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「朝永振一郎博士、人とことば」
共立出版 定価1500円、昭和59年5月15日 初版第一版

s35年文芸春秋11号「科学者の自由な楽園」

感想;種々の珠玉のエピソードにみちている本です。

著者;加藤八千代(1912年朝鮮生れ、1940ー44年旧理研鈴木梅太郎研究室副手、1958ー65年科学者と人間の会の幹事)
朝永振一郎略歴
1906明治39.3.31東京小石川区小日向三軒町生れ、長崎士族
1907明治40 父三十郎が真宗大学哲学概論→京大教授に転任京都
1909明治42 父の海外留学で母の里本郷森川町に転居
1912明治45 本郷誠之小学校入学、泣き虫で有名
1913大正2 父帰朝とともに京都に戻る、京都言葉分からず難渋
1918大正7 京都府立1中、病気のため入学早々1学期休学
1923大正12 アインシュタイン来朝,第三高等学校入学、理科乙
1926大正15 京大理学部入学物理学専攻
1928昭和3 大学3年目で専門として量子力学を選ぶ
1929昭和4 大学卒業、就職口がないので大学で無給副手
1931昭和6 仁科芳雄が京大へ来講,ここで始めて光明を得る
1932昭和7 理化学研究所仁科研究室に入る。理研連中の頭速し
1933昭和8 ひと夏を御殿場のYMCA寮で仁科、坂田らと過ごす
1934昭和9 夏休に小林稔、玉木英彦と北軽井沢でディラック翻訳
1937昭和12 独留学、ライプチヒ大ハイゼンベルグ原子核理論、独語困難
1939昭和14 独英戦争、引揚船で帰国、米国に寄らず仁科に不興
1940昭和15 結婚
1941昭和16 東京文理科大教授、中間子論、超多時間理論を考察
1946昭和21 磁電管、立体回路、超多時間理論をまとめる
1948昭和23 くりこみ理論に取り組む
1949昭和24 教育大教授、プリンストン高級研究所に招へい、ホームシック
1950昭和25 多体問題の研究を一つまとめて帰国
1951昭和26 仁科死去、後任で学術会議原子核研究連絡委員長
1952昭和27 文化勲章受章
1956昭和31 東京教育大学学長に選ばれついに行政家になる
1962昭和37 学長、任期満了
1965昭和40 超多時間理論、くり込み理論、多体問題でノーベル賞
1969昭和44 教育大を定年退官
1974昭和49 理研OB会発足、初代会長
1976昭和51 勲一等旭日大授章受章
1979昭和54.7.8 咽喉ガンのため8ヶ月の闘病生活後,73歳で逝去

<ぶらぶらポカン>
先生は「私自身も小さい時から幾度となく大病をし、かかりつけの医者から20歳までもつまいと言われていた」と書かれており、弱い身体をたくみに調整し、効率よく長持ちさせている秘訣を知りたいと、何気なく問いを試みたり、雑談や随筆を分析した結果、先生の健康法は
1.四季のうつりかわりに、何となくついていけなくなると感じたとき、また、これという理由もないのに物悲しくなるときは、なるべく早めに寝ることとする。
2.冠婚葬祭にはなるべく出席しないようにする。
3.できるだけ、手紙の返事や文書類なるものは書かないことにし、自分の下手な(?)字から逃れ、気のおけない酒を酌み交わす。酒をおいしくのむため、水分をとるのをひかえ小食を心掛ける。
4.そして、いろいろ口実をつくり、どこにも行かず、家でブラブラし、夜は早寝、朝はゆっくり寝坊する。

昭和32,3年頃の朝日の清水こんの連載もの「好きな物」の「朝永振一郎氏」の巻で「僕は妙な精神状態でしてね。夜、時間のたつのが惜しくってしょうがない。何かすると時間が早くたつから何もしない。日曜日などもどこかに行ったり面白いものを見たりするとあっという間に夕方になる。何もしなければ、時間がたっぷり感じられて満足。だから何処へもいかないで家でブラブラしている。プラブラは効用がないところに効用、その間、頭は遊んでいる。外国行きの船にのっても僕はいつもポカンとしていた。独国留学中も学校をサボてベンチでポカンとしていた。
養老年金で暮らしている老人たちのひなたぼっこに交じって僕もポカンとしていた。それでもちっとも退屈しなかった。きらいなもの。電話。絶対に引かなかった。学長の家に電話がなくて困るというので、しぶしぶ引いた。酒はすきです。面白いことに理論物理の人はたいていやります。僕も大体毎日。
実は先生は、寝床のなかでポカンとしながら眠っているときでさえ、賢明に頭を働かせていたらしい。私が先生に、「問題の発見や解決のアイデアを着想なされるときはいつどこでどんな風に」と尋ねたら「当たって砕けろという言葉があるが、僕のは眠って砕けろです」
<文科と理科との混戦>
「我が国では技術者同士、科学者同士、あるいは技術者と科学者、それぞれの専門を越えた協力はむつかしいが何故ですか」との宮地杭一芝浦工大学長の質問に「日本舞踊にいろいろ流派があるでしょう。藤間流とか花柳流とか。別の流派は、なかなか舞台では一緒に踊らない、それと同じこと」

<お気に入りの知的小話>
○学長になり自分の答え方に4つのタイプがあることに気がついた。第一はイエス、第二はノー、第三はイエスでもノーでもない。第四はイエスでもあり、ノーでもある。
○先生は「日本では、風が吹くと、埃が立つ、埃がたてば目を悪くする、盲が多くなる、そうすれば三味線が弾かれる、三味線を作る為に猫が殺され、鼠が増えて、桶がかじられお桶やの仕事が増えてもうかる。ところが、儲かるだけではなく損もする。風が吹けば、火事が多い、それに水をかける、桶やの桶まで持ち出されるから風が吹くと桶やが損をする」、いつもながら先生の記憶力は抜群だった。
○ヒットラー時代にドイツ人の性格を英国人が評 して、誠実で、知的で、ナチ的です。ただ残念なのは3つの性質が決して一つに重ならない。一人の独人はいつもその二つしか持たない誠実で知的だと、ナチ的ではないし、知的でナチ的だと誠実ではなく、誠実でナチ的だと、知的ではない。
<理研の裏ばなし>
朝永先生がs35年文芸春秋11号に「科学者の自由な楽園」という仁科研究室に入ったs7年からの思い出の一文を発表。鵜上氏は「旧理研の自由な研究環境とか雰囲気が仁科がデンマークのニールス・ボアの研究室での一人一人の個性を重んじるということを、理研に持ってかえった、と神話のように信じられているが間違い。理研の大正6年創立当時からの規則書に、何をしてもよい、決められているのは主任研究員の給料と予算だけ、その予算をどう使おうと、どんな人間を研究室にいれようと自由。また中原和郎は「仁科は主任研究員になるやすぐにも自分がオールマイティになったので、仁科研の人は皆、頭を抑えれたものだ、その点 でも仁科は完全に自由にやっておられた」と。」
朝永はちょっと困った顔で「そういう点 が全然なかったとはいえない」、玉虫先生「仁科は湯川の学会での中間子理論発表で、数式の符号の誤りがあったが、激賞して励ました。そこで、その箇所を修正した論文を学会誌に投稿する気に」
朝永「湯川の物理学会誌への投稿は1934年(昭和9)11月、35年の初頭に発表、アンダーソンが実際に中間子を発表は37年の始め、ノーベル賞は49年11月3日、湯川のノーベル賞受賞に仁科の果たした役割は神話にまでなった。」
鵜上三郎氏は科研時代に研究室を主宰、s31年千葉薬学部教授として後、50歳になったばかりでs37年に死亡、「科学と人間の会」を続ける気力を失うほど、筆者は落胆。
○福渡七郎氏から大陸科学院の終焉について聞く。大河内が深く係った満州国国立大陸科学院がs10年3月創立、s12年に2代目鈴木梅太郎院長、s16年辞任、3代目に初代の直木倫太郎1年3ヶ月後に4代目の院長に元満鉄総裁の大村卓二が就任、敗戦まで在職。大村氏は当時の満州国皇帝と一緒に新京から通化へ行っていた。そこで八路軍の捕虜。元満鉄総裁であったとわかり、朝陽鎮まで連行され、尋問、棒で叩かれ、腕も折られ、ほとんど死にかけていた。日本人の看護婦が数名いて手当しやっとあるけるほどに回復したころ大村氏の死刑判決。吹きさらしの野原に、一つ掘られた穴に向かって、大村氏は歩かされ、穴の近くまで歩み寄ったときに後方から銃弾が発射され、大村氏の身体は穴にのめりこんだ。その年の11月に新京にたどりついた医師は日本人会に報告した。大河内の理研コンツエルンの落とし子とも言える大陸科学院は満鉄とともに満州のこう野に消滅した。
<なんて間がいいんでしょう>
コミュニケーションがいかに大切かという話の時に時実利彦が「科学者、技術者も、もっと話し方を勉強しないといけません。何を言っているのかさっぱり要領を得ない事を一方的に喋りまくる人が多い。その人が東大教授ともなると誰もわかったような顔をしてうなずき、話を終えても質問一つ出ない。その点、朝永先生の話は実に分かり易い。独特の間のとり方をなさる」
朝永「ある科学史をやっている人から聞いた話だが、科学上の革命的な発見は非常に若い科学者か、若くなくてもそれまでの自分の専門分野を離れて新しい分野を研究中の科学者によりなされていることが科学発見史の分析でわかったそうだ理論物理では20代から30代にかけてが勝負だ。30代半ばを過ぎても芽の出ない人は専門分野を代えてチャレンジしたら。10年近く、一つの分野だけを研究していると、その分野の通説に少しも疑問を持たなくなる。疑問を持たなくなったら新しいビジョンも湧いて来ない」
<終わりの始まり>
HGウエルズの1913年に書かれ、14年に単行本The World set Free.あるすじは、1933年に人工放射能が発見、原子力エネルギーが大規模に工業化され、ついに原爆がつくられる。1957年に英国、米国、仏国連合軍と独オーストリア連合軍との間に原爆戦争、全世界は荒廃するが、生き残った人がイタリーに集まり、国境を廃し、世界政府を樹立する。ウエルズは1946年没。
<人が死ぬ時>
「人間最後の言葉」クロード・アバリーヌ著河盛好蔵訳、750の言葉日本人は唯一、北斎1760-1849,「天が後10年の命を与えてくれるなら、あと5年の命を与えてくれるなら真に偉大な画家になるるのだが」
ルー・ゲーリュサック(1778-1850)仏国の科学者「おさらばするのは残念だ。これからいよいよ面白くなるのに」この本 を朝永に見せると、「幸田文の全集に露伴は81歳でなくなると「じゃ、おれはもう死んじゃうよ」といったきり穏やかに死んだそうだ。私の父もたんたんと死んだ。いつものように食事をし、いつものように母と語り、いつものように庭の花を眺め、いつものように入浴してそうして死んだ。80歳だった」
父三十郎の主治医松田道雄が「お話していて三十郎先生と話しているような気がした。せまらない態度、人を見下すことのない姿勢、いつも微笑を伴わせてなさる話ぶり、時折見せる子供がおどけた時するような眼差し、底の知れない心の深さそれはお二人に共通していた」
<猫の死亡通知>
1970年5,6月の暮しの手帳に「ねこ」と題した随筆。朝永ネコ儀昨夜交通事故のため急逝いたしました。遺体埋葬の儀は本日もにじ山に於いてしめやかに取り行いました。ここに生前の御厚誼を深謝し謹んで御通知申し上げます。なお勝手ながら御供物の儀はかたく御辞退もうしあへます。
<朝永先生のお墓>
朝永領子夫人(発病から納骨まで)
○発病
癌やみて余命を知りしわが夫(つま)は未完の原稿仕上げ急ぎし
長生きは望むべくもなしあと10年は生き度しと夫いひしああ
○病中
細りたる夫の足拭きひたすらに吾れは祈りぬ又歩む日を
声出ず妻は筆談にいらだちて時に鉛筆折りしこともあり
愛蔵品ひとつももたぬ夫のみ柩に何を納めんと子等語り合ふ
○追憶
なき夫の手まづけし鳩ひもすがら部屋に来たりて餌をついばむ
○納骨
ふるさとに還りし夫のみ遺骨の眠らむ墓石に秋日まぶし
先生のお墓は京都市内の東本願寺の一隅に、それはそれはささやかなもので、墓石の右側面に朝永振一郎という字が御両親のお名前の次に小さく彫られているだけである。

科学者の自由な楽園
のびのびした雰囲気
私が理研・つまり財団法人理化学研究所の仁科研究室に入ったのは、昭和七年のことである。大学を卒業したのが昭和四年だから、まだ学校を出ていくぱくもたた広いときであった。入ってみておどろいたのは、まことに自由な雰囲気である。これは必ずしもひとり仁科研究室ばかりではなく、理研全体がそうなのだが、実に何もかものぴのぴとしている。たとえば金の面ではこうである。身近な問題についていえば、私たちが研究室で必要な資材を買うときにも、大きいものは別だが、ちよっとしたものなら、理研内に専属の倉庫があって、真空管にせよ、化学薬品にせよ、簡単に伝票を書けば、一それだけで買って来られる。もっとも、私自身は実験物理学ではなく、理論屋であるからそういうものの必要はなかったのだが、ノート、紙、鉛筆一つにしても、倉庫へ行って伝票を切ってもらって来れば、あとで研究室で払って若いてくれるという、まことにありがたいシステムだった。さような些細なことぱかりではないことが、おいおいわかるようになったのは、しばらくたってからのことである。
もちろん、研究室の予算というものはある。ところが、私のいた仁科研究室などは、しょっちゅう大赤字を出すので有名なところであった。といって、別段無茶苦茶に無駄づかいをするわけでもないのだが、新しい研究というものはどっちに進んでいくか予定することがそもそも無理なので、相当な赤字の出ることは当然なのだ。そういうときには、いつのまにかあとで研究所がきちんと面倒を見てくれるというぐあいなのである。また、研究室によっては予算を余すものもある。余したからといって次の年度の予算をへらされることもないから、年度末にあわてていらないものを買い込むなどという無駄なことも起らない。私は当時下っ端であったので、理研の所長であった大河内正敏博士については、特に面識があったわけでない。が、きいたところでは、そうした予算面での自由という得がたい特典は、大河内さんの科学への大きな理解からもたらされたものだったようである。元来が、理研というのは財団法人で、純粋な研究所として発足したものではあったが、もとより知恵だけを売って収支つぐなうなどということは、日本ぐらいの産業の規模のところでは、おぼつかない。
といって、研究所は基金の利子や政府の補助金ではまかなえないくらい大きな規模のものに成長した。そこで大河内さんが怪腕?をふるって、実際上の営利会社をたくさんつくった。世上、理研コンツールンといっていたものがそれで、ずいぶん収益をあげたときいているが、私は実業界の事情についてはうといので詳しくは知らない。営利会社群の中には、理研が特許をもつビタミンや、理研酒といわれて有名だった合成酒などのように、研究所の知恵をそっくり応用してもうけたものもある。が、全部がそういうものばかりではなく、かえってその多くは研究所の研究とは直接関係のない純粋な営利会社であっただろう。こうしたぐあいに、理研の収入の大きな部分は特許を売るとか、発明をもとにした事業から出てくるのだが、えらかったことは、あくまで当初の研究所中心という骨組をくずすことなく、当然起ってもいい事業会社の営利的な意見に影響されることなしに、研究所では基礎的な研究を存分にやらせたという度量である。仁科研究室の研究などは、特許にもならず事業にもならない純粋研究ばかりだったが、少しもかたみのせまいことはなかったのである。いまでこそ原子物理学は世間の花形だが、二十年前のそのころでは原子物理とは大金を使うばかりで役にたたない学問の標本であったのだが。
こういうことがある。研究員会議というのがあって、そこで予算・決算をやるのだが、これがだいたい三十分くらいですんでしまう。考えようによっては、ずいぶんボス的な運営で、いまだったら非民主的という非難を浴びそうだが、むしろ官僚的な運営の弊がなかったというふうに解釈した方がよいのだろう。なにしろ、赤字などいくら出してもかまわぬという方針だから、採算面で討識の必要はあまりないのである。もっとも、それだけ所長まかせにしていたわけで、今から考えてみると、私たち下っ端からは、ずいぶんいろいろな無理を大河内さんにかぶせていたのではないかという気持も、大いにするわけではあるのだが……。
人材のプール
周知のように、理研には主任研究員というシステムがあった。主任研究貝と名のつく先生は、各自研究室を持っていて、これが一つの単位と在り、下に研究員、研究助手、研究生を抱えた、いわば一城のあるじというわけである。大学の講座と似ているが、違うのは、一人の主任研究員以外には、員数についてなんのきまりもないという点である。だから、研究貝が少ししかいない研究室もあれば、反対に大世帯の研究室もある。これはなんでも広いようだが、大学に入って、杓子定規的に助教授一人、助手一人と定まった定員制にしばられて、絶対に必要な研究者も置けないのに悲鳴を挙げてみると、その利点がよくわかる。要するに、自主的判断によって、研究にもっともふさわしい構成で組織すればいいので、やはり民間の機関の大きな強味であった。
理研の中には、すでにこうした研究室が純粋物理についても、仁科研究室の他に長岡(半太郎)、石田(義雄)、西川(正治)、木下(正雄)、高峰(俊夫)、寺田(寅彦)、清水(武雄)などいくつか併立していたわけである。研究室が独立しているといってもい研究室相互の間で、いろいろな語合いができる。藤岡由夫さん(現埼玉大学学長)などは分光学の高嶺研究室にいる。研究室間の語合いといっても、なにも頭株の人だけの四角ばった会識ばかりではなく、われわれ下っ端でも高嶺研究室の同じ下っ端の藤岡さんらとしばしば一しょに飯を食ったり旅行をしたりして、接触が深く、その間に研究についての相談をし合ったのである。また、ある研究室で、こういう専門家がたりないといえば、他の研究室から喜んで手伝いに行く、というふうでもある。そんなところにも、群雄割拠の大学の教室制度にはみられない和やかな場面があった。
理研創設の当初は、主任研究貝は大学の教授の職を持ったまま、兼任しているケースが多かった。東大にあった寺田(寅彦)研究室などもそれである。ここには中谷宇吉郎さん(現北大教授)もいたはずである。地方にはまた分室がいくつか散らばっていた。たとえば、東北大学には木多光太郎先生の研究室があり、茅誠司さんもここにいたのだろう。京都にももちろんある。木村(正路)先生の研究室である。のちに大阪大学ができたときには、多くの人材が理研からいったものである。そうした人材のプールとしても、ちょっと掛替えのないものであった。やかましい定員制がなかったおかげで、理研には大学教授級の人がいっぱい飼育されていたわけである。
そうした、大学に置かれてある研究室では、大学の予算の他に、理机からの予算もとれるわけである。といって、別段、大学での研究と理研での研究を分けて行なっているというのではない。ただ、大学だけでは機械もたりないし、手足もたりなかろう、それに部屋も不足であろうと、理研が面倒をみたのである。これが、次第に年を経るにしたがって、仁科芳雄先生のような、理研だけの独立の研究室がつくられるように、分化していったのだ。
そのころ、大学から若いすぐれた人材が多く理研を希望してやってきたのは、けっして生活面の理由からではない。
科学者というのは、生活面でぜいたくをしようなどという望みはあまりないのである。ぜいたくをするなら、研究面でさせてもらった方がいい。そして、理研には研究の自由があった。具体的にいえば、研究について外から指示命令などもちろんないし、その上講義の義務がない、先生気分にならないですむというありがたい特典があった。しかつめらしいはなしになるが、よくいわれる学閥などというものも見当らない。
これは日本の学界では画期的なもので、のちに私たちの研究分野で、大学という壁をとり払うために、大きく貢献した。仁科研究室についていってみても、かような具合である。御大の仁科先生にしてからが、東大の工科出身であって理科出ではない。私より一年古くからいた嵯峨根遼吉(原発取締役)が東大、私は京大。嵯峨根君と同じころ入っている竹内柾君(現横浜国大教授)は蔵前高工で、しかも化学山川身とという変り種。こういった組合せだ。のちには医学畑から、アイソトープの生物への影響の研究にやってきた慶応出の武見太郎さん(現日本医師会会長)が入っているし、生物学から村地孝一さん(立大教授)が加わっている。
これに玉木英彦君(東大教授)、坂田昌一君(名大教授)、小林稔(京大教授)らも入ってきたし、臨時には武谷三男(立大教授)、渡辺(渡米中)なども顔を合わせて、おいおい大家族にふくれあがっていったのである。地元だから、東京の人間が多かったということは自然だが、出身校だの専門科だのを無視して、人間同士が自由に研究を助け合うというのは、ここ以外にはなかなか見られない光景だった。
研究意欲をそそる
人間にとって形式的な義務がないということが、かえってどんなに能率をたかめるかという、一つの実験みたいものである。勤務時間の制限などというものはない。仁科先生御自身が、のちにはそうは暇もなくなったが、最初のころは、昼間お目がかるにはテニスコートヘ行った方が可能性が大きいといわれた伝説?まであって、いったいいつ研究をやっておられるのかわからない。月給はくれるが義務はない。いや、義務はなにもないのに、月給はちやんとくれるといった方がよいだろう。義務がないということはまことによいことである。というと、怠け者の言にきこえるかもしれないが、本当はかえってこれほど研究に対する義務新心を起させ、研究意欲を煽るものはないのである。
不思識なことだが、まあとにかく研究しろと、なにもいわずに月給だけをいただいてみると、別に何時から何時まで出勤しろといわれるわけでもないのに、良心が黙っていられなくなるのである。勤務評定などももちろんないから、朝ねぼうも自由だが、うちへ帰って晩めしをたべたあと、また出動して夜中まで仕事をするなど、夜とひると逆になっている御仁も多かった。なまじ、たとえば何時から何時まで会議に出ろとか、かくかくの書類をつくれ、などという義務があると、そういう形式的な義務を果たしただけで、自分の義務は全部済んだという気分になってしまう。そこで良心が安心してしまうというわけで、さらに新しい意欲は湧かない。人聞とはそういうものである。研究をさせるためには、だから良心を安心させてはいけない。安心させないためには、そういう口実を与えてはならないということである。研究以外になんの義務や規制を付加しないという点では、理研の行き方はなかなか徹底したものであった。形式的な礼儀などというものも、所内ではあまり必要としなかったようだ。藤岡由夫さんが、海外から帰ってきたとき、外国では学者が大勢集まって議論をする、あれを私たちもやろうと言い出した。
いまでこそ、日本でも当りまえのことだが、その時分は珍しい。そこで学会のあとで、そういう会をやってみた。そのなかで、京都大学の木村(正路)教授が報告をしたのだが、理研の若い人たちが、滅茶苦茶にやっっける。それもはなはだ失礼な言いかたをする。先生、そんなことを書うけれども、そんなことはナンセンスですよ、などと。この張本人は、いま原研所長になっている菊池正士さんであったが、当時、若い者が教授にそんなことが言えるのは、理研以外にはなかった。これはやはり理研精神ともいうべきものであったろう。
営損会社
こうした自由な空気の中で、仁科先生はまず宇宙線の研究をはじめ、やがて、いろいろな加速措をつくって、原子核研究に奥深く進まれたのである。そのうちに、理研がいくら潤沢な資金を持っているといっても、サイクロトロンのような大きなものはとても弁じられないという事態になった。昭和十年ごろまでにつくった小さいほうのサイクロトロンはまだいい。もう少し大きいものをつくろうとなったとき、仁科先生の御苦労はなみ大抵ではなかった。
しかも、いったんつくってみると設計上のまちがいがあり、思う通り動かない。やむなくアメリカヘ人をやって、設計の誤りを正しもした。必要なときさっそく人を外国へやれるなど、これも理研なればこそである。そうこうして、ようやく完成したのが、太平洋戦争直前のことである。いまの金にして、三億円か四億円はかかっているだろう。これには財闘からの寄付金と、たしか陸軍からの補助金もものをいっていたものと思う。
それほどまでに、全力を倒注してつくられたサイクロトロンが、終戦後占領軍の悲しい誤解によって破壊されてしまったのは、先生にとってどんなにつらいことであったか、察するにあまりある状態であった。そのいきさつについては、すでに再三書かれ語られているので、詳しくは触れないが、理研の社長に就任されてからの仁科先生の苦労はたいへんなものであったらしい。占領軍は、財閥はすべて解体してしまうという意向であった。
そして理研もいわゆるコンツエルンになっていたのでこの運命をまぬがれることはできなかった。しかし仁科先生は、理研の研究が、日本の復興にとって大事なものであるということを説いて、事業会社を全部きりはなして、理研を株式会社として独立して存続させるまでには成功したのである。こうして科研と名を改めて、のこされた研究所は、知恵を売って、つまり発明をしてその特許を売って収支償うという形にされたわけだが、とても無理であった。アメリカでこそ成り立つ商売であろうが、日本ではとても……。まして、終戦直後のあのようなときに、そんな知恵を買って事業をしようなどという会社はどこにもなかった。そこで営利会社ところか、営損会社になって火の車がつづいた。
多くの研究者が去った後で、競輪の補助金をもらって自転車の研究もしたそうだし、有名なペニシリンも売り出した。が、所詮は、商売人と対等に闘っては勝てない。私はもうそのとき理研にはいなかったので、その間のいきさつはよく知らないが、仁科先生も不如意のうちに、世を去られたような事情である。しかし、仁科先生に薫陶された研究者たちは日本各地にちらばって、新しい種を育て、そこでりっぱに花を咲かせたのだ。
人間を集める好い環境私たち、いまでこそ各方面に散ってはいるが、かつては理研で同じ釜の飯を食った仲間が顔を合せると、おのずからよき時代の思い出に話がはずんでしまう。たしかに自由なときであり、ところであった。
もっとも、それがよかったからといって、いまの時代にあのシステムがそっくり応用されてよいとは思えない。たとえば、研究室単位は、一人のすぐれた学者が指導するという、指導者原理に依り立っていたものである。たしかに、理研がつくられた第一次大戦の後では、それがふさわしいものであったろう。だが、のちに原子核の研究を仁科研究室が推進するにあたって、西川、長岡両研究室が加わって、三つの研究室が共同して研究したという事態でもわかるように、研究室よりはもう少し大きい単位の研究規模が必要になっていた。人手の問題からも、費用の問題からいっても、時代の要請があったのである。
また、下っ端にも不平がないわけでなかった。たとえば仁科先生が、できそうもないことを命令してくる。そんなことから、とくに実験物理の人たちの間には、小さな不平の声がたえなかった。もっとも、不平があればすじみちをたてて、これは不可能と説得すれば、あっさり納得してくれるのは仁科先生の長所であったが。組織の問題、人間的な問題で、欠点がなかったわけでない。が、なによりよかったことは、そこには研究者の自由があったという事実である。研究テーマや方法の避択は研究貝の自主性にまかされており、研究が役に立たないからといって文句をいわれることもなかった。長い間かかって会識や討論を重ね、全く無駄のないように作りあげ、絶対必要のぎりぎりの予算を要求しても、その要求額をお役所の都合で六〇パーセントにけずられて落胆するのが今の大学の姿だが、大学へ籍を置いてみれば、かっての姿はいっそうよかったものに思える。
それにつけても、咋年から再び科研から特殊法人理研となり、そこの理事長に就任された長岡治男氏(故長岡半太郎博士の長男)が、先般欧米を観察してどんな制度がいちばん理想的かを研究した結果、語った言葉が教訓的である。「とにかく、よい人を集めることだ。」たしかにそれである。これは、よい人たちがそこへ行って研究したいという意欲をそそる環境を生みだすことが先決である、という意味も含まれているわけである。金、体制、運営、その他いろいろな問題がある。
が、研究にとってなにより必須の条件はなんといっても人間である。そして、その人間の良心を信頼して全く自主的に自由にやらせてみることだ。よい研究者は、何も外から命令や指示がなくても、何が重要であるかみずから判断できるはずである。
(『文芸春秋』一九六〇年十一月号、『鏡のなかの世界』収録)