プロローグ 静かなる夏

プロローグ 静かなる夏


 レイモン王国の首都、アキーラに再び夏がやってきた。

 水月宮から天陽宮に向かう渡り廊下は屋根があって日陰になっているのに、強い日光が庭の白砂に照り返して肌が少々ちりちりする。

 だが砂漠育ちのアルマーザたちにとってはその程度はどうということはない。山国から来た方々にはけっこう堪えているようだが……

《メイさんとか溶けかけてましたもんねー》

 昨年はこんなときには庭の池で泳ぐこともできたのだが、今年はそうもいかない。もはや貸しきりではないわけで―――そんなことを思っていると……

「なんだぁ? 誰もいないじゃないか……」

 同行していたマジャーラがつぶやいた。

「そうなんよー」

 つい最近まではこのあたりにも都の侍女がたむろしていて、アルマーザたちの姿を見れば慇懃な挨拶をしてくれたのだが、今はそんな姿もなくがらんとしている。

 だがその方が気が休まった。

《なーんか雰囲気悪かったんですよねー。妙にニコニコしているのに目が笑ってなくて……》

 ファシアーナの小間使いという役割柄ここらにはよく来ていたのだが、そうするといつもそんな視線にさらされていたのだ。

 と、マジャーラが言った。

「……にしても、たかが服を着たり脱いだりするだけなのになあ」

「いやー、まだファラ様は楽な方なんよ?」

「そうなのか?」

「うん。大皇様なんかもう五人がかりくらいで……あー、もっと多いかな?」

「はあ? 一体どうやったらそんな人手がかかるんだ?」

「それが何てか……」

 ちょっと何かもうややこしすぎてこのスペースでは説明しきれないわけで……

「ま、いっけど」

 アルマーザが天陽宮に向かっているのはメルファラ大皇后の着付けがあるからだ。

 今日の午後、都の魔道軍とレイモン軍の将官の会食があるのだが、そこに大皇と大皇后も出席する。これは国家間の重要な会合で、そうすると彼らも三番目くらいの正装をして行かなければならないのだ。

 普段ならそれはパミーナの役割なのだが、彼女はいま会場の下準備に駆り出されていた。それでアルマーザが大皇后の着付けを行うことになったのだが―――それ自身は例の“最後の作戦”で特訓したおかげで今では難なく行えるのだが……

 そんなことを考えながら天陽宮の玄関をくぐると、そこはまさに贅を尽くした空間だった。

 ふかふかの絨毯に見事な彫刻の入った大理石の柱、壁面には華麗なタペストリが飾られ、天井からはキラキラ輝くシャンデリアがいくつもぶら下がっている。

 初めて見たときにはそれはもう卒倒しそうに驚いたものだが、一年も住んでいたらさすがに見慣れた光景になっていた。

 かつてレイモン王国の後宮だったこの場所には“天陽宮”、“水月宮”、“辰星宮”という三つの大きな宮殿があるのだが、そのいずれもがここ同様に豪華できらびやかだ。そこを彼女たちはずーっと占有していたのだから……

 なので横を行くマジャーラもそんな所には無関心だった。

 代わりに彼女の目は何か別な物を探し求めていた。

「どこいるのかなあ?」

「さあ、ここも広いからねえ……あと、お城の方と行ったり来たりしてるかも」

「あー……」

「あ、でも待ってればそのうち来るでしょ」

 この場所も以前はもっとたくさんの都の侍女がたむろしていたのだが、ご覧の通り今は閑散としている。マジャーラがぼけっとしていても気にする者はいない。

 そう思って彼女を置いて行こうとしたときだ。向こうから何か大荷物を抱えてちょこちょこやってくる小柄な娘の姿が見えた。

「あ、あれじゃない?」

「あー、そうだそうだ!」

 マジャーラはその人影に向かって手を振った。

「おーい。ラクトゥーカ!」

 彼女がぴくんとして振り向くと、マジャーラの姿に目が丸くなる。それから少々慌て気味にこちらにやってくる。

「マジャーラ様。いかがなされたんですか?」

 ラクトゥーカ―――小柄でまだ幼さの残る娘が嬉しそうに話しかけてくるが、その表情にははっきりと疲労の色があった。

「いやあ、最近姿見せないからどうしてるかと思って」

「あは。すみません。ちょっと忙しくて……」

「みたいだなあ。お目通りって多いの?」

「あはは。最近はそれほどでもですが……」

「へえ。そんじゃ明日は?」

「え? 明日も予定はありませんが……でも控えてないと……」

 そう答えて彼女は目を伏せるが―――マジャーラがにやっと笑う。

「ふーん。じゃあちょっとマジャーラ様からお呼び出しをかけちゃおうか?」

 ラクトゥーカは驚いて顔を上げる。

「えっ? いいんですか?」

「たまには一息入れないと。なんかあれ以来ずっとだろ?」

「あ、まあ……でも……」

「それに水月宮のステージで思いっきり弾けるぞ?」

 それを聞いた彼女の目が輝き出す。

「あ、ありがとうございますっ!」

 ベラトリキスからのお誘いともなれば、優先順位がトップクラスになる。緊急の仕事が入らなければ、久々に彼女ものんびりと好きなことができるわけで……

《もう……優しいんだからー……》

 昨夜マジャーラに彼女がすごく忙しそうで目の下に隈が―――という話をしたら、ひどく心配して今日こうやって付いてきていたのだ。

 ラクトゥーカはそもそもイーグレッタ御付の小娘である。本来ならば彼女の世話だけをしていれば良かった。

 イーグレッタは都の“バーボ・レアル”という最高級の郭のトッププリマだ。その彼女が都の一行に同行していた理由はもちろん、大皇様の夜のお相手をするためだ。

 するとラクトゥーカも当然それに合わせて遅くまで起きていなければならない。だからあの騒ぎまではわりと午前中は寝ていることも多かったのだ。

 ところがこうやって人が減ってしまったせいで、彼女も昼の仕事を手伝わざるを得なくなってしまった。レイモンの女官ではどうしても都の習慣に不慣れだからだ。

 おかげでここしばらく彼女は明らかな睡眠不足だった。

「んじゃ今日は頑張れよ?」

「はいっ!」

 ラクトゥーカはにっこり笑って去って行く。心なしか足取りが軽い。

 その後をマジャーラがニコニコしながら見送っているが……

《あはは。本当に仲良くなっちゃいましたよねー。この二人は……》

 片や巷で猛牛(バイソン)と呼ばれる女丈夫と片や演劇と音楽好きな美少女の取り合わせだが……

《あー、でもあのちっちゃいペアよりは分かりやすいですか?……ぷふっ!》

 あの二人は一見ほのぼのとして見えるのだがその実―――などと失礼なことを思っていると……

「んじゃ。あたしはこれで」

「うん。それじゃ」

 そう答えてマジャーラを見送ると、アルマーザは大きく深呼吸してメルファラ大皇后の部屋に向かった。

 彼女がその横の控え室の扉を開けると、中には都の侍女服を身にまとった若い娘―――アヴェラナが待っていた。

 その顔にも少々疲労の色が見えるが、彼女はアルマーザに向かって大きく礼をした。


「お待ち申し上げておりました。お方様」


 そんな呼ばれ方をするといつも背中が痒くなってくるのだが―――どうしてこんなことになっていたかというと……