アルマーザのシンデレラストーリー
第1章 アルマーザ、お方様となる
まさに最悪のタイミングだった。
《でも、あそこで言わなかったらもっと大変なことになってただろうし……》
アラーニャから来た心話の内容の重大性は、さすがのアルマーザにも理解できた。そしてこの内容ならばまずはフィンやエルミーラ王女が呼び出されるのは必定である。
例の“ベラトリキス本当に最後の作戦”では両者ともピクニックに参加していることになっていた。なのであちらにまず連絡が行ったわけだが……
《いやー、じゃなきゃいきなりこっちに乱入されてましたよねえ……》
元々はフィンもピクニックに行くはずだったのが、朝、急にパミーナの具合が悪くなってしまったので、こっそり抜けて見舞いに来たという設定になっていたのだ。
それはともかく……
《せめてもう九十分くらい後だったら良かったのに……》
何とアルマーザが入っていったとき、二人はまさにこれから! という瞬間だったのだ。
《あの後……すごい目でにらまれちゃいましたもんねー……》
いいも悪いもない。話を聞いたフィンは大慌てで城に向かうしかなかった。
そしてピクニックの一行が戻ってくるまで、アルマーザはメルファラ大皇后と二人きりだったのだが……
《最初殺されるかと思いましたが……》
あの知らせをもたらした後、茫然自失から抜け出した後の大皇后の目は……
ぺこぺこ謝るアルマーザに『いえ、あなたのせいではありませんから』とは言ってくれたものの、その後全く無言で虚空をにらみつけている彼女を見ていると本気で背筋が冷たくなった。
そうこうしているうちにやっとピクニック組が帰って来てくれて、それからまたパミーナと入れ替わったりとかで色々うやむやになってくれたのは良かったのだが……
《また大変なことになってしまって……》
―――その日の夜、レイモン王国の暫定王位を継いだアリオールが関係者を集めて現状報告を行った。
そこには大皇や大皇后、魔道軍の魔導師たち、レイモンの将校や大臣たち、もちろんベラトリキスのメンバーもすべてが勢揃いしていた。
一同は誰もがみな呆然としていた。
それも当然だ。
中原の危機は去ったはずだった。
誰もが再び平穏な日々に戻れると思っていた。以前とは全く一緒とはいかないにしても……
そんな中で誰が予想していただろうか?―――シルヴェストのアラン王が裏切ってアロザールに付くなどということを?
「アラン王は一体何故、そんな暴挙をやらかしたのです⁈」
将軍の一人がアリオールに強い調子で尋ねる。
それはそこにいる者皆の素直な思いだった。
アリオールは大きくため息をついて答える。
「報告にある王の言葉は、シルヴェストとレイモンは不倶戴天の敵であり、共に轡を並べて進むことなどあり得ないとのことなのだが……」
「はあ⁉」
そんなことを言われて納得がいくはずがなかった。
《今更?……ですか⁇》
アルマーザも全く理解ができない。
何しろこの間、バシリカにいたアロザール軍をレイモン、アイフィロス、シルヴェスト、サルトス、そして都の魔道軍がそれこそ轡を並べて攻めたばかりなのだ。
《あのときはそんなこと、おくびにも出さなかったですよねえ……》
それに正月の戦勝祈念の式典のときにはむしろすごく上機嫌に見えたのだが……
ともかくアラン王がそのつもりだったのなら、どうして最初からそうしなかったかということなのだが……
「その点に関してはもう一度真意を確認するための使者を送るが……あのお方のことだ。そうと決められたからには簡単に意を覆すことなどあり得ぬだろうな」
一同が騒然とする。
彼らもまたアラン王という人物の事をよく知っていた。
かつてレイモン王国が中原全体に版図を広げたとき、敢然とそれに立ち向かい小国連合をまとめ上げて対抗した人物だ。その意志の強さは折り紙付きだ。
「なのでともかく我々はそれにどう対処していくかを考えねばならない」
一同はうなずかざるを得なかった。
それがいかに理不尽であろうとも、相手が拳を振り上げてくるのであれば、こちらも身を守らないわけにはいかないのだ。
「さて、まずは現状の敵味方の勢力だが……」
アリオールは即席で描かれたと見える、大きな中原の地図を一同に見せた。
それを見せながらアリオールはまず裏切りの経緯を説明した。
三月の攻勢でアロザール軍が撤退した後、バシリカにはシルヴェスト軍とレイモン軍が駐留していた。ところが数日前に突如アロザール軍が戻ってきて、シルヴェスト軍と共同してレイモン軍に攻撃を仕掛けたのだ。不意を突かれたレイモン軍は退却せざるを得なかった。
そしてバシリカにアロザール軍が入り、シルヴェスト軍はシフラに向かったという。
またその動きの前にサルトス軍がシフラに入っていたのだが、それが北に向かって動き始めたという話も伝わってきていた。
「少なくともサルトス軍に混乱は見られないので、サルトスもまたこの裏切りに加担していると思われる」
それを聞いてアルマーザはちらっとメイの方を見るが―――目が虚ろだ。
《しょうがありませんよねえ……あの女王様や魔法使いの人とすごく仲よさそうだったのに……》
だがともかくこれで彼女たちとは敵国同士になってしまったのだ。
もちろん今すぐどうということはないのだが……
《ってか、シフラってエッタさんやルルーもいるんですよね?》
彼女たちにとってはこれもまた大きな気がかりだ。
《まあ、ああ見えてルルーは結構しぶといから……》
彼女だけなら何とでもなりそうな気はするが、アルエッタはどうだろうか?
《でもエッタさんのお父さんって、あのドゥーレンさんですよね? アイオラさんもいるだろうし……》
だとしたらこちらも何とかなりそうな気はするが―――アルマーザたちにはそれ以上どうしようもなかった。
「そういうわけで、中原は図のように北に我が軍とアイフィロス軍、南にアロザール軍、シルヴェスト軍、サルトス軍に分かれて対峙しているという形になった。メリスとグラテスに関しては現在確認中だが、中立を維持する意向のようだ。従って移動や補給の障害になることはないだろう」
メリスおよびグラテスというのは自由都市と呼ばれて、これまではどこの国にも属さないという立場を貫いてきた。
ただ中立とは言ってもメリスは白銀の都の門前町といった位置づけで、都とは強いつながりがあって、そのため他から手が出しづらかった。
グラテスの方はシルヴェスト、アイフィロス、そしてフォレス三国の緩衝地点としてここ最近は自由都市として独立しているが、歴史的にはその三国のいずれかに支配されていた時の方が長い―――それはともかく現状としては彼らは敵ではないということだ。
アリオールが続ける。
「アロザール軍は実質第三軍だけで規模はそれほど大きくない。またシルヴェスト軍とサルトス軍も先の大戦でかなりの被害を受けている。それは我が軍やアイフィロス軍も同様だが……この程度の戦力差であれば一気に押しつぶされるようなことはないだろう」
特に草原の戦いではレイモン軍は優秀だ。小国連合が自分から打って出られなかったのは、草原では相手の土俵で戦うことになってしまうからだ。なので圧倒的な数の差がない限りは、相手から攻めるというのは無謀なのだという。
だがそれはこちらにとっても同じ事で、今の戦力ではこちらから攻めていくわけにもいかない。
結局南北の連合軍同士がにらみ合うという形にならざるを得ないらしいのだが……
「それからどうしようというのでしょうな?」
将軍の一人が尋ねる。アリオールは首を振った。
「さあな。そのまま今の状況を既成事実化しようとしているのか……」
「しかしシルヴェストは元々シフラまでは手に入れられるはずでしたが?」
「そうだな……」
四月に行われた戦後処理の会議ではシルヴェスト王国がシフラまで、サルトス王国がセイルズまで、アイフィロス王国がトルボまで拡張することが決まっていた。
レイモン王国はアルバ川の西岸、アキーラからバシリカまでに縮小することになるが……
「レイモンにバシリカを与えるのがそれほど嫌だったと?」
このまま既成事実化してもシルヴェストやサルトスにそれほどの得はないのだ。
とすればレイモンにそんな嫌がらせをするためにアラン王は裏切ったというのだろうか?
《マジですか?》
アルマーザには全くピンとこないのだが―――あたりを見回しても一同全員が首をかしげている。
と、そこで別な将軍が尋ねた。
「それはそうとシフラにいたサルトス軍の動きですが」
「ああ。アラン王の裏切りに呼応するようにシフラから北に進軍を始めたようだが……」
「トルボを攻めるつもりでしょうか?」
「形の上ではそうなるわけだが……」
アリオールはまた首をかしげる。
なぜならトルボというのはかつてのレイモン王国の最前線の要塞で、今そこをアイフィロス王国の主力部隊が守っている。
要塞の攻防戦というのはどんなに少なくとも相手の三倍以上、それ以上多ければ多い方がいいという。なのにいま北に向かっている軍勢はアイフィロス軍とどっこいどっこいの数らしいのだ。
「トルボに軍が達するのは?」
「あの規模ですと二週間以上はかかりますか」
大軍を動かすにはまた結構な時間がかかるという。
「守りを固めるには十分な時間だな」
「はい」
またよく分からないのがそのサルトス軍の動きだ。
彼らはレイモンとアイフィロスの連合軍で一番堅固なところに、そんな少数で突っかかって来ようとしているのだ。しかも奇襲をかけるというのならともかく、シフラからトルボへは平原の道で、その動きは丸見えだ。
「もしかして転進してロータを狙うつもりなのでは?」
それは可能だろうが……
「草原の戦いにそんなに急に自信がついたとでも?」
人々はまた顔を見合わせる。
サルトス兵は個人の能力の高さではつとに世に知られていた。特に機動力を封じられた森の中などでは絶対に出会いたくない相手だ。
しかし平原を突撃してくる騎馬軍団相手ではその力も発揮しようがないのだが……
とにかくこの情報は既にトルボにももたらされているはずで、彼らとてもちろん指をくわえて見ているわけがない。
「ともかくこちらもロータの守りは固める必要がある。そうすれば要請があればすぐに援軍を出すことも可能だしな」
一同はうなずいた。
今レイモンとアイフィロスが同盟しているということは、そういった作戦も可能ということだ。そんな状況でサルトス軍が単体でトルボを攻め落とすというのはほとんど無理なのでは? というのが大勢の意見であった。
「ともかく敵の動きについては各方面、注目しておかねばならない。これが陽動ということもあり得るしな」
一同はまたうなずいた。
こういった無理な仕掛けというのは得てして囮作戦だったりするものだ。
アルマーザたちの行っていたバターリアでも、誰かが正面から派手に突っ込んでいって相手がそちらに気を取られている間に敵のリーダーを暗殺―――なんて作戦はリサーンが散々やっていたからよく分かるのだが……
「なので敵に対する基本的な対処ということに関していえば、まず慌てずに足下を固めて敵の出方を見るということになる。ともかくアラン王の真の意図が全く分からない以上、下手に動かずそれを見極めることが重要だ。わかったな?」
レイモンの将校たちは一様にうなずいた。
と、ここでアリオールが大皇や魔道軍の魔導師たちの方を向いて尋ねた。
「と、以上のような状況なのですが、これに関しまして大皇様や魔道軍の皆様はいかようにお考えでしょうか?」
問われて答えたのは魔道軍の総帥、マグニ・アドラートであった。
彼は五十歳前後で少々頭が薄くはなっているが、都の魔道軍を率いる人物だけあってその存在感には並々ならぬものがあった。
「いや、アリオール殿のおっしゃるとおりだが。貴国の国防に関して我らが直接口を出せる立場ではありませぬし」
そこでアリオールが尋ねる。
「そうでございますか。それで、都の方々はこれからどうなされます?」
「え? それは……状況が変わってしまっているので、都に一旦戻って評議会にかけるしかないでしょうな」
「そうですか……そうおっしゃられるならば致し方ありませんが……」
アリオールは明らかに落胆した表情だった。
それを見ていた大皇や都の魔導師たちが首をかしげるが―――と、そのとき近くで話を聞いていたエルミーラ王女が手を上げた。
「ちょっとよろしいですか? アリオール様」
「え? はい」
アリオールがうなずいたので、王女は立ち上がるとにっこり笑って一同を見回した。
《ミーラ様、何をお話になるつもりなんですか?》
アルマーザは少々心配になったが―――王女の横に座っているメイは特に慌てている様子ではない。ということは予想も付かないことをしようとしているわけではないのだろうが……
王女は話し始めた。
「私どもが故郷から遠く離れて旅行中であることは皆様もご存じだと思いますが……」
一同はうなずいた。ベラトリキスの“暁の女王”のことを今更知らない者はいなかった。
「なのでこれから申すことは一旅行者の見た風景とでもいうものでございますが、それ故に当事者とはまた別の視点で見ることが叶うのではないかと思うのです」
人々は軽くうなずくと彼女の次の言葉を待った。
「さて、ただいまアリオール様の説明にもございましたように、現在私どもは北と南に分かれてにらみ合っている状態でございます。その戦力に関しましてはご説明の通り、相手がやや多いとはいえ、こちらも決して劣るものではございません」
王女はそこで一同を見渡した。
「しかし相手とこちらでは一つ大きな違いがあるように見えるのでございます」
あたりが小さくざわついた。
「というのは、敵のシルヴェスト、サルトス、アロザールの連合ですが、これは間違いなくアラン王を中心に結束して動いております。そしてアロザールはともかく、シルヴェストとサルトスは、イービス女王陛下がアラン王の姪にも当たるとおりに、古来より非常に親密な関係を築いているのはご存じの通りです」
聞いていた者たちの何人かがあっという表情になる。
「それに対してこちらの同盟、レイモンとアイフィロスですが、この両国はつい先日までは仇敵同士でありまして、まさに両者は水と油という関係に例えることもできましょう」
人々は理解した。確かに数の上では互角かもしれないが、それがてんでんバラバラに動いているだけではこちらに勝ち目がないことを。
「なので今ここで最も大切なことは、このレイモンとアイフィロスの同盟をいかに強固なものにするかという点にあるように思うのですが、いかがでしょうか?」
そう言って王女はカロンデュール大皇や都の魔導師たちの顔を見渡した。
話を聞いていたマグニ・アドラートが答える。
「それを私たちに?」
「はい。そのために大皇様のお力添えを頂けないかと」
王女はにっこり笑ってうなずいた。
《あー、何かそういうわけなんですね?》
何となくアルマーザは理解した。
多分レイモン王国のことであればアリオールが頼んでも問題ないだろうが、ことアイフィロス王国が絡んでくると簡単には言い出しにくい問題になるのだ。なのでここでは両者に中立な立場のエルミーラ王女の発案ということにすれば何かと角が立たないのだろう。
カロンデュールはびっくりした表情で王女を見つめた。
「私の力とはいったいどのような?」
王女はにっこりと笑った。
「いえ、なに大したことではございません。人々はこれから甚だしい不安に駆られることになりましょう。やっと戦いが終わったとほっと安心した瞬間にアラン王が牙をむいてきたのでございますから。なのでそんな人々を……特にアイフィロスの人々を、大皇様自ら激励して頂けないでしょうか?」
「私が激励を?」
「はい。ご存じの通りアイフィロスの人々は白銀の都の大皇様に対して格別の崇敬を抱いておりますれば、ご本人に励まして頂ければどれほど勇気づけられることでしょうか? そしてレイモンはかつての敵ではあるが、今はあの裏切り者に対して心を一つにして当たるべきだとおっしゃって欲しいのです」
カロンデュールの目が丸くなる―――と、そこにメルファラ大皇后が口を挟んだ。
「まあ、ということは私が同じようにレイモンの皆様を励ましてあげればよろしいのですね?」
エルミーラ王女は少し驚いたようだがうなずいた。
「大皇后様ももしよろしければ」
メルファラ大皇后はカロンデュール大皇に微笑みかける。
「だそうですよ? デュール。確かに大したことではございませんね?」
「ああ、まあそうだな」
カロンデュールは不承不承にうなずいた。
《あー、多分やっぱり帰りたかったんでしょうねえ……》
彼が中原に出てきてからずいぶんになる。山国の人たちにはこの平原の夏はかなり堪えるわけで、アキーラ解放一周年記念式典が終わればやっと都に帰れると思っていたのは間違いない。
だがアルマーザにもそれでこの同盟が瓦解してしまったら洒落にならないことはよく分かった。
《それにファラ様がここに残るって言うのなら、こっちだって残るってことだし……》
アルマーザたちにとっても予期せざる予定変更だった。
―――というわけで彼らはまだもうしばらくこの中原に残ることになった。
だが今までとは違って、再び戦争が始まろうとしている。そこでカロンデュール大皇が従者たちに、このような状況なので都に戻りたいと思う者は戻っても良いとお達しを出したところ、数多くのパミーナ曰く、お手つき狙いの侍女たちが都に引き上げてしまったのである。
《いや、何てかそこまでビビらなくてもいいんじゃないかって思うんですがねえ……》
確かにまた戦時下になってしまったとはいえ、前線は遙か彼方だ。アキーラが危険になることなどまずもってあり得ない。よしんばそんな騒ぎになったら、そのとき逃げればいいだけだ。都への道は通じているし、その気になればフォレスに向かうことだって可能だ。
アルマーザたちはそんな気分だったのだが、戦いに不慣れな都の侍女たちは違ったらしい。
残ったのは結局、ダアルの家に古くから務めている古参の侍女たちと、それになぜかイーグレッタとラクトゥーカだ。
《いや、イーグレッタさんって腹が据わってますねえ……》
それこそ真っ先に帰ってしまうかと思いきや、この旅の間は大皇様のお側に控えているという契約ですのでと眉一筋動かさななかったのだ。
《さすがにラクトゥーカちゃんは目が点になってましたが……》
でもイーグレッタが残る以上は彼女も残らねばならない。
しかしそんな彼女にマジャーラが『怖かったらあたしの後ろに隠れてな』とか言ったらえらく元気が出ていたし―――なんてのはともかく、天陽宮ががらんとしていたのはそういったわけなのであった。
そして……
「お待ち申し上げておりました。お方様」
アルマーザを出迎えた侍女はアヴェラナといって、ダアルの家に仕えていた侍女の中では一番の若手だった。とは言っても歳はアルマーザと同じだ。
「いや、そういう堅苦しい言い方やめてよ。こそばゆいから」
「え? でも……」
「だって色々教わってるのってあたしの方じゃない」
「え? でも、そんなところ見つかったら……」
彼女の歯切れが悪いのには理由があった。というのもこの場ではアルマーザが大皇后の“御側方”で、彼女は単なる“側仕え”だったからだ。
先ほどマジャーラもこぼしていたように、都の高貴なお方の世話をするにはたくさんの侍女や侍従が必要だ。
カロンデュール大皇がやって来たときに少々びっくりしたのが、あの荷物の多さだった。
それこそ衣装だけで馬車の列ができていて、天陽宮にもちゃんとしたドレッシングルームはあるのだが、そこに入りきらずに小応接室の一つが予備の衣装部屋になっていたりする。
そしてその衣装の管理専門の侍女が何人もいるのだ。
そういう侍女たちを“装束方”と呼ぶのだが、それ以外にも食事を担当する“供御方”、武具を担当する“儀仗方”、護衛担当の“近衛方”などの役割分担があり、そして自ら大皇や大皇后のお側に侍ってそれらの侍女侍従を統括管理する最高位の侍女のことを“御側方”と呼ぶのである。
例えば今日は都の魔道軍とレイモンの将校の会食が行われる。今後レイモン軍と魔道軍は緊密な連携を行っていかなければならないので、そのための大変重要な会合だ。
そこに大皇や大皇后も同席するのだが、そうすると三番目くらいに位の高い正装が求められるそうなのだ。
さて、そんな場合まず御側方の指示の元、装束方がその日にどのような服を着るかを決める。
あれだけ数があるのでそれだけでも結構大変だ。
そしてその日に着用する服の候補が決まれば、今度はそれを衣装部屋から何人もの侍女がしずしずと運んでくる。
それを広げて見せて色々と説明をしたあげく、最終的にどれを着るか選んでもらう。
実際に着てもらう段になれば、着ている服を脱がせる係や脱いだ服を畳んでしまう係がいて、新しい服を着せる係は場合によったら三人くらい必要だ。
残った服はまたきっちりと畳まれて元の衣装部屋に運ばれていく。
《あれだったら衣装部屋に行って着替えた方が絶対速いと思いますがね……》
ともかく大皇様などの高貴な御方が服をお召し替えになるだけでこの騒ぎなのだ。
それを管理する“方”の付いている役職の侍女が“お方様”と呼ばれ、その指示で動くヒラの侍女が“側仕え”と呼ばれていた。
側仕えたちは大皇や大皇后の身近で様々な仕事をこなすが、それは全てお方様の指示の元に行わなければならない。許可なくして大皇や大皇后に近づいたり話しかけたりするのは御法度なのである。
そしてカロンデュール大皇の御側方はルチーナという年配の侍女なのだが、メルファラ大皇后の御側方に当たるのがパミーナであった。
《昔からお母様のルウさんとみんなやってたって言ってましたが……》
メルファラ大皇后はその出生のおかげで、たくさんの侍女を雇ったりすることができなかった。ジークの家に財力がなかったわけではないが、その秘密を守るためには最低限の従者しか身の回りに置けなかったという。
しかしもし彼女が普通に育てられていたら、彼女の周りもそんなだっただろうとパミーナが笑いながら言っていたが……
《何か気が遠くなってきますが……》
そのパミーナは今は会場で下準備を色々手伝っている。そちらには席をどう並べて、どんな食事をどのように出すかとかいったことにまた色々とややこしい決まりがあったりするのだ。
これがメルファラ大皇后だけならもうレイモン風の作法で全く問題ないのだが、カロンデュール大皇に対しては都風でなければ礼を失する。そうすると都の習慣に詳しい彼女が手伝わざるを得ないのである。
そこで代役として大皇后の着替えをアルマーザがやることになったのだ。
彼女はこの間の“ベラトリキス本当に最後の作戦”のときに特訓したおかげで、大皇后の着替えに関しては問題なくできるようになっていた。
しかしそうすると彼女は形式上、メルファラ大皇后の“御側方”であり“装束方”でもあるということになってしまうのである。
《心底どうでもいいって思うんですけど……》
だが都の作法ではそのあたりがとても重要らしい。
そして彼女の手伝いのためにあちらで側仕えをしていたアヴェラナが派遣されてきたのだが、当然彼女は大皇后の御側方の指示の元に何もかもを行わなければならないのであった。
《彼女の方が色々よく知ってるんですけどねえ……》
正直、みんな彼女にやってもらってアルマーザがそれを手伝うという方が色々と捗りそうなのだが―――でもそれはダメらしいのだ。
それに加えてややこしいことには、そのお方様は頑張れば誰もがなれるというものでもないらしい。
というのは彼らは高貴な殿方や姫君の身近に控えてお世話することになるため、当然のことながら絶対の信頼が要求される。そのため高位の貴族では代々同じ一族が務めていることも多いという。
そうでなくともその身元はまさに厳重に調査され、少しでも疑義があるようであればその役に就くことはできないのだ。
ところがアルマーザたち、ヴェーヌスベルグの連中は全員が誰に言われるでなく、お風呂でファラ様のお背中を流して差し上げたことくらいはある。そうすると都の基準ではみんな“お方様”と呼ばれる立場になってしまうわけで……
《でもねえ……ぷふっ!》
まさに皆、そこらの田舎娘が垢抜けて見えるくらいの何処の馬の骨とも分からない娘たちなのだ。世が世なら大皇后様のお住まいに足を踏み入れることさえ憚られるレベルだ。
―――というわけで以前天陽宮にたむろしていた侍女たちの視線が冷たかった理由もお分かりであろう。
何しろ彼女たちは都では名家であったり場合によったら貴族だったりするのに、ただの側仕えにしかなれなかったのだ。側仕えは呼び出されない限りはどこかでじっと控えているしかない。
ところがメルファラ大皇后の所にはアルマーザのようなまさに礼儀知らずの野蛮な女たちがアポなしでフリーパスなのだから―――と、ここに来たら毎回こんなことが頭の中をぐるぐるしてしまうのだが、あんまり考えていたら間に合わなくなってしまう。
そこでアルマーザは仕事に入ることにした。
「えっとそれで、今日のが?」
「はい。これです」
アヴェラナが中くらいの衣装箱を指さした。
「それじゃ行きましょうか」
「はい」
アルマーザが歩き出すと、彼女が衣装箱を恭しく持ち上げて後に従った。
「ファラ様~! お待たせしましたーっ」
二人が部屋に入ると、窓際のベンチに腰を下ろしていたメルファラ大皇后がピクリと起き上がった。
「あら? もう?」
「はい。そろそろ準備を始めませんと」
「はあ……」
メルファラ大皇后は小さくため息をつく。
「あ、それじゃまず御髪を整えますね」
「ええ」
大皇后がドレッサーの前に座ると、アルマーザが彼女の髪を整え始める。
これはヴェーヌスベルグにいた頃にティアから習ったのだ。彼女がやって来たおかけで少なくとも村のみんなの髪型はとてもモダンになった。
だがこれも都から来た連中から見たらモードが少々古いらしいのだが……
《しょうがないじゃないですか。ティア様が浚われたのはもう五年も前なんだから……》
その間にあちらで時が進んでしまうのは仕方がないのである。
髪型が終われば今度はお化粧だ。大皇后はたとえスッピンでも目を見張る美しさなのだが、これにちょっと手を加えるだけで本当に絶世の美女となる。
これもパミーナから特訓を受けていたのでもはやお手の物であるが……
《うわあ……惚れ惚れとしますねえ……》
何度見てもその美しさは感動物だ。
その次にお召し物を替えて頂かねばならない。
「えっと今日お召し頂くのは……」
アルマーザはアヴェラナに目配せすると、彼女が持ってきた衣装箱の蓋を開いた。
中からは濃い青色をしたドレスが現れる。アヴェラナがそれを広げて大皇后に見せると、彼女がにっこり笑った。
「まあ、この色ね?」
「ファラ様、お好きでしょ?」
「そうね」
「あ、それではお立ち下さいな」
大皇后が言われるままに立ち上がると、両手を開いた。
アルマーザがメルファラ大皇后が着ている服を脱がせ始める。彼女は為すがままに従って、やがて下着姿になった。
それを見ていたアヴェラナが息を呑むのが分かる。
《いや、綺麗ですもんね……》
大皇后のこんな姿を見ることができるのは、まさに世界でもほんの一握りの人間だけなのだ。
《これをアラーニャちゃんの魔法で使っちゃったりしたんだけど……あは》
あれはまさに国家機密なのである。
それからアルマーザは青いドレスを受け取ると、大皇后の腕に通していく。背中のボタンを止めている間にアヴェラナが腰帯を整えて、さいごにふわっとヴェールを肩からかければ概ね終了だ。
この時期はもう暑いので色々と重ね着しなくていいのが楽である。
「いかがですか?」
彼女を鏡の前に導くと、メルファラがにっこり笑う。
「まあ、綺麗ね」
「これもフィーロ親方の作になります」
「まあ、そうなの」
フィーロ親方というのはアルエッタのデザインしたヴェーヌスベルグ風ドレスや、戦勝祈念式典でのアーシャとアウラの舞台衣装を作ってくれた人だ。元はウィルガ出身で、このアキーラでは最高の職人である。
大皇后はそもそもこちらに来る際にほとんど衣装を持ってこなかった。またアキーラ解放作戦中は地元の平民の衣装を纏っている。なので今彼女が着ている服は概ねが解放後にこちらの仕立て職人に作ってもらった服なのだ。
《何か大皇后様のお目に叶うかとずいぶんと恐縮してたみたいなんですけど……》
アルマーザたちの目から見ればどれもこれもまさに夢のような出来映えだったのだが、メルファラ大皇后は着る服にはあまりこだわりがないようで、どんな服でもこんな反応なのである。
まあ文句を言わずにニコニコ着てくれるのは手がかからなくて良かったのだが……
《あの女王様はちょっとうるさかったからですねえ……》
某女王様の場合は毎朝毎朝、今日はどんな服を着ようかと散々悩んでは時間を無駄にしていたものだが……
さてあとは装身具をどうするかだが―――と、ノックの音がした。
アルマーザが目配せするとアヴェラナが小さくうなずいてドアの方に向かう。それから戻ってくると彼女が言った。
「大皇様方がいらっしゃいましたが」
「えっ⁉ もう?」
だが確かに会食の開始はもうすぐだ。アルマーザはともかく答える。
「入って頂いていいですよ」
そこでアヴェラナが来客を招き入れると、カロンデュール大皇と共に、魔道軍の総帥、マグニ・アドラートが入ってきた。
彼は五十過ぎくらいの、ちょっと頭は薄くなっているが優しそうなおじさんで、魔道軍の総帥と言うだけあってその魔法の能力は都随一なのだという。
《あのシアナ様が一目置いてましたもんねえ……》
そんな話をしたらエルミーラ王女やメイが何やら不穏な様子になっていたのだが、何か因縁でもあるのだろうか?―――というのはともかく……
《あー? 大皇様、今日も……》
白銀の都のカロンデュール大皇は惚れ惚れするような男前なのだが、その顔にはここ最近ずっと疲労が色濃く現れていて、それは今日も相変わらずのようだ。
「あ、よくいらっしゃいましたね」
そんな二人にメルファラ大皇后が普通に挨拶するが―――二人はその姿を見て息を呑んだ。
「いかがいたしました?」
彼女がちょっと首をかしげる。
「いや……綺麗だから」
大皇がドギマギとした様子でそう答えるが……
「そうですか」
………………
場に沈黙が訪れる。
大皇后は単にニコニコしているだけで、大皇や総帥は何と言っていいか分からない様子だ。
《えっとー……》
この二人が出会うとよくこんな状況になる。
最近こうして大皇后の身の回りの世話をするようになると、必然的に大皇と出会うことも多くなってくるのだが……
《とは言ってもこちらは口出しできませんし……》
大皇后はともかく、カロンデュール大皇に対して馴れ馴れしく話しかけたりしてはいけないのだ。
と、そこで口を開いたのが魔道軍の総帥だ。
「もう少しで時間ですが、準備はいかがでしょうかな?」
「あ、後はそれをお付けになるだけですが」
そこでアヴェラナが衣装箱の中からジュエリーケースを取りだして開いてみせる。
中には目のくらむような大粒の宝石のはめ込まれたペンダントや腕輪、ティアラなどが現れる。それをみた大皇や総帥の目がまた丸くなるが……
「今日はこれ?」
メルファラ大皇后が何だか気のない様子で尋ねる。
「そうですが? お気に召しませんか?」
アルマーザは内心ちょっと焦って答えるが……
「いえ、これで結構よ」
大皇后はこういうのにもわりと無関心だ。
こんな素敵にキラキラした物を見ると女ならば誰でも背筋がゾクゾクしてきてしまうと思っていたのだが……
それはともかくその素晴らしい装身具を身につけ終わると―――そこにはまさに光の大皇后の名に恥じない女性の姿があった。
カロンデュール大皇もマグニ総帥もその姿を見てため息をつくばかりだ。
と、そこで急に大皇后が大皇に尋ねた。
「そう言えば今日の夜のご予定は?」
「え??」
カロンデュールの目が泳ぐ。
「何かあったか?」
「いえ、特には。何かご用があるのならお聞きしておきたかったので」
「いや、こちらは特に」
「そうですか」
この分では今日はイーグレッタが呼び出されることはなさそうだ―――そういう場合はもう少し挙動不審に『ちょっと小用があって……』などと答えるのが普通なので……
《あー。じゃあ明日はラクトゥーカちゃん、のんびりできそうですね》
前の晩に夜伽があれば彼女はどうかすると朝方まで寝られないこともあるらしい。
聞けば遊女というのは客の前で寝てしまったり客を置いて出て行ったりしてはいけないので、その生活は完全に昼夜逆転しているという。ところがこうやって遠征先に付いてくるような場合はそうもいかないので、お相手が眠ったら退去するのが習わしなのだそうだ。
だがそうやって戻ってきて色々と後始末をしていると寝床に入れるのは深夜になってしまう。御付の小娘はそんな彼女の世話をした後でないと寝られないのだ。
《それにしても……お疲れになってるからでしょうか?》
若い男というのはまさにそういう元気が有り余っている物なのだが―――まあ、あの辰星宮に隔離されている奴は少々例外にしても、大皇様はちょっとそういう頻度が少なめな気がしないでもないのだが……
だがこのところ大皇様は連日の公務が続いている。しかもその内容が内容だ。気疲れしてしまうのは仕方ないのだろうが……
《だったらもう少しスケジュールを考えて差し上げた方がいいんじゃ?》
もしメルファラ大皇后がそんな様子だったなら絶対そう進言するところなのだが―――そんなことを思っていると、ノックの音がした。
アヴェラナが行って扉を開けると……
「ファラ様の準備は終わったのか?」
聞き慣れた声がする。
「今終わりましたが」
「んじゃちょっと入るよ」
「あ、でも……」
そんなやり取りのあとつかつかと入ってきたのは、ファシアーナだった。
「そろそろ時間……って、あれ? 大皇様に、アドラート?」
彼女は二人に気づいて目が丸くなる。
「なんだ? 不躾に?」
総帥が彼女をじろっとにらむが……
「いや、いらっしゃってるとは思わなくて……てか、あんたまで?」
「私が護衛してきたら何か問題でも?」
「んなのあいつらに任しときゃいいじゃん。お前もそろそろ歳だろ?」
「は? 年寄り扱いするな! まだまだあんな奴らには負けんが」
「そういうのを年寄りの冷や水って言ってなあ……」
驚くことにこの二人は同期で、若い頃から切磋琢磨というか、ずっとこんな調子だったというが―――それよりもアルマーザは別な問題に気づいてしまった。
「あの、シアナ様?」
彼女は言い争う二人に割って入る。
「あんだ?」
「そのローブ、先週からずっと着てませんか?」
「え? 別にいいじゃん」
「良くありませんよ! 裾のところが汚れちゃってるじゃないですか!」
「あー、んなの誰も見てないって」
「ダメですよぉ!……アヴェラナさーん」
彼女が慌ててやってくる。
「はい?」
「すみません。水月宮に行って新しいローブを持ってきてもらえますか? コーラさんに聞けば分かりますから」
「あー、はい」
アヴェラナは慌てて出て行った。
「おまえ神経質な奴だなあ」
「神経質じゃありませんよ。リディール様が見たらまたカンカンですよ」
「あいつも細かいんだよ」
「いや、シアナ様だってベラトリキスの代表なんですよ? 公式の場じゃちゃんとしないとダメじゃないですかー」
「あー……」
と、そのやり取りを聞いていたカロンデュール大皇が大声で笑い出した。
「あっははは。さすがのファシアーナ殿も形なしだな?」
「あー? こいつ、もう本当に生意気でしてね」
「そういえばアラーニャといったか? その新しい弟子というのは順調なのか?」
「あ、そりゃもう。お前も見ただろ?」
それを聞いたマグニ総帥は大きくうなずいた。
「ああ。確かに彼女の才能はまさにピカイチですな。早く都に連れて行ってちゃんとした訓練を行ってやりたいのですが……」
―――そんな話をしているとアヴェラナがファシアーナのローブを抱えて息せき切って戻ってきた。
「こちらでよろしいでしょうか」
「あ、はい。ありがとう」
アルマーザはローブを受け取るとファシアーナに差し出した。
「じゃあ早く着替えて下さいよ。シアナ様のせいで時間に遅れたら恥ずかしいですよー」
「あー……」
ファシアーナはアルマーザをじろっとにらむが、それ以上は無言で控え室に行ってしまった。
その姿を見ながら魔道軍の総帥がぽつっと言った。
「あいつも変わったなあ……」
「え? 前はどうだったんですか?」
「もっとずっととんがった奴だったんだがな。リディールもそうだが」
「とんがったってどんな……」
と、尋ねようとしたらいきなりファシアーナが脱いだローブが飛んできて、アルマーザの頭にからみついた。
「んわーっ!」
「何話してるんだよ?」
「いや、何でも?……お早いお着替えですね?」
「あ? 時間がもうすぐなんだろ?」
そう言って彼女は魔道軍の総帥にもにっこりと笑いかけるが、総帥もにっこり笑い返す。
「そうだったな。では参りましょうか?」
「はい」
「うむ」
大皇と大皇后が立ち上がる。こうしてみるとまさに一幅の絵画であるが……
「えっと、終わるのは遅くなりますか?」
アルマーザが尋ねると総帥が答えた。
「ああ。多分夕方にはなるだろうな」
「分かりましたー。行ってらっしゃい」
「ええ」
メルファラがにっこり会釈して出て行った。
その後ろ姿をアヴェラナが放心したように眺めている。
「あ、じゃまた夕方ここでお願いしますね」
「承知しました」
とりあえず彼女の仕事は一段落だ。だがアヴェラナはこれから会場の方に行ってそちらの手伝いもすることになっている。
《大変だなあ……》
とは思ってもこればっかりは手の出しようがないのだった。
―――というわけで会合が終わるまでは暇なので、アルマーザが一旦水月宮に戻ってくると……
《はあ?》
何やら前庭で大きな娘と小さな娘が手をつないで踊り狂っているのだが……
「やったね! クリンちゃん!」
「やりましたね! メイ様!」
もちろん大きい方がクリンで小さい方がメイである。
その横でサフィーナとアウラ、リモンが苦笑いしている。
「どうしたん? 二人とも……」
アルマーザがサフィーナに尋ねると……
「それがハミングバードが直ってきたんだと」
「あー、あれが?」
ハミングバードというのはもちろんメイが報償としてもらった素敵な馬車だが、例の事故で大修理に出されていたのだ。
「ああ。さっきラルゴの使いってのがやってきて、今週末に納車できるって言ったら、それからずっと踊ってるんだ」
「あはははは!」
アルマーザも笑うしかないわけだが―――そんな彼女にメイがむっとした顔で言う。
「だって踊りたくもなるでしょ? 今までずーっと我慢してたんですよ?」
いや、事故ったのは本人たちのせいだから―――と思ったら今度はクリンが……
「それにフードを前傾させたら本当に安定したそうなんですよ?」
「はあ?」
一瞬何のことかと思ったが、確か傘を前屈みに差したらとか何とか言ってたあれか?
「この間の大風の時にテスト走行して、あのカーブを問題なく曲がれたって」
嬉しそうにメイが言う。
「むしろ普通のエクレールより安定しているって言ってましたよね」
「そうそう。これでまた思いっきり走れるわよ!」
「はいっ!」
いや、だからスピードは出しすぎない方が―――それはそうと……
「えっとメイさん? クリンちゃんのお仕事は終わったんですか?」
なんだかんだで結構少ない人数でここは管理しなければならないので、侍女たる者はとても忙しいのが常なのだが……
「えっ⁉」
………………
…………
二人は顔を見合わせる。
「あー、じゃあ続きは後にしましょうか」
「はいーっ!」
後って―――アルマーザが呆れてため息をつきながら振り返ると、横で見ていたサフィーナたちの顔にも同様な表情が浮かんでいた。
それからアウラが言った。
「んじゃこっちも続きやる?」
「そうしましょう」
「ん」
アウラ、リモン、サフィーナの三人は薙刀の練習に戻った。
《あは。最近は本当に様になってきましたねえ……》
彼女がアウラに薙刀を習い始めてからそろそろ一年になる。最初の頃はまさに手も足も出ないという様子だったが、今ではアウラ相手でも結構食いついていく姿をよく見るし、リモンに至っては明らかに目の色が変わっている。
《やっぱりライバルがいるっていうのは違うんでしょうねえ》
アルマーザはその横を通って水月宮に入った。
すると入口奥のロビーの片隅で、リサーンが年配の紳士と碁盤を挟んで向かい合って座っていた。
紳士とはもちろんフィンとティアの父親、ル・ウーダ・パルティシオンだ。
《結局シオンさんも残っちゃったんですよね》
彼も本来はアキーラ解放一周年のあとみんなと都に戻る予定だったのだが、この騒ぎで一緒に残っていたのだ。
《ティア様やフィンさんとも一緒にいたいでしょうからねえ……》
彼はわざわざ彼らに会いに都からやって来たのだ。それに加えて……
「んーっ、あーっ……はあ、降参です~」
リサーンががっくりと肩を落としている。
「あっははは。仕方あるまい。いや、途中までは良かったのだがなあ、この手が少々まずかったな」
「あ、やっぱり?」
「ちょっと欲張りすぎだ。このくらいにしておけばまだまだだったがな」
「うー……、じゃあ、もう一勝負!」
「はは。よかろう」
パルティシオンに碁を教えてもらってからというもの、リサーンが何故かガチはまりで最近は暇があったら誰かと打ったり詰碁の本を読んだりしていた。
そして聞くところによれば彼女はめきめき上達しているらしい。教師というのはそういう生徒を見ると放っておけないそうなのだが……
《いや、あの盤面見てもどっちが勝ってるかすら分かんないんですけど……》
何が楽しいのやら、なのだが―――そんな二人の側を通り抜けて彼女は奥の月虹の間に入った。
ここは高貴な人を迎えるための応接室なのだが、居心地がいいので客人がいないときにはこちらの住人がたむろしていたりする。
中にいたのはエルミーラ王女とティア女王様だ。王女は何か本を読んでいるが、女王様の方は脇のソファーでゴロゴロしていた。
《あー、また来てますね》
このアキーラ城の後宮だが、カロンデュール大皇の一行が来てからは彼らとメルファラ大皇后、その御付のパミーナが天陽宮、エルミーラ王女一行と魔法使いたちが水月宮、ヴェーヌスベルグの有象無象が辰星宮という住み分けになっていた。
ところがアーシャたちが先にヴェーヌスベルグに帰ってしまったため、辰星宮がガラガラになってしまったのだ。だがそれも七月のアキーラ解放一周年式典までのことと、部屋割りの調整は行わなかったのだが、それがいきなりこの騒ぎである。
おかげでリサーンもそうだが、辰星宮のメンバーが最近はこうして水月宮に出入りしているのである。
《アラーニャちゃんはともかく、ハフラとかマジャーラがいないってことは……》
辰星宮にはもう一人、ちょっとやんごとなき人の前には出せない奴が隔離されているわけで―――でもいてもらわないとヴェーヌスベルグの娘たちがちょっと困ってしまうわけで……
そんなことを思っていたら奥からレイモンの侍女服を着た若い娘―――水月宮担当の侍女コーラが飲み物を持って現れた。
「あら、アルマーザ様、お帰りだったのですか?」
「あ、今ね」
「お飲み物は?」
「あ、うん。欲しい!」
「じゃあちょっと待ってて下さいね」
彼女は冷たい飲み物をエルミーラ王女とティアの前に置くと、また奥に戻っていった。
それと入れ替わりにメイが戻ってきた。
「あー、言われていた資料を持ってきましたー」
王女がちらっと目を上げる。
「遅かったわねえ?」
「え? あ、ちょっとその、抜けられない用事ができてしまいましてー……」
「ふーん。そう」
王女が不審そうにメイの顔を見るが……
《あー⁈ メイさんもお仕事中だったんですか?》
思わずアルマーザがじとっとメイの顔を見ると……
「ん? なーに?」
何かこの人も昔思っていたほど立派な人ではないのかも―――などと考えていると、ティアが彼女に尋ねてきた。
「アルマーザはどこ行ってたの?」
《この人は……》
彼女はちょっとむっとして答える。
「お仕事ですよ⁈ ファラ様の着付けに!」
最近それで忙しいという話は何度も何度もしているような気がするのだが……
「あー、そうだったんだ。じゃあ今日も午後は?」
「ずっと会合だと思いますよ?」
「ファラ、大変よねえ……」
それは全くその通りなのだが……
「そうですけど……でも何か大皇様の方がもっと大変そうで……」
アルマーザがそう答えると……
「デュールが?」
驚いた様子でティアが見つめる。
アルマーザはうなずいた。
「何だかひどく疲れているご様子に見えるんですけど……」
「えっ? そうなの?」
「はい。何て言うか、精気がないというか、ほら、いま連日すごく深刻な会議が続いてるじゃないですか。大皇様ってその最高責任者みたいな物なんですよね?」
「あー、そうなるのかな?」
ティアが首をかしげると、それまで横で本を読んでいたエルミーラ王女が口を挟んだ。
「いえ、大皇様が決定をなさるわけではありませんから、最高責任者というわけではありませんね。都の場合、最高評議会が決定機関で、大皇様はそこで決定された事項を認証して発布するお役目ということになりますので」
「あー、そうなんですか?」
王女はうなずいた。
「はい。これがベラだと国長様に最終決定権があるので、おかしな決定を下してしまうと大変なことになってしまうのですが……」
「じゃあ、基本見てるだけでいいと?」
アルマーザが尋ねると王女は首を振った。
「いえ、それでも大皇様のご意向とあれば、評議会もそれを無碍にはできませんので。しかもここは都から遠く離れた地。いちいち評議会に伺いを立てることなどできませんし、なので発言は慎重に言葉を選んでおかないと何かと問題になることもあるでしょうし」
「あー、やっぱ大変なんですよね?」
「それは仕方ございませんね。そのようなお立場ですので」
「でも大皇様が倒れたりしたらみんな困りますよねえ。もう少しその、スケジュールとかをゆったりするよう言ってあげるとか、そういうことはできないんですか?」
だが王女は小さく首を振る。
「そうは思っていても、ご本人がやるとおっしゃっている以上、無理に止めるわけにはいきませんし……」
「そういうものなんですか?」
「まさにそれは差し出口ということになってしまいますので……たとえそれが親切心からであっても、そういうことを言い出す者がいたら警戒されてしまうのですよ」
「え? 親切で言ってるのに?」
王女はうなずいた。
「そうなのですよ。大皇様のような御方に直接意見できる人物とは、まさに諸刃の剣となり得るので」
「えと……どうしてです?」
「例えば腹に一物ある人物がいたら、表向きにはまずそういった親切な友人として現れるものなのです。そこでその御方にしっかりとした判断力があればいいのですが、その親切な友人の意見に流されてしまうようなことがあれば、国の行く末に大きな影が落ちてしまうということもございまして……」
彼女がそこまで言ったとき、側にいたメイが思わず吹きだした。
「ん? どうしたの?」
王女がにっこり笑って尋ねる。
「いえ、本当にそうだなって思っただけで」
「そうなのよ~?」
何かまた二人だけで分かり合っているようだが―――それにしても……
「うえー……大皇様って大変なんですねえ」
アルマーザの感想に、王女が小さくため息をつく。
「本来はそれが大皇后様の役割だったりもするのだけど……」
………………
…………
「あははは」
どちらかと言えばファラ様は大皇様の尻を叩いている方だし……
と、今度はそれを聞いていたティアが言った。
「でも、それだったらあたしたちならどうかしら?」
「え?」
「あたしたちで例えばデュールを慰めるお茶会とかを開くっていうのは?」
王女は一瞬考え込むが、それからにっこり笑う。
「まあそれでしたらよろしいでしょうか?」
ティアが満面の笑みになる。
「あはっ! どうしてもっと早くに思いつかなかったのかしら?」
確かに自分たちの仲間にそんな悪い奴がいないということは間違いないし、それにティア様だって大皇后様の片翼を担う黄昏の女王様だ。今となっては格式という点でも問題はない。
無駄に有名になってしまって少々鬱陶しいなと思っていたのだが、こんな風に役立つこともあるわけだ。
「それでメイちゃん。デュールが暇になる日って分かる?」
メイはちょっと考えると答えた。
「え? 確か……今週末なら何とかなるんじゃないでしょうか。一応会合とかの予定は入っていませんが……あー、でも……」
「でも?」
「週末には消防隊の結団式がありました」
「結団式?」
「はい。ほら消防隊の人ってアキーラの解放の時にすごくよく手伝ってくれたじゃないですか。だからそこにファラ様が行ってあげることになっていて、あと私とかハフラさんとかリサさんとかも」
「あー……でもその後になると?」
メイはまたちょっと考えてから答える。
「来週はずっと会議ですねえ」
それを聞いたティアがエルミーラ王女に尋ねた。
「でもファラならいつでも会えるんだから、それでも問題なくない?」
王女もうなずいた。
「多分、大丈夫だと思いますが」
ティアがまたにっこりと笑う。
「あ、じゃ、アルマーザ。それ、デュールとファラに伝えといてくれる? 詳しい時間とかはまた後で教えるけど」
「あ、はい」
夕方にはまた彼らとは会うことになる。
《これで大皇様に少しでも元気が出るといいんでしょうけど……》
この女王様は無駄な元気にだけは満ちあふれているから、少しくらいなら分けてあげられると思うのだが……
その日の夕方、アルマーザの持ってきた話を聞いてカロンデュールは大変な喜びようだった。
「そうか! 分かった。間違いなく空けておくからティアにはそう伝えておいてくれ! いいな!」
「あ、はいぃ!」
その剣幕にアルマーザが少々引き気味だ。
見ていたメルファラはちょっと心が沈んだ。
《やっぱりデュールはティアといた方が楽しいのですね……》
とは言ってもどうやったら彼女が彼をそんな風に楽しませることができるのだ?
都にいた頃もそうだった。
彼と二人きりだと何だか気まずくなってしまうのだが、彼女が一緒だと共に楽しく過ごせていた。
《ティアがずっといてくれたら……》
そう思って彼女は首を振る。
彼女はアラーニャの訓練が終わったら一緒にヴェーヌスベルグに戻ると公言しているのだ。
彼女とずっといることは叶わないのだ。
それでも……