4. 湖の岸辺で
ふう、いい天気だ。全く絶好の釣り日よりだ。
空は見事に晴れ上がり、気持ちいい風が吹いている。湖の水面に小波が立って、ときどき魚が飛び上がる。
あいつらは狩だとか言ってたが、こういう天気だとそいつもいいだろうなあ。
ともかくここは平和だ。見事に平和だ……
ここにきたらあの騒ぎが全く嘘みたいだ。家にいたんじゃうるさくておちおち本も読めやしない。前からうるさい家だったが、最近は余計な奴までやって来て火に油を注いでいく。いまじゃ一族の人気者だ。
冗談じゃないよ。まったく逃げだして正解だったね。
それにしてもだ。世の中まったく恐ろしいことが起こるもんだぜ。ちょっとやそっとのことじゃ驚かないつもりだったんだが……
そうなんだよ。あのティアがだよ。まあ、何とお世継ぎと婚約って言うんだから……何というかもう……俺の世界観が崩壊しちまったよ。
おかげでこっちまでいい迷惑だ。毎日毎日わけの分からん連中から追っかけられてはつまらないことを詮索されるし、ティアの兄貴だって言うだけで女どもからは変な目で見られるし。この間はいきなり喧嘩を売られたし……放っといてくれって言うんだ、全く。
しっかし早かったよ。噂が広まるのは。二人が一緒に出歩いてから噂が町中に広まるまで一時間もかからなかったんじゃないか?その日の夕方には町中が知ってたね。よっぽどひまを持て余してるんだな。
だがみんなには衝撃が強すぎたようだな。こっちは心の準備ができていたから良かったようなものの、初めて聞いたんじゃ大変だよな。
おかげでうちは都中の女から恨まれてしまった。
なんてったって、家はしがない小公家。それにティアはあの調子だ。
確かにル・ウーダ一族から皇妃が出たことはあるが、それは一五〇年前の話だ。妾妃ならもうちょっと最近いるけどな。公家の中でもいまいち冴えなくて力も弱いから仕方がないけど。
でもだからといって何で怒られなきゃならんのだ?そんな筋合いはない。
ル・ウーダ一族は曲がりなりにも始大皇と共にこの地にやってきた一族だ。確かに派手なことはしてないけど、内務担当として地道に皇家を支えてきた一族だよ。たまにはこんなことがあったっていいじゃないか。
うう、だんだん腹が立ってきた。いったい何様なんだ、あいつらは!人を強盗か人さらいみたいに言いやがって!
親父も親父だ。断固としてればいいのに、おろおろしちゃって見てられないよ。まったく。いつもの調子はどうしたんだよ。おい。
こういう場合母親の方が落ちついているな。それともなにも考えてないだけかな。母親の方がこういう場合する事が多いからな。ドレスの準備とか、客のもてなしとか……
ともかく最近の都の最大の話題の当事者なんだからしかたないが……
だが、いい面の皮が一人いる。カロンデュールだ。デュールまで本気だったってのは予想外だね。どっちも予想外だったが。
あいつも振られるなんて考えもしなかっただろうな。ティアごときに……
このことは知られていないが、知られたりしたらもっと大騒ぎになるだろう。何と言ってもティアは世継ぎとダアルの若君に同時に愛された娘ということになってしまう。実際そうだけど。
それがばれたら、騒ぎは今の二倍じゃすまんな。
何てったって、フロウのジークの家とカロンデュールのダアルの家は、仇敵同士だから。
前から仲が悪いってのは知っていたが、調べてみるとこいつは並の反目じゃないね。
何と一〇〇年だよ。一〇〇年。その間起こした悶着は数知れず、あらゆる点で競争し反目している。この四~五年は少しおとなしいが、ジークとダアルの結婚の時はもうすごかった、らしい。
そもそも反目の起こりはフロウやデュールのひいじいさんの代だ。そこで女をめぐって争ったのがきっかけで、代を重ねるごとに憎しみが増幅されてきているのだ。
大体喧嘩の裏には女が絡んでるってのは良くあることだが……今回もそうならなけりゃいいが……
実際有り得るんだよな。デュールがおとなしく引っ込んでてくれればいいが……フロウの親父がやったみたいなことを……まさかねえ。
ことの起こりはその女がデュールのひいじいさんのダアルⅢ世からフロウのひいじいさんのジークⅤ世に心変わりしたことだった。その女はミュージアーナ姫といって、絶世の美女だった。要するにこの馬鹿女が一番悪いのだが、その代は二~三回殴りあうぐらいですんだ。だが、次の代はもっとひどいことになる。
というのも、姫を取られたダアルⅢ世が息子にジークとは仲良くするなと遺言を残したのだ。よっぽど恨めしかったんだろうなあ。普通そんなこといわないよ。ダアルⅢ世だって遺言の重さぐらい知ってたはずだから……だがポートレートで見てもミュージアーナ姫は美人だから……気持ちは分かる気がするが。
というわけで、ダアルⅣ世とジークⅥ世の時代には(こいつらは爺さんに当たる)えらい騒ぎになった。銀の塔の大臣のポストをめぐって争いになったのだ。家柄からいえばどっちも同じようなものだから、そう簡単には決まらないわけだ。一応はジーク側が有利だったらしいが、そこに強引にダアルが割り込んだらしいが……
そして都を二分したほとんど戦争状態になって、結局親玉同士の決闘で解決を迎えた。
この決闘はダアルⅣ世が勝って仇を取ったわけだ。ジークⅥ世は死にはしなかったが、その後一生足を引きずることになる。というわけで、その恨みはさらに次の代まで続く。すなわち今度はジークⅥ世がダアルなんかと仲良くするなと遺言を残すのだ。
なぜなら、決闘の結果ダアルの家が力を得た。大臣のポストについて権力を握ったダアルの家は、ジークの家を徹底的にいたぶった。政治的には今やジークの家はとてもかなうものじゃない。
記録に残っているだけでもずいぶんえげつないいたぶりかたをしているから……たとえば、ジーク主催の宴に行った奴は銀の塔から締め出すとか、ジークの一族は重要ポストから全部はずすとか……
そういう状態はジークⅦ世とダアルⅤ世の時代まで続く。ダアルⅤ世としてもいきなりその路線は変えられないし、ジークなんてろくでもない奴だと聞かされて育っているから疑問にも思わない。
その逆もまたそうで、ジークⅦ世もそういう環境で育ち、あまつさえ遺言まで受けたのだった。これでダアルⅤ世を憎まないようになるなんてとても考えられないよなあ。
彼らの時代もかなり一方的にジークがいたぶられていたのだが、恨みに燃えるジークⅦ世、フロウの親父はそんなことでは引き下がらなかった。いつか一矢報いてやろうと機会を待っていたのだ。
だがダアルⅤ世の方はジークとの決着はついたと思った。もはやジークⅦ世は何の政治的力も持たない。ジークⅦ世がどうあがこうと何もできないと思ったのだ。
そこで彼は大臣のポストだけでは満足せず、更に野心を燃やしはじめた。
というのは当時の大皇、要するに今の大皇だが、彼には皇女は二人いたが皇子がいなかった。大皇は体が弱いからか病気のせいか、もう子供を作れないとささやかれていた。
実際大皇は寝たり起きたりの生活が続き、いつ崩御してもおかしくないとささやかれていた。そのわりにはいままでお元気なんだけど……
ともかくこの状態にダアルⅤ世が目をつけたのだ。
要するに世継ぎがいない状態である。皇女では大皇になれないから、このままでは直系が絶えてしまう。それは何としても避けねばならない。とすればどうするか。すなわち皇女に男子を産んでもらい、その子を世継ぎとして立てなければならないわけである。
これは願ってもないチャンスである。姫と結婚して子供を作れば、自分の息子が大皇になるのだ!
ダアルⅤ世は、全力で姫にアタックする。何と言っても権力があるから有利だ。それにまだ彼も若い。そして、長女のエイジニア姫と婚約寸前までこぎつける。
だが、ジークⅦ世は手をこまねいて見てはいなかった。もしそうなったら、彼は破滅だ。永久に浮かぶ瀬はない。
で、信じられないことが起こる。唐突にジークⅦ世とエイジニア姫の婚約が発表されたのだった。
どうしてそんなことができたのだろうか。公式記録には何も書かれていない。エイジニア姫がただジークと結婚したと記されているだけである。
だが、世の風説ではジークⅦ世が夜這いして手込めにしたと言われている。ジークⅦ世は色男でも有名だった。口八丁手八丁、最後は実力公使で姫を口説き落したのだろう。
こういうのを一点集中撃破戦法と言うんだよなあ。見事に決まったわけだ。
で、ダアルⅤ世は仕方なく次女のエイニーア姫と結婚した。だが、世継ぎは一人。両方の娘に男子が産まれれば、長女のエイジニア姫の息子が世継ぎになる。見事に出し抜かれたのだ。
ここで立場がいきなり逆転する。どんなに高い位についていたところで、大皇や世継ぎに比べるべきもない。たとえダアルⅤ世であろうともお世継ぎの君にはかしづかねばならないのだ……
ダアルⅤ世がどれほど地団太を踏んだかは、想像に難くない。だが後の祭り。いくら彼でもどうしようもない。ダアルはまたしても女で煮え湯を飲まされたのだった……
しばらく後、二人の姫はほぼ同時に身ごもった。それから十月十日、エイニーア姫には男の子が産まれた。これがカロンデュールである。
ほぼ同時にエイジニア姫も出産した。だが不幸なことに彼女の出産は難産だった。それはエイジニア姫が双子を身ごもっていたせいもあった。
長い産みの苦しみの後子供は産まれた。しかしエイジニア姫は力を使い果たし息絶え、双子の一人も死んだ……こうして生き残った少年がメルフロウだった……
彼らは産まれたときから競争する運命にあったのである……
今やジークⅦ世とダアルⅤ世の勢力は均衡した。実際的な力はまだダアルⅤ世が上だとしても、メルフロウがいるかぎりジークⅦ世に頭が上がらないのだから。
今は不気味な均衡が続いている。この四、五年続いている平和が本物のわけがない……
というわけでだ。ティアの立場はかなり微妙なものなのだ。父親に続いてカロンデュールまで女を取られたとあったら、いったいどういうことになるのだろう。
もしこのバランスが崩れたら……今はまだ表に出てはいないからいいようなもの……うう、やだなあ。
本当に大丈夫なのかなあ。このままうまくいくんだろうか……あれ?
わああああ、また食われちまった……
今日は不調だ……
びゅん!と弓の弦がなる。矢は吸い込まれるように獲物に向かって飛んで行く。
「きゃああ、当たったわ!フロウ!一発じゃないの。すごい!」
うう、フロウがこんなに弓が上手なんて知らなかったわ。あんな遠くの獲物を一発よ。一発!
「当たったようですね」
「すごいじゃないの!」
「そうですか?」
もう……もっと喜んだっていいじゃない。
「ねえねえ、もう一回!」
「もう一回と言われても、もう獲物はいませんよ」
「ううん……」
「またそのうち出て来るでしょう」
今日は銀の森に狩にきている。フロウとは初めて。
本当は一週間前の予定だったんだけど、フロウの具合いが悪くなったので今日になったのだ。
前々からそうだったけど、フロウはけっこう体が弱いみたいでよく寝込んでしまう。でも今日は元気。まるで一週間前が嘘のよう。
あのときはすごく不機嫌で、あたしに会ってもろくに話してくれなかった。だから草々に退散したんだけど……本当は文句言いたかったのだけど。
でも良かったと言えば良かった。この間の予定の日は午後から雨が降ってきて、もしあのまま狩に出てたらずぶ濡れになっちゃったわ。きっと。
「ええ……でも、フロウって本当にうまいのねえ」
「はは、人に自慢できるのはこれだけなんです」
「嘘よう。いっぱいあるじゃない。あたしなんて本当に何にもないんだから」
「とんでもない。ティアだって慣れればできますよ」
「ええ?そうかしら」
「ちょっとやってみますか?」
おもしろそう!
あたしはフロウから弓を受け取った。
へえ、結構軽いんだ。
「矢をつがえて……そうそう、であちらの木を狙ってみましょう」
うう、引き絞るときつい……わっ。
「ああ、危ない!」
「きゃあああ」
「だ、大丈夫ですか」
「え、ええ」
弦で手を弾かれて、矢があさっての方に飛んで行ってしまった。
「やっぱり難しいじゃない!」
「女の子でもできる方はいるのですが」
「あたしはだめみたい……」
「そんなこと気にしなくていいですよ」
でも、フロウってやさしい……今でも夢みたい。こうしてフロウと一緒にいられるなんて…
ほんとにあたしでいいのかしら。自分のことを思うたびにそういう思いが頭にちらつく。
でも今日はそんなこと考えるのよそうっと。こんなにいい天気なんだし。珍しく二人きりだし……
「ねえ、フロウ……」
ちょっと甘えたって……
「メルフロウ様、お見事です」
と思ったとたんにムートがレックと一緒に大兎を下げてやってきた。
もう!
ムートは昔からフロウと一緒にいる。あたしたちが虹の森で出会ったときにも彼はいた。最初怒鳴られたんで恐い人だって思ってたんだけど、だんだんいい人だって分かってきて……特にカロンの森での一件の時なんか……
でもこれからいい時だっていうのに出てくることないじゃない。無粋なんだから……
付き人といえばはもう一人ルーという女の人がいる。この人はフロウの乳母だったそうだけど。
「ムート、君の追い出し方がうまいんだよ。獲物の方から矢に当たってくれる」
フロウもフロウよ!なんだか全然鈍いんだもの……
「ご謙遜を。それに追っていたのはレックですから」
ちなみにレックというのは犬の名前。
「そういえばそうだ」
みんな笑った。
フロウの笑顔。いいわあ。最近フロウはいつでも機嫌が悪いみたいで、こんな笑顔は見たことがない……ああ?そういえば再会して初めてじゃないの?思い出の中ではいっつも笑ってたから……
でも何となく今の笑顔は前と違うな。
あれから随分たっちゃったし、みんな大きくなってしまった……それにフロウはお世継ぎなんだし、気苦労も多いのよねえ。
公の場に出たときに恐い顔するのは分かるけど。あたしたちだけの時でもあまり笑わないし……といっても完全にあたしたちだけのことはあんまりないからかしら。
「ムート、ティアがもう一度見たいと言うんだが、まだ獲物はいそうか?」
「メルフロウ様、いるとは思いますが、少し戻った方がよろしいのでは。離れすぎてしまったようですが」
「そういえばそうだな」
「ええ?戻るの?」
「エルセティア様、お世継ぎに何かあっては……」
「…………」
お世継ぎって結構窮屈な商売なのよね。いつでもこんな調子だから、滅多に二人きりにはなれないのだ。
うう、婚約者同士なのにまだゆっくりと二人っきりで話したこともない……最初の時だけよ。ああ、もう……今日の狩だってそんな機会があるんじゃないかなって、楽しみにしてたのに…
「最近夜盗が出るという噂です。ですからあまり離れてしまっては危険です」
「ティア、あっちにも獲物はいますよ。きっと」
「……ええ」
ぶつぶつ。あたしは獲物よりフロウがいいのに。
その時角笛の音が聞こえた。
「はは。言ったそばからですね」
「そのようです」
「ねえ、あれなんて言ってるの?」
「早く戻って来い、ですよ」
だと思った!もう!
狩なんかでは遠くはなれても話ができるように、角笛の旋律にはいろいろ意味がある。男の人はみんな知ってるんだけど、あたしはよくわからない。
だいたい女はあんまり狩にはついて行かないのだ。行ってもキャンプで待ってるのが普通。
でもあたしは待ってるのなんていやだから、ついて来ちゃった。こうしないと二人きりになれないし……それは結局失敗だったけど。
あたしたちはきびすを返した。フロウはまたいつもの顔に戻っちゃってる……あーあ。
そうやって戻っていくと、向こうの方からだれかやってくる。
「フロウ、フロウ」
げ、あの声は……
「フロウ!心配したぞ!」
「大丈夫です!父上」
きゃあ。フロウのパパが来ちゃった。あたしあの人苦手。あたしのことにらむんだもの。何も悪いことしてないのに。
またそうだわ。そんなににらまないでよ。
「エルセティア姫も一緒なのに、何かあったらどうする!」
「すみません、父上」
フロウはさっきとはうってかわって、厳しい顔になっている。
「それにムート!おまえがついていながら……」
「すみません。私の責任です」
「ムートのせいじゃありません」
そんなに怒ることないじゃない。別に何もしてないんだから。
「そ、そうです!フ、フロウのせいじゃないんです。あたしが獲物を追いかけて……」
フロウのパパ、ジークⅦ世はあたしを見てにたっと(決して『にこっと』ではない)笑った。
「エルセティア姫、お転婆はよろしいですが度を越さないように」
な、なによ。このぐらいいいじゃないの……
「は、はい……」
今は一応おとなしくしなきゃ……
「あなたには立派な子供を産んでもらわなければならないんだから」
「え、ええ……」
なによ!二言目にはそればっかり!
だいたいフロウと二人きりにならなきゃ子供だって……きゃああ。
「父上!まだ婚約中でしょう?」
そうよ!フロウのいうとおりだわ。こういうのはちゃんと手順があって……
「同じようなものだろう」
何が同じよ!ずいぶんじゃない?あたしは子供産みにきたんじゃないんだから!あなたの子供じゃないでしょ!
ぶつぶつ。
そういえばジークⅦ世はあたしが一緒に行くことが随分気に入らなかったみたい。あたしが馬に乗ってたら目を丸くしてたっけ。
これからずっとこの人とつきあってくことになるのよねえ。この人をお父さまって呼ばなきゃならないんだ。なんとなく気が重いなあ。
「ところで獲物は取れたのか?フロウ」
「大したものではありませんが」
ムートが獲物を見せた。
「ほう、これはまた大きいな」
「お父さま!それ、フロウが一発でしとめましたのよ」
「そうか……」
うれしくないのかしら。ジークⅦ世はじっとフロウを見ると、きびすを返した。
何だか変な人!
「ティア、行きましょう」
「え、ええ」
もうちょっとここにいたいのに……しょうがないわ。まあ、またの機会もあることだし……
あたしたちはキャンプに向かって歩き出した。言い遅れたけど、あたしの乗ってるのはポニー。家から連れてきたのだ。この子ならいつだって絶対安心だもん。
「ねえ、フロウ……」
「……え?」
まただわ。いつもの顔。どうしていつもこんなに浮かない顔してるのかしら。それともまだ病気が悪いのかしら。
「また気分がすぐれないの?」
「いえ、そんなことはありませんよ」
「でもお顔が冴えないみたい」
「そうですか?」
「そう見えるわ」
フロウは笑った。でも、無理してるみたいな……
「大丈夫です。それに……ああ、キャンプが見えましたよ」
あーあ。戻って来ちゃった。
あたしたちがキャンプにつくとルーがとんできた。
「メルフロウ様、エルセティア様!」
「どうしたの?」
「ご無事でしたか」
「無事って……何かあったの?」
「いえ、滅相もない!そうじゃなく、姫が馬で行ってしまわれるから……」
何かミーアに似てるのよ。この人。でももうちょっと若いけど。
「大丈夫よ!あたし乗馬は得意なの」
「でも……女の方が……」
そういう人、多いのよねえ。文句言わないのはお兄ちゃんだけ。パパなんかあたしが馬をおねだりしたときはすごかったんだから。でも、ちゃんと買ってくれたとこはえらい。それがいま乗ってるポニーだ。
その時フロウが笑いだした。
「あははははは、ルー。女性が乗馬するのがそんなにおかしいですか?」
「いえ、いえ、ですが……」
「大丈夫。ティアは。私より上手なぐらいですよ。彼女は前は鞍のついた馬になんて乗っていませんでしたから」
ちょっとちょっと!
「まあ!まあ!」
驚かないでよね。あれは……小馬だったし、ちょっと乗っただけじゃない!
「ですから手綱のついた馬から落ちることなんてないんですよ」
ああ、あの顔は完全に信じこんじゃってるわ!これじゃあたしがまるで裸馬に乗って駆け回ってたみたいじゃない!
「フロウ!ひどいわ。あれは……」
「わかってますよ」
「もう……」
「ああ、驚かさないで下さい」
この程度で驚いてたら、半月亭のこと話したら卒中を起こすんじゃないかしら。
「それより食事の準備はできていますか?そろそろお腹が空いてきましたが」
そうそう。午前中いっぱい走り回ってたからぺこぺこ。
「それが……」
「ええ?できてないの?」
ルーがまた目を丸くする。つい大声で……あたしは口を押さえた。
「今日はこれで終わりだそうで……」
「ええ?」
回りを見るとみんな帰り支度だ。
「どうして帰っちゃうのよ?」
「ジーク様に用事ができたそうです」
「用事?」
「銀の塔からジーク様にお召しがかかったそうです」
だったら一人で帰ればいいじゃないの。
「用事とはなんですか?」
「さあ、私には……」
「またあの噂のことではないですか?」
ムートが言う。夜盗のことかしら?
「でもあれは被害に会った人はいないのではなかったですか?」
「そのようですが……」
もう、つまらない話!こんなことであたしたちのデートがぶっつぶされたと思うと……
「そうなの?つまんない。まだ日は高いし、今から帰ったんじゃ絶対早すぎるじゃない」
「でも……エルセティア様」
「ティア、しかたありません。帰りましょう」
うう。もうちょっと一緒にいたいのに……
フロウはお父さまには逆らえないみたい。あたしもそうだけど……しょうがないかなあ……そうだ!いいことを思いついた。
「ねえ、フロウ、虹の森を回って帰らない?」
フロウに小声でささやいた。
「虹の森?」
「ねえ、行きましょうよ」
これはどうしようか悩んでるって顔だわ。だってあそこはあたしたちが初めて会った場所。行きたくないなんてことはないわよねえ。
「虹の森ならちょっと遠回りになるだけだわ。そこでお弁当を食べましょうよ」
「うーん……」
「それに、今日はお兄ちゃんがあそこで釣りをしてると思うわ。朝そんなこと言ってたもの。びっくりさせちゃいましょうよ」
「フィナルフィン殿が?」
「ええ」
フロウはあたりを見回した。
「いきましょうか」
「うん!もしかしたらお兄ちゃんが大きな魚を釣ってるかも知れないわ」
「そうですね。フィナルフィン殿は釣りがお上手でしたから……」
えへへ、やったね!これでしばらく二人きり!
「ムート、ムート」
「あ、あ、どうしてムートを呼ぶのよ」
「一応彼には来てもらいましょう」
「でも……」
「大丈夫。彼は邪魔しませんよ」
うう、まあいいか。
ムートがやってきた。フロウが何かささやいている。顔色がちょっと変わったけど……あ、うなずいた。よしよし!こうでなくっちゃ!
くそ、また逃げられちまった。今日は今一だなあ。
朝から釣っててまだ小さい奴が四匹だけじゃないか。腕が鈍ったかな。前は得意だったんだがなあ。最近あまり来てないから。
そうなんだよ。あいつに初めて会ったのは釣りにきたときだった。
ティアの奴は釣りなんて好きじゃないくせに、外で遊びたいもんだから一緒にくっついて来たっけ。そうして俺が釣りだしたらどこかへ遊びに行ってしまった。おかげでよく迷子になりかかったもんだ。
そのせいであいつに会えたんだけどな。
あのときも今日みたいにいい天気だった。俺は行方不明になったティアを必死に捜してたんだよな。危ないんだよ。あいつは。方向音痴の気がある癖に、すぐどっかへ行きたがるんだから。いなくなったなんて言ったら、大目玉くらっちまう。
で、森の中でのんきに遊んでやがるあいつを見つけたとき、大声で怒ったんだ。
そうしたらフロウがいたんだよな。まあ、びっくりしちゃって。
ちっこいガキだったね。顔立ちはきれいだったがやせっぽちで……とっても今の姿からは想像がつかない。
目を丸くして俺を見てたっけ。その時はティアよりも年下かと思ったんだが。同い年だったとはね。
その時からムートがひっついていた。俺の声を聞きつけてムートがやってきた。何だかえらくあわててたように見えたな。来たとたんに大声で俺達を怒ったっけ。そのうえで俺に名前とか家とか付き人は来てるかとかをさんざん尋ねられたような記憶があるが。
今になってやっと理由が分かったわけだ。
考えたら、俺達が付き人も無しに遊び回ってたのが幸いしたのかもね。付き人がいたりしたら多分まともには会えなかっただろうな。
その後何度か会えたのも、俺達だけだって約束だったからなんだな。
ムートにしたらひやひやもんだったろうな。多分これはあいつの裁量だったんだろう。でなきゃ正式な手順をふんで『ご友人』になってたはずだ。今度会ったら聞いてみよう。
そういう回りとは関係なしに、あいつらはのんきなもんだった……こっちも同じようなもんだったが。
そうそう。一度ムートをからかってやったことがあったっけ。場所はカロンの森だったよな。ティアやフロウがいつでもムートがついて来るって文句を垂れたから、あそこでムートを卷いたんだよ。
あの森は道が分かりにくいから。俺なんかはドクターに連れられてよく行ってたから良かったけど、初めてだと大変だよ。
そしてとねりこの気の下で食事して、さんざん遊んで、あの約束もその時だったっけ……その後が大変だったね。卷いてしまったムートを捜すのが。
俺は見つけたら怒られると思ってた。その頃には少し自分のしたことが分かりかけてきたから……ところがやっと見つけたときにはあいつ真っ青で震えていた。フロウを見るなり抱きしめちゃって……怒るどころじゃなかったね。うちの親父だったらいきなりぶん殴られてたところだ。
俺はそれを見て『なんて甘やかされた奴だ』と思った記憶がある。しかし考えたら当然のことだよな。ムートにしてしてみれば。
ティアが振られたのはあのせいだったのかなあ。
だが、あの後も何度か会ったよなあ。発覚が遅れたと言う考えもあるが。
しかし恐いもの知らずだった。あいつが世継ぎだと知っていたら、さすがに俺だって少しは考えただろうが……ティアと一緒に結構からかってたからなあ。ティアは蛇が嫌いだったがフロウもそうだった。いっぺん目の前にぶら下げてやったら、気絶しそうになって……
うう、何か気絶しそうな気分になってきたよ。なんて恐ろしいことをしてしまったんだ、俺は!
はああ。いま何時だ?まだ早いみたいだなあ。
釣りもうまくいかないし、かといって家には戻りたくないよなあ。ああ、ぽかぽかとしてきた。寝ちまおうかな。
目をつぶると……はあ、いい気分だ……………………………………………………………………んん……何となく人の声が…………夢かな…………
ぎゃああああ。
「わあああああ、冷たい!」
「きゃははははははは」
「ティア、ちょっとひどいのでは……」
「いいのよ!」
な、何だ何だ?ああ!この野郎……
「お兄ちゃん、お・は・よ・う!」
「ティア……お前なあ……ああ、フロウ!」
寝ぼけ眼をこすって起きると、ティアとフロウがいる。いったいどうして……
「フィナルフィン殿。お久しぶりです」
「こ、これは……失礼しました……」
状況が、状況が……
「ね、いたでしょ」
「ええ」
「メ、メルフロウ皇子」
「昔通りフロウでいいですよ。あなたはティアのお兄様です。私の義兄でもありますから」
と、言われても、今となっては……
「お願いします。フィン。こういう風に呼びあえるのは、ティアとあなただけなのです。それにさっきちゃんとそう呼んでいただけました」
さっきは……でも……まあ、いいかな。
「それじゃあ……フロウ、どうしてこちらに」
「狩が早く終わってしまったのです」
「はあ、そうですか」
何か調子がでない。
「今日はムートは?」
「いますよ」
見るとムートが木の蔭に控えている。ちゃんとお役目は果してるってわけだ。今日も。
「ねえフロウ。お兄ちゃんと会うのは何年ぶりかしら」
「ずいぶんになりますねえ」
確かに……いなくなってからずっと会ってないし、ティアがこうなってからも面と向かっては会ってない。公式の場で二~三回ちょっと話しただけだ。それも挨拶だけだった。他に人間がわんさといたんで、俺なんかが話してる暇がない。
しかも俺は公式にはフロウと面識なんてないことになってるから……昔蛇でおどかしたなんていったら、ますます大騒ぎだ。
俺はフロウの顔をしげしげと眺めた。
ううん。美少年だ。何だかぞくぞくしてくる。
あの時に比べてずっと成長している。背も高くなっている。といってもまだ標準よりは低いが。それに細い感じも変わっていないけど。それに印象的な目は前のまんまだ。声の感じも覚えてるとおり……澄んだいい声をしている。
これじゃあ都の女が騒ぐのも無理ないよなあ。
だが……きれいだ。はっきりいってティアよりきれいだね。
「どうしました?」
わ、わ、わ!
「い、いや、立派になったと思って。前はずいぶん情けないガキ……じゃなくてか弱い感じだったけど」
俺はあわててごまかした。フロウは笑顔を見せた。
「そういってくださると……」
「ねえねえ聞いて!フロウね、弓がとっても上手なのよ」
「へえ」
「今日も一発で大兎をしとめちゃったんだから」
「大兎?あのすばしこいのを?」
「そう!すごいでしょ」
「すごい。それはすごい!」
「そんなに大したことはありませんよ」
「いやいや。僕なんか大兎に当てたことなんてないですよ」
へえ、見かけに寄らないもんだ。さすがだね。
何か印象が違うじゃないか。ティアの話じゃえらく女々しい感じがしてたけど。確かあの日泣いたって言ってたよなあ。男の癖に軽々しく涙なんか見せるもんじゃないよ。早くに母親をなくしたせいで、マザコンになってるんじゃないかって思ったんだが……
そんな取り越し苦労するんじゃなかったね。こうやってみるとなかなかりりしい。マザコン男じゃこうはいかないだろう。
「そういえば、お兄ちゃんの成果は?」
「成果?」
「釣りしてたんでしょ?」
ぐ。
「ああ、その顔、釣れなかったんでしょう」
ぐ、ぐ。
「フロウは大兎なのに……ああ、たった四匹!」
「こら、見るな!」
「見ちゃったもん。あーあ。情けないわ!お弁当のおかずにブラックサンのステーキがいいなって思ってたのに」
「わ、悪かったな、どうせ俺は下手だよ!」
くそ、こいつ増長しやがって……
「あー、お兄ちゃんたら……」
「あはははは、ティア、許してあげたら?こっちだってまかり間違えたら手ぶらだったんですから」
そうそう。釣りは水物。良いときもあれば悪いときもある。
「でも、前はもっと大きい魚を釣っていらっしゃったですよねえ。こっちが小さかったからそう見えたのでしょうか?」
うう、みんなでいじめる……
「今日は……不調なんですよ。今度はもっと大きいのを釣ってきましょう」
「期待してますよ」
しなくていい、しなくていい!
「それよりお弁当にしましょうよ。もう本気でお腹が背中にくっつきそう」
「フィナルフィン殿は?」
「ええ?そういえばまだだけど……」
「では一緒にどうですか?」
「それはいい」
「ムート!」
「はい」
ムートが弁当の包を持ってやってきた。
「や、やあ、ムート、お久しぶりですね」
「こちらこそ、フィナルフィン殿」
「あのころは迷惑かけました」
「いえいえ」
「あの少年がこんなに立派になっちゃって、母君がいらっしゃらないから、さぞ大変だったでしょう。生きていらっしゃったらさぞお喜びになったでしょうねえ」
とたんにムートがぴくっと動いた。
「え?!ああ、そうですね」
何をびっくりしてるんだ?
「エイジニア様がいらっしゃれば……」
変な奴……もしかしてこいつエイジニア皇女に惚れてたんじゃないのか?
「それより、火を起こしましょう。温めた方がおいしいでしょうから。それにその魚も……」
ムートは話を外らすように包を開いた。なんだか不自然だが……おお、なんと!
「うわあ、さすがに違うな」
たかが狩の弁当がどうしてこんなに上等なんだ?
「今日は特別ですから」
そんなもんかね。ともかく俺も魚を提供しなければ。小さいけど丁度四匹だからいいかな?それにこいつは結構うまいから……
というわけでそれから時ならぬキャンプが始まった。
おれたちはしこたま食って飲んだ。
久々に楽しい午後だ。なんだか急に若返った気分だ。そういえば昔もこんな調子だったよなあ。料理はもっとひどかったが……
フロウはよく笑う。これも昔通りだ。
こうやってると彼が世継ぎだなんて忘れちゃいそうだ。ここにいるのは昔の小さいフロウ。俺達と遊んだ発育不良のガキ……
こらこら、失礼なことを考えるんじゃないよ……
その時だった。
水鳥が飛んで来てさっと湖に飛び込んだかと思うと、魚をくわえて飛んで行った。
「あ、すごい!」
俺は飛んで行く水鳥を見つめた。
フロウもティアもそれを見つめている。
言葉が切れて、あたりは森の音に包まれた。
鳥の声が聞こえる。あれはシジュウガラだな。その向こうではカッコウの声が聞こえる。
前もこんなことがあったな……
「フィン」
「え?」
「思いだしますね」
「ええ」
「覚えてますか?一度カロンの森でムートを追い払った時のことを」
あの時のことか。
「もちろんですよ。ムートには悪かったけど」
あ、やっぱり。俺はムートを見た。
「あ、あの時はどうも、その、なんといっていいか」
「もういいですよ。いまは」
「あの後さんざん叱られましたよ」
だろうなあ。
「あたしも覚えてる!あの時よ。とねりこの木に字を掘ったの」
「フィンがとねりこの木には魔力があって、その下で立てた誓いは必ず成就するって言ったのでしたね」
あははははは。
「お、覚えてましたか」
「忘れないわよ!」
「あ、あれは……冗談だったんですが」
「ええ?」
げ。
「いや、何か昔の本に書いてあったような気はしたんだけど、その場ででっち上げたんですよ」
フロウは目を丸くした。や、やばい。怒ったかな。
「わ、悪気があったわけじゃ……」
「お兄ちゃん!あれ嘘だったの?」
「べ、別に騙そうとしたわけじゃ……」
「あははははは」
フロウが笑いだした。楽しそうに笑う奴だ。
「?」
「でも、本当に成就しましたね!」
そうだ、な。
「そうよねえ、本当に会えたんだし……お兄ちゃんの大嘘が本当になっちゃったんだ」
「こうなったら嘘じゃありませんね」
「そ、そうそう。結果が第一」
「はあ。でも楽しかった……あの時のこと、一日だって忘れたことはありませんでした」
そんなもんか?
「知ってますか?私が今まで家の者以外と何かしたのはあの時だけなんです」
「ああ?」
「ええ?そうだったの?」
「あれは私にとってはものすごい冒険でした。まるであなたが英雄に見えた」
「僕が?」
「お兄ちゃんが?」
えらく大げさな……
「ええ、ティア。あの時私の胸は高鳴りっぱなしでした。あの時ですよね。あなたの釣ったブラックサンを浜で焼いて食べたのは」
「確かそうでしたね」
「そうそう!覚えてるわ」
「すごくおいしかった……私が自由に何かしたというのは、今まであれだけなんです」
「あれだけ?」
「ええ。他の時はムートがついていましたし、あれより前にも後にもそんなことはありませんでした……あの魚の味は決して忘れられない」
「あたしも覚えてるわ。真っ黒焦げで、しょっぱくて……」
「あれはお前が悪いんだろ!ちゃんと見てろっていったんだぞ」
この墓穴っ掘りが!
「だって……」
「塩をしたのもお前だ!」
「だって……分からなかったんだもの」
「フロウ、こいつの料理の腕はあのときから大して進歩してないから、注意したほうがいいですよ。塩のつけかたぐらいは覚えたみたいだけど……」
「ご忠告恐れ入ります」
「お兄ちゃんたら!」
ざまあみろ。さっきのお返しだ。
だけど……すごい生活なんだな。お世継ぎってのは。四六時中監視されてるのか。だろうなあ。何かあったら大変だからなあ。
そういう生活してたら、あの体験は強烈だっただろうなあ。こっちは当り前のことだったけど。
けど、後が大変だっただろうな。
「でも、そのせいじゃないんですか。交際を差し止められたのは。だとしたら……」
ひょっと軽く言った気だったのだが……
「…………」
ありゃ?
「フロウ?」
「そのせいじゃありません……」
何だ?急に暗くなっちゃって。
「あれは……」
何かあったらしいが……
「いいですよ。無理に喋らなくとも」
「すみません」
「それより、そろそろ陽が傾いてきたけれども……」
「そうですね、それではこの辺で……ティアは後でお送りします」
「そんな気にしなくてもティアなら放っといたら帰ってきますよ」
「あたし犬じゃないのよ!」
「確かにな。犬の方が方向感覚は確かだ」
「あのねえ!」
「それではやっぱり私が送りましょう!」
「フロウ!」
「お願いします!」
「お兄ちゃん!」
「それでは!」
「じゃああとでね」
「気をつけろよ」
そうして二人は行ってしまった。
ふう。それにしてもびっくりしたな。フロウ、フロウか。
いったいどうして来るのをやめちゃったんだろう。あれが原因でないとすると。他に理由があるのかなあ。
あとでティアに聞いてみるか。あいつは貝のように口が固い。ちょっとゆでたらすぐ開く。その線で行ってみよう!
でも……変わってないなあ……