プロローグ ささやかな誓い
窓から見下ろすと、やや煤けた町並みの先に見渡す限りの水面―――南の大海が広がっていた。十二月のこの時期にはありがちな曇天で、遠方はもやがかかって海と空の境目は曖昧だ。
今、チャイカがいるのはサルモ波止場の山手にある有名レストランの最高級の個室の中だ。
中央のテーブルには取れたての魚料理が所狭しと並んでいる。
卓を囲んでいるのはアルクス王子とフィーバス。そしてその向かい側には背が高く目つきの鋭い初老の男―――アラン王が座っていた。
《どうして私がこんな場所にいるのでしょうか……?》
彼女は一介の奴隷に過ぎないのに……
しかし王からの書簡には、これは別に方肘張った会合ではないので綺麗どころを連れてきてもいいぞなどと書かれており、ならば誰かが同行せざるを得ないわけだが―――しかしこの場にコレット姫や、特にデルフィナ姫を同席させるわけにはいかなかった。
《あの方々だと本当に首を絞めてしまいそうですし……》
というわけで『しょうがない。じゃあおまえ来いよ』とアルクス王子に連れてこられてしまったのだ。
《いや、他にもっとふさわしい方がいらっしゃると思うのですが……》
とはいってもマスターの命に逆らうわけにもいかない。そこで何やら着飾ってこの場でお酌などをしているのであるが……
《出自は隠せぬと思うのですが……》
しかしアラン王はそんなことは全く頓着せぬ様子だった。
「うむ。しかしさすがに今回は参った」
王はそう言いながら杯から一口酒を飲む。だがその様子はどう見ても上機嫌で、あまり参っているようにも見えないのだが……
「まさかあ奴らめ、あのまままっすぐ行ってしまうとは……おかげで姪っ子には大変嫌われてしまってなあ……」
アルクス王子とフィーバスは顔を見合わせている。
「こちらに突っかかって来たら目に物見せてやるつもりであったのだが……ははは。アリオールだけなら必ずやそうしてきただろうがな」
フィーバスが尋ねる。
「ということは入れ知恵した者がいると?」
王はうなずいた。
「まず間違いなかろう。あのリーブラ殿だな」
その名を聞いてチャイカはどきっとした。
《あのお方……ですよね?》
ついに彼女のマスターになってくれなかった男は、今はレイモン軍に協力してリーブラ・トールフィンと名乗っているそうだが……
「確かに……彼はこちらにいたときも大変役に立ってくれましたからな」
「うむ。こちらでも色々世話になったし。それにあの小姓を送ってくれたのはまさに僥倖であったが」
フィーバスが苦笑する。
「ははは。そのようですな。こちらとしてはまんまと一杯食わされたわけですが」
そこでアラン王がにやりと笑った。
「と、いうわけで、こちらもあまりやられっぱなしという訳にはいかないのでな。今後のことをちょっと相談したいと思うのだが」
フィーバスが眉をひそめる。
「しかし……この状況をどう覆すと?」
彼の表情にも納得がいった。
レイモンの騎馬軍団が大中央突破した後、この中原の版図は一変してしまった。
それ以前はシルヴェスト、アロザール、そしてサルトスでレイモンを完全包囲していたのが、サルトスの離脱によって逆にこちらが包囲されてしまったのだから。
あの後、クルーゼ村とセイルズを結ぶ線は確保したので両国が分断されることはなく、こうして首脳会談は行えているわけだが……
そんなフィーバスを見てアラン王はまたにやりと笑う。
「相手の布陣を見てみればいい。ねじれておるだろう?」
「それは確かに……」
現在シフラにいるシルヴェスト軍は北からサルトス軍とアイフィロス軍、南東からはアコール要塞のレイモン軍、東からはフォレス・ベラ連合軍に囲まれている。
しかしこれだとサルトス軍とレイモン軍は共に遠い異国の地に駐留していることになる。特にサルトス軍はアイフィロス王国を滅ぼしてしまったわけで、現地人からは敵視されて当然だ。
《それなのに大規模な叛乱とかは起きていないのですよね?》
何やら不思議な話だが、でもこの状況が好ましいわけではない。
「というわけで本格的な攻勢を始める前に、奴らはそれを是正せざるを得ないのだよ」
「なるほど」
「となれば色々隙はできるわけで……そこを狙ってまずはグリシーナを奪回しようと思う」
「ああ?」
フィーバスが驚いた表情になる。
「しかし……あそこにはフォレスとベラの連合軍がいるのでは?」
「確かにそうだが……でもグリシーナに駐留していた軍は無傷で残っている。それに様々な仕掛けもそのままなのだよ」
フィーバスが目を見張る。
「仕掛け……ですかな?」
王は笑った。
「ふふ。元はといえばレイモンとの最終決戦にと色々仕掛けておいたのだが、こんな所で役に立つとはな。備えあれば憂い無しとはよく言ったものだ。そこで貴公らにはまずはその際に背後からの牽制をお願いしたいのだが?」
「まあ、そういうことならばもちろん協力は惜しみませんが……」
フィーバスはとりあえずは納得した様子だが―――そこでアラン王が居住まいを正して尋ねた。
「しかし、とは言っても一筋縄でいくとも思えん……なので、こう、もっと他にないものかな?」
「え?」
王はにやっと笑う。
「秘密兵器がまだあるとなれば、それだけで奴らの動きを封じることができるわけだが……」
フィーバスは一瞬言葉に詰まり、それから少々慌て気味に答える。
「あれには長い準備が必要なのですよ。最初の物は何年もかけて仕込みを行いましたし、他を取ってくるにしても今すぐというわけには参りません」
「そうか。それは残念」
アラン王はふふんと笑う。
《でも、アルクス様はおっしゃってませんでしたっけ?》
確か、あんな奴らはいつだって皆殺しにできるとか何とか……
《それともフィーバス様にもお教えしていないのでしょうか?》
思わず心配になってしまうが、チャイカが口出しをすることではない。
「まあ、確かにああいう物が一朝一夕に手に入るとは思っておらなかったが。でもまだちょっとした保険もあるし、そこまで悲観することもなかろう」
「保険? ですかな?」
フィーバスが首をかしげると、アラン王はまたにやっと笑った。
「ああ。先ほど奴らはねじれを是正しに来ると言ったが、それは要するにアイフィロスのサルトス軍を本国に、アコールのレイモン軍をアイフィロスに送るということだ」
「それはそうですな」
「とすればその際にはガルデニアに籠もっている大皇様と大皇后様もアイフィロスに移動するわけだ」
フィーバスが目を見張る。
「ということはそこを?」
「大皇様と大皇后様、どちらか片方でも手中にできれば、形勢はどうなるかな?」
フィーバスは一瞬絶句する。
「……そんなことが可能なのですか?」
「ふふふ。彼らがどこを通っていくと思う? シルヴェスト王国内だぞ?」
「ああ……」
フィーバスは納得したようにうなずいた。
先ほど彼はいろいろ仕掛けをしていると言っていたが―――とすれば相手の隙を突く何らかの手段があってもおかしくはない。
そのときそれまで黙って料理を食べていたアルクス王子が尋ねた。
「でもそれって相手だって警戒してくるよね?」
「まあそこはしかたあるまい?」
「知恵比べってわけだ」
「ははは。まあそうなるな」
「そっかー。でもそうなれば……」
王はうなずいた。
「ああ。奴らは何もできなくなるのは間違いないが……もちろん奴らもそのことを見越して警護を固めては来るだろうが、しかしそれは他のの場所に隙ができるということだ。とすれば先ほどのグリシーナ奪回も不可能ではなくなるわけだ」
だがアルクス王子はそれには答えず、何やら宙を見据えて考えている。そこでフィーバスが代わりに答えた。
「なるほど。そのようなこともあるでしょうな」
「ま、というわけでまだまだこれからなのだよ」
アラン王は手にした杯をぐっと空けた。それを見たチャイカは瓶子を持って立ち上がる。
「いかがでございすか?」
「ああ。この酒は美味いな」
「アラン様のお口に合って幸いでございます」
差し出された杯にチャイカはなみなみと酒を満たす。
「いや、若い頃に味を覚えてな。だが本国では良い物はなかなか手に入らぬし。この米の酒は」
それを聞いたフィーバスが尋ねる。
「若い頃といいますと、小国連合の立ち上げの頃に?」
「ああ。あの頃は各地を駆け回ったものだ。だからここにもよく来て下町の酒場で飲んでいたが。さすがに今回そこでやるのはな」
「はは。まあ確かに」
「フィーバス殿も国を追われて各地を放浪なさったとか?」
「はは。まあ、あちこち行きましたが……」
二人は昔話を始めた。
その間もアルクスは一人何やら考え込んでいたが―――それから小声でつぶやいた。
「確かにねえ。そりゃ警戒されちゃうよなあ。でも……ふふふっ」
彼がこういう表情をするときは腹に一物あるときなのだが……
《いったいどうなさるおつもりなのでしょうか?》
たぶん何かが起こる―――そう思うと彼女もまたちょっとわくわくしてきた。
一糸まとわぬ姿でアウラは広いベッドの上からぼうっと天井を見つめていた。
ここはガルデニア城の豪華な一室で、部屋の空気はちょっと冷たいが今は火照った体を丁度いい案配に冷ましてくれている。
このサルトス王国の城は長らく暮らした水月宮とは違い華美な装飾はなく質実剛健といった装いだ。
だが彼女にとってはそちらの方が気が休まった。アキーラの後宮、そして都のジアーナ屋敷などを見たときにはそれこそ目が点になってしまったものだが、そういう場所だといつも何だか居心地が悪くなる。
横から寝息が聞こえてくる。
ちらりと見ると隣ではフィンが同様に裸で眠っていた。
《久しぶりだったのに……》
アウラはちょっと物足りなかった。
彼と再会してからというもの、こうして二人でいられる時は思いのほか少なかった。
解放作戦中は彼は毎日“解呪”で一杯一杯で、彼女は彼女でスズメ組で出撃していたりして、さすがにそんな日の晩はぐったり眠ってしまうしかなかった。
だがアキーラ解放が達成されてしまうと今度は“リーブラ・トールフィン”になってしまって、大皇后の女戦士たちとは建前上は無関係の存在だ。すると救国の英雄ベラトリキスの予定の方が優先で、彼とゆっくりできる暇はなかなか取れなかった。
さらに敵の秘密兵器の存在が明らかになると例の“愛の逃避行作戦”でしばらく包帯だらけになってしまうし、それが機甲馬と判明した後はその対応に大わらわで、アラーニャとメイの大活躍のおかげで敵を撃退したら、今度は白銀の都からカロンデュール大皇の一行がやってくるし……
《ああ、でもあの後はちょっと暇になったわよね》
大皇の旗の下、連合軍がバシリカ攻めに行ってしまった後は少々余裕ができたのだが……
《あー、でも付け払いにはフィンは来られなかったし……》
そのとき作戦中にメルファラ大皇后の付けで購入した様々な物資の代金を支払いに各地を回ったのだが、“無関係”の彼が同行するわけにはいかなかったのだ。あの旅行はなかなか楽しかったのだが……
その後がまた大変だ。
連合軍が戻ってきたら今度は凱旋式が行われ、ベラトリキスもまた色々なところに顔を出さねばならなかったし、そうこうしているとアカラとシャアラに子供ができてアイフィロスの王子様を助ける作戦が開始されたり……
だがその忙しさもアキーラ解放一周年記念式典までと思っていたら……
《何だったのかしら?》
今度は何故かアラン王が裏切ってアロザールについてしまって……
《ファラ、可哀想だったけど……》
せっかくの二人の思い出の一日は消し飛ばされてしまうし、その後は会議会議でまた全然会えなくなるし……
ともかくやっといろいろ落ち着いてこうして二人でいられるのがサルトス王国の都、ガルデニアの王宮内だというのは想像もしていなかったが……
《まだまだなのよね……》
確かに最大の危機は脱したとはいえ、まだまだ予断を許さない状況なのだ。
『ともかくファラと大皇様を安全に都まで送り届けなければ……』
先ほどもフィンが少々疲れた表情でそう言っていた。
それは彼女にもよく理解ができた。
何しろ彼女たちが今いるの場所は都から見たらまさに中原の反対の極だ。
確かに今はここから都までずっと味方の支配地域なのだが、その旅路の途中どこで襲撃されるか分からない。何しろ途中のシルヴェストはアラン王のお膝元だ。そこでは何がどう転ぶか全く予測が付かないのだ。
だがずっとここに居続けるわけにもいかない。
だからアイフィロスのサルトス軍とアコールのレイモン騎馬軍団を入れ替えなければならないのはよく分かるし、アイフィロスの人たちは大皇がやってくるのを心待ちにしているという。
それには万全の準備をして行かなければならないため、フィンやエルミーラ王女は忙殺されていた。
「はあ……」
アウラは大きくため息をついた。
おかげで何やら不完全燃焼だ。
彼女は思わず自分のお腹をなでる。体の奥底ではまだ甘い感覚が疼いているが―――同時に指が硬い物に触れると……
「うっ!」
それは胸の古傷だったのだが、その瞬間なぜか昔感じていたような痛みが走る。
《え? どうして?》
長い間忘れていた痛みだが―――しかし何となく理由が分かった。
そう。ここはサルトスなのだ。
今日彼女がここでフィンとゆっくりできていたのは、エルミーラ王女やメイが不在だったからだ。彼女たちはガルブレスの墓を参りに数日ほど城を空けているのだ。
彼は無縁仏として村の共同墓地にごっちゃに葬られたため、彼の遺骨をベラまで持ってくることは叶わなかった。そこで王女たちが墓参りに行ったのだが―――本来ならばアウラはその護衛として付いていかなければならなかった。しかし……
「ううっ!」
今度はもっとずきっと痛みが走る。
分かっていた。
彼の墓参りということは、あの場所に戻るということだ。
彼女の人生で最悪の場所。
多くの人に囲まれることでその痛みは克服できていたかに思えていたが―――でもそれはその場所から彼女が遠く離れていたからだった。
フォレスならば、ベラならば、都ならば、レイモンならばそんなことは単なる悪い夢だと思えた。
だがここ、サルトスの地の空気を彼女の体は覚えていた。
それは彼女に無言の言葉を投げかける。あそこで起きたことは夢ではないのだと……
だがそれでも今ならもっと別なことで―――例えばサフィーナの必殺技を考えてやるとか、そんなことで気を紛らせたりもできたのだが、さすがにあの場所だけは無理だった。
エルミーラ王女もそんな彼女の気持ちを分かっていてくれた。だから彼女の方から今回の旅の護衛には来なくていいと言ってくれたのだ。
確かにリモンもガリーナも、それにサフィーナだって十分な実力に達しているし、ロパスたち親衛隊やネブロス連隊の精鋭たちまでいる。アウラが行かなくとも何の危険も無いはずだが……
「はあ……」
彼女は再びため息をついた。
こんな風に王女が近くにいないのはいつ以来だろうか?
あのとき、フィンと一緒にガルサ・ブランカ城に来てそこで雇われることになったとき、エルミーラ王女を守るということは彼女の宿命になったのだ。
それからずっと彼女は王女の側に控え続けた。
その王女の計らいでフィンと中原視察に行くことにはなったが、まあそこでちょっとカッとしていろいろやってしまったような気はするが―――でも再会後はまた同じだった。
彼女と共に都に滞在し、彼女と共にル・ウーダ・フィナルフィンの真意を確認すべくメルファラ大皇后に同行し、彼女と共にレイモンを解放のために戦った。
それが当たり前だと思っていたのに……
この気持ちは……
《やっぱりあいつらのせいよね……》
そう。ここは全ての始まりの地。
「あうっ……」
再び胸の傷が疼く。
この痛みを終わらせるためには……
《今度会ったら……》
答えはこれしかない。
あの二人は、あの二人だけは絶対に生かしては帰さない―――アウラは誓った。