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坂口謹一郎、日本の酒文化、全5巻、岩波書店1997年10月28日

坂口謹一郎酒学集成1 3440円
1石; 180.39リットル、1尺=0.303m 1間=1.818m 1貫=3.75kg

○日本の焼酎
葡萄酒などの果実酒を蒸留したものがブランデー、ビールを蒸留したものがウイスキー
1912年にイモ類や雑穀や砂糖製造の廃糖蜜などを醗酵して大規模な蒸留機(パテント・スチル)にかけて、無臭の純アルコールを製造する方法が導入、これを昔からの粕取りに混ぜて販売。在来の焼酎を加えないものを甲種焼酎。ソ連のウオッカはほぼ同じ。
乙類焼酎;小規模なポットスチル式蒸留機で造る日本古来の焼酎で酒製造の副産物としての粕取りなどの他に、米の他に粟、稗、などの雑穀や甘薯などを原料とした焼酎があり、壱岐には麦の焼酎、奄美には黒砂糖の焼酎あり。

清酒製造業者の年間製造石数、平成8年
業者数   製造高
100 kl以下 769(39.8%) 32 (3.0%) 千KL
100〜200 439 22.7 64 6.0
200 300 209 10.8 52 4.9
300 500 183 9.5 74 7.0
500-1000 159 8.2 110 10.5
1000-2000 95 4.9 134 12.7
2000-5000 52 2.7 163 15.5
5000 kl以上 26 1.3 422 40.1
合計 1932 100% 1052 100%
500-700 KL(3000-4000石)が一番、経済性が高い。

灘の某工場では6階だて、洗米、水切り、米蒸し、冷却、製麹、醗酵、200石(3.6kl)/日、年間300日で6万石、10800リットル、完全8時間労働、四季醸造
濁酒;ホイリゲ、松の枝、江 戸時代に新酒は酒屋の軒先に青杉の葉を束ねる。
アルコールの血中濃度 0.05-0.1%気分がよくなる
0.1-0.2% 興奮状態になり感情を露骨に表す
0.3-0.5% 全く正気を失う
s51年、国庫税収16兆円、1.07兆円が酒税
民族の酒;大昔からわが民族の間で行われた「民族の酒」は、はたしてどんな形のものであったであろうか。三国志(巻三十)「ぎ志東夷伝」に倭人のことを記した記事があるが、それを見ると、わが祖先は「人性酒を嗜む」であり、また喪に際しては、よそから来た人たちが「歌舞飲酒」をする風習のあったことがわかる。

酒造りの三段階
第一;麹造り(米に麹菌を生やして酵素エンザイムを造らせる
第二;酒元もと(酒母とも書く、酵母イーストを純粋に培養)
第三;もろみ(造りとも言われる、もと、を土台にこれに、米と麹と水を3回に分けて順々に加えてだんだん、その量を増やしながら醗酵をはこぶ工程。
もろみ、は6尺桶、即ち30石、540リットルの容積の杉の大桶
一麹、二もと、三造り;
ビールの場合は、麹にあたるのが麦芽(大麦のもやし)
1.蒸し米を麹室に入れて、種麹という麹カビの胞子をまぜて1升ずつ麹蓋にもり、摂氏25度で40時間で麹、
2.酵母を育てる、麹は米の澱粉を甘い糖分にするために使うのに対して、もと、はその糖分の液の中に酒を醗酵する酵母イーストという菌を雑菌を交えずになるべく純粋にふやす仕事。starter;
3.もろみ造り
もとに、蒸米、麹、水を3回、第一回を初添、第二を中添、第三を留添もろみは、25-26日で醗酵を終える、圧搾から火入れ
アル添酒、増醸酒(三増酒)はアルコールの他に葡萄糖、水飴、琥珀酸、乳酸、味の素、ミネラルなどを加え後に絞る。
精米→縦型で、米がなる丸く、水との作用

水  酵母  玄米    種麹
白米
蒸米 → 製麹
→水→酵母→もと酒母← 麹
初添

仲添
留添
30%アルコール→ もろみ
調味アルコール 熟成もろも
圧縮、酒粕
さ引ろ過
清酒
火入れ
貯蔵

速醸もと;仕込水に乳酸を加えその上に純粋に培養した日本酒の酵母を加えスタートさせる。出来上がったもとはアルコールはふつうの酒より幾分低いが酸は3ー4倍も強く、その1g中には生きた日本酒酵母が2ー3億も住んでいる
種麹の発明;特別の方法で麹菌を純粋に培養し胞子をたくさん作らせた一種の麹で乾燥して紙袋に入れて保存。灰の研究、種麹屋の製品
ぬるかん;45度まで、あつかん;50度くらい
○アルコール含量
ビール;3ー4%
葡萄酒;8-13%
老酒;10-14%(英国の大昔のビールもこんなところ)
日本酒市販は15ー16%
原酒のアルコール含量は18%以上、多い場合は20ー22%
清酒の醸造法;麹の糖化と酵母の醗酵が同じタンクで同時に行われるから。
どぶろく;→密造を防ぐため禁止、味噌汁をこして飲むとまずい、米とかあったほうがうまい。ホイリゲも同じ。
15%の酒も水割を防ぐ為国税庁が決めた基準;

忘れられた酒;学燈1971年1月古酒新酒
濁酒どぶろく、もろみをそのまま飲む、昭和の始めに酒税法から消える。家庭の手作りのものが市場に出まわるおそれ。密造取締りから禁止。固体の粒や泡のような気体の粒でもその表面に液中の微粒成分(コロイド)が吸着されて集まって、その部分が特に濃くなる。
泡ビールの分析、香味やアルコールが濃厚に含まれる。
ウイーンのホイリゲ、秋の新酒、葡萄酒のどぶろく
おり酒;韓国の濁酒マツカリ、もろみを磨って水で薄める。清酒の大部分は秋の末から春の始めに造られる。
中国の老酒は米から造る、10、20、50年と古酒、壷又は瓶に貯えて、うるしでシール。
300年前の褐色の液体、芳香、シェリーとそっくり。アルコールは24%、陶器の微小の穴を分子量の小さい水が余計に蒸発したせい。

世界の酒から見た日本の酒
マッカリはもろみを磨すって、水を加えて、アルコールを5%ぐらいに下げたものをあっためて飲む。ソ連の国民飲料のクワスはホップのない一種のビールですが、これは例のパンのどぶろくで、その上、果物、茶、糖蜜などで味付けしてあるので十分、おいしく飲めるわけです。粕取り焼酎は日本 酒の副産物の利用として、灘地方などのアル添用の柱焼酎として利用。
英国には胃までも、スタウトとかポーターとかストロングエールというアルコール分の強いビールがある。11.2%もある。一般のビールのアルコールは御承知の通り薄いのでホップの香味でもなければ飲めない。穀類の酒そのままでアルコールの薄い者はおそらく世界の一流酒にはビール以外にはあまりない。

日本酒の解放 世界1980年2月号
酒は人類の食とともに一番大事な飲み物であるが、現代に名酒と言われる多くの種類は、歴史の上で多くの変遷を経てきている。エジプトやバビロニアに根を下ろしたワインとビールは一方は葡萄栽培の適地を求めて、地中海沿岸や南欧の国々から仏国やドイツの一部に定着したのに対して、他方では葡萄のできにくいソ連北方から北欧の国々を経てついに独や英国に根をおろした。
雑穀の酒はウイスキーや中国の芽台酒、高りゃん酒などの白酒パイジオウとなり、米作地帯では、中国の老酒ラオジオウ(中国の畑作地帯の黄酒ホアンジオウと言われた老酒は昔は粟あわで作られた)や日本酒となった。

1.濃い酒からの解放
昔の酒問屋や小売り屋の一番大事な資格は酒の風味を失わずに、如何に多くの水を割る、これを玉をきかす。きき酒能力のあるなしによって決まるとも言われた。戦後は金魚酒の出現。特級、一級酒16%二級酒15%までという規制が出来た。水で薄めると酒の形がばらばらになる。アルコールの濃度が釘付けでどの酒も似た風味となった。s37年には12%までの薄い酒でも可と酒税法改正。

4.ワインの水割りギリシャ時代にはワインに水を割って飲む事は極めて普通のこと。ローマにも引き継がれた。水の量は1-3倍。ウイスキーの水割は、英国の上流階級の連中がフランスのコニャックに炭酸水を割って飲んだまねごと。
Water into Wineというオックスフォードの女性考古学者ドロワー博士比較宗教学の大学院で講義。ワインは生命の水で、水は男神ワインは女神との聖成る結合をシンボライズする最高の儀式。イラン、イラク、ユダヤ教え、カソリックにも類似の儀式。
ワインは、豊穣、増殖、生命の継続、その再生
98-12-19 308ページ、16名と100名
坂口謹一郎先生追悼記念文集、非売品 平成8年5月1日
坂口謹一郎先生追悼記念文集刊行委員会、北区滝野川、日本醸造協会内
御略歴
1997明治30.11.17 高田に生まれる
1910明治43.4 高田中学入学 小児マヒにかかる
1913大正2.4 東京神田順天中学3年に編入学
1916大正5.4 第一高等学校理農工専攻に入学
1919大正8.4 東京帝国大学農学部入学、農芸化学専攻
1922大正11.4 農学部卒業、副手
1923大正12  結婚、高田市倉石家の娘カウ
1927昭和2.2 農学部助教授
1932昭和7 学位麹カビによる有機酸及び酒精の生産に関する研究
1939昭和14.6 農学部教授
1949昭和24.3 科学研究所(現理化学研究所)主任研究員兼任
1653昭和28.8 東大応用微生物研究所初代所長〜s32めで
1958昭和33.3 定年退官
1959昭和34.1 理研副理事長4年間、和光市への移転に尽力
1967昭和42.11 文化勲章、微生物学発酵学の発展に寄与
1974昭和49 勲一等瑞宝章
1975昭和50.1 新春御歌会始の儀に召人
1984昭和59 脳梗塞のため療養生活に入る。その後回復。
1988昭和63.1 愛酒楽酔を出版
1994平成6.12.9 心不全のため逝去、享年97歳、従三位

日本酒の恩人、坂口謹一郎、文芸春秋s42.5
明治7年、東京開成学校の化学科に英国人ロバート・アトキンソン、明治11年に英国nature誌と、14年の東大理学部紀要に清酒醸造の化学を発表。酒の「火入れ」操作に感動、春になり搾りあげて大桶に貯えられた酒が、気温が高まり腐敗の危険の出そうな5月のはじめ頃(八十八夜)になると、それを防ぐために、酒を大釜の中で熱するが問題はその温度にある。
昔から杜氏の秘訣では、手を酒中につっこんで釜のなかを3回往復するのが、やっとこたえられる程度の熱さということで実は摂氏60度近く。精密な実験によると、この温度が酒に害する菌だけをちょうど殺してしまうところに相当。
杜氏、フランスでパスツールが葡萄酒の研究で発明した有名な低温殺菌法、パスツーリゼーションと一致。この論文のなかで、日本人が300年も前からこのことを発見していたということは驚くべきこと。

日本の農芸化学と私、坂口謹一郎、農芸化学会60周年講演s59.9
駒場の農学部の各教室の配置を見ると、当時は[応用の学問]というものはなく、基礎学をそのまま応用にぶつけるという世界一般の考え。英国のRoyal Societyや日本の学士院も同じ構成、学士院にはSciences and Applicationsとあって「応用の学問]という見方はない。日本の農芸化学は欧米のAgricultural Chemistryとは異なる。人類の福祉を目指す学問として創り上げて行くこと。

碑文谷だより、坂口謹一郎、茶の湯、茶の湯同好会平成6年3月
○茶の湯同好会とのお近づき
大河内信威先生(父は正敏)とは理研再興の時からの繋がり。戦後、理研をつくることは議会を通ったが、政府は土地は1万坪しかやらぬといい、10万坪を主張した、私は会議の席を怒って立ち去る。その後、米国空軍の一番上の人と酒をのむ機会があった。赤ワインを飲みながらこんなに酷い目にあっていると話した所、彼はあっさり、そんなに困っているなら土地を提供しようと言ってくださった。思いがけなく今の理研の土地を得ることが出来た。大脳の余計な作用を解放した酒道の徳である「和をもって貴しとなす」のおかげ。もう一人の畏友は谷川徹三先生。
○酒道
お茶に茶道があるように酒にも酒道がある。お互いに酒を飲んで楽しむことが本 当の意味ででき、その哲学が出来れば面白い。しかし、とかく飲む事にのみ陥りやすいのは残念である。
酒は学問的に言うと生命の作用を利用してつくる食べ物である生命の一番の始まりは、いわゆる微菌の類、微はカビ、菌はきのこ。近ごろは、細菌、真菌、び、酵母等にわけている。それら生命の作用で、アルコールを出したりお茶ではカフェインやテオブロミンのようなアルコールとは全く別の作用をする薬物を出す。
何故、酒が食べ物かというと、世界中の酒の原料の多くはその国の主食物と一致し、発酵は主食物の調味のための調理方法の一種であるからだ。
お茶は、カフェインという精神的に引き締めるような作用を持つ成分が中心であるのに対し、酒は大脳の緊張を解放する作用のあるエチルアルコールが主成分である。
酒を愛し、酒を楽しみ、友と酔い心をともにすることほど人間として楽しいことはない。

火落菌研究の回顧と....  田村学造 東大名誉教授
火落ちとして知られる清酒の腐敗現象を防ぐために火入れと称する低温殺菌法がパスツールの発明に先立ち300年前から。1956年に筆者が火落菌hiochi acidを発見、mevalonic acid
1971年に放射菌の代謝産物中からtunicamycin発見。この物質はウイルスの外被中の糖タンパク質である赤血球凝集素やノイラミダーゼの生合成を選択的に阻害し、細菌や酵母の細胞形態の異状を誘起するので被膜とか表層を意味するtunicaを冠した。細胞表層は、糖鎖で覆われており、生体膜の各種のレセプターには糖鎖をもったものもおおく、これらはツニカマイシン処理で活性を消失する。
分泌タンパク質にも糖鎖をもったものが多く、正常な生理作用を示すのには糖鎖が必要。糖鎖は、核酸、タンパク質についで生命の多様性を示す第三の鎖として糖鎖生物学という分野が開け、細胞生物学で注目される研究が進められている。
微生物の生育因子と抗生物質の研究は坂口先生の最初の一言への回帰であった。そこには思いがけない世界が広がっていた火落菌のような風変わりな菌から生物の多様性と普遍性を示すイソプレノイドの世界、抗生物質の研究から生体膜と複合糖質の機能
の問題につらなった。

詩魂学才「愛酒楽酔」を読む  安岡章太郎 サントリークオータリー87.1
愛酒楽酔には、科学の研究には先人の優れた研究のトレースから始めなければならないとし、<プライオリティーを競う学界では、一寸奇妙に思われるかも知れない。しかし優れた研究業績には必ず優れたアイデアや優れたスピリットがこもっている。高いスピリットに触れる必要あり>
<終戦後の世界の生化学界又は分子生物学界の顕著な出来事をあげよと言われれば一つはメバロン酸(火落酸)の発見により従来不明であった各種の物質の生成経路が開明されたこと、第二に生体内でのタンパク質が実は糖を尻尾につけた糖タンパク質の形で色々な生理作用を発揮されることが発見された。その後者の開明にもイソプレノールという日本酒腐敗菌(火落菌)の生成物を含んだツニカマイシンというものが深く関係していることが日本で発見された。>
坂口氏は、学問は<人生に役立つかどうかを最高の指針とする>

理化学研究所の坂口先生、佐田登志夫、理研元副理事長
理研において、主任研究員、副理事長、相談役。
始めは、株式会社科学研究所社長仁科先生から鈴木梅太郎研究室の発酵の分野を兼務で引き受け、薮田先生と共にペニシリンやストレプトマイシンの工業化や、大豆蛋白を使った合成酒の工業化につくした。研究所がその成果で自立できる訳がなく、科学研究所は次第に荒廃していき、その窮状を救う為、s33年に理研法制定、初代理事長に長岡半太郎の長男治男氏が副理事長として学界の代表として坂口先生が選任。
先生の第一の仕事は、主任研究員制度を堅持、始めは官庁の傘下に入ったということもあり国立研究所のような部制の階層的な研究室制度をとるようにという話もあったようであるが研究室が自由に発展し、学際的研究を行うことも出来るためには主任研究員制度が良いと決断された。
第二は、衰退していた研究所の研究レベルをあげるため、何人もの先生方を主任研究員として迎えた。
第三は研究所を駒込から和光の地への移転 であった。研究の衰退と大量の人員整理による荒廃を救うため、居は人の心を変えるという大方針のもと長岡理事長との名コンビでこの問題に取り組む。

後遺族から
謹一郎の生い立ち、坂口健二
明治30年に高田市に、正利、マツの長男として生まれる。正利は越後に出る石油を燈油にする坂口製油所を経営、坊ちゃま旦那さんと呼ばれ、米作地帯で最高の身分呼称を高田中学一年までされ、何処でも下へもおかずもてなされた。自分が大事に扱われなくては我慢がならないという性癖は一生のもの。また驚くべき小心な用心深い性格。当人も「俺は子供の時でも100mも先に自転車がくると危ないと言って大人を道端 にひっぱっていった」と度度話していた。このような小心さは一面、彼の長所を作っていた。その後製油所は倒産、北海道の函館、それから日高に流れていき、ここで両親に置き去り。その後、東京の親戚に居候、順天中学という不良の多かった学校に中途入学。一高の寮に入り、このように楽しい所があるかと思った。農芸化学科では高橋偵造教授の知遇をうけた。兄弟の学費等を出す為、市立三商の夜学の教師をし、実験も猛烈にやり、肺結核にかかる。その直後に結婚、貧乏は相当のもの。
母の生家は高田市の陶器店で地主で酒造屋。母の兄弟は10名で倉石太郎東芝副社長、武四郎東大教授等、一時は上越では有名な家。謹一郎は若いころミカ祖母と喧嘩して一生、この家に泊まらないとたんかを切った。
高橋先生がs13年に定年になったがその後数年は教授室に居て謹一郎はs14年に教授となったが、前の助教授室にいた。有能な教授である、外国よりも優れた科学・応用微生物学を築いた。多くの研究所を作り改組した。s19年の農林省食糧研究所(現食品総研)、東大応微研、理研の和光市移転、山梨大学の醗酵研究所である。情に最も弱く人との情に最も感じる人であった。

父のこと  坂口ふみ
私の家では男女の区別が当時としても超・旧弊であったから女の子は母親の領域のものとされていた。母の父への関係はある強烈な緊張があったことだけは子供は肌に感じていた。父は必死になって母を抑えようとしていたのではと思う。母の実家には知的なものに対するプライドがあった。母は、のんきで大まかなたちだったから、そんなプライドを意識することなく無邪気に振りまいていたと思う。それが父の癪にひどくさわった。繊細すぎるほど繊細でからみつくような情を持つ父とは、噛み合わないことばかりだった。父が絶間なく母の到らなさ、足りなさ、愚かさを責め続け、完全に萎縮・服従させてしまったありさまは、私たちの世代の物には言語道断と見えたが、ふるい日本の価値感に照らしては美事なものとうつることだった。
末子である私が成人したころには父の癪癖もすっかり和らいでた。相変わらず、言葉をかわすことは少なかったが、父なりの情の深さ、知的な鋭さ、感性の適確さを見る余裕が出た。彼には強烈なエネルギーと激しい飢えのようなものがあった。それは何をもってしても満たされない要求であった、人の情に対して、美や快適さに対し、自他の仕事の内容やレベルに対し、また社会的承認に対し。被害妄想に接する猜疑心は、聡明な懐疑精神と人事一般での驚くほど細心な気遣いに。強い依存心は愛すべき社交性と人々を周囲に集める情深さに。そしていささかの誇大妄想は深い自信に。
短所がむき出しに現れたのは家族に対してであったろう。昇華能力には感嘆したが、それを支えたのは並外れた知力と判断力であった。知力と体力が衰えた病床では、それらはバラバラのむき出しの姿を見せて、介護の人を悩ました。
父の晩年の言い草のなかで、梁の武帝が達磨大師に向かって「生涯に多くの神 社仏閣を建てたがどのような功徳があるか」と尋ねた。大師は即座に「無功徳」と答えた。彼は「無功徳」と何度も繰り返しながら笑っていた。彼の仕事のかずかずを心に浮かべていたのだろう。父のそんなところが好きであった。