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仁科芳雄、伝記と回想 定価220円 編者朝永振一郎
玉木英彦、1952年8月30日第一版発行 みすず書房214p

感想;仁科芳雄という偉大な人の吸引力が感じられ、また20世紀の科学の断面がよく書かれています。

目次
1.仁科芳雄博士略伝 山崎文男
2.晩年の著作三編
 平和問題と科学者の態度  1948.5.16読書新聞
 湯川秀樹博士ノーベル賞受賞を記念して 1949.11.15講演会
 最近のアメリカ科学界を見て 1950.4.13 読売講堂渡米報告会
3.思い出
 仁科博士の思い出   湯川秀樹 1951.2.1ニューヨークにて
 仁科さんとデンマークの思い出 木村健二郎,科学の実験s26.3
 仁科社長と私       岡崎嘉平太
 仁科先生の御病歴 武見太郎 自然s26.4
仁科博士の生い立ち 松本一
一編集者の見た仁科先生の横顔 小倉真美
 ジャーナリズムの片隅で 金関義則
 仁科研究室にいた頃 小林稔   自然s26.4
 宇宙線と仁科先生 関戸弥太郎 自然s26.4
仁科先生 朝永振一郎 自然s26.4
 科学研究所と仁科先生 玉木英彦
4.仁科先生を偲ぶ座談会 自然s26.4

1.仁科芳雄博士略伝 山崎文男
1890年明治23年12.6岡山県浅口郡理里村浜中の農業兼製塩業仁科在正氏の4男として生まれた。仁科家は藩政時代には土地の代官をしていた土地の素封家。岡山の第六高等学校に入学、肋膜炎をわずらい長く休学。1918年大正7年に東大電気工学を首席で卒業、恩賜の銀時計、理科大学物理学科大学院に在学2年、同時に理研鯨井研究室に研究生として入所、1921年大正10年に研究所から、海外留学を命じられ、同時に研究員に任じられる。
1921年カラ1922年8月まで英国ケンブリッジ大学のキャベンディシュ研究所のラザフォード教授門下。X線のコンプトン散乱の反跳電子について研究。キャベンディシュには後に中性子を発見したチェドウィックや米国のスマイスやロシアからカピツアが来ていた。
デンマークのボーア教授のもとに1923.4.10-1928.9.30まで5年余の研究生活。ボーア教授の研究室には、独ハイセンベルグ、スイスのパウリ、スエーデンのクライン、英国ディラック、ロシアのガモフ等がいた。仁科は、ランタンからハフニウムに到る諸元素(原子番号で57ー72)のL吸収スペクトルとその原子構造との関係を調べる。
クライン仁科の公式は、X線のコンプトン散乱に関するもので、この散乱の際におけるX線の波長のずれ及び反跳電子のエネルギーと、散乱角との間の関係はX線の粒子性によって説明がついていたが、どの方向への散乱がその確率で起るかと言う点で満足な理論がなかった。この散乱確率を求める公式を出した。
当時、ディラックによって相対論を量子力学に取り入れた電子方程式が発表されたので、その方程式の解を解いて計算、非常に面倒な計算、二人で計算した結果が一致せず困った。
苦心の結果算出された公式は実験結果と一致。宇宙線や原子核の適用限界が疑問になる度に引き合いに出されて、理論物理学の進路を決める上で重要な役割。
1928年12.10帰朝、理化学研究所において新しい物理学の日本における中心を作った。
1931年に主任研究員として新しい研究室を主宰。
1936年に23トンの小サイクロトロンの設計に着手、1937年4月に完成。
1938年には200トンの大サイクロトロンの電磁石を据付、1944年1月16Mevの重水素イオンを得ることに成功。
仁科は官学的経歴からいえば、めぐまれない方であった。世界的学者でありながらどこの大学の教授にもならなかった。学者として公的に表彰されたのは1945年1月の朝日賞が初めてであった。1946年2月、戦後初の文化勲章、1946年11月理研所長、科研の創立に奔走、ペニシリン製造に成功、1948年株式会社科学研究所創立とともに社長に就任。1951年1.10肝臓ガンで永眠。

湯川秀樹博士ノーベル賞受賞を記念して 1949.11.15講演会
湯川は、中性子と陽子はなぜ原子核という非常に狭い空間に結合されて研究、核力の場を通して中性子と陽子が引き合うとの理論を考えた、量子論からは、場があることは、新しいパーテイクルが存在することであり、この理論の結論として大体、電子の200倍、陽子の1/10の質量を持つパーテイクルがあるであろうと、1935年昭和10年に発表、1937年に米国のアンダーソン、ネダマイヤーが宇宙線のパーテイクルの通った跡を示すウイルソンの霧函で、電子の200倍というようなパーテイクルが存在することを発見。

仁科博士の思い出 湯川秀樹 1951.2.1ニューヨークにて,自然s26.4
先生がなくなったという電報を受け取ってもちょっとも信ぜられなかった。時がたつに従って、しかし思い出があとからあとからよみがえってくる。短い冬の日が暮れかかって部屋の中が薄暗くなる頃などに、先生のことがふと心に浮かぶと何ともいえぬ悲しい気持ちになる。
なき人を遠きにありて偲べとやここにも空は夕焼けにして
私どもは自分の置かれている環境の安定性を無意識的にしばしば過度に信頼している。会う人の誰にでもおのずからなる安定感を与える仁科先生のような人が突然なくなったりすると、今更のように人間界、自然界の根底にひそむ不安定さに愕然とするのである。先生が理研の解体の結果として新たに発足した科研の運営にどんなに苦労したか、この心労が先生の天寿を縮めたのではないかと思うと、暗然となると同時に、この誇るべき伝統を持った研究所が、先生のなき後も一層の発展を続け、昔の理研の盛時が再現されるよう切望せざるを得ない。
先生の理解力と記憶力の非凡なことに私どもはしばしば印象づけられてきた。尊敬するのは、自己の利害を超越して、更に毀誉褒貶を無視して他人のため、公共の目的のためにつくされたことである。先生の人間像は東洋的なものと西洋的なものの均衡ある調和によって支えられていた。長く外国におられた結果として、日本 人には希にしか見られない合理性が生活態度・研究態度の中に染込んでいたように感ぜられる。先生が疲れを知らぬエネルギッシュな人であったことも西洋的なものを感ぜしめた。しかしその反面、清濁あわせ呑むとか、春風駘蕩とかいう東洋的な形容詞が先生の場合にはピッタ リ当てはまるのである

仁科先生 朝永振一郎 自然s26.4
先生の見とおしは時にはあまりに遠大過ぎたこともあった。小さいサイクロトロンが出来たら、これを使って小さいながら有益な研究もできたろうに先生はそういう小安に安んずることを好まれない。先生のパイオニア精神と余りに遅れていた日本の状態を世界の大勢に追い付かせようとせられた先生の生き方がそうさせたのであろう。実際、先生の生き方は、仕事の実績よりもまず、必要なその土台を作ることにあった。これに先生は超人的な熱意と勢力で遂行された。そのために個人的な生活を全て犠牲にされ文字どおり寝食を忘れて勉められた。
結果は悲劇的であった。あれだけの努力にくらべて得られた学問的業績は余り多くない。何の偉大な発見もないし、また地味ではあるが重要なデータの集積もない。ついに、研究者よりも計画家であり、発見やデータよりもサイクロトロンを作ることだけがそのお仕事の全部であったように見える。小サイクロトロンは空襲でやられ、大サイクロトロンは悲しい誤解のため破壊された。先生が戦争末期に人に一筆依頼された時、「本来空」と書かれたという話があるが、先生自身、御自分の仕事のはかなさを感じられたのかもしれない。
しかし、本当に「空」であったのであろうか。誰であったか、先生は日本の物理にとってコロンブスであるとたとえた。コロンブスも貿易者としての成功者ではない。黄金国ジパングをついに発見できず、見出したものは未開の土地アメリカであった。しかしアメリカは後の代のものにとって大きな活動の地盤になったのである。
先生によって我々にもたらされたものは、学問的な発見よりもサイクロトロンよりももっと貴重なものである。先生は我々の間に物理学研究の近代的な方法に対する自覚をもたらされた。

仁科先生の御病歴 武見太郎 自然s26.4
昭和14年以来、当時の理研仁科研究室で中性子の医学研究に従事していたので殆ど毎日、先生に接し、指導を受けていたが常に、健康で疲労を知らない方、居眠りや欠伸は年の間に一度も覚えない位。驚くべき学問の理解の早さ。
s25.11. 23に聖書館3階の診療所に来る。診察の結果、肝臓ガンを第一に考えさせられた。12月12日に胃腸病院に入院、1月10日に永眠。解剖の結果、脳は1500グラム、廻転は緻密で極めて大きい方、桂太郎に次ぐ由であった。

4.仁科先生を偲ぶ座談会 自然s26.4
出席者
朝永振一郎、東京教育大学
竹内木正、横浜国立大学
中山弘美、科学研究所
山崎文男、科学研究所
坂田昌一、名古屋大学
玉木英彦、科学研究所
○仁科研究室の誕生ーテニス熱中時代
朝永;仁科先生がなくなられてもう二週間になります。
坂田;1928ー1931年頃まで先生は何をしておられた
朝永;テニスをやっておられた。
○草分けのころー弟子たち絞られる
○わが青春に悔いあり
○山師かつがる
朝永;とにかく先生は、デカイことが好きだったね。今になってみるとちっともデカクないあたりまえのことだったんだけれども当時の僕等からみると何だかバカにデカイことばかしを考えておられるので、向こう見ずの山師みたいな感じがしたな。また実際、山師のようなところもあったがね。
朝永;サイクロトロンのように非常に金のかかるものをやるには積極的な宣伝が必要だというので意識的に乗り出す、そうなるとこの研究をやって、こういう病気の治療に使えるかもしれないなんてことをさんかに言った書いたり。その頃、本郷の通りだかにエレクトロン療法とかいうインチキ治療の看板が出ていて僕らは、これは先生のやりそうなことだなどと悪口を言ったもんだ。
○加速装置ー下づみの苦しみ
山崎;マグネットで1500アンペアなんて当時の物理屋では思い付かない
朝永;先生は電気工学出身だから、電車に何アンペア流しているなどという変なことまで知っておられた。そのかわり、弱電は知らなかった。真空管のことは知らなかったね。
○トレーサー研究の先駆ー芝居も方便
中山;遺伝や変異には初めから興味を持たれていた。昭和13年秋に、中性子を植物にあてて変異の研究をやれと言われたのですが、僕は頑強に断りましたので後に篠遠喜人先生や佐藤重平さんがやられました。
○知恵は文殊で
○エレジーのかずかず
○荷は重し、28も長という名前を持っている。
竹 内;先生はいろいろ書き始めてからうまくなったね。しかし始めは下手だ下手だとよく僕らは文句を言ったもんだ
朝永;「わけである」というのをわけでもないところにやたらに使う。先生が始め随筆みないなものを書いた時になっちゃいないと思ったね。タンク(富山小太郎)さんが大体「仁科さんは随筆を書くような人間じゃないよ」といった。
○終戦前後ー君子豹変
玉木;広島から帰って来られてから、はたで心配しておったのとはアベコベで先生は「これからはまるで時世が変わったのだ」とおっしゃる。我々はあっけにとられた。
○しかも親方はゆく
竹内;自動車でお茶の水まで送ってくれたのですが何処に行くのかと言ったら、手形の割引に、と言われる。
山崎;電気を止められると先生自ら配電会社へ行かれた。
○働きて働きて病む秋の暮
朝永;先生のやり方は収れんしないんだ。
玉木;誰かが先生は梁山泊だといったね。
朝永;今までの経験からして、その時は無茶なことをすると思ったことが、今考えると当然であったりするから。それが非常にスケールが大きいということ、僕ら6人でも気のつかなかった面があるかもしれない。もう少し時間の距離をおかないと全体が見えないんですよ。