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科学者たちの自由な楽園、栄光の理化学研究所
宮田親平、文芸春秋社、1983年1350円 318 pages
感想;20世紀前半の日本の科学を大河内正敏を中心に描いた科学史を学ぶ人には必見の名著。
著者;1931年東京生まれ、1954年東大薬学学科卒、文春入社
本帯;直接、間接に3人のノーベル賞受賞者、湯川、朝永、福井を生んだ、日本最高の才能と創造性の開発基地、その誕生から戦後まで40年を彩る、個性豊かな科学者たちの群像を描くノンフィクション,
本書に登場する人々;大河内正敏、高峰譲吉、渋沢栄一、池田菊苗、夏目漱石、長岡半太郎、鈴木梅太郎、本多光太郎、寺田寅彦、中谷宇吉郎、真島利行、仁科芳雄、朝永振一郎、湯川秀樹、中原和郎、武見太郎、福井謙一、市村清、田中角栄、河内桃子
1.ロンドンの邂逅
夏目漱石;1900年明治33年10月から、1902年明治35年暮れまで、留学生から夏目狂セリとの文部省への電報、明治34年5月に池田菊苗が独国から、文部省留学生で両者。
漱石は、江戸町方名主の子
池田菊苗;1864年生まれ、当時36歳、父は元加賀藩士、山県春苗、島津家池田の養子、滋賀県の官吏、9歳で上京、英語塾、2年後に戻る、京都で漢学、14歳で京都一中、父、春苗が征韓論で下野、借財、一高の前身大学予備門に入学、膨大な借財、大正5年まで、一家7名;一番苦しかったが楽しかった時代と回想;帰国後;東京帝国大学理科大学教授
明治40年、41年に昆布から、グルタミン酸ソーダ、グルタミン酸は19世紀後半に発見された、アミノ酸の一つ。泰とう、エミール・フィッシャーによりまずい味、これに、葉山で海草からヨードを抽出する事業をしていた鈴木三郎助が工業化、味の素の会社の基礎
純正化学と応用化学、池田社会主義;ライプチヒのオストワルドに学ぶ;ラトビア生まれ、物理化学の確立者、1909年にノーベル賞、化学の学校、著者、オストワルドの学風(討論の際に、期待した結果をうるより期待しない結果を得た方がはるかに価値が多いことを常に強調。染料化学はアニリン、ハーバー・ボッシェの空中窒素の固定法、バイエルやボッシュは大化学工業会社の創立者
菊池大麓;幕命で英国留学、数学者
山川健次郎;会津白虎隊、1869年明治4年米国留学、物理学会の元老、工科優勢である基礎科学は自前の教育者となること。明治26年に講座制は、教授、助教授に助手の5人程度、自由にひろがる性格を持つ科学の研究には向かない。
桜井錠二;加賀藩士の父、19歳でロンドン大学、化学の試験に一番、110人中、帰国後24歳で教授、以後、38年間帝大教授、帝大理科大学長、
1913年大正2年、築地静養軒に、山本達雄農商務大臣、男爵渋沢栄一ら出席で、高峰譲吉が国民科学研究所の創設を訴える、高峰、タカジアスターゼ、アドレナリンの発明家
高峰譲吉;1854年生まれ、当時60歳、加賀藩典医の子、工部省所管の工部大学校、明治12年に応用化学科の第一回卒業生、英国3年留学、帰国して農商務省工務局勧工科に勤務、
助教授の道は工部大学校が東大に吸収で工科大学で母校がなくなった。
明治17年、ニューオリンズ派遣、カロライン20年に結婚、23年高峰式元麹改良法の特許、清酒醸造の研究、ウイスキー・トラストでの研究中に、コウジから消化酵素ジアスターゼを抽出。1894年、明治27年、41歳でパークデービス社から発売。
世界の賞賛、ニューヨークで高峰化学研究所、1900年にはアドレナリンの分離精製に成功;
2000万円の高峰構想は500万円に縮小、大正3年3月
化学研究所設立の請願、7月に第一次大戦、医薬品や工業原料の欧州からの輸入が止まる。農商務省が、10月に化学工業調査会を設置。別途に化学研究所案が出る、4年には理化学研究所案
大正4年6月19日に大隈首相が理化学研究所の創立を決定、大正5年1月渋沢、理化学研究所設立に関する建議、3月に国庫補助法案10年間に合計200万円補助、
大正6年3月19日に財団法人理化学研究所の設立を農商務省に申請、3/20に認可、寄付金は218万円
総裁;伏見宮、副総裁、渋沢、所長;菊池大麓、副所長桜井、4/26は皇室より10万円/年で合計100万円、目的;純正科学たる、物理学及び化学の研究、応用方面の研究もなす。
III;危機
物理部長;長岡半太郎、造兵学の大河内正敏、電気工学の鯨井恒太郎が物理部の研究員
化学部;池田菊苗、農芸化学の鈴木梅太郎、純正化学の田丸節郎、和田猪三郎→東大
東北帝大;有機化学の真島利行、東大の応用化学助教授の喜多源逸、大麓が5ヶ月で死亡、
2代目;土木学会の古市公威、14817坪の土地を購入
大正11年でも寄付金は300万円、1号館完成、
長岡半太郎;長崎大村藩士、小学校落第、明治17年に東大理学部入学、地球物理学、明治26年に独国留学、ヘルムホルツ、マックス・プランク、ボルツマンに師事、明治29年に帰国、明治36年1903年、土星型有核原子模型
大正10年9月に大河内正敏が3代目所長←山川が推薦、子爵、貴族員議員、工学博士、工学部造兵学科教授43歳、
IV;明治天皇のお膝
東大造兵学科;明治20年、帝国大学工科大学校に設置、明治36年に卒業、恩賜の銀時計組、明治44年に33歳で専任教授、火薬構造理論、砲架理論、砲外弾道学、寺田寅彦と同年、寺田は物理学科
大河内;知恵伊豆の末裔;松平伊豆守信綱;元来が大河内姓、上総大多喜藩主大河内正質まさただ、27000石、幕府側で没落、三河吉田7万石は政府側で、大河内明治11年生まれで養子に出る、二歳年長の妻(三河吉田当主の妹であった)。大正天皇の御学友となる。谷中清水町に2500坪の邸宅、グルメ、味覚という著書、鳥、獣、魚肉、庭園、建築、芸術家、狩野派、陶磁器鑑賞、
大正10年の理研の所員は100名に満たない。大正11年1月から主任研究員制度、研究ボスは半数が年長、長岡は13歳も上、14名の主任研究員、長岡半太郎、池田菊苗、鈴木梅太郎、本多光太郎、真島利行、和田猪三郎、片山正夫、大河内、田丸節郎、喜多源逸、鯨井恒太郎、高峰俊夫、飯飯里安、西川正治
片山は;東京、金のみ、喜多は10年に京大教授、真島、本多が東北で理研にも研究室
鈴木梅太郎;理研ビタミンA→理研ビタミン、大正11年肝油から分離、苦学、駒場農学校予科,帝国大学農科大学総代、農家出身、師古在由直、明治34年ドイツ留学、ベルリンでエミール・フィッシャーの門下、ワールブルグ、ノイベルグ、フレキシナーを生む、蛋白質研究で一世を風靡、日露戦争を挟んで4.5年。体力の不足。
東洋でなければ出来ない問題を取り上げる。盛岡の高等農林学校の教授に転出、明治40年ころから帝大教授、ネズミや鳩で実験、白米では1ヶ月以内にケイレンして死ぬ。
ヌカを加えると防げる、濃縮精製、3mgから5mgの投与で疾患を直す、オリザニン、オリザ・サティヴァから米、から命名。明治43年1910年12月発表。
1911年7月にドイツ学会誌、11月に英国のフンクは同じ物質を結晶化し、ビタミンと名付ける。エイクマンとホプキンス、1927年のノーベル医学生理学賞は、1890年頃、オランダのエイクマンが米ヌカ中に治療物質があることを証明、抗神経炎ビタミンの発見
ホプキンスは成長促進ビタミンの発見;1906年に動物には三大栄養素以外に微量な不可欠因子があると予言。
鈴木もフンクの完全に純粋結晶で取出したものではないとの欠点あり。生化学では、なにをもって発見というか?
医学者が反発、農芸化学者が口出しと。オリザニンは三共から発売、売れない。大正7年に京都、慶応、脚気の原因はビタミンB1の欠乏と断案。
第一号発明
池田菊苗研究室から吸湿材アドソール、越後地方に産する酸性白土、吸湿性、摂氏200度で水分を失う。柏崎に試験工場、天然ガスからガソリンを吸着して回収、東洋ガス試験所設立、日本石油、大河内「工業化の苦労は発明の苦労より大きい」海水からの直接製塩の研究、
池田;大正13年頃から理研を留守し独国にいき、ライプチヒに研究室を設け、昭和6年に帰国すると主任研究員を退いて自宅敷地で実験。
池田に反比例で鈴木研究室は隆盛;研究者が百名余、ビタミンではB2とB6の複合剤である理研ビタス、シイタケ成分のエルゴステリンに紫外線を照射したビタミンD、財政に寄与。天然殺虫剤成分ピレトリンやコクゾウ虫の駆除剤クロルピクリン
合成酒;酒の風味、鼻リシスや舌メータ、発酵混成法はやめて。純合成法、アルコールはでんぷんや糖蜜から発酵。大正10年、藤沢に大和醸造試験所、コハク酸の合成には、大正13年に英国エジンバラから帰国の敷田、下瀬が成功。理研酒、
鈴木;頼みとしうるものは、頭と健康の二者のみそれの少ないものは、ただ努力あるのみ。
財産;オリザニン、大戦中に合成したサルバルサンやサリチル酸の特許料収入、オリザニンB1発見
VI、理研の三太郎
理研が本郷上富士前町に、今は、科研製薬が建物を使う。大正13年8月20日長岡半太郎研究室、水銀還金術の第一報、大正15年に60歳で東大を定年で退く、理研専任で分光学実験;このころ理研への補助金は200万円から400万円に増額。
1905年明治37年には読売で原子力の膨大なエネルギー、電子。
本多光太郎;本拠は東北帝大金属材料研究所、理研にも研究室、明治3年三河生まれ、地主、明治22年に第一高等中学校、物理学科、研究生活は27歳のとき。長岡が本多を指導。8年下に寺田寅彦。磁歪現象の研究、明治40年東北大学設置、ゲッチンゲン大学に留学、ザクセンの田舎町、化学者のタンマンについて、金属、合金の電気、磁気の物性について研究。大正5年にKS磁石鋼。タングステエイン、クローム。コバルト、炭素を含む特殊合金。大男。昭和7年東大の三島徳七のMK鋼に保磁力でぬかれると翌年、新KS鋼を発明。本多は、泥臭い、田中館、長岡は後輩の指導にはにつかしくないとの説あり。
昭和12年に第一回文化勲章、長岡半太郎、本多光太郎
木村栄。
東北;理研主任研究員の真島利行;有機化学の大本山、大正6年に理研特許1号のインドールの製造法、優れた自然科学者、科学好き、以外に人間ぎらいが同居。舞鶴藩の医師;京都で開業、残された財産は騙されて取られる、予備校の共立学校、開成中学、池田菊苗が教師、一高、東京、化学科で助教授、物理化学者、有機化学を学ぶには、長井長義のいる医学部薬学科へ。ホフマン教授のもと、ドイツ留学の長井の有機化学講座担当が内定;
英国派のドイツ嫌いの桜井錠二教授が外した。
桜井に無機化学を進められたが、有機化学、チューリッヒでビルシュテッターのもとで研究、東洋特産の研究、ウルシを対象に。月に1,2度理研に、泊まり込み。研究魔、
本多門下→風通しのよさ、茅誠司、蔵前高等工業→門下→北大教授、東大教授、総長、理研研究員、真島門下、千葉薬専、蛋白質化学の、阪大学長、赤堀四郎、
大正2年東北、帝大として、女子を受入れる。女性研究者の多いことも理研の特徴;
大卒者の月給80円ぐらい。これは世間の標準より高い。大河内が就任時100人の所員の数は5年目に400人。
テニスコート開きには大河内自身が模範演技と称して先頭にたって参加。このコートには12時から1時までは研究員は使用しないで下さい、と掲示。
研究者は午前でも午後でもおかまいなし。大河内、1日一生懸命研究したら1日遊んでもよいのだ。
喜多;京大工学部工業化学科教授、喜多は東大応用化学科助教授時代の大正6年に理研に採用。カビを研究で不遇、それから京大に。昭和16年卒業の福井謙一が工業化学科、漱石ファン、数学が得意、量子力学。
大河内;自研究室、真島研究室、毎週土曜日に全員を集めて、実験結果を報告、20何年間かかさず。大河内は帝大教授を大正14年に辞任、大正14年に治安維持法、昭和5年には貴族院議員も、赤化事件、5人の子、
VII;ねえ君、不思議とは思いませんか?
大正13年4月に大河内が寺田寅彦を理研に呼ぶ、5月に理研所員になる。高知県の須咲で療養生活、ペンネームは吉村冬彦、大正5年に東大教授、漱石との関係は、熊本の5高等学校時代に英語教師の夏目を尋ねることから始まる。英国留学前から。我が輩は猫である、の寒月のモデルが寺田である。楽学を称する、寺田は尺八の研究で学位。大正6年に西川正治とともに学士院恩賜賞をラウェ斑点のX線解析、金ダライとコップの摩擦による音響、雨に濡れた舗道の滑り、炭団の燃え方、藤の実の割れ方の研究、日常生活の現象を研究。
寺田は遠慮ばかりして、器械をかわず3年前に航空研究所、理研、そして2年後の地震研究所、大正15年に東大に辞職願い、慰留されて地震研究所専任教授、ただ一人の研究生、中谷宇吉郎(北大で雪の研究)、線香花火の研究、金平糖の角の発生、墨流しの研究、大陸移動のモデル実験、昭和10年に死亡、寺田物理学にはノーベル賞でずと非難が。
ノーベル賞は、仮設から検証をへて普遍的法則、定説を確立したものに与えられる。
科学の進歩は、熱力学、細菌学、量子力学、分子生物学の時代、仮設提唱から定説確立まで最短距離にあるテーマにむらがる、一点集中突破の性格。
地球物理では、複雑多様、ウェゲナーの大陸移動説を先駆的に評価
語録;災害は忘れたころにやってくる。
「3時間労働説」大河内の追悼文;弾道の共同実験、写真、写真をにらめいつまでも考えろ。装置や機械とにらめっこ。1,2日
池田菊苗も昭和11年、72歳で腸閉塞で急逝、ディケンズの小説
VIII 理研コンツエルン
昭和2年11月に理化学興業を創立、コンツエルンの中核、渋沢栄一を動かし、三菱、住友の協力で公称資本金300万円、払い込み90万円の理化学興業設立、昭和4年に隣接地に移動、昭和5年に本社工場つくる。昭和9年に電通ビル、昭和11年に、美松ビル6階
電気工学の鯨井恒太郎研究室からアルマイト、助手の植木栄、アルミニウムをしゅうさんで処理、皮膜が発生、アルミニウムにウォータプルーフ、鯨井は大正14年に理研辞職、瀬藤象二に昭和4年にアルマイト化学の鈴木庸生研究室から、桜井季雄、錠二の息子、が陽画感光紙を発明。
市村清;リコー三愛グループの総師、佐賀県の農家、佐賀中学中退、貯蓄銀行、大正8年上京、別の銀行、北京支店、上海支店、横領罪で5ヶ月下獄、昭和2年の銀行パニック閉鎖、熊本県で富国生命の外交員、感光紙の販売代理業、中央大学中退以来、9年ぶりで上京。昭和8年に理研感光紙九州総代理店、50名の従業員、東京発、神戸行きの列車で大河内に直訴、単身先頭に建ってきりこむ、下積み店員を事業の協力者といい心をくばる。管理能力感光紙部長、35歳で入社。
理研の工作部の貢献も大きい。大河内が所長兼任で研究室、ピストンリングの研究。圧力分布測定器、水晶の圧電気の応用の研究から生まれた。飛行機や自動車に使われる。ピン止め加工法、海老原敬吉により発明が完成、昭和3年に所内に工場、7年には柏崎の旧アドソール・プラント内に工場建設。大正末期から毎週のように柏崎に出張。彼は人情に厚く勤勉な新潟県人をことのほか好む。昭和9年には理研ピストンリング株式会社は設立。
科学主義工業、科学宗信徒の進軍、持てる国日本、農村の機械工業、という著作
発明と発明の工業化は別の才能;デイーゼルエンジンのデイーゼルは投身自殺、理研コンツエルン側には研究所に搾取との不満あり。売上げの5ー30%が特許発明実施報酬、他に特許許諾料が取られる。大河内は両者にそれぞれ、接するなという。
○コンツエルンの人物は俗物
○研究所の人間は仙人だ。変わり者だ。しかし仙人が下界に落ちると俗物より悪くなる。
昭和9年まで、4社
昭和10年5社創立
昭和11年には6社が参加
昭和11年、理研の研究室は25、職員数は1000人に。
昭和11年2月理研感光紙株式会社が美松ビル6階に事務所、会長は、大河内、専務は市村清
昭和13年には理研光学、リコー、市村が社長
昭和13年4月市村を専務に理研科学映画株式会社、大宅
IX 科学者の自由な楽園
理研の主任研究員であった理学部の物理学教室の木村正路教授は昭和6年の春、理研から仁科芳雄を講師に量子力学ハイゼンンベルグの物理的基礎に従って実施、朝永振一郎と、湯川秀樹、涙もろい、父が京都帝大教授
小川、地質調査所員、京都一中、湯川秀樹、祖父は和歌山県の田辺藩の儒者、父は小川家に養子
仁科芳雄;研究室昭和6年7月に発足、毎週一辺、コロキウムという輪読会
西川研究室の菊池正士、昭和7年9月に朝永は入所、研究生、60円の月給嵯峨根遼吉も仁科デイスカッションに参加
1921年コペンハーゲンの公園の角に理論物理学研究所、ニールス・ボアは、イギリスのラザフォードに学ぶ、ハイゼンベルグ、パウリ、ディラック、クライン、ガモフを集める。コペンハーゲン精神、寛容の精神;
仁科芳雄;電気工学科を一番で卒業、アインシュタインの相対理論に触発、物理学科の長岡半太郎の講義を聞いて物理学へ。大正9年理研の鯨井恒太郎研究室に入り、翌年、海外留学、7年間、最初はキャベンディショ研究所、英国のラザフォード、大正12年にコペンハーゲンでボーア門下で5年間スエーデンの学者、クラインと協力してX線のコンプトン散乱に関する、クライン仁科の式、昭和3年春に帰国、
昭和6年に主任研究員として研究を主宰。昭和9年には坂田昌一は理研を去る、理論グループには、京大から小林稔、東大から玉木英彦が加わる。
昭和7年日本学術振興会設立
昭和8年大阪帝大が創立、総長は長岡半太郎;
昭和9年から湯川は阪大教授11月中間子仮説、陽子と中性子の間に新しい場
昭和12年7月に朝永はドイツに留学
昭和13年10月に仁科湯川中間子討論会、メソン会
昭和9年3月28日に田中角栄上京、柏崎の理研工場の大河内先生、大河内邸の書生を目指す、日本橋の土建会社の東京支店に勤める。
昭和12年春、19歳、共栄建築事務所;理研や理研産業団各社との関係
昭和18年に田中土建工業株式会社
昭和19年暮れから王子神谷町のピストンリングの工場を朝鮮の大田に移設を田中土建が請負。2000万円。
昭和20年11月進歩党に300万円、選挙15万円落選、大麻
昭和21年、28歳当選、新潟県一帯に工場の理研の影響力、吉田の寵を得る。理研産業団に一部門を継承した、コハク酸製造の理研化学の社長にもなる。
昭和11年5社新設
昭和12年には小サイクロトロンが稼動
昭和12年13社
昭和13年に14社、合計47社
昭和13年、慶応医学部の武見太郎、仁科研究室に。
昭和16年、武見は牧野しんけん伯爵の二女と結婚
昭和14年秋、朝永は帰国
昭和17年3月理研25周年記念式典、東條首相祝辞、職員数、1500人、研究室33、鈴木研究室と仁科研究室は100名以上の室員。収入支出500万円、13ー16年まで収入支出の55%が特許から、利息及び配当収入21%、委託研究収入7%、以上のうち80%が研究費に。
この年以後、軍部委託、軍需生産が増加。
昭和14年、会社は63、工場数は121。15年から会社数減少。
XII、二号研究
昭和17年7月頃海軍から、諮問を仁科が受ける。12/22にウラン爆弾を研究を仁科が宇宙線グループ竹内せいに。1938年昭和13年にオットー・ハーンがウランから放射性バリウム検出、1939年から米国はマンハッタン計画開始
1941年フィジカル・レビューから原子力に関する論文が消える。
陸軍航空技術研究所所長の安田武雄中将、嵯峨根に質問、ウラン爆弾の出現の可能性あり→16年4月に大河内に研究依頼、仁科の回答までに2年間がかかる。
海軍は技術研究所と艦政本部が16年5月にウラン爆弾に注目、京大の新巻文策教授に依頼。陸軍は東條首相兼陸相が18年始めに米国と独国で原爆製造計画が進んでいる。遅れたら戦争に負ける。係官が仁科に依頼、「金と資材は出す。」陸軍は理研、海軍は新巻教授と分ける。
大サイクロトロン完成は19年末。18年5月に仁科は陸軍に回答。ウラン235の分離、熱拡散方式。竹内が、分離筒製造、ウラン鉱探しは放射化学が専攻の飯盛里安が。理学部化学科出身の木越邦彦が六フッ化ウラン、19年始めに米粒大の六フッ化ウラン。分離筒に六フッ化ウランを入れ、19年7月頃から分離実験、サイクロトロンを用いて山崎文男が分析。いい結果は出ず。
昭和18年9月に鈴木梅太郎、69歳で死亡。
昭和19年に文理大学の朝永振一郎も疎開
XIII、カタストロフ
F研究、湯川研究室の小林稔が臨界量を計算。ウラン分離には超遠心分離法採用、昭和20年9月にMITの総長、コンプトン調査団理研訪問。サイクロトロンを米軍11月に破壊。2基とも東京湾に投棄、12月6日に戦犯指名、軍需産業、内閣顧問、原爆製造計画の責任、12月13日に巣鴨に収監、昭和21年4月に大河内釈放
昭和20年11月に所長辞任、外相吉田が忠告して自制。昭和21年春、朝永ゼミ、超多時間理論、くりこみ理論、ノーベル賞を共同受賞するシュウィンガー
XIV.原子力とペニシリン
昭和21年6月末、理研は集中排除法に触れるから解体せよ。仁科らが交渉、物理学者のケリーが理解。理研産業団との関係も絶たれる。昭和23年3月株式会社科学研究所と名前を変えて発足。仁科はペニシリンに着目、鈴木梅太郎研究室、仁科研究室の新間啓三がサイクロトロンの真空乾燥技術、昭和23年8月には油蝋ペニシリンの製品
旧理研産業団も解体さればらばら、理研栄養薬品、売上げの30%が研究所にピンハネで留保無。理研産業団60幾社かのうち生き延びたのは10数社。理研光学は、産業団から外される。財閥解体に際しても制限会社の対象にならずにすみ、市村清公職追放も免れる。
昭和23年日本学士院会員、仁科が選ばれる。戦前は学会非主流
昭和24年湯川にノーベル賞、長岡は戦前からノーベル賞推薦人
昭和24年12月11日長岡半太郎85歳、科研講堂での葬儀
昭和25年1月10日仁科死亡還暦肝臓、ストレプトマイシン製造に着手
昭和26年には所員1000人足らず、戦前には2000人近い職員
昭和27年には所員400数十名。
昭和28年8月に研究所と生産部門、科研化学
昭和26年大河内追放指定解除、毎日理研に、脳卒中を起す。
昭和27年8月29日大河内死亡、僕なんかもう死んだほうがよいんだよ。公職追放後の生活は不遇。売り食い生活。埼玉県、志木の平林寺に葬られる。
XV大輪の花
理研では大発明はない。むしろ科学技術の発展に寄与した優れた人材を輩出。10人余の文化勲章受賞者30人以上に学士院賞。浅原源七;日産自動車社長、西川研究室の鳩山道夫はソニー研究所長、殿様大河内は、画家や彫刻家や茶道師のかわりに文化の担い手としての科学者へのパトロン性を発揮。
朝永、中教審でユーモアを解する人間であれ、仁科研究室、鈴木梅太郎研究室、ユーモアの殿堂、朝から晩までジョーク;
昭和23年1948年3月株式会社科学研究所として発足。
昭和26年1951年大河内追放指定解除、職員1000人たらず、
戦前の最盛期には、2000人近い職員、s27年には400数十人に。
昭和28年1952年8.29大河内脳軟化症で死亡
1953年s28年に河内桃子東宝映画からデビュー、5人の息子の次男の画家、信敬の娘、
昭和28年8月には、研究所と生産部門の切り離し科研化学、敷地と建物、負債も引継ぎ。間借り。
昭和30年1955年、株式会社科学研究所法が提案
昭和33年1958.10 理化学研究所法が成立、
初代理事長、長岡治男、半太郎の長男、昭和38年1963年から和光市に7万坪の土地で移転開始