后が首をかしげると、メイが答えた。
「あ、彼女がお話ししていたナーザさんです」
「ナーザと申します。お見知りおきください」
ナーザが優雅に挨拶をすると、大皇后はうなずいた。
「そうですか……えっと、それで?」
そこでエルミーラ王女がアウラとアーシャの舞の話を大皇后にすると、彼女の顔がぱっと明るくなる。
「まあ! それは素敵ですわね? では行きましょうか」
大皇后は即座に乗り気になって、先頭に立って歩き始めた。
カロンデュール大皇もそのときは休息中であったが、やってきた錚々たるメンバーを見て少々驚いた様子で一同を迎えた。
「どうしたのだ? いったい?」
大皇が不思議そうに大皇后に尋ねると、メルファラ大皇后がにっこり笑って答える。
「今日は少しお願いがあってきたのです」
「お願い? どんなだ?」
「あなたの側仕えにイーグレッタという方がいらっしゃいますね?」
途端にカロンデュール視線が泳ぐ。
「え? まあ……いることはいるが」
大皇后はにっこり笑って続ける。
「実はしばらくその方をお貸し頂けないかと、そのような相談なのですが」
カロンデュールの目が丸くなる。
「彼女を貸せ、と?」
「はい」
大皇后はにっこり笑ってうなずく。
「貸りてどうするつもりだ?」
大皇が一同の顔を見渡すが……
「それはもちろんリュートを弾いて頂きたいのですが?」
「リュートを?」
ぽかんとする大皇にエルミーラ王女が説明した。
「実は今度の祈念式典で、彼女たちの舞を披露したいのですが……」
そう言ってアウラとアーシャを示した。
「そのための伴奏者を探していたのですが、そうするとイーグレッタ様が大変お上手だという話を聞きまして、お願いできないかとこのように参上した次第でございます」
………………
何やら絶句しているカロンデュール大皇にエルミーラ王女が続ける。
「もちろんお時間を取らせて頂くのは昼間の間だけでございますが?」
カロンデュール大皇はうっといった表情になり、それから慌ててうなずいた。
「ん? まあ、そういうことなら構わんぞ?」
ちょっと乗り気ではない様子ではあるが……
《もしかして何か勘違いをされてましたか?》
何やらおどおどしていた大皇がちょっとカワイく見えてしまったのだが―――それはともかくカロンデュールのOKが出たので一同はイーグレッタの居室に向かった。
彼女の居室で出迎えたのはなかなかに可愛らしい少女だった。
《うわー……幾つなんだろう?》
どう見ても十二~三歳にしか見えないのだが……
しかし彼女はやってきた一同の顔を見て青くなった。
「あ、あの……ど、どのようなご用件でしょうかっ?」
何やら声が裏返りかかっているが……
「大皇后様からイーグレッタ様にお話があるのですが……」
先導していたパミーナがそう伝えると、彼女はさらに青くなる。
「は、はいぃ!」
そう言って奥に駆け込んでいった。
アルマーザ達は顔を見合わせるが、すぐにエルミーラ王女がぷっと小さく吹き出した。
「どうしたんですか?」
メイが尋ねると……
「いえ、もしかして何か決着でもつけに来たのと間違えられているのでは?」
………………
…………
一同は吹き出した。
確かにこのメンツでは大皇后が強面を連れて談判しに来たと思われても仕方ないのだが……
やがて相変わらず蒼白な少女が戻ってきて……
「ど、どうぞ、お入りください……」
と、一同を中に招き入れた。
部屋の中央にはイーグレッタが優雅に座っていた。
《うわあ……近くで見たら美人ですねえ……》
彼女とは公式の場で顔を合わせるだけで、こうして近くで相まみえたのはこれが初めてだ。
「よくぞいらっしゃいました。大皇后様、それにベラトリキスの皆様方。どうぞそちらにおかけになってくださいな」
言葉は丁寧だが、その表情は警戒心丸出しだ。
それを見たメルファラ大皇后がクスッと笑う。
「ご心配には及びませんよ? 別にケンカをしに来たわけではなくて、お仕事の依頼をしたいと思って参ったのですよ?」
「え?」
その言葉はかなり意外だったようだ。
「イーグレッタさんは、とてもリュートがお上手でしたね」
「ええ。まあ、少々たしなんではおりますが……」
「それを彼女たちのために弾いて頂けないかと」
そう言ってアウラとアーシャを示した。
イーグレッタは目を丸くして二人を見つめる。
「この方々が私の演奏を聴きたいと?」
メルファラ大皇后がまたクスッと笑う。
「いえ、彼女たちが踊るので伴奏をお願いしたいのです」
「踊りの伴奏を、ですか?」
イーグレッタが首をかしげる。そこでメルファラ大皇后がエルミーラ王女に尋ねた。
「何という曲でしたか?」
「シャコンヌと呼ばれている曲ですが……」
聞いていたイーグレッタは一瞬ぽかんとしていたが、次いで目がまん丸になった。
「シャコンヌを踊るって……まさかあの?」
「そうよね?」
エルミーラ王女が今度はナーザの顔を見ると、彼女ははうなずいた。
「はい。間違いなくそれ、あのミュージアーナ姫の十八番だった、古のシャコンヌでございます」
イーグレッタはあんぐりと口を開けて言葉が出てこないようだが……
《それってそんなに大層な踊りなんですか?》
アルマーザはまだ見たことがないので何ともいえないのだが、この反応を見るに何やらとんでもない代物のようでもある。
「そんなのって……」
まだ半信半疑に首を振っているイーグレッタにナーザが言った。
「確かに俄には信じがたいかもしれませんが……多分百聞は一見に如かずで、一度彼女たちの踊りを見て頂ければ納得頂けるかと」
「もちろん……拝見させて頂きますわ」
それから彼女は後ろに控えていた少女に言った。
「ラクトゥーカ! 私のリュートを」
「はいっ」
少女が隣室へ駆け込んで、大きなケースに入ったリュートをよいしょといった様子で持ってくるが―――アウラがドアの方を振り返ると……
「あー、何だかうるさいね?」
何やらそのあたりに人だかりができている様子だが……
それに気づいたイーグレッタも眉を顰めた。
そこでエルミーラ王女が言った。
「まあ、それでは水月宮でしたら静かですし、ステージもございますからそちらに参りましょうか?」
「ええ……そうですわね」
そこで一同は彼女と共に水月宮に戻って行ったのだが―――
もちろんそこでアウラとアーシャの舞を見たイーグレッタは、伴奏を快諾してくれたのだった。
《いや、でもイーグレッタさんの演奏も凄いって思うんですが……》
パミーナの言っていた評判はまさに嘘ではなかった。アルマーザは世の中にはこんな素晴らしい音楽があるのかと本気で感動してしまったくらいで……
《ヤクートのときに弾いてもらったら、もっと人が集まるのは間違い無しですよね?》
実はもうヤクート・マリトスはする必要が無くなっていたのだが、そのときはまさにそんな感想が心の底から湧いて出てきたのだった。
―――アルマーザがそんなことを思い起こしていると、ステージの上ではリュートの調弦が終わり、イーグレッタが舞台の袖の方に軽くうなずくのが見えた。
次いで長い錫杖を携えたアウラと、大きな扇子を手にしたアーシャが入ってくる。
アウラは青を基調とした、アーシャはピンク色を基調とした華やかなドレスを身に纏っていた。
《うわ……これもいいですねえ……》
この衣装はアルエッタがデザインしたドレスの制作を引き受けてくれた地元の工房で作られたものだが、そこの親方のまさに渾身の作であった。
《合わせに来たときなんか、三日寝てないとかで目が真っ赤でしたが……》
何だか頼んだこちらが申し訳ない気分になってしまうが、ともかくおかげで最高の出来映えと言うほかはない。
続いてアウラとアーシャが舞台の中央で向かい合って立った。
《さあ! 始まりますよ?》
彼女たちの練習は手が空いていたときにはずっと見ていたので、今では何がどうなるか熟知しているのだが、それでもこの瞬間には背筋がゾクゾクしてくる。
会場がしんと静まりかえる。
それからイーグレッタがボロロロン、と最初の和音を響かせた瞬間―――二人がくるりと回って、アウラは錫杖を大上段に構えアーシャの閉じていた扇子がはらりと広がる。
その瞬間、人々の心は二人に釘付けになっていた。
《完璧な出だしですよ? これって……》
最初は音楽はゆったりと進行していき、二人はお互いに掛け合いながら舞っていた。
しかしやがてその音色に険しさが加わり、速度を増していくにつれて、アウラが前面に出て激しく踊り始め、アーシャはその背景のように退いていった。
だが誰もそのことには気づいていなかった。
アウラの舞にまさに魂を掴まれていたからだ。
音楽はあたかも冬の嵐をも思わせる高速の分散和音の連続となり、それに併せてアウラが手にした錫杖を鮮やかに回転させながらダイナミックにステージ上狭しと踊り回る。
人々の目はまさに彼女に釘付けであったが、その美しさと裏腹に、何か背筋が凍るような恐怖をも感じるのであった。
アルマーザはその正体を知っていた。
《あれって、スズメ組で戦ってたときですよね……》
彼女の戦いは美しかった。
うっかり敵に迫られてしまったときだ。すっとアウラが出て行って敵兵の間で華麗に舞い踊ると、囲んでいた兵士達がバタバタと倒れていく―――そんな光景を彼女は何度も目撃していた。
同じような光景はリモンと共に戦ったときにも見ていたのだが―――彼女が容赦なく敵を血祭りに上げていくといった風なのに対して、アウラのそれは死神が密やかに相手の運命を刈り取っている、とでも形容すべきものだった。
《確かにこれはアーシャには無理ですよねえ……》
アルマーザが惚れ惚れとしながらアウラの舞を眺めていると―――そのパッセージがふっと途切れて再び冒頭のフレーズが再現される。
それに併せてアウラの動きがゆっくりになると、ついには錫杖を立てて片膝をついた。
舞は終わった―――人々はそう錯覚したが、そのときアウラの後方に朝靄の中から湧き出したかのように現れた姿があった。アーシャだ。
もちろんそれは比喩でアーシャは最初からずっとそこにいたのだが、見る者の意識の中から何故か消え去っていたのだ。
人々がそれに気づいて我が目を疑った瞬間、イーグレッタが新しい音楽を奏で始めた。
それまでの険しい、真冬の吹雪を思わせるような音色から、春の訪れを奏でるような歌が始まる。
《さあ、ここからがアーシャの出番ですよ!》
今度は人々の目はアーシャの姿に釘付けになった。
その舞はアウラのそれとはまさに何から何までが異なっていた。
アウラの舞は美しい―――だがそれは冬の吹雪のような、はたまた生きとし生ける物の逃れ得ぬ運命というような、夜空の冷たい星の輝きのごとき美しさであった。
だがアーシャの扇子がその冷え切った空間に暖かな風をもたらすと、それまでは枯れ野原のようだった舞台に一気に春の花々が咲き乱れたかのようだ。
その中を彼女は雪解けの小川のせせらぎのように、ひらひらと飛び回る蝶のように、野を駆け巡る子鹿のように―――清らかに華麗に、ときには妖しく舞い踊った。
《確かにこれはアウラ様には無理ですよねえ……》
これもまたアルマーザがよく知っていたものだ。
その振り付けは非常に洗練されたものとなっていたが―――その本質はヤクートのダンスだったのだ。
彼女たちにとってヤクートとは単なる踊りではない。
それはヴェーヌスベルグに生まれたものでなければ為し得ない、彼女たちの宿命を背負ったまさに生き残るための真剣勝負なのだ。
今度はアウラがその背景の中に消え去っていくが、また誰もそのことには気づかなかった。
人々はアーシャの舞にまさに心を奪われていた。
《さて、ここからですよ?》
舞はクライマックスに差し掛かった。
するとその音楽の中に冬の訪れを予兆するような響きが加わってきたのだ。
そのときまた人々はアウラの存在に気がついた。
彼女はそれまではアーシャの動きに影のように付き従っていたが、再び彼女が前面に現れ始めたのだ。
しかし今度はアーシャがその後ろに退いていくようなことはなく、二人はまるで競いあうように舞い始めたのだ。
あるときは夕べの語らいのように、あるときは宿命の対決のように、そしてあるときは愛に満ちあふれた恋人たちの臥所のように……
音楽がやがて最高潮となり再び冒頭の旋律が再現すると―――二人はまるで鏡のように完全にシンクロして、最後の和音が高らかに鳴り響く中、アウラは背を向けて錫杖で天を突き上げ、アーシャは膝をついて人々に向かって優雅に一礼した。
………………
…………
……
しばらくは誰も身じろぎさえしなかった。
アルマーザでさえ息をするのを忘れていた。
それから夢から覚めた誰かが思い出したように拍手を始めるが――― 一転、広間は拍手の嵐と大歓声に包まれた。
《うわー……やっぱそうですよねえ……》
絶対にこれは受けると思っていたが、実際にそうなるのはまた格別である。
と、そこでシルヴェストの席から背の高い紳士が、感極まったという様子でステージに上がってきた。
《あれ? アラン王ですか?》
王はそのままアウラとアーシャの手を取る。
「素晴らしい! 見事であったぞ! アウラ殿、それにアーシャ殿!」
その大喝采に二人も少々呆然としていたのだが、それを聞いて慌てて答える。
「あ、どうも」
「その、ありがとうございます」
それから王は演奏のイーグレッタにも語りかける。
「イーグレッタ殿も見事であった」
「お褒めにあずかり恐悦至極でございます」
イーグレッタはそう言って見事な一礼を返す。
《あちゃー……こういうのはダメですよねえ、多分》
しかしまあこれなら少々の礼儀知らずでも許してもらえるだろう―――そんなことを考えていると、アラン王が感慨深げな表情で言った。
「しかし……古のシャコンヌか……確かにこれを一人で踊り切るには、ファルシアーナやミュージアーナの才が必要であろうが、これならば確かに……いったい誰がこのようなアイデアを?」
アウラがうなずく。
「え? あ、メイが言ったの。一人でできなければ二人でやったらって」
アラン王がそれを聞いてメイの方をチラリと見ると、メイの背筋がびくんと伸びる。
「あっははは! そうか。一人でできなければ二人か……ははは。そうか……」
アラン王はそれが何やらひどく気に入ったようだ。
「しかし単に前後半を二つに分けるだけでは木に竹を接ぐような物。それをこのように見事に振り付けたのはどなただ?」
「え? ナーザだけど」
その答えに王が少し首をかしげる。
「ナーザ殿?」
アウラはうなずいた。
「うん。ミーラの先生なの。フォレスから丁度来てて」
「ほう……エルミーラ殿の? せっかくなのでご紹介頂けるか?」
「えっといいと思うけど……」
そう答えてアウラがエルミーラ王女を見ると、彼女もうなずいた。
そこでアウラが舞台の袖の方に手を振る。
「ナーザ! アラン様が会いたいって」
なにやらえーっと言うような声が聞こえるが……
「いーじゃない!」
アウラが再び手を振ると、袖から渋々といった様子でナーザが出てきた。
またあたりから拍手が湧き上がる。
それからナーザが聴衆の方を向いて一礼する。
「えっと彼女が……」
アウラがそこまで言ったときだ。
「メラ姉ちゃん⁉」
素っ頓狂な女性の声が広間に響き渡ったのだ。
一同が声の主に目をやると―――アイオラがまん丸な目で立ちあがっている。
「メラ姉ちゃんでしょ? あたしよ? アイオラ!」
それを聞いたナーザの目も丸くなる。
「アイオラちゃん?」
………………
…………
と、そこで二人は周囲の耳目を集めてしまっていることに気づいた。
それからアイオラが思わず手で口を塞ぐ。
「あ、いや、もしかして、その?」
同様にナーザも動揺の色を隠せていない。
と、そこでアラン王が尋ねた。
「アイオラ。彼女のことをメラ姉ちゃんと呼んだか?」
「え? あ、その……」
アイオラ口をぱくぱくさせている。それを見て王は振り返る。
「ということは貴方が……メラグラーナ殿か?」
「ひえっ!」
ナーザがおかしな声をあげた。
とそのとき……
「えーっ! ナーザ、メラグラーナ・フェレスだったの?」
広間にエルミーラ王女の声が響き渡る。
それから彼女はどどどっとステージの上に上がってくると……
「どーして教えてくれなかったのよ!」
「え? いえ、それは……」
ナーザがしどろもどろだ。
「えっと……メラグラーナって誰ですか?」
横に座っていたアラーニャが尋ねてくるが……
「いや、あたしもよく知りませんけど」
と、そこでメイが答えた。
「メラグラーナって、ほら、“ウィルガの大地”の副頭目だったすごい女傑なんですよ」
「ウィルガの大地ってドゥーレンさん達のことですか?」
彼らとは何度も共同して作戦を行ったので、かつてはそういう名前の反政府グループだったということは聞いていたのだが……
「うん。昔レイモンがウィルガ王国を滅ぼした後、王国復興のためできたレジスタンスが“ウィルガの大地”で、その頭目がティタニオンって人で、副頭目がメラグラーナって女の人で、その人が猫みたいにすばしっこかったから、古い言葉で猫を意味するフェレスって呼ばれてたの」
「へえぇ……」
何だか凄い人のようだ。
と、そのとき今度はレイモンの一団の中から、白髪のがっしりした老人が出てきた。
「あなたがメラグラーナ殿か?」
その姿を見たナーザが蒼白になる。
「え? まあ、確かにかつてそう名乗っていたことはございますが……」
「私はティグレ。お初にお目に……ではござらんな?」
老人の視線にナーザが小さくなっている。
「あ、はい……確かに以前何度かお目にかかったことはございますが……」
それを聞いた老人が高らかに笑う。
「ははははは! しかしそうか……貴方のようなお方だったか……あのときは覆面をされていたから、その見事な身のこなししか目に入っておらなんだが……」
それを見ていたメイがまたあわあわしている。
「あの方はどなたなんです?」
アルマーザが尋ねると……
「あ、あれはレイモンのティグレ将軍です。ガルンバ将軍の片腕も言われてて、彼がサポートしていなければレイモンの奇跡はなかったと言われるお方で……」
「へえ……」
と言われても中原の歴史には疎いので、そうですかという感想しか出てこない。
しかし壇上は何やら大変なことになりつつあった。
ティグレ将軍に続いてあちらこちらから何やら高齢の軍人っぽい人々が集まってきては、口々にナーザに話しかけようとしている。
そうやって彼女がもみくちゃにされそうになったときだ。
カコーン! とアウラが手にしていた錫杖でステージの床を思いっきり突くと……
「やめなさいよ! ナーザ、嫌がってるじゃない!」
その剣幕にあたりがしんと静まりかえる。
「えっと皆様、まだ式典の途中ですので……」
その隙に司会のラルゴが場を収めようとするが、強面の一同にぎろりと睨まれるとそれ以上は喋れなくなってしまった。
そのときだ。エルミーラ王女が何やらまた怪しげな笑みを浮かべながら言った。
「そうですね。確かに今はまだ式典の最中。この後には大皇后様のご祝辞もございますし、ナーザ……いえ、メラグラーナさんを囲む会はその後に致しませんか?」
ナーザが慌てて王女に何か言おうとするが……
「だってせっかくのアウラとアーシャの舞台が台無しよ? そのぐらいのお相手はして差し上げたら?」
ナーザがまさにぐぬぬという表情になった。
《あらまあ、エルミーラ様、何でか知りませんが大喜びですねえ……》
聞いていた老人達もにっこりと笑うと……
「承知いたし申した」
「おお、それでは期待しておりますぞ」
―――と、その場は何とか収まったのだった。
かくしてその式典ではアウラやアーシャ、それにメルファラ大皇后を差し置いて、ナーザことメラグラーナ・フェレスが、主に高齢者の間の人気をさらってしまったのだった。
その夜、ナーザと彼女を知る老人達、それにエルミーラ王女、アウラ、リモン、メイとついでにアーシャは遅くまで盛り上がっていたらしいが、アルマーザは参加しなかったので詳細は不明である。