エピローグ 再会の秋
十月も終わりに近づくと、南国のコラリオン離宮にも肌寒い日がやって来るようになる。
その日もまたアルクス王子の居室からは、女の喘ぎ声が聞こえていた。
「あ……あ……アルクス様、あぁ……あぁ……」
それを聞くともなしに聞きながらチャイカは小さくため息をついた。
《大丈夫なのでしょうか……》
サルトス王国が同盟から抜けて敵方に付いたことで城中が大混乱になっている。
先日バシリカから出陣した第三軍も、レイモンの南部の村を幾つか占領しただけで、結局引き上げて来ざるを得なかったという。アキーラを攻略するにはサルトスの協力が必須だったというのだが……
「あ、あぁ……いいです……あぁ……」
それなのに当のアルクス王子は相変わらずこの調子なのだ。もちろんチャイカはそれに異を唱えられる立場ではないのだが―――そんなことを思っていると、廊下の方から何やらガヤガヤと騒ぎが聞こえてきた。
《ああっ!》
これは間違いなく……
「アルクス様っ!」
聞き慣れたキンキン声と共にずかずかと部屋に踏み込んできたのはもちろんコレット姫ともう一人、デルフィナ姫だ。
コレット姫はにこーっとチャイカに微笑むと……
「おどきなさい」
「しかしアルクス様は……」
「構いません!」
そしてチャイカを押しのけるとそのまま奥に入っていった。デルフィナ姫も同様にニコッと微笑むとその後に続く。
《???》
チャイカは混乱した。
「何をなさっているのですか。アルクス様!」
コレット姫が尋ねる。
王子の膝の上に裸の娘が跨がっていても二人は全く無関心なのはともかく……
「何だよ。お前たちケンカしてたんじゃないのかよ?」
「仲直りしましたのよ?」
そうなのだ。この二人はつい先ほどまであれほど険悪な仲だったというのに……
デルフィナ姫―――彼女はアイフィロス王国からこちらに輿入れしてきた姫だった。
しかしコレット姫と同様、アルクスに最初に一回味見されただけで、その後は放置されていたのだ。
だが彼女はコレット姫のような勝ち気な性格ではなく、それ以降は後宮の片隅でひっそりと暮らしていた。
ただ彼女は似たような境遇ということでコレット姫とは仲が良く、良く一緒にお茶をしていたりはしたのだが―――と、そこでコレット姫がヴェルナ・レギーアとなると王子はすっかり味を占めて、すぐに二人目が欲しいと言い出した。
そこで白羽の矢が立ったのがこのデルフィナ姫だ。彼女のことはコレット姫も大変気に入っていたようで、教化の際には大乗り気で協力してくれてもいたのだが……
《最初はダメかと思っておりましたが……》
彼女は本当にいてもいなくても分からないような空気のような姫であった。もちろんそれでもチャイカの手にかかれば内なる愛欲の虜となるのにそれほど暇はかからない。
しかし彼女にはコレット姫のような姫としての矜持が欠けているように見えた。だから彼女はこのまま単なるフォルマとして終わってしまうのではないかと危惧していたのだが……
《まさに急転直下でしたよねえ……》
そこにもたらされたのがアイフィロス王家滅亡の知らせである。
《雨の夜の中、天を仰いで立ち尽くしているのを見つけましたときには仰天しましたが……》
彼女はそこで虚ろな目でチャイカに問うたのだ。国を失った姫とは何者なのかと? そこで彼女は答えた。姫がいる限りまだ国は失われていないと。その答えを聞いた彼女はこの世の物とも思えないような笑みを浮かべて気を失ってしまったのだが……
《まさにそれで開花されたのでございますが……》
今、彼女はコレット姫と並ぶ、いやもしかしたらそれ以上のヴェルナ・レギーアとしてこの後宮に君臨しているのだが―――その際にアイフィロス王家を滅ぼしたのがサルトス王国軍だと聞いてコレット姫とは決別していたのである。
なので両者がそう簡単によりを戻せるとは思えなかったのだが―――コレット姫がアルクス王子に言った。
「私、異な噂を聞きましてちょっと城まで行っておりましたが」
「あ? どうして城なんかに?」
「アルクス様がまーたこちらにいらっしゃいませんでしたので」
「あ? そりゃいないこともあるさ。で、何が聞きたかったんだよ?」
アルクスが何やらごまかそうとしているようだが、そこで姫がぴしゃりと言った。
「あのおとぼけイービスがアラン様に騙されていたそうですね?」
「え? 何の話だ」
「あなたもおとぼけになりませんように!」
そう言うと姫はポケットから折りたたんだ手紙を取りだして開き、アルクスの目の前に突きつけた。
「おい、どうしてそんな物、持ってきてるんだよ!」
彼が少々慌てているが……
「ちょっとフィーバス様から借りて参りましたの。デルフィナにも見て頂くために」
そう言う彼女の指先から手紙がひらひらと舞い落ちる。
「お、おい!」
どうも大切な手紙らしい。チャイカは慌ててそれを拾った。
「後でフィーバス様に返しておきなさい」
コレット姫が命ずる。
「あ、はい……」
チャイカはうなずくが、そのとき思わずその文面が目に入ってしまった。
《これは……》
親愛なるザルテュス殿、及びアルクス殿
既にお聞き及びになっておられるとは思うが少々厄介なことになった。サルトスがこちらと手を切ってレイモンと結んでしまったのだ。
この戦いでは彼らの働きが肝要だった。何しろ奴らは手負いの獣同然だ。迂闊に手を出したらこちらがひどい怪我をする。だから彼らにアイフィロスを抑えてもらったのだ。奴らがまず狙うとしたら防備の薄いメリスだからだ。そうやって奴らの力を削いでもらえれば後々の戦いが楽になる。
もちろん奴らが私の首狙いに来る可能性は考えていたが、その場合はロータとクルーゼの間で妨害工作をして、同時にメリスとバシリカから侵攻できるはずだった。ところが奴らめ、まさか騎馬隊だけでやって来るとは思ってもいなかった。しかも行き先がアコールだったとは。せめてシフラに来たのならまだ何とかなったのだが。
おかげで嘘がばれて困ったことになってしまった。このままだと各個撃破されるので、せめてアロザールとの連絡は確保したい。そこで我が軍がクルーゼを奪還して要塞化するので、貴国はセイルズを確保して欲しい。セイルズは守りに弱いが、サルトス本国側から攻めるとなれば間に大河ヘリオスがある。貴国は水軍が強いので十分有利に戦えるだろう。
予想外の事態になったがまだ我々は負けたわけではない。この難局を共に乗り切ろうではないか。
シルヴェスト王国王アラン
アラン王から来た密書ではないか? そんな物を彼女が持ち出したというのもあれだが……
《嘘がばれたって⁉》
ではアラン王はサルトスを騙して従わせていたというのか⁉
チャイカが驚いて顔を上げると、コレット姫がにこーっと笑ってアルクスに話しかけるところだった。
「で、どうして私におっしゃって頂けませんでしたか?」
「いや、だから政治的なことだし……」
「でも私の祖国のことでございますよ?」
「まあ、そうだけどさ……」
しどろもどろのアルクスをコレット姫はぎろっとにらんだ。
「確かに私はあなたの所に嫁いで参りました故、もはやアロザールの女でございます。しかし私が生まれ育ったのがガルデニアなのもまた事実。当然、私は祖国サルトスのことも深く愛しております」
「ああ、それは知ってるって」
「ならばお分かりになりますね? あの男は我が祖国の兵を騙して捨て駒にしようとしたのですよ? 許せますか⁉」
「あ、まあ、そうだな……でもどうしてデルフィナに?」
またコレット姫がぎろっと彼をにらむ。
「当然でございましょう? 我が国が彼女の国を滅ぼしてしまったのですよ? だから彼女に恨まれるのも分かります。でも事実は知っておいて欲しかったからです。騙される方がバカだと言われたらそれまでですが」
と、そこでそれまで黙っていたデルフィナ姫が口を開いた。
「私の祖国はお姉様の軍に滅ぼされてしまいました。国が敵対していた以上、そのようなことが起こるというのは分かります。しかしそれでもその国の人を恨むなと言われたら話は別ですが……」
そこで彼女はニコッと微笑む。
「しかしこれを見て分かりました。いま最も憎むべきは、自分の手は汚さずに他人にそのようなことをさせた者ではございませんか?」
「ああ、まあな……」
「ならばもうお姉様を私が恨む理由はございませんね?」
「まあ、そうだな……仲直りできて良かったじゃないか」
そこでまたデルフィナ姫はアルクスににこっと微笑みかける。
「ということですのでアルクス様。とっととアラン王を殺しておしまいになって下さいな」
………………
…………
……
「はあ?」
「お耳が悪くなられましたか? アラン王を殺して下さいとお願いしているのでございます」
満面の笑顔で姫は繰り返した。
「おいおい。いきなり物騒なことを言い出すなよ……」
と、今度はそこでコレット姫が突っ込んだ。
「なーにを寝とぼけておられるのですか? あの男は自分の姪でも簡単に陥れようとする男なのですよ? 間違いなくアルクス様も騙されております! ならば裏切られる前にとっとと片付けてしまえばいいのです!」
「いや、簡単に言うがなあ……」
二人がアルクスならそれが簡単にできると思っているのは無理もない。
それは夏前、今回の同盟のためにアラン王からの密使がやってきたときのことだ。
―――シルヴェストからの使者と聞いてさすがのアルクスも登城していった。
それから帰ってきた後、彼が妙に機嫌がいいので思わずチャイカはその理由を尋ねたのだが……
「はっ! あのアラン王がアロザールと同盟したいとさ」
「ええっ⁉」
さすがにチャイカにさえも俄には信じられない話なのだが……
「あいつ、内心じゃよっぽどレイモンの事が嫌いらしいな。ま、レイモンと戦うためだけに生きてきたようなもんだし」
「はあ……」
「それにさすがに次はやられないだろうと」
「次、ですか?」
アルクスはにやっと笑う。
「ああ。アロザールが破れたのはまさに運が悪かったと。あんな形でアキーラが解放されるとか普通はあり得ないし、あの兵器が破られたのもたまたまそのことを知っていた奴が偶然いたせいで、そうでなければこっちの圧勝だったはずだと」
「はい……」
「だからこれ以上奇跡や偶然に頼るわけにはいかないから、こっちと組むってさ」
「はい……でも……」
チャイカはそんな第三の兵器があるのかと尋ねようとして思い出した。
「確か先ほど皆殺しにするだけなら簡単だとおっしゃってましたが……本当に?」
「ふふっ」
アルクスはにやっと笑うだけで、否定はしなかった―――
そしてそのことはチャイカが姫たちにも説明していたのだ。離宮内に不安が蔓延しているのでその話をしていいかと尋ねたら、簡単にOKをくれたからだ。
それはともかく……
「分かってるって。でも奴にはまだ利用価値があるからさ」
「そんな暢気なことを言っているうちに裏切られるのはあなたですよ?」
コレット姫の追及は緩まない。さらにデルフィナ姫がたたみかける。
「私たちは世界で最も強い王と運命を共にすると誓いましたの。そうでないというのなら、アルクス様はその端女とずっとお戯れになっておればよろしいでしょう」
そう言ってアルクスの膝の上でオロオロしている娘を指さした。
「あ?」
姫がにこーっと笑う。
「でなければ私たちは二度とアルクス様の臥所には参りませんと申しております」
アルクスが青くなった。
「おいおい。だからこういうのはタイミングが重要なんだって。今はまだその時じゃないんだよ」
二人の姫はにこーっと笑いかける。
「ではその“時”を心待ちにしておりますわ」
「それではごゆっくり」
二人は優雅に一礼すると、きびすを返して去って行った。
アルクスは呆然とその後ろ姿を見つめているが……
《この方がこんなお顔をなさるなんて……》
彼が二人の手綱をしっかり握っていられるか、チャイカはちょっと心配になった。
十一月のガルデニア郊外は寒かった。
メイは手をさすりながら思った。
《うー……南の方だからもっと暖かいかって思ってたけど……》
まあ今日は特に寒いという。それにこの時期のフォレスに比べれば全然どうという事はないのだが……
《うー、暑いのに慣れちゃったからなあ……》
レイモンで過ごした一年半がまるで嘘のようだが―――実際に眼前に広がる光景は果てしなく広がる大森林だ。
「うわあ、寒いですねえ……」
「ん」
クリンとサフィーナはより堪えているようだが、この二人がいるからこれまでの体験が嘘ではないと信じられる。
あれから三週間。
あの会談の翌日、まずレイモンとサルトスの停戦が決定したが、その知らせは駅伝システムを通じてアイフィロスに駐留するサルトス軍の元にもたらされ、五日後にはその地域でも戦闘は終了した。
それに平行して会談から三日の後、ガルデニアにてカロンデュール大皇の立ち会いの下、シルヴェスト王国及びアロザール王国との同盟は破棄され、新たにレイモン王国とサルトス王国の同盟が成立した。
そこでサルトス王国にはこちらに来たレイモン王国軍と白銀の都の魔道軍への物資の支援、それに大皇と大皇后の身柄の安全を確保してもらう代わりに、もしこの同盟破棄によりシルヴェストやアロザールが攻めてきた場合はレイモン・白銀魔道軍がサルトスの防衛に全面協力することが合意された。
またここで同時にカロンデュール大皇が裏切り者のアラン王を、アロザール同様の朝敵と宣言した。
《これで完全に形勢逆転よね……》
まさに正義は我らにあり、しかもフォレス・ベラ連合軍を加えれば勢力もこちらが遙か上になるのだ。しかもそこに旧アイフィロス王国軍が戦いに参加してくれば更にそれ以上となるわけで……
だがその後の戦いは決して容易ではなかった。
まず彼らは敵を包囲する形にはなっているが、アイフィロスにサルトス軍、サルトスにレイモン軍とその配置が逆だ。これをこのまま戦うのか、それとも兵を入れ替えるのかはなかなか悩ましい問題だった。
そこで色々と話しあった結果、やはりこちらに来ているレイモン・白銀魔道軍がアイフィロスに、サルトス軍が本国に帰還するのがいいだろうということになったのだが、これから冬になる。両者の間には山脈が二つもあり、その時期の移動は困難になってくる。
それでも少しずつなら入れ替えはできるだろうが、本格的な攻勢はやはり冬越しのあとになるだろうということになった。
またそのときサルトス軍がどの程度の協力をしてくれるかはまだ予断を許さない状況だ。
何しろサルトスとシルヴェストは祖を同じにする兄弟国で、これまでも非常に親密な関係にあったからだ。
確かに今回アラン王にイービス女王が騙されていたということで、人々は相当に頭にきているのは確かだが、それでも遙か昔からの友好国に刃を向けるのは心穏やかではないはずだ。
しかし直接シフラを攻める他にも、セイルズやクルーゼを確保してアロザールと分断してもらえるだけでも十分に価値がある。
実際に彼らが通り抜けた後、クルーゼにはシルヴェスト軍、セイルズにはアロザール軍が現れてそこを占拠したとの知らせは入っている。
《これでもうまっすぐには帰れなくなっちゃったわけだけど……》
それでもアキーラへの道はつながっている。
そして今日、その道―――ア・タン越えのルートを通って古くからの仲間たちがやって来るのだ。
「あ、もしかしてあれか? 軍旗みたいだが……」
サフィーナが遠くを指さした。
「え? どれ? あっ!」
彼女たちが今いる丘の上からは森の中に続く街道が切れ切れに見えるが、そこにちろちろと動く物が見える。この距離からだとよく分からないが、状況からして―――と思っていると……
「あ、あの旗の紋章、あの赤い馬車のと同じだな」
「え? 本当?」
「ん」
サフィーナは砂漠育ちなのでとても目がいい。ということは―――もちろんやってきたのはフォレス軍で確定である。
あたりから歓声が上がった。
ここに来ているのはメイたちの他に、エルミーラ王女、アウラ、リモン、それにフィンだ。
彼女たちは今日グリシーナからネブロス連隊が到着すると聞いて、ここまで出迎えにやってきたのだ。
だが……
《うー、言い出したのは王女様なのに……》
エルミーラ王女は寒いからとさっきから馬車の中に籠もりっきりなのだ。
まあ実際に寒いのは間違いないのだが……
やがて一行が丘の麓に差し掛かり、人の姿が見分けられるようになった。
「あー、来た来た! おーい!」
「あ、誰か手を振ってるけど……あれ、ガリーナじゃ?」
アウラの言葉に目を凝らしてみると……
「え? あ、確かに」
栗毛の馬に跨がっているのはフォレス親衛隊の制服を着た女性のようだが―――だとすれば彼女しかいないわけで!
そしてついに一行の先頭がメイたちのいる丘の頂に到達した。騎乗の指揮官に率いられたフォレス軍の歩兵達で、その指揮官というのが……
「うわあ! ガルガラスさんじゃないですかー!」
「おお⁉ メイちゃんじゃねーか」
ガルガラスが馬から下りる。
「お久しぶりですねえ!」
「メイちゃんこそ、何だ? ベラトリキスのメイ書記官殿だって?」
「書記官じゃなくって、秘書官ですよーっ!」
彼には初めてハビタルにお使いに行ったとき大変世話になったわけだが―――などと話していたら、後方から二人乗りでやってきたのはガリーナと白衣を着た若い娘だが……
《あ? ありゃまさか……⁉》
以前とある奴から不穏な内容の手紙が来ていたような気がするが……
「みなさん! お久しぶりです!」
すとんと馬から下りるとガリーナが挨拶する。
「お久しぶりーっ!」
彼女は相変わらず、というより前より増してダンディーになっていないか?
「久しぶりね。ガリーナ」
アウラも答える。そして……
「あ、あのー……」
「ほら」
白衣の娘がガリーナに手を貸してもらって馬から下りてきたのだが―――この馬にもまともに乗れない鈍くさい奴の正体はもはや明らかだとは思うが……
「で、あんた……」
娘が偉そうにメイ達を見回す。
「何よ?」
「一体どこから突っ込めばいいのかしら?」
「はあ? 一体何言ってるのよ?」
再会したばかりだというのに何だこいつは?
「ってかまずあんた、何でそんな変な服の趣味になったのよ?」
うぐっ!
《しまった! 考えてみれば……》
本人もすっかり慣れてしまっていたのだが、彼女が公式の場で着ている服は例のハッタリを効かせた妙ちきりんなデザインであった。
今日着ているのはそのうちでも一番大人しい物だったのだが、フォレスにいた頃の基準から言えば十分にヘンテコだったりするし……
「いや、これは必要に迫られて着てるのよ。勝負服みたいな物なの!」
「はあ?」
娘は不審そうにメイを見つめて、それから今度は……
「それに何? その馬車?」
「ふふっ! ハミングバードっていうのよ? いいでしょう?」
「どうして幌が前に傾いてるのよ? 変じゃない」
言うに事欠いて、変だと⁉
「変じゃないわよっ! こうすれば速く走れるでしょ?」
「??……ってかこの季節、そんなのに乗ってて寒くないの?」
あ? こいつもそんなことをほざくか?
「はあ? そんなのコートを着てれば寒くないでしょ?」
と、そこに横にいたクリンが口を挟む。
「そーですよ。この程度まだ全然ですよ?」
娘は今度は彼女を見て首をかしげる。彼女は今はフォレスの侍女の制服を身に纏っているのだが……
「で、それで誰? その子」
「彼女はクリンちゃん。何だかあたしの専属侍女になっちゃって。うふっ」
娘の目が丸くなる。
「はあ? そりゃまたご立派な」
そこでまたクリンが彼女をにらむ。
「それだけじゃありませんよ? 専属の護衛の人だっているんですからね。サフィーナ様です」
「ん」
サフィーナが挨拶するが―――それを見た娘の目が更に丸くなった。
だが彼女が何も言わないうちにクリンが突っ込んだ。
「あ! 小っさいって思ったでしょ? でもね、サフィーナ様はアロザールの隊長をボッコボコにして三階の窓から吊しちゃったんですよ?」
「はあ?」
娘はあんぐりと口をあけてサフィーナを見るが―――っていうか、ここまで言われっぱなしではないか!
「てか、あんたこそ、マジで看護婦やってるの?」
「そうよ? 白衣の天使コルネちゃんって呼んでね」
「うげーっ」
「あ、もしかしてこの方がメイ様が良くおっしゃってたおバカな人ですか?」
クリンがナイスアシストする。
「そーよ こんな大人になったらダメだって見本なのよ?」
「はいっ!」
「あ、若い子に何教えてるのよ!」
「ふっ。生きていくために必要な事なんだけど?」
―――などとどうでもいい言い合いをしていると……
「あの、メイさん? それでエルミーラ様は?」
ガリーナが割り込んできた。
「あ、まだ馬車の中で寝てるかも……ちょっと呼んできてもらえる?」
「はいっ!」
クリンがしたたたっと走って行く。
「えっと彼女は新しく雇ったのですか?」
「あはは。まあ、そういうことで」
次いで彼女はフォレス親衛隊の制服を着たサフィーナを見て、それからアウラに尋ねた。
「アウラ様。えっと先ほどあの子が言ってたことは?」
「サフィーナのこと?」
「あ、はい……」
「あ、ほんとみたいよ?」
ガリーナの目が丸くなる。
「あの体で……あ、失礼ですが……」
「ふふ。小さいって思ったら負けるから。もう必殺技もできてるし」
「ええっ⁉」
ガリーナが驚くが―――まあ確かにそれはそうだろう。
「必殺技……ですか?」
「うん。必殺剣猫の爪なんだって」
「はあぁ⁉」
あ! また間違えてるっ!―――メイは即座に突っ込んだ。
「違いますよ。“必殺”ではなく“必死”です。“必死剣ねこのつめ”ですから。“ねこの”と“つめ”の間にはハートマークがあるようにカワイく発音して下さいね」
「はあ?」
またガリーナがぽかんとした顔でメイを見つめて、それからアウラに尋ねる。
「メイさんも変わりました?」
「うん。ずいぶんね」
「えーっ⁉」
いや、そんなつもりは一切ないのだが―――などと思っていると、エルミーラ王女がリモンと一緒にやってきた。
「あらまあ、ガルガラスじゃない。元気だった?」
するとガルガラスと共にあたりにいた兵士がみんな跪く。
「エルミーラ様……よくぞご無事で」
「あはは。みんながいたから何とかなっちゃって。まあけっこう大変だったけど。ともかくみんな、来てくれてありがとう」
兵士たちが一斉に拝礼をする―――と、今度はその間をかき分けるようにしてやってきたのは連隊長のネブロスだ。
「エルミーラ様!」
彼も馬から下りると王女の前に跪いた。
「まあ、ネブロスも。よく来てくれたわねえ」
「エルミーラ様も本当に……」
感極まった様子で絶句してしまうが……
「まあ、ともかくあんまりこんなところで長話も、みんな寒いでしょ?」
「はい、まあ……」
いや、それだったらこんなところに迎えに来なくとも―――とメイは思ったのだが……
と、そこでエルミーラ王女は彼に尋ねた。
「で、その前に一つだけ聞きたいんだけど……」
「何でしょうか?」
「お父様、よくあんなに迅速に出兵できたなって思って。ベラまで動かすって大変だったでしょう?」
あ、確かにそれはかなり不思議だったわけだが―――ネブロスは苦笑しながら首を振る。
「いえ、ロムルース様でしたら王女様がアキーラに孤立していると言えばすぐ兵を出して頂けたのですが……」
「あはは。やっぱり?」
「でもアイザック様が早々に出兵の決断をなされたのは、夏前にアラン様から書状を頂いていたからで」
「え?」
そこにいる一同は顔を見合わせた。
そこで彼に尋ねたのはフィンだ。
「アラン様から書状⁉ ですか⁇」
ネブロスはうなずいた。
「はい。ル・ウーダ様……ではなく、リーブラ様でしたか?」
「あは、そうですが……」
ネブロスは真剣な顔になる。
「それは私も見せて頂いたのですが、そこには近々ちょっとばかりゲームをしてみようかと思うが、ゲームというのは一人ではできないから、といった内容が書かれておりまして……」
「ゲーム⁉ ですか?」
「はい。アイザック様は最初は何が言いたいのか理解できなかったそうなのですが、アラン様がアロザールと組んだという話を聞いてピンときたそうで」
………………
…………
……
一同は顔を見合わせる。
何だって⁉
メイたちは文字通り死ぬ気でここまでやってきたのだが?
まさにここまでの道のりは崖っぷちの綱渡りみたいな物だったのだが?
あそこでフィンが最悪の可能性に思い至らなければ、とんでもない結果になってしまっていたのだが?
《それが……ゲーム⁉》
何なんだ? これは……?
もしかして、ここまでの全てが実はアラン王のゲーム盤上で起こっていたというのか?
《んな……まさか……》
一同が呆然とする中、エルミーラ王女が言った。
「まあともかく城に戻りましょう。こちらのお城もなかなか素敵なところですのよ」
一行はガルデニア城への帰途についたが―――その足取りは重かった。
シルバーレイク物語 第16巻 エスケープ・フロム・アキーラ おわり