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「個人人間の時代、ニューヨークから」江崎玲於奈、1988

感想;あらためて、この本に目を通してみると、まだその輝きはあると思えます。本質的なものは、時代を超えて残るということなのでしょう。
ただ次ぎの言葉、「皮肉にもアメリカの体質は、侵入するさまざまの抗原に対し、対抗すべき抗体が十分働かなくなってしまったのである。「どうして今日、アメリカという強国が免疫作用を失ってしまったのか」、それを取り戻さなければ病気は深まるばかりなのである。(読売新聞一九八七年十月十五日)」
は、昔の時代を思い起こさせますが。今はアメリカ全盛の時代ですから。

江崎玲於奈先生のA List of Five Don'ts.
従来からの行き掛かりにとらわれ過ぎてはいけない。さもなければ飛躍の機会を見失う。
他人の影響を受け過ぎてはいけない。
無用のものはすべて捨てなければいけない。
闘うことを避けてはいけない。そのためには独立精神と勇気が必要である。
安心感、満足感にひたってはいけない。

A List of Five Don'ts.
1.Don't allow yourself to be trapped by your past experiences.
2.Don't allow yourself to become overly attached to any authority in your field the great professor, perhaps.
3.Don't hold on to what you don't need.
4.Don't avoid confrontation.
5.Don't forget your spirit of childhood curiosity.

「個人人間の時代 ーニューヨークから」一九八八年(昭和六十三年)四月十八日第一刷
読売新聞社 定価一二〇〇円
著者略歴
江崎玲於宗一えさきれおな一
一九二五年大正14年大阪府に生まれる。四七年東京大学理学部物理学科卒業。神戸工業に勤務し、半導体の研究に従事したのち、五六年ソニ一(当時、東京通信工業)に移り、五七年トンネルダイオードを発見。五九年東大理学部理学博士(専攻、固体物理学)。六〇年渡米し、ニューヨークのIBM中央研究所フェローとなる。この間に仁科賞、朝日賞、東洋レーヨン科学技術賞、米国IRE電気協会のモーリス・リーブマン賞、フランクリン協会のスチュアード・バレンタイン賞などを受賞。六五年「エサキダイオードの発見とその応用の研究」で日本学土院賞。七三年ノーベル物理学賞。七四年文化勲章。七五年日本学士院会員。七六年米国科学アカデミー外国人会員。七七年米国工学アカデミー外国人会員。八五年「半導体超格子の先駆的研究」で米国物理学会国際賞。
現在IBMワトソン中央研究所主任研究員、日本アイ・ビー・エム非常勤取締役、読売新聞客員論説委員。著書に,「造性への対話」(一九七四年、中央公論社)、『トンネルの長い旅路』二九七四年、講談社),「科学と人間を語る』{共著、一九八二年、共同通信社〕,「アメリカと日本』1九八○年)「創造の風土』1九八四年、以上読売新聞社、文庫は三笠書房)など多数。

個人人間の時代*目次
まえがき
巻頭
第一部
科学と宗教の対話15
手ごわい訪問客20
時計の針のクライシス26
超電導の壁の突破31
利根川さんの受賞に思う36
創造か模倣が、共鳴か剽窃か41
"
日本たたき"に思う46
代理ばやりの時代52
アメリカ気性を探る59
新超電導物質の出現64
アメリカの大統領制に疑問70
競争には強い日本人75
東西文化交流の触媒80
歴史の可逆性と不可逆性85
お手本志向と例外志向90
国際化への途 95
人災は忘れたころにやってくる 100
レーガン革命成功?失敗?106
寒い日の災事112
新春の瞑想119
先端技術に独創性を125
企業と個人のカルチャー130
目米摩擦、捉え方の差135
先生とコミュニケーション140
研究開発、日米の相違145
メディアVS大統領制151
科学万博に思う157
教育のウィズダム 162
科学技術への依存167
企業カルチャーの蘭学172
公と私の分離179
ある若い重役の死184
美しく考える190
バイブルとライフル195
"
個人人間〃を育てる教育207
「雄弁は金」の国207
悪ろしい冬の話214
自己流の遊びのすすめ219
第U部
〈対談〉サイエンスは好奇心だ227
よきテーストを求めて237
コンピュータは科学を変えるか246
プエルトリコ紀行249
電子情報文明257

○隻団志向性が強い日本
(略)ここで、創造性函養といっても、それは各人の各様な努力にまつもので、安直な教育ガイドがあるはずがない。しかし、独創的業績をあげるため、少なくとも、して「いけない」ことはいくつか考えられる。それはノーベル賞受賞の条件ともなるが、列挙すれば次のようになる。

従来からの行き掛かりにとらわれ過ぎてはいけない。さもなければ飛躍の機会を見失う。
他人の影響を受け過ぎてはいけない。
無用のものはすべて捨てなければいけない。
闘うことを避けてはいけない。そのためには独立精神と勇気が必要である。
安心感、満足感にひたってはいけない。
ところで、日本人はとかく集団志向が強い。狭い空間、複雑な人問関係の中に生きねばならない。その環境では、この「いけない」五か条は守り難い。何かと角がたつ。しかし、日本流の素直さ、円満さに流されると、それは無創造性につながりやすいことを十分注意してもらわねばならない。もちろん、この五か条はノーベル賞をとるための単なる必要条件であり、十分条件でないことはいうまでもない。(読売新聞一九八五年十二月二十二日)

○利根川さんの受賞に思う 創造的業績は絶対的自我で。ワシントンから
<抗体遺伝子みごと解明>
一九八七年十月十二日、ニューヨークの早朝のラジオニュースは、今年のノーベル医学生理学賞をジャパニーズのMIT(マサチューセッツ工科大)教授、ススム・トネガワが受賞したと報じた。この上ない朗報、まず利根川さんに心からお祝いの言葉を申し上げたい。特にこれは日本で初めてのノーベル医学生理学賞、医学研究の先端分野で日本人の業績が世界的評価を受けたという意味で新風が送られた感がある。一口絵写真参照一
今回の受賞の対象は利根川教授の「生体が免疫反応をいかに示すかを解明する画期的発見」である。われわれは、生体に侵入してくるバクテリア、あるいはビールス抗原、の構造を識別するタンパク質 −抗体、をつくる能力を持っている。そして抗体は侵入した抗原と複合物をつくり、さらにその複合物を取り囲んで壊す細胞の作用によって身体は清掃される、これが病気の感染を防ぐに重要な免疫現象である。
さて、生体に侵入するのは多種多様の抗原であるから、それに対処するためには極めて多種類の抗体を用意せねばならない。いったい、どうしてそれだけ多くの違った抗体タンパク質をわれわれの生体はつくることができるのであろうか。持ち合わせているのはせいぜい数百個の遺伝子にすぎない。このなぞを初めて解いたのが利根川博士の偉業である。一口に言えば、われわれが両親から受け継ぐのは抗体遺伝子の破片であり、われわれ自身、それらを組み合わせる能力を備えているという説である。遺伝子を漢字にたとえれば、われわれは漢字の構成要素、旁や偏、冠などを受け継ぐので、それを組み合わせさえすれば無数の漢字をつくることができるようなものであろう。
すなわち、持って生まれた遺伝子のセツトは一生変わらないというのが通説であった。私などもそう信じていたが、利根川さんによれば、抗体遺伝子のセツトは生体が成長する過程で変わるという動的性質を持つというのである。
ノーベル財団幹部理事、スィーグニフメルさんがいつか、ノーベル科学賞は最も優れた科学者に与えられるというよりも、サイエンスの重要性を象徴するのに最も適した業績に与えられると言われたことがある。利根川さんの仕事はまさにそれに該当するといってよい。このような世界的業績(スイスのバーゼル免疫学研究所でなされた)をあげた日本人科学者がアメリカで研究を続けるということは、日米両国の誇りであろえまた、両国間に何かと摩擦が絶えない折から、これはたいへん好ましいことではないであろうか。

<個性発揮できぬ風土>
ノーベル賞はいつもストックホルム時間で正午ごろ発表されるが、その時はニューヨークでは朝、日本では夜の時間帯である。今回の受賞が発表されると、本紙はもちろん、いくつかの新聞社から私のところに電話がかかってきた。だれもが、最近にない朗報であることには異存はないが、利根川さんも〃頭脳流出組”であり、どうして日本の土地でこのような業績があげられないか、ということについて私はコメントを求められたのである。わが国にはいまだ"創造の風土〃がないのか、という懸念であろう。
若い日本の研究者で欧米に来て仕事をすると大いに伸びる人が多いことは確かである。その理由として次のようなことが一般的に言えるのではないであろうか。
(1)人はだれしも偉大なもの、異質のものに出会うと、何かと刺激を受け触発されるものである。欧米の学界に身をよせると、スーパースターとでも呼べる著名な学者に出会うう機会が多い。もちろん、今や日本全体の研究レベル、学者の平均レベルは決して低くない。しかしスーパースターはいまなお日本には乏しいといえる。
(2)従来の行きがかりにとらわれず、思い切った研究ができる環境が開かれる。日本ではどうしても師弟、出身教室など複雑な人聞関係に縛られ、自分の個性や創造性を十分に発揮できない場合が多い。
先駆的な研究をする人たちは、当然、鋭い直観力や洞察力を備えているが、しかし一方、独断と偏見に満ちた個性 −強引な自我の持ち主である場合が多い。利根川進さんもこの傾向を若干お持ちかもしれない。
<集団意識の強い日本>
考えてみると、日本人は通常、唯我独尊的自我は持たないし、持てない。日本のように連帯感、集団意識の強い社会ではそれは殺される。集団とは家族や親族のグループ、あるいは学校、企業などの組織である。日本人おのおのは属する集団の中で位置づけられる相対的自我を持つだけなのである。
〃素直になれ"という目下の相手に使う日本人独自の表現は"絶対的自我を捨てる"ことを要請しているのではないであろうか。しかし、絶対的自我、1(アイ)を失ってしまえば、英語の定冠詞、THE(ザ)で表現される絶対性のあるものまで無くしてしまう可能性がある。事実、日本は、神さまをはじめ、言葉はもちろんすべてにTHEのない社会である。もっとも、それだけに和風、洋風、中華風と相対的風物には富み、相対的発明、発見の数も多い。しかし、真に創造的業績はすべて絶対的自我から生まれると考えねばならない。利根川さんの今回の発見も当然THEが付く。"三人よれば文殊の知恵〃などということわざがあるが、そこから生まれる知恵などではノーベル医学賞を一人で独占することなどは思いもよらない。ちょうどいま、私は首都ワシントンでアメリカエ学アカデミーの年次総会に出席している。今年の中心課題は「アメリカの製造業がいかにして競争力をつけるか」というところにある。わが国は"創造の風土"に乏しくとも、競争相手の焦点は日本に置かれていることはいうまでもない。皮肉にもアメリカの体質は、侵入するさまざまの抗原に対し、対抗すべき抗体が十分働かなくなってしまったのである。
「どうして今日、アメリカという強国が免疫作用を失ってしまったのか」、それを取り戻さなければ病気は深まるばかりなのである。(読売新聞一九八七年十月十五日)