10. 最後の舞踏会
いつもながらの喧噪だ。今日もまたギネスの日に当たっているので、人がやたらに多い。席を確保するのだけで大変だ。
「すみませんね、フィナルフィン様、こんな席で」
半月亭のマスターがちぢこまっている。
「いいよ。ここで十分だ」
「でも前がよく見えませんよ」
「声が聞こえれば十分だよ。それよりアルカと生ハムを頼むよ」
「かしこまりました」
こういう場所で家柄をひけらかすようなひんしゅくは問題外だ。
それよりそろそろ来てもいい頃だが……まさかいきなり襲ってくることはないだろうが……この裏口に近い席を取ったのはその計算もある。
なんてったってダアルの家とは敵同士だ。うちがいくら無関係でも、ティアがあれだけ派手に結婚してしまってはそうも言ってられない。事実、あれ以来ダアルの家からの招待状は何一つ来なくなった。用心するに越したことはない。
その時入口から男が一人入ってきた。見覚えのある顔だ。そうそう。あの時デュールにひっついていた男だ。カルスロムといったな。
カルスロムは俺を見つけるとすぐにやってきた。他に人がいる気配はない。一応約束通り一人で来たらしいな。だが、外には誰かを待たせていると考えた方がいい。それが常識だ。
「やあ、お久しぶり」
「フィナルフィン殿ですね」
「カルスロム殿かな?」
「はい」
「フィナルフィンです。さあどうぞ、おかけ下さい。あなたのために取っておいた席です」
カルスロムはあたりを見回しながら慎重に座った。
「さてさて、何はともあれ一杯いかがですか?」
「ええ?私は……」
「大丈夫ですよ。毒を盛ったりなんかしませんよ。この店の信用が落ちてしまう」
「い、いえ、そういう訳では……ではいただきます」
俺達は乾杯した。カルスロムは一気に飲み干した。いい飲みっぷりじゃないか。
「もう一杯いかがです?」
「いえ、結構です」
「まあ、そう言わずに」
慎重な男だ。俺はカルスロムのグラスに酒をついだ。カルスロムは上目遣いに俺を見る。俺を値踏みしているらしい。俺は無視した。
「今日もまたギネスなんですよ。この間もそうでしたね」
「はあ、そうですね」
「こういう日はやたらに人が多いんだけど、みんなあっち向いてて誰もこっちのことなんて気にしないんですよね」
「なあるほどね。だからここを選んだのですか」
「まあ、そういうわけです。なんだか大切な話だって言うから」
最近えらく自分が大胆になった気がする。それというのも……
「そうですね。では本題に入りましょうか」
「ええ。で、僕なんかにお話とは?」
フロウの暗殺の手引なんていやだよ、という冗談はやっぱり言わないことにした。
「単刀直入に申しましょう。それはあの都の噂のことです」
「噂?あのメルフロウの君の妹姫の噂ですか?」
「そうです」
「それが何か?」
「おとぼけ下さいますな。その噂を流した張本人が」
なかなか正確な情報網だなあ。
「ああ、もうばれていたのか……あのデマがこんなことになっちゃって、困ってるんですよ……お騒がせしたのは謝りますよ。でもあなたがじきじきに懲らしめにこなくとも……」
「ほう……あれはデマですか?」
「当然でしょう!どこにあんな馬鹿な話がありますか」
「噂には尾ひれがつきものです。でも火のないところに煙は立たぬと申しますが」
「何をおっしゃっているのですか?」
「あれの大部分は嘘でしょう。でも、メルフロウ君の妹姫がいるというのは真実なのではないですか?」
「はあ?」
「そしてあなたがその妹姫を知っているということも」
「ちょ、ちょっと待った」
俺はあわててグラスをこぼしそうになった、ふりをした。
「動揺なさってますね?」
俺の芝居でもひっかかるものだ。
「な、何がでしょう」
「お隠しなさいますな」
「あ、あ、あのですねえ、な、何を根拠にそんな馬鹿なことを言うのです!」
「馬鹿なことではありません。まず第一に噂の起点があなただということ」
「それは認めますがね」
「あなたは女性用の服を特注していますね?」
「あ、あのねえ、女に服をやってはいけないんですか?」
「ここまでしらをきるとは……では、エルセティア姫から何かお聞きになってはいないのですか?」
「ティアから?」
「ははは、それで分かった。あなたは知らないのですか?」
「な、何をです!ま、まさかファラは……わ!」
俺は口を押さえた。
「お隠しにならなくとも結構です。実は先日カロンデュール様がメルファラ皇女とお会いになっているのです」
「な、何だって?」
俺は大声でいった。一瞬回りが沈黙してしまった。や、やばい。やりすぎたか?
「ど、どうしてそんなことが……」
俺は声をひそめた。
「先日銀の森で狩を行なったとき、従者の一人が流れ矢に当たったのです。そこからだと都に帰るのに別邸から船で行った方が早かったのです。そこでお二人がハネムーンをなさっていると知ってはいましたが、そこへ行ったのです」
「そ、そこに来ていたのか?」
「ええ」
俺は乗り出した。
「他に誰が知っている?」
「カロンデュール様と私だけです」
「ああ!」
俺はさも良かったというふりをした。
「こ、このことは決して口外なさらないで下さい!」
「一応そのつもりです。しかしことと場合によっては……」
「だ、だめです!」
俺はまた声を荒げた。回りを見回してまた小声で話す。
「そんなことになったら本当に二度とファラと会えなくなってしまう!」
「どういうことです?」
「そ、それは……」
「フィナルフィン殿、お話をお聞かせ願いたい」
俺はうなだれた。
「わ、分かりました……お話しますよ。でも本当に口外だけはなさらないでください」
「わかりました」
さてさて。
「確かにメルフロウには双子の妹がいます。彼女はメルフロウとは別々に育てられました。彼女は生まれたと同時に北の山の奥のある老夫婦のもとに預けられたということですが、その経緯については知りません。聞いたことはあるのですが、話してくれませんでした……僕たちと彼女が知り合ったのは偶然でした……」
「あなた達?」
「ええ、僕とティアです。僕たちはよく馬に乗って遠くへ遊びに行ったのです。そうしていつか月の森に行ったときのことです。僕たちは知らない女の子と出会いました。とても可愛い女の子でした。僕はびっくりしたのですが、ティアは……あの性格でしょう、すぐに仲良くなってしまいました。
それからときどき僕たちは彼女と会って遊びました。彼女は友達がいないというもんですから……しかし彼女は住んでいる場所や、どうしてそんなところにいるかとかについては、何も教えてくれませんでした。尋ねても、悲しそうな顔をして首を横に振るだけで……そしてそれを教えてしまったら二度と会えなくなると繰り返すだけなのです。僕たちはそんなことは嫌でしたからもう尋ねませんでした。
そんなときです。僕たちは森で彼女に会いに来たメルフロウの君と出会ったのです。その時僕たちは彼がお世継ぎだとは知らなかったので、彼女ともども一緒に遊んだのです……今から七、八年前のことです」
「エルセティア姫がメルフロウ君と結婚なさったのは……」
「はい……それが最初のきっかけでした」
カルスロムはなるほどという顔をした。そうでもなきゃあんな娘がフロウの嫁になるわけがない、って顔だ。
「その後、メルファラ皇女は?」
「ちょうどその頃からメルフロウ君がご病気になり始めたので、あまり来られなくなりました……それを知って、なぜなのかは知りませんが、メルファラ皇女は自分のせいだと言って姿を消してしまったのです」
「それはまたどうして」
「わかりません。僕には想像もつきません……ともかく、それから長い間彼女とは会いませんでした。とこるが、メルフロウの君が結婚することになって彼女は再び現われました。カロンデュール殿がみたような姿で……僕が知っているのはこれだけなんです。だからお聞きになりたいようなことには何も答えられません。彼女がどこにいるかとか、なんでそんな育ち方をしたかとか、どうして秘密にしなければいけなかったかとかについては……」
「そうですか……居場所を御存知ないのですか」
「残念ながら……」
「ああ、カロンデュール様はさぞお嘆きになることだろう」
やっぱり!あいつは一目ぼれしたらしい。
「どういうことです?」
聞くだけ聞いてみよう。
「ああ、実は、カロンデュール様はあの日以来ひどく落ち込んでいらっしゃいました。私が尋ねても答えてくれません。しつこく尋ねましても、『あの方はいったいどこに』とおっしゃるだけで……ところがこの噂を聞いてからです。私に全てをお話になり、噂のもとを調べよと仰せでした。そして私が調べてこうして来たのです」
ほとんど完璧なパターンじゃないか。
「な、なんだって?カロンデュールが?」
「フィナルフィン殿、ですから何かヒントになるようなことでもあれば……」
「ちょ、ちょっと待った。そればかりは……」
「おねがいします!」
カルスロムは頭を下げた。土下座しそうな勢いである。
「ですが……頭をお上げ下さい!」
「お願いします、どうか教えて下さい!」
よし、最後のを行くぞ!
「そういうことを言われても……ああ?」
急に何かに思い当たったという感じは出たかな?カルスロムがぴくっとこっちを向いた。俺はわざとらしく目を背けた。
「フィナルフィン殿……?」
「ファラが……そうなのか?」
俺はつぶやく。聞こえるように。
「メルファラ皇女がいかが?」
「い、いえ……でも……だが……」
「どうなさいました?」
俺は間をおいた。そしておもむろに口を開いた。
「カルスロム殿、もしかしたらメルファラ皇女はお会いになってくれるかも知れません」
「ええ?本当ですか?ではやっぱり御存知なのですね?さっき知らないといったのは嘘だったのですね」
「いや、あれは本当ですよ。知っているのはどうしたら彼女に会えるかということでして……」
「人が悪い!それにしてもどうして彼女が会ってくれると……いきなり?」
「まだはっきりとは分かりませんが……もしかしたら彼女もカロンデュール殿のことを忘れかねているのでは……と思ったのです」
「なんですって?」
「この間会ったとき、なにかいつもと調子が異なっていましたから……ぼうっと何か考え込んでいる様子で」
「本当ですか?」
「それは事実ですが、誰を思っているのかは分かりませんよ……でも、もしそうならばお会いになれる手はずを整えてあげたいのですが……」
「お願いします!」
「ですが……それには多分条件がいるでしょう」
「どのような条件です?」
「まず彼女の同意がいること」
「はい……」
「それと……おわかりでしょう。カロンデュール君はダアルの君、彼女はジークの姫です。僕は彼女を危険にさらす訳には行かない……」
「…………」
「僕自身はカロンデュールに何の恨みもありませんが、いま僕はジークの一族も同様なのです」
「彼女に何か危害が加わるとでも?」
「ありていに言えばそうです。もしあなた方が彼女を拉致したりすれば……」
「そんなことはありません。私が命にかけても……」
「僕も命にかけて彼女を守らなければならないのです。僕の軽はずみな発言でこんな噂が広まってしまって……」
「ではどうすれば信用していただけるのです?」
俺はまた間をおいた。
「難しい問題でしょうね……第一僕一人の考えでこんなことはできません……危険も多すぎるし……」
「フィナルフィン殿!」
カルスロムの声に悲痛な響きが入る。
「カルスロム殿、これは難しいゲームなんですよ……我々の間の信頼関係がこうなっている以上ね……私たちが信頼しあえれば、問題はないのですが……」
「信頼しあわなければ争いになるでしょうね」
「ええ。ですが問題は、片方が裏切ったときです」
「片方が?」
「そうです。たとえば僕があなた方を信じてファラに会わせる段取りをつけたとします。その時あなた方が裏切りファラをさらっていったとしたら……」
「そんなことはしません!」
「でも、その逆のこともあるでしょう。カロンデュールが信じてやってきたところ、そこにいたのは男ばかりで散々袋叩きにされたとか……」
「…………」
「問題はこのジレンマなんですよ。」
今度はカルスロムが黙り込んだ。
「カルスロム殿、僕たちは信じ合えるのでしょうか?」
「……フィナルフィン殿、そう心配なされるのはごもっともです……ですが……このことだけは信じてもらわねば……カロンデュール様はメルフロウの君を憎んでおりません。どちらかといえば、あこがれていらっしゃるのです」
ふうん。
「あこがれて?」
「はい……ですから私はここで左目をかけて申せます。カロンデュール様は決して裏切らないと」
少なくともカルスロムは本気らしいな。ということはカロンデュールも本気だと言うことは十分考えられるなあ。やはりここはカロンデュールに賭けてみることにするか。
「カルスロム殿……軽々しいことはなさらない方が……」
「私は本気です」
「でも、もしカロンデュール殿がファラに逢って、お二人が恋に落ちたとしたらいかがなさるおつもりですか?」
「その時は……」
「カロンデュールやあなたはダアルⅤ世と対立することになりませんか?」
「…………」
「それにそうなったら姫の方もジークⅦ世との関係がありますし……そうなるとカロンデュール殿も並大抵の覚悟では……両家を敵に回して……」
「フィナルフィン殿……」
カルスロムが言った。
「そろそろこの呪われた両家の関係に終止符を打たねばなりません」
わ、言われちゃったよ……最後に俺がかっこよく言おうと思ってたのに!
「カルスロム殿……」
「カロンデュール様はそれを望んでおられます……そのためには何でもなさるおつもりでいるとおもいます」
俺は間をおいた。
「……分かりました……ではこうしましょう。実は私はファラに連絡する方法を知っていますので、このことを彼女に伝えます。彼女が承諾したら私が秘密にカロンデュール殿を案内します。そのときカロンデュール殿は必ずお一人で来られなければなりません……」
「それはいつです?」
「まだそれは……彼女の意向を聞かねばなりませんから……追って連絡したいと思いますが、どこに連絡すれば……」
「それはこちらへお願いします」
カルスロムは連絡方法を説明した。
さあて、これで駒は揃った。今後どう転ぶか……どっちに転んでもあんまり大した結果にはなりそうもないなあ。
もしカロンデュールがダメなやつでいざというとき怖気づいてしまったら、俺達は都落ちしなきゃならなくなる。その反対の場合は……俺は骨折り損でなにも得るものがない……
うわあああ。本当に何で俺はこんなことしてるんだ?
ふう、さすがに疲れちゃった。フロウは元気ねえ。さっきからずっと踊りっぱなしよ。
「エルセティア様、お飲物はいかがですか?」
「ええ?もう結構。ありがとう」
今日はジークⅦ世主催の舞踏会。あたしたちはその目玉でもある。
そのうえ、特別参加であのギネスに来てもらった。最初はみんな下町の歌い手がどうこう言ってたけど、いざ聞いてみればもうなにもいわない。へへ。主張したかいがあったわ。
フロウと一緒になってから、こういう機会は幾たびとなくあった。でも今日は特別。多分一生思い出に残る舞踏会になるんじゃないかしら。
そう。今日なのよ。今日限りでフロウは都からいなくなってしまう。この後がどうなるにしても、メルフロウという美しい少年は消えてしまう……
でもそれを知っているのはここではあたしとムートとフロウだけ……たくさんの姫や若者がやってきてるけど、その誰一人としてこれがフロウの最後の晩餐であることを知らない。
そのためかどうか知らないけど今日のフロウはずいぶん気前がいい。今まではこういう席でもほとんど踊ろうとはしなかった。奥の方に一人座ってじっとみんなが踊るのを見つめていた。あたしだって滅多にフロウと踊ったことはないんだから……
でもひとたびフロウが踊るとそれはきれい。姿が決まっている上に、動きがとてもなめらかで、見るものを引きつけずにはおかない。
どうして踊らなかったのかしら。もったいないわねえ。
でも今日は大盤振舞で。あたしと三曲踊った後に、なんと自分からその辺の姫をお誘いしたりして……誘われた娘もフロウと踊れるなんて期待してないから泡をくっている。
いま踊ってる娘なんかも……ああ、ステップが違ってるわ。あんな簡単なステップで……きゃあ、足を踏みそうになって……という調子。
「ねえねえ、今日のお世継ぎの君ってなにか違ってない?」
「そうよねえ、とっても明るくなられて……ご結婚なさったのは良かったのかしら……」
「何かいいことがあったのかしらねえ……」
あちこちから噂話がきこえる。みんなもそろそろフロウが何か違うことに気付いてるけど、その理由はちょっと勘違いしているみたいで、
「いいことって何かしら?」
「そうねえ……ああ、もしかしたらエルセティア姫がご懐妊なさったんじゃないかしら!」
「まあ、本当かしら?」
ちょっと、ねえ、話が飛躍してない?もう。
でもそのせいでジークⅦ世がちょっと機嫌がいい。あのときもしぶしぶ人工授精を認めたけど、どうみてもあれは信頼してないって顔だったわ。冗談じゃないわよ。
「エルセティア姫、具合いはいかがかな?」
ほら、そう思ったとたんにやってきたわ。一杯加減で赤くなっている。
「ええ、だいじょうぶです。お父さま」
「体は大事にしなければ……」
「はい、分かっております」
ジークⅦ世はまだあたしが人工授精されたことを知らないと思ってるらしい。
何が大事よ!子供が生まれるまででしょ!その後どうする気なのよ!滑ってこけちゃえ!
と思ったとたんにジークⅦ世がよろめいた。
ちょ、ちょ!
「お父さま、まあ、ずいぶん召し上がってらっしゃいますのね」
「なに、この程度飲んだうちに入るものか」
ジークⅦ世は近くのテーブルに置いてあったワインを自分でグラスに注ぐと飲み干した。
「父上、あまり飲み過ぎては体に毒ですよ」
「フロウか?」
フロウが戻ってきている。
ジークⅦ世はフロウをじっと見つめた。そして急にはらはらと涙をこぼし始めた。
「父上、いかがなされたのです」
「お父さま」
ジークⅦ世はか細く言った。
「フロウ……立派になって……ああ、お前が……」
「父上!」
なに考えてるのよ、このおっさんは!もう……
「ああ、なんと立派に……うつくしい……」
といって床に寝てしまった。こら!この酔っぱらい!どうにかして、もう……
「ルー、ルー、父上を別室にお連れしてくれ」
「かしこまりました」
ルーはジークⅦ世を導いて出て行った。あたしたちはしばらく呆然とジークⅦ世の後ろ姿を見守った。
と、フロウがささやいた。
「ティア、そろそろ最後の曲ですが、また踊ってもらえますね?」
「ええ?」
「これを最後の思い出にしたい……」
フロウがあたしを見つめる。もちろんあたしに反対する理由はない。
フロウはあたしを連れてホールの中央に出た。
「さあ、みなさん。そろそろお別れの時刻が近づいてまいりました。今日この場にこれほどの人が集まっていただけたことに心から感謝します。では最後の曲にまいりましょう。これは私の好みで選ばせていただきました」
回りから残念そうな声が漏れる。それをぬって音楽が始まる。
「あ、これ……」
「ええ、そうです」
初めて出会ったときにフロウが歌った曲だ。確か亡くなったフロウのお母さまが好きだったという……PANGE LINGUA
フロウはあたしをリードして踊り始めた。いきなりで少しどきどきしたけどすぐにそんなことは忘れてしまった。フロウの星のような瞳が間近に輝いている。あたしに見えるものはもうそれだけ。
うち震えつつ家路をたどる
忘れまじ君の呼び声
忘れまじ君の息吹
君帰らずとも思いは永久に……
ギネスの歌声がホールに響く。
フロウとの思い出がめくり絵のように目の前を通り過ぎて行く。
そして……
気付いた時あたしたちは拍手喝采のど真ん中にいた。
きゃあ、あたしがこんなにほめられたの初めて!いつも人の足をふんづけたり裾にひっかかたりで恥をさらしてるのに……最後だけにダンスの神様もサービスしてくれたんだわ。
「ではティア、行きましょうか」
あたしが調子に乗って手を振ってるとフロウが言った。
「……ええ、フロウ」
あたしたちはみんなに別れを告げた。
あたしたちは屋敷の裏手にある森に向かっていた。一緒にいるのはあたしとフロウとそしてムート。
みんな何も喋らない。やっぱり気が重いのだ。
そりゃそうよ。これからのことを考えるなという方が無理よねえ。
あたしたちの計画では、これから北の山すそにある山荘に向かうことになっている。お兄ちゃんがそこにデュールを連れてくる。あたしたちはデュールに全てを話す。そこでデュールがどうするか……全てはそれにかかっているのだけど。
もし彼が受け入れてくれれば、あたしたちは彼と共にジークⅦ世とダアルⅤ世と対決しなければいけない……でもそうなれば多分うまくいくわよね。だって、たとえダアルⅤ世だろうとお世継ぎには逆らえないから。この場合のお世継ぎとはデュールのことだけど。それにエイジニア皇女の遺言もある。これを出してまだ何か言うようだったら、そのときは……ひっぱたいてやる!
でももしデュールがだめだったら……そのときはあたしたちが白銀の都と別れるとき。もう都にあたしたちの居場所はない。
でも……それは恐い。だって外に何があるのか誰も知らないんだから。
あたしたちが外について知っているのは、外への出口が迷いの森のむこうにあって、そこはもう都の力はなにも影響しない場所だということ。
外では生きることさえそう簡単にはいかないというし……そんなところに出て行くなんて……たとえフロウと一緒でも……
あたしたちは約束の場所にきた。みまわすと……
「ああ、あそこにいます」
ムートの指す方に二頭だての馬車がとまっている。
あたしが近寄ると馬の一頭がいなないた。
「きゃあ、ポニーじゃないの」
「やあ、時間通りだね」
お兄ちゃんだ。
「フィナルフィン殿」
「さあ、乗って」
あたしたちは馬車に乗り込んだ。
ぴしっと手綱を鳴らすと馬車は動きだした。
ジアーナ屋敷はすぐに見えなくなった。ああ、もうここともお別れなのかしら。
馬車が街を抜けるまで誰も話さなかった。
馬車は北の門から郊外に出た。回りが急に暗くなる。こんどは都が段々小さく遠くなって行く。
「フィナルフィン殿……」
フロウが言った。
「え、何でしょう」
「カロンデュールはどうだったのですか?」
「ああ……脈はありますよ。直接会ったわけではないが、カルスロムの話ではどうやら本気のようです。もちろんファラはあなたの妹だと思っていますが」
「そうですか」
「ねえ、今日くるかしら?」
「たぶんね。その段取りもついているから……裏切りがなければね」
一同はまた黙りこくってしまった。
そう。それが一番問題なのだ。今のあたしたちは裸も同然で、襲われたらひとたまりもないわ。
「デュールにはファラが会いたがっていると伝えておいたから、多分一人でくるとは思うけれどね」
はあ、ますます気が重い。あたしたちの未来はデュール一人にかかっているのだ。
馬車は北の林に入り込んだ。ここで全体の半分ぐらいの距離。
「フィナルフィン殿……」
またフロウが話しかける。
「はい」
「もしカロンデュールが……その……だめだったら……」
「…………」
どうなるかは分かっている。でも……
「準備は一応しています。四人分の旅の支度をね。でも今は……そのことは考えないことにしましょう」
「フィナルフィン……あなたは……いいのですか?」
「何がです?」
「このようなことになって……あなたには本来関係ない話なのに……」
「関係なくありませんよ。僕はティアの兄だ。今ではあなたの義兄でもある……」
「でも……それは形式上のことでしょう」
「…………かもしれませんね」
「ならどうして……」
「その話は事がすんでからにしましょう。それより搖れますよ。この辺から道が悪くなります」
いやによそよそしいわねえ。こういう時はたいていくだらない話を始めるのに……
馬車ががたがた搖れだした。そうやってしばらく行くと、急に視界が晴れた。
「月の湖……」
あたしはつぶやいた。ここじゃないけど、月の湖を見おろす丘であたしたちは約束したんだ。ずっと前に。あの時はこんな事になると思ってもいなかったけど……
星がきれいな夜……こんな夜かしら。月というのが出たのは……伝説でしか知らないけど、昔は月っていう大きな星が空に出ていて、それが出たら真昼のように明るかったっていうけど。そんなに明るかったらみんな不眠症になっちゃわないかなあ。
そのときムートが急に言った。
「止まって下さい!」
「ええ?」
お兄ちゃんが馬車を止める。ムートが後ろを凝視する。
「どうしたんです?ムート」
「何かついてくるような気がしたのですが……」
「何かくるか?」
あたしもじっと見たけど、何も見えない。
「気のせいじゃないの?」
「そのようですね……」
「神経が高ぶってるからなあ。ムート、こいつを飲めよ」
「何です?」
「アルカ酒だ」
ムートがにやっと笑う。
「ありがとうございます」
あ、いいな。
「ねえ、あたしにも」
「お前に?また酔っぱらって踊りたいのか?」
「ちょっとくれたっていいじゃない」
「後でな」
「けち!」
もう秋よ。こんな時間に夜外をうろうろしていると体が冷えちゃうじゃない。ちょっとぐらいいいじゃないの。
「ティア、また酔っぱらってカロンデュールにからまれては困ります」
「フロウまで!」
ふん。いいのよ。どうせあたしは……きゃあ。
いきなりまた馬車が動きだしたので、あたしはおっこちそうになった。
「こら、間抜け!」
「出るときぐらいひとこと言ってよ!」
「こんな馬車から落ちる方がどじなんだよ」
「ふん」
ああ、またこの調子。どうにかならないの?
そうこうしているうちに、北の山荘が見えてきた。
この山荘はあたしのパパが建てた山荘で、あたしたちは小さい頃からよく行っている。でもフロウは初めてのはずだ。
「見えましたよ。大した所じゃないけど……」
「なかなかいいところに建っていますね」
「場所だけはいいんですよね」
馬車は山荘前に止まった。
「ティア、みんなを中へ。俺はこいつを裏につないでくる」
「分かったわ」
なつかしいなあ。最近とんと御無沙汰してるけど、前はよくやってきてた。
ちょっとした斜面の中腹にここは建っている。下には川が流れていて裏手には森が広がっている。この森は鳥や動物が豊富で、あたしはそこでよく動物と遊んだのよね。
「さあどうぞ」
あたしはフロウとムートを中に案内した。あたしは明りをつけた。中は結構片づいている。
「みんなその辺に座って!」
部屋には椅子が何脚かとテーブルがあるだけ。部屋の隅には二階に上がる急な梯子がある。
「ちょっと調べてくるから待ってて」
「ええ」
いったいどういう準備がされてるのかしら。あたしはとなりの部屋に入ってみた。
そこには旅の荷物とちょっとした食料、武器が置いてあった。お兄ちゃんはちゃんと準備はしてるんだ。でも、こんな物にお世話になりたくないなあ。
あたしの目の前にどことも知れない土地をさまよっている一行の姿が浮かんだ。家も着るものも食べ物もなく……そうよ。こんな旅行じゃ花梨のタルトもないんだ……ううう……
「ティア、ティア」
お兄ちゃんの声だ。
「何よ」
居間に戻るとお兄ちゃんが変な包をもって立っている。
「お茶ぐらい沸かしたら?」
「お茶?そんなものどこにあるのよ」
「奥にあるはずだよ」
「だってどうしてあたしが……」
「私がやりましょうか?」
フロウが言った。冗談!
「やるやる。やりますやります!」
「いいんですか?」
「いいのいいの。ティアなら」
ふん。見てなさい!お茶に塩入れてやる。
「その間にフロウはこれを……」
「なんですか?それは……」
「ああ、ここじゃなくて、あちらであけて下さい」
なんなの?
「ねえそれなあに?」
「お前はお茶だって言っただろうが」
「けち!」
あたしはしょうがないから奥の厨房に入った。あーあ、めんどくさそう。
「手伝いましょう」
ムートがきている。ちょうどいいわ。
「ああ、ありがとう。じゃあ、火を起こしてくれる?」
「分かりました」
あたしはその間にやかんを洗って水をくんだ。火はすぐ起こった。ムートはうまい。
お湯が沸くとお茶を捜す。上等のお茶が用意してある。結構抜け目ないわねえ。ミルクがないのはしかたない。これだけ上等のお茶なら、ミルクなしでもおいしいわ。それにクッキーもある。まあ許してあげようかしら。
銀のポットにお茶を入れて、三分間。さあできあがり。
「ねえ、ムート、そこのクッキーも持ってきてね」
「はい」
あたしたちはお茶とクッキーを持って居間に戻った。
「お茶できたわよ。おまちかねの……ああ?」
「メ、メルフロウ様……」
あたしはびっくりしてポットを落としそうになった。
「フ、フロウ……その服、ど、どうしたの?」
フロウが美しいドレスをまとって立っている。
あたしはポットを持ったまま見とれてしまった。ムートも同じ。
ランプの光がドレスの生地の上を踊っている。いったい何色なんだろう。白にも黄色にも青にも見えるけど。
「いま……着てみたのですが……」
フロウも呆然としている。
その横でお兄ちゃんがにやにやしながら立っている。さては……
「お兄ちゃんね?」
「へへへ。やっぱり美人はこうでなくっちゃ……」
「どうしたの、その服?」
「エイマに頼んで作ってもらったんだ」
「へえええ、お兄ちゃんにしてはずいぶん粋なことするのねえ」
とってもきれい。
「なんだよ、その言い方は」
「だって、服なんて興味なかったじゃないの。そんなものは保温ができればいいとかいって」
「べ、別にいいだろ。だいたい年頃の女の子がドレスの一着も持っていないってのは問題だよ」
「なにいってるのよ。でも……いい服ねえ。誰のデザインなの?」
「モーリヤーンのだ。つなぎをつけるのに大変だったよ」
「やっぱり!モーリヤーン!」
モーリヤーンは都随一のデザイナーだ。あたしだって彼のデザインの服は一着しか持っていない。結婚祝いにもらった奴しか……いつかフロウが着たのもそれだったけど。
そうよねえ。見たとたんにこれはただ者が作った物じゃないって分かったわ!シンプルなデザインなんだけど、見事にフロウのラインが浮きだっている。こんなカットは常人に出来るものじゃないわ。そして胸についているサファイアのブローチが鮮やかにきわだっている。
「フロウ……とってもきれい!」
「そうですか……?」
「そうよ。絶対!」
「ええ……ありがとう」
まだ信じられないって風情ね。
「でも、スカートにフープが入ってないのね」
「こんな場所じゃ邪魔なだけだろ。俺あれはあんまり好きじゃないんだ」
結局趣味に走ってるのよね。でもそうねえ。たしかにあれって邪魔よねえ。
「それより化粧をどうにかしてくれよ。俺じゃさすがにできないよ」
「いいわよ」
あたしだってお化粧道具ぐらい持ってきてるんだから。
「でも、そのまえにお茶にしましょう。せっかくティアとムートが沸かしてくれたんです。冷めたらまずくなりますよ」
「そ、そうよ。そうしましょう」
あたしたちはそこで真夜中のお茶会をした。
あたしはクッキーをかじったけどおいしくなかった。みんな何も言わない。ムートは黙ってお茶を飲んでるだけだし、フロウはじっとカップを見つめている。ときおりあたしの方やお兄ちゃんの方をちらっとみるだけ。お兄ちゃんは壁の方を向いている。
はあ、憂鬱な気分になってきたわ……
「ええい、考えてても仕方がない!」
お兄ちゃんが沈黙を破った。みんながびくっとお兄ちゃんの方を向く。
「ええと、それでは手はずは分かっていますね?」
みんながうなずいた。
「僕はこれからカロンデュールを迎えに行ってきます。その間にティアはフロウの準備をしておく」
あたしはうなずいた。
「多分二時間ぐらいで戻ってこれると思うけど……そうでなかった場合は、ムート、お願いします」
ムートがうなずいた。
そうでなかった場合……ああ、考えたくない。
「で、フロウ……あなたがいちばん重要です」
フロウがお兄ちゃんを見る。
「何と言っても、カロンデュールを魅了しなきゃいけないんだから……」
一瞬の沈黙。ああ、冗談よ、冗談。
「きゃははははは」
でも他は沈黙したまま……うう、赤面……でもお兄ちゃんも受けないんでばつが悪いみたい。どもりながらフォローした。
「あ、あはは、まあ、そういうことで、で、では私はそろそろ……」
「フィナルフィン、ちょっと待って下さい」
フロウが言った。すごく真剣な顔。
「え?」
「フィン、あなたが無事に戻れればいいですが、そうでなかった場合はどうなるのです」
「だ、だから、その場合はあなた方だけで逃げるんです。ムートがいるから大丈夫ですよ」
「でもあなたは?」
「僕は……追手を他の方に外らします」
「ではフィン、あなたは来られない……」
「そ、そうかも……でも、逃げてこられるかも知れないし……」
「でも確実ではないでしょう」
「それはそうですが……」
ええ?どうしてフロウはこんなに突っ込むの?
「だとすれば、いまここで逃げた方が良いのではありませんか?」
「ええ?」
ええ?何?
お兄ちゃんは真っ青になっている。へんねえ。どうしたのかしら……ええ?じゃあ……
「ちょっと、フロウ、こちらへ……」
お兄ちゃんはフロウを招きよせて、隣の部屋に連れて行った。
何なの?この展開……まさか……
「ムート!これ何なの?」
「さ、さあ……」
「あの二人、どうしちゃったのよ!」
「さあ、私は……」
ううう、そんな馬鹿な……お兄ちゃんとフロウって……できてたの?
いったいあっちで何を話してるのかしら?
うーん……そうだ、聞いちゃえ!
あたしはドアに耳をくっつけた。ムートがあきれた顔をしてるけどこのさい無視!
「……なことはいやです!」
「でもねえ、フロウ、こうしかやりようがないでしょう」
「私のためにあなたが犠牲になるなんて……」
「まだそうと決まったわけじゃない」
「でも、その危険は大きいのでしょう?ならどうしてそのようなことをするのです!そんな危険を冒すぐらいなら……」
「フロウ!外はもっと危険ですよ。これは最後の手段なんだ。それをせずに済む目があれば、そちらに賭けるべきなんだ」
「フィン、私は……私は……」
や、や、や、や、やっぱり……きゃあああああ。
ばたーん、べしゃ!
どうも強く耳を押しつけすぎたらしくて、いきなりドアが開くとあたしは部屋に転がり込んでしまった。
「ティア!」
「ティア」
ま、まずい……こ、ここは笑ってごまかさねば……
「あ、あははははは、ご、ごめんなさい。ちょっと……ちょっとね。そ、それじゃ!」
あたしは逃げだそうとした。
「待って、ティア!」
びくん!
「聞いたのですね?」
「え?ええ、ええ、まあ、その……」
「ティア、私の考えは間違っていますか?」
ええ?そんなの……急に言われたって……
「間違ってるな、ティア!」
あ、あのねえ。
何と言っていいか、外に行きたくないのは確かだけど、どうせ行くんだったらみんな一緒の方がいいし……
その時だった。
「フィナルフィン殿、大変です」
ムートが窓の外を見ながら言った。
「何だ?」
「敵です!」
「ええ?」
お兄ちゃんが窓にかけよる。
「ああ、これは……?」
「どうしたのよ」
「どうしたのです」
お兄ちゃんが向き直った。
「囲まれちまった……」
「ええ?」
な、な、な、何でなの?あたしたちまだ何もしてないわよ!