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<「ノーベル賞受賞者」倍増をめざして>

中央公論、2000年8月号

<「ノーベル賞受賞者」倍増をめざして>

有本建男ありもとたてお、

理化学研究所部長。1948年広島生まれ。京大理学研究科修士課程修了。科学技術庁科学技術政策局政策課長を経て、7月よりゲノム科学の研究拠点として開設された横浜研究所研究推進部長に就任。

今年で一〇〇回目を迎えるノーベル賞。湯川博士が日本人で初受賞してから半世紀なぜ日本人はなかなか受賞できないのか、政策担当者が体制上の課題を明かす

(1) ノーベル賞一〇〇年の節目に二十世紀終わりの今年、ノーベル賞をめぐってが国の科学界や政界の動きは慌ただくなっている。五月半ばに東京でインター・アカデミー・パネル2000年会議が開かれ、五四ヵ国の科学アカデミーの代表約二〇〇人が集まった。この会議に出席のため、ノーベル物理学賞と化学賞を選考しているスウェーデン王立科学アカデミーのノルビー事務総長が来日し、研究者の独創性とそれを育む環境、新しい学問などについてわが国の科学技術関係者と熱心に意見交換を行った。超党派の有志国会議員でつくる科学技術国際交流議員連盟(会長・森喜朗首相事務総長・尾身幸次衆院議員)の招きで、ソールマン・ノーベル財団専務理事の来日も計画されている。同議員連盟は、近々欧州を訪問しスウェーデンにも立ち寄る予定だ。従来あまり縁のなかったノーベル賞関係者とわが国とのパイプを太くする努力が広がっている。また、ノーベル財団は、賞創設一〇〇周年を記念して世界巡回展覧会を計画しているが、その第一回を二〇〇二年に東京・上野の国立科学博物館で開催することが最近固まった。

(2) 二十世紀の初めの一九〇一年に誕生して以来、一〇〇年にわたって現代史最高の賞として注目を浴びてきたノーベル賞。個人あての賞だが世界中が注目し、年に一度国民に基礎科学の重要性を思い出させてくれる。自国に受賞者が出れば、オリンピックの金メダルと同じく国民は歓喜し、並居は組関心な科学や技術に対して熱い応援団となる。国のイメージは向上し科学への人材や資金集めの力となり、経済や文化への波及効果も大きい。日本人が受賞してほしいと関係者が切望する理由はここにある。

ノーベル賞の有力候補と目される日本人科学者が、最近ある会議で「日本の科学が国際的に評価されないのは、研究者の力不足が第一。しかし、我々の中にもマサチューセッツ工科大学やオックスフォード大に属していればノーベル賞を受賞できるが何人かいる。国が研究成果の価値を国際的にプロモートしてほしい」と訴えた。また昨年八月、アメリカの科学雑誌『サイエンス』が報じるところによれば、ブラジルが国を挙げて自国科学者のノーベル賞初受賞をめざして活発なロビー活動をしているという。ノーベル賞の自然科学三分野(物理学、化学生理学・医学)の受賞者は、今まで四六〇人。二十世紀一〇〇年間の世界の人口は累計すると約三〇〇〇億人/年なので、受賞の確率は毎年六・五億人に一人という稀少価値だ。国別の一〇年毎の受賞者数を図1に示す。第二次世界大盤則はドイツが優勢で、戦後はアメリカが圧倒しており、科学の巨大化を反映して共同受賞が多い。残念ながら日本人の受賞者は、湯川秀樹、朝氷振一郎、江崎玲於奈、福井謙一、利根川進のわずか五人にすぎない。

日本がノーベル賞受賞者を増やすためには何をなすべきなのだろうか。それを論じるために、本稿では、まず科学とノーベル賞と社会との関係について、(2)〜(4)で歴史の大きな潮流の中で考察し、そこから見えてくる二十一世紀の科学技術体制の行方を(5)で展望し、最後に、より多くの日本人がノーベル賞を受賞するためにはどんな政策が必要であるかを(6)で具体的に考える。

(2)二十世紀の科学とノーベル賞

賞の創始者アルフレッド・ノーベルは、遺言で社会に役立つ発明や発見を強調した。このため初期には、発明王エジソンやライト兄弟、飛行船のツェッペリンも候補に挙がった。しかし、一九〇九年に無線通信を発明したマルコー二が受賞して以後、基礎科学が徹底して重視されてきた。こ方針が賞の権威を高めたことは否めなし、その権威ゆえに、受賞者数の変化は、各国の科学活動の盛哀の目、され、政策や体制の変革を促してきた。

ノーベル賞選考委員会は、相対性理論、量子力学、高分子化学などの二十世紀の新しい科学分野に対して、学問的な価値を見極めるまで慎重な態度をとりつづけた。一方で、一旦新しい分野に受賞者が出ると、多くの研究者や資金がそこに集まり、一気に学問と応用の発展を促すという影響力も大きい。二十世紀の科学を代表する量子力学と分子生物学は良い例で、その応用の最前線に現在のIT(情報技術)革命とバイオ産業の繁栄がある。

(3) 基礎科学と経済競争力の接近

ノーベル賞をねらう科学者にとっては、自分の研究成果を権威ある論文誌に載せることが第一歩だ。生物医学分野で『ネイチャー』『サイエンス』『セル』、物理学でフィジカル・レビュー』、化学で『アメリカ化学会誌』などが挙げられる。

これらに掲載された基礎科学の論文が、最近、特許のアイデアとして盛んに引用されているという。数年前にアメリカで開発された「サイエンス・リンケージ(特許出願一件あたりの科学論文の引用回数)」という指標で、ヨーロッパやわが国でも注目され始めた。この指標が大きいほど基礎科学と産業の結びつきが強いといえる。科学技術庁の科学技術政策研究所が最低デークを使って分析した結果を図2に示す。ライフサイエンスや情報通信という先端分野で、指数が一九九五年以降急速化伸び、日米の差が広がっていることがわかる。一昔則は基礎科学の成果は、一0〜二〇年かかってラジオやテレビ、薬など市民が使う製品になっていくというのが普通だった。ところが、東西冷戦が終結し軍事と民生技術の壁がなくなり、世界規模で経済大競争が繰り広げられるようになった今日、基礎と応用研究、製品開発の垣根が低くなり、互いに依存しながらスピードのある技術革新が展開され始めている。ノーベル賞をめざす基礎科学研究が、象牙の塔で行われるだけでなく、一国の経済競争力や強い基本特許の源泉にもなる時代を迎えている。

こうした科学と社会の変容の中で、ノーベル賞は今後どのように進むのか。ここで、ノーベル賞がたどった100年を縦糸に、二十世紀の科学技術システムの変遷を振り返ってみよう。

(4) ドイツとアメリカが築いたもの

@ 大西洋のネットワーク

ドイツは十九世紀後半から、大学の内に大きな実験室を、大学の外に研究専用の国立研究所を次々に設立した。組織的な研究とセミナー形式の専門教育が始まり、専門学会や論文誌が作られ、研究競争が激しくなった。二十世紀に各国で採用された研究のルールや体制の多くはドイツで定まった。戦前のドイツがノーベル賞に強かった秘密はここにある。つづいてアメリカが、二十世紀初めの研究システム変革の主役となった。鉄鋼王のカーネギーが「科学におけるアメリカの貧困を認識し、世界の中での我々の地位を転換する」と宣言したように、この時期は政府でなく彼やロックフェラーなどの大企業家が支援して、莫大な資金で大きな研究施設や支援財団が設立された。研究者が組織の枠を超えて、柔軟で競争的に研究を行う助成制度(グラント)や、若手研究者が国内外の研究所に行って研究できる人材育成と流動化の促進制度(フェローシップ)などの新しい研究システムが次々に作られた。ノーベル賞学者やベンチャー企業家を輩出する今日のアメリカ科学の力の源泉ができあがったのである。

ノーベル賞が誕生した頃のアメリカは、ヨーロッパで生まれた技術をもとに大量生産した工業製品を洪水のように逆輸出し、"技術ただ乗り"侵略者“と厳しく批判された。一方で多くの研究者や技術者をドイツに留学させた。戦前のアメリカのノーベル賞学者は、ドイツの研究システムに育てられたといえる。しかし、アメリカはこの弱点を認識し、独自の研究システムの構築に努めた。

この努力とヒトラーの下でのヨーロッパ知識人の大量移民があわさって、一九三〇年代に世界の科学の拠点は、ドイツからアメリカヘ移動した。図1はこの転換を鮮やかに示している。またアメリカは戦争で疲弊したヨーロッパ科学の復興にも貢献した。ノーベル賞を受けた分子生物学者レーダーバーグは、日本の国際貢献のあり方について議論した会議の後の懇談で、アメリカの一連の行動を"ヨーロッパに対する恩返し“と筆者に述べたことがある。

こうしてであがった大西洋をまたぐ科学の太いネッワークは、アメリカのノーベル賞に、おける底力となっている。

A ブッシュ主義の波及

ドイツとアメリカが築いた研究システムは、量子力学、分子生物学、コンピュータ、レーザー、半導体、インターネットなど二十世紀が誇る科学、技術、製品を生み出す舞台となり、両国は、無骨な経済の新興国から知の大国に生まれ変わり、世界から尊敬と羨望を集めた。

第二次大戦時のアメリカの科学技術動員は、戦争を勝利に導くとともにレーダーやペニシリン、原子力など大きな技術革新を生み、また、科学技術の新しい行政体制の実験場ともなった。ルーズベルト大統領は、これを指揮した電気工学者ブッシュに、戦後の科学技術のあり方を諮問し、有名なブッシュ・レポート「科学-果てしないフロンティア」が生まれた。その中でブッシュは、科学技術は平和な時代にも経済、医療、市民生活に大きな寄与をするとし、政府の主導による政策の推進と積極的な研究開発投資を勧告した。彼はまた国の指導者に対する科学補佐官の先駆者ともなった。アメリカが作り上げた科学技術システムーブッシュ主義 ― は、戦後各国にモデルとして波及し、ビッグ・サイエンス時代を生み出した。

B 候補に挙がっていた日本人

日本人の自然科学分野の受賞者は今までわずか五人。一九八七年の利根川博士以来一〇年以上もいない。わが国の科学者の実力はその程度のものなのだろうか。

ノーベル賞は受賞者だけに光が当たり、競い合った候補者の名削は公表されない。選考の過程は極秘であったが、一九七四年から、五〇年を経過したものに限られるものの、関連の文書が研究者に公開されるようになった。

東京大学岡本拓司講師の研究によれば、日本人は、第一回の北里柴三郎以後、秦佐八郎、野口英世、鈴木梅太郎、井戸泰、稲田龍吉、山極勝三郎、加藤元一、本多光太郎らが候補に挙がっていた。今年一月には、湯川秀樹博士が日本人で初めて受賞した一九四九年の文書が公開され、博士が誰から推薦され、いつから有力になったのか、競争相手はだれだったか、当時の物理学の国際動向について新事実が明らかになりつつある。来年から文書の公開時期が一九五〇年代に入り、戦後の科学の復興と国際化の時代に重なる。力をつけ始めた日本人科学者がノーベル賞との距離を縮めていることを期待したい。

(5) 二十一世紀の科学技術像

これまで振り返ってきたように、二十世紀は、科学も生産もひたすら精密化と拡大をめざし、知識の爆発が起こった。ノーベル賞はその重要な加速装置となった。ヒト、モノ、カネの爆発がつづき、地球と人類に生存の限界を突きつけた。このような中で、二十一世紀の科学技術はどのようなものになるのだろうか。最近の動きから探ってみたい。

@ 社会のめの科学技術

二十一世紀を目前にして、科学の役割を再構築する試みが盛んだ。なかでも昨年六月、ブダペストで開かれた世界科学会議は大きな規模となり、「二十一世紀のための科学」をテーマに、政府、科学者、産業界、市民の代表が二〇〇〇人も集まった。「科学と科学的知識の利用に関する世界宣言」が採択され、二十一世紀の科学は知識のためだけでなく、社会、平和、開発のためにあると謳われた。また、アメリカ議会は一昨年、二十一世紀の科学技術政策についてまとめた報告の中で「社会のための科学」を強調し、ヨーロッパ共同体は、新世紀をヨーロッパ市民のための科学技術の時代と位置づけ、雇用の確保と質の高い生活の実現を目標として掲げている。

ノーベル賞にも変化の兆しが現れている。一九九五年の化学賞が、フロンによるオゾン層の破壊を予言したアメリカの口―ランド博士ら三人に与えられた。ノーベル化学賞を受賞した福井博士は、この受賞を、普遍性を重視してきたノーベル賞が、地球の特殊性を先見的に明らかにした業績に対して初めて与えられた画期的なものと評価し、地球環境の研究を行う上で非常に心強いと述べておられる。なお、ローランドは、各国の科学アカデミーの知を集めて、地球規模の問題に政策提言を行う世界的シンクタンク「インター・アカデミー・カウンシル」設立の推進役を務めている。

戦争と破壊、大量生産と消費、南北格差の二十世紀から、市民生活の向上、人類と自然との共生、持続的な成長の新世紀へ大きく舵が切られつつある。これを実現するためには、自然科学と技術、そして人文と社会科学を組み合わせた新しい知と研究システムの構想力が試される。さらに、知の創造から社会還元までのプロセス全体を俯瞰するマネジメントが重要となる。こうした動きは、わが国ではバブルの後始末に追われて遅れていたが、東西冷戦終了後の世界システムの大きな転換を反映した科学技術システムの作り直しといえる。

科学技術に対する市民の関心が世界一であるアメリカでも、市民の理解と支持を持続させるため、わかりやすい言葉で科学の利益と大切さを伝えることが重要であるとして"コミュニケーティング・サイエンス"が強調されている。研究者にとってはしんどい話だが、十九世紀のドイツでルール化された現代研究者たちの行動規範である"Publish or perish"(論文を出すか滅びるか)に、"Public Communication"を追加しなければならない時代が来ている。二十一世紀の科学技術の意思決定に、産学官に加えて市民が重要なプレーヤーとして登場してくるのは確実で、その時にコミュニケーションは必須だ。

A 科学学技術は重要政策

わが国では一九九五年に科学技術基本法が成立し、科学技術が国の重要政策に位置づけちれた。アメリカのブッシュ主義がやっと日本にも確立したといえる。

これにもとづいた第一期五年の科学技術基本計画で、政府研究開発投資の目標一七兆円が今年度で達成され、研究現場は活性化し論文や特許は大幅に増加した。

現在、第二期計画が国の科学技術会議で審議されているが、二十一世紀初めのわが国の国家目標を、国民の安全安心の確保、産業競争力の強化、知識による国際貢献の三つとし、研究の質を世界トップに引き上げる研究システムの変革が柱になるはずだ。

九〇年代の日本。経済の混迷、大震災、オウム、原子力事故と社会を揺るがす出来事がつづいた。これを深刻に受け止めて、ものづくり現場の再生や技術者の倫理観の醸成など新しい対策が取られている。最近では、アメリカのIT革命の後を追いかけて右往左往するのでなく、ITを基盤としてものづくりや市民生活、教育など、わが国の社会システム全体を改革するという大きなコンセプトが市民権を得つつある。

一九八五年にヤング・レポートを取りまとめて以来、アメリカの経済復活の司令塔となってきた競争力評議会は、昨年三月に報告書をまとめ、「日本の技術力は今後も侮れない、アメリカは過去の研究開発の成果を食いつぶすだけではいけない」と警告している。ジャパン・アズ・ナンバーワンという騎りはもういらないが、未来に自信と誇りをもって日本新生の水脈を切り拓くべきだ。

B二十一世紀型研究システムの試み

アメリカ科学アカデミーのアルバート会長は、今年一月わが国科学界の代表と懇談した際、最近まとめた二つの報告書「科学技術への政府資金の配分」と「科学技術投資の資本化」を熱を込めて紹介し、基礎科学の重要性と成果の社会還元の促進を訴えた。今やわが国においても基礎科学力の強化は、人類への知的貢献だけでなく国の経済競争力にとっても必須となっている。このためには、個人の独創と創意を生かすシステム作りと価値観の醸成が第一だ。研究者一人一人がグローバルな競争に打ち勝つため、成果に見合う処遇、流動性の徹底、若手人材の独立・登用のための制度改革をめざす。

サッカーや野球では、中田英寿や野茂英雄のように日本人選手が海外で活躍し、国内チームの監督には外国人が招かれている。わが国は明治の初め、大臣より高い給料を払って外国人専門家を枢要なポストに就け、短期間で近代化に成功した経験をもっている。研究現場の年功序列と縦割りの厚い壁を打破し国際競争力をもたせるため、ノーベル賞級の外国人をトップに据え、アジアを含めて国籍を間わず優秀な研究者を登用するなどの斬新なプログラムも一案だ。平成のお雇い外国人といえる。同時に、立派な成果を挙げた人や組織を評価し顕彰するシステムを育てることも重視したい。

次は、高齢化、情報化、環境問題など、わが国社会が直面する問題を解決するために科学技術を活用するシステム作りだ。成果を社へ還元する体制の整備などを含むため、アメリカの研究モデルを直輸入するだけ中は対応は難しい。この先駆として、政治の主導で今年からミレニアム・プロジェクトが始まった。明確な目標の達成のために、産学官の枠を超えてヒト、モノ、カネ、情報の研究資源を動員する新しいシステムだ。その一つがヒトゲノム・プロジェクトで、ガンや高血圧、糖尿病等の日本人に特徴的な病気の遺伝子を見つけ出し、五年後に個人の体質に合った治療や新薬の実用化をめざす。インフォームド・コンセントや生命倫理による研究規制など、研究の実施や成果を社会が受け入れるに当たって、産学宮に市民を加えた合意のプロセスが重要な要素となる。

市民からも新しい試みが始まっている。

カンボジアでは全土に埋められた五〇〇万個に及ぶ対人地雷によって被害が続発している。これに対してわが国NGO(非政府組織)と企業が、最新の地下透視技術を使った地雷除去法を共同開発し、政府も協力して現地に展開しようとしている。市民がイニシアチブをとり、産学官が協働して問題解決に向け知恵と行動力を結集する新しいシステムだ。

B 政治のリーダーシップ

クリントン大統領は、今年初め、二十一世紀のアメリカの繁栄のため、生命科学や情報通信技術だけでなく、ナノ・テクノロジー(超微細加工技術を使って、一0億分の一メートル単位、すなわち原子や分子の一個くらいの大きさの微小素子の開発をめざす)やバイオマス(クリーンなエネルギー源や化学原料の代替品を開発するため、穀物や木材などの未利用資源を利用する)などの、芽が出始めたばかりで将来有望な分野に重点投資すると演説した。インターネットやバイオテクノロジーによる経済の復活は、二0〜三〇年前からの政府研究投資のストックに負っているとして、長期継続的な投資の重要性も強調した。イギリスのブソア首相は知識が牽引する経済を政策の柱に据え、フランスのシラク大統領は、ラジウム発見一〇〇年を記念して盛大な祝典を催し、自国の知的活動を世界にアピールした。

わが国の政治の指導者が、科学技術の最新動伺を把握し長期的な洞察力をもって、内外へ能動的、機動的に政策や研究成果などを発信するためには、省庁の枠を超えた指令塔と、首相の科学補佐官をはじめとするプロフェッショナル集団を作ることが必須だ。来年一月に発見する内閣府の総合科学技術会議への期待は大きい。

科学がひたすら知識の拡大を追いつづけた世紀が終わり、市民生活や地球環境、持続的な成長のために科学を活用する世紀が来ようとしている。市民ももっとノーベル賞をめざす科学者たちの活動に関心をもつべきだ。受賞者が出れば、国の威信を高め国民に活力を与え、教育や文化への効果も大きい。賞の選考では研究の価値が絶対であるが、専門家仲間の評価が高まることだけに期待していては、ノーベル賞をわが国に引寄せることは難しい。賞のもつ政治的、社会的なインパクトを考えれば受賞者を増やすことは国レベルで取り組むべき課題だ。

@ スウェーデンそして世界に存在感を

まず、賞を主宰するスウェーデンに、わが国の科学や技術の存在感を広げていく仕組みを作ることが必要だ。ストックホルムに、日本の科学界を代表する駐在事務所を置き、日本の科学活動を日常的に紹介し人的ネットワークを広げる。世界中から集まる関係者や情報に接し、わが国に情報を流す。ノーベル財団が毎年開くノーベル・シンポジウムでは、招待講演者は受賞の有力候補者となる。これにならって、日本の主催で、スウェーデンと世界の科学の中心地で年に数回、わが国の科学技術の活動や研究者を紹介する機会を設けてはどうだろう。また、スウェーデンは携帯電話のエリクソン社に見られるように優秀な技術をもっている。わが国との間で共同研究の輪を広げることも大切で、東京のスウェーデン大使館も熱心だ。

A ノーベル賞に見合う品格を

ノーベル財団のラメル前専務理事の想い出によれば、一九八四年に日本の団体が、ノーベル賞に匹敵する国際的な賞をつくるため、運営ノウハウを頻繁に聞きに訪れたという。その降日本の代表から「新しい賞とノーベル賞との競争を心配していないか」と質問されて、「決して競争など想定していない。ノーベル賞は常に八四年先を走っている。何人もノーベル賞の伝統をすぐに創り出すことはできない」と答えたという。

ノーベル賞は、地味な科学者の世界に、受賞者は一躍ヒーローになれるという世俗的な競争心と国家の威信を持ち込んだ。政治の介入やトラブルを排し高い評価を維持するため、関係者の苦労は並大抵ではなかった。その結果、スウェーデンは世界から尊敬される国づくりに成功した。ノーベル財団の態度は貴族的で神経質、いわば絹の繊細さをもち、エコノミック・アニマル的な態度や大国の政治力に敏感だ。科学者の業績だけでなく、国の品格もノーベル賞を引き寄せる重要な要素となる。

B 創造力と想像力を育むために

ノーベル博物館館長のリンドクィビスト教授によれば、来年の開館に際して「創造性の文化・個人と環境」というテーマを掲げ、ノーベル賞が最も重視してきた個人の創造性と、さらにこれを育む研究環境に焦点を当てて、賞の歴史を振り返るという。その環境の具体例には、イギリスのケンブリッジ、アメリカのボストン、日本の京都、スイスのバーゼルなどが考えられている。

ノーベル賞の選考に当たって、研究の舞台となった地域の雰囲気、環境、文化にまで目が配られているわけだ。欧米の街を歩げば、大学や研究所の落ち着いた街並みと著名な科学者の像や名前を冠した街路があり、地区全体に知的雰囲気が漂う。博物館があり科学者の業績や産業革命の熱気を伝える機械が展示してある。街外れほは鉱山や鉄道が保存されている。これらは、基礎科学の厚みと生きた技術を伝える配電盤であり、次の世代に、科学や技術の歴史を引き継ぎ未来を切り拓く確信と信頼を与える。

東京の街に科学や技術の近代遺産をめぐってみよう。大学や蘭学の発祥の地。明治初めのガラスや製紙、人造肥料の工場跡。お雇い外国人の足跡。神田から築地、本郷、品川、王子へ。多く逃散逸し破壊されているので、探し歩くうちに日が暮れることも多いが、残された記念物に先駆者の努力が偲ばれる。近代化学の産業化に大きな貢献をした高峰譲吉直筆の英文レターの束に出会って動悸が速まったこともある。地域の子供たちの身近なところにも想像力や感動を呼び起こす自然や、科学、技術の博物資源があるはずだ。世界文化遺産の登録をめぐって熱い運動が行われているが、わが国では科学や産業の遺産や伝統に対して今まで関心が薄かった。欧米では、ヘリテージ・ツーリズムといって、近代の産業遺産見て歩きが今人気を呼んでいるという。

上野の国立科学博物館の拡張や臨海副都心に大きな科学館を新設する計画が進んでいる。東大総合研究博物館は今春、情報通信技術を駆使したデジタルミュージアム2000を開催した。産業の近代化遺産の登録も始まった。こうした動きを総合し、わが国科学技術の先人たちの業績と苦労を跡づけ、最新の情報を発信する場とネットワークを構築すべきだ。筆者が最近会ったミュンヘンのドイツ博物館部長トリシュラー教授によれば、シカゴ、ワシントン、ロンドン、パリなどの有力な科学博物館の問に強いネットワークが築かれ、運営のノウハウや展示技術を交換し人材の養成を行っているという。彼は、アジアを含めた科学館の館長によるサミットを日本で開いたら、大きなインパクトがあるだろうと語っていた。十九世紀末にわが国のリーダーたちが欧米の博物館を訪れた際、「博物館に観れは、其国開化の順序、自ら心目に感触を与ふものなり…先知のもの之を後知に伝へ、先覚のもの後覚を覚して、漸を以て進む。之を名つけて進歩と云ふ」「感動心に動き、学習の念沛然として制すべからざる」と『米欧回覧実記』に記した。こうした感動と想像力を次の世代に伝えたい。二十一世紀にわが国がフロント・ランナーをめざすなら、世代から世代への知と志の継承が必須だ。