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激動期の理化学研究所、人間風景、鈴木梅太郎と薮田貞治郎

加藤八千代、共立出版、1987年5月、1800円、253ページ

感想;物理系中心の科学史とは異なる生物系の科学史の一端を知ることができる。

著者紹介;1912年旧朝鮮に生まれる。日本女子大中退、文部省図書館講習所(現図書館情報大学)終了、1940年理研、鈴木梅太郎研究室副手として入所、「油脂の抽出に関する研究に携わる。1944年同所長の命により、日本 精米製油常務、研究室長として出向。1958年朝永振一郎らと「科学と人間の会」創設、同年「日本婦人科学者の会」議長。
著書;隠された事実からのメッセージ、裁判と科学ノート/カネミダーク油油症事件、1985年

目次
鈴木梅太郎
1.チョッキとステッキ
2.教え方アラカルト
3.先生と大陸科学院
4.戦時下の理研
5.鈴木(梅)研究室の終焉
6.鈴木梅太郎の死

薮田貞治郎
1.薮田研究室発足
2.大河内正敏所長のこと
3.敗戦前後
4.バイオサイエンス(天然物化学)研究
5.知らざるプロフィール
6.晩年と死

鈴木梅太郎
1874年(明治7年)静岡県掘野新田村
1889年東京農林学校(農商務省所管)入学
1890年東京農林学校は農化大学と改称、文部省に移管
1896農科大学農芸化学科卒、大学院入学
1910年東京化学会例会にて、オリザニンについて、発表(ビタミンB1)
1924年(大正13年)日本農芸化学会を創立、初代会長
1937年(昭和12年)大陸科学院長を兼任
1943年腸閉塞症のため慶応病院にて逝去

<薮田貞治郎>
1888年明治21年滋賀県大津市生まれ、家業は醤油製造業
1911年3高をへて東京帝国大学農科大学農芸化学科卒
1924年東大教授、古在由直の農産製造講座を受け継ぐ
1926年理研研究員兼任(理研合成酒の原料,琥珀酸の合成従事
1938年ギベリンの単離に成功(ジベルリンともいう)
1944年主任研究員,陸軍臨時嘱託としてペニシリン研究委員会参画
1947年10月理研のペニシリン初代製造部長
1948年財団法人理化学研究所解散。株式会社科学研究所設立
1949年東大退官、科研でストレプトマイシン委員会委員長で企業化推進
1951年科研、取締役
1957年科研科学(株)代表取締役会長就任、1969年退任
1960年ギベリンの研究で第一回藤原賞受賞、70年勲一等瑞宝章
1977年7.12心不全で88歳で死亡、日本農芸化学会葬

著者まえがき
s59年、「朝永振一郎博士、人と言葉」を出版したら反響
1.加藤さんは、鈴木・薮田両先生に大層お世話になったと聞いている。
2.理研創立の主要メンバー、理研の三太郎のうち本多光太郎、長岡半太郎には多くの伝記、評論があるが、鈴木梅太郎のものは数も少なく内容は一番見劣りする。
3.物理畑のお弟子はしっかりしているが農芸化学の方はなってないといわれかれない。今はバイオテクノロジーの時代。
s20.12月GHQは大河内を巣鴨に4ヶ月戦犯容疑で拘置、その間「喰い物にあこがれのあまり、かきまとめた」「味覚、有情社、S22」を出版した。「鈴木梅太郎が、有機化学、蛋白化学栄養化学の第一人者であるが、最も感心しているのは、何十人ものお弟子、大学で親しく教えた人たちも、慕って方々からくる人たちも、学歴や経歴に無頓着に、ただその人達にに適当した研究題目をあてがって、どんどん研究を指導されていくその偉さ。しかもその研究は古い言葉だが、あくまでも国民福利の上に立っている」

目次;
鈴木梅太郎
1.チョッキとステッキ;そっくりかえってステッキを持っているは、腸捻転で手術してから冷やすのを防ぐため、さらしをお腹に巻いているので、前かがみが苦手。先生との出会いを思うたびに1文がある「運命はそれに従う人を動かし拒む人を曳いてゆく、フランソワ・ラブレエ16世紀風刺家」
2.教え方アラカルト;明治39年の公務員俸給50円/月、理研は身分的階級差がなかった、月給は鈴木研究室では無給が原則、大学出は昇給なしの80円/月、その他は50円/月で100円/月まで昇給。
ロンドン乞食は夜間出勤の無給研究員で府立5中化学教師関野氏のあだ名で、その後風采のあがらない人だけをよぶ固有名詞となった。
関野氏の生徒に柿花秀武(理研OB会会報17、s58年、関野先生はこの世のこととは一切無関係に教育と研究一途にすごされた方で、外見はまさにロンドン乞食、よれよれの背広の上にあちこちによごれや穴のある白衣を着て実験を主体に化学講義をする)
理研を支えたもう一つの柱大山義年(1906〜79年)は大河内が東大兼任教授時代の最後の学生、造兵にある精密機械と化学機械のうち、後者を選び、大学卒業は昭和2年、理研に入り、1年は工作室の実習、理研の研究を支える機器は自前で作られた。天野鉄次氏の「工作室覚え書き;(理研60年の歩みより、研究室が主役、工作は脇役、私たちは作業中、目の前のテニスコートで楽しげにプレーしている研究者をみて、不思議とも思わなかった。立場がちがう。あの人たちもやるべきことは立派にやっているんだ。これが理研のすばらしさなのだ」。このような理研にそっぽを向き、わが道を歩いた伏見康治(s8、東大理学部卒)の「罪深き青春の記、みすず書房編、s42;教室主任寺沢寛一は3学期になると就職の世話で大変、杉本朝雄は一番、成績がよかったのだろう、大分だたをこねて理研の仁科研究室に、その他鳩山道夫は西川研、当時、理研は研究の殿堂として天下の秀才が集まる場所、私は貧乏人根性のひがみか、理研に集まるのは毛並みのいいやつか有資産の師弟に限ると思って白眼視した」
昼食は理研が無償で支給、全ての人に対して、別に食堂があり、s14年頃、A食12銭、B食5銭、C食無料。
3.先生と大陸科学院
昭和7年満州国誕生、s12年6.25に大陸科学院長、7.7に日支事変、s16年10.16第三次近衛内閣総辞職、18日東條内閣設立、11.9科学院院長辞任。
4.戦時下の理研
s17.2.15シンガポール陥落、s17.3.20理研25周年記念式典
s17.4.18ドウリットル中佐のB25での東京爆撃,s17.6.5ミッドウエイ海戦
5.鈴木(梅)研究室の終焉
鈴木研は純学術的な研究目標、社会(軍を含む)の要求に応じた製品づくり、の2グループ、これが絡み合う、各種ビタミン剤と理研酒部門、ビタミンB1合成工場で爆発炎上事故、装置からアルコールがガス状になって噴出、電源スイッチのスパークが引火、怪我人5ー6名、内1名死亡、鈴木梅太郎は事故の話を聞いても泰然と落ち着いていた。念には念をいれよ。
s18.3.10陸軍記念日(奉天大勝利記念)に「撃ちてし止まむ」
理研25周年記念誌(s17.3)によると17年度の研究室数33、全室員数804人、うち理学博士75、工学博士23、農 学博士18、医学博士3、計119名、そのなかに婦人科学者が多い。
中原和郎(1896ー1976)「動物ガン種に関する研究」国立ガンセンター所長、
6.鈴木梅太郎の死昭和18年9月20日死亡69歳法名理綱院釈梅軒

薮田貞治郎
1.薮田研究室発足
s18.10.21学徒出陣、s18.12.27中野正剛割腹自殺
s19.1.19鈴木梅研は鈴木分助研と薮田貞治郎研に分かれる。
2.大河内正敏所長のこと
s15年春に出会う、背が高く堂々と胸をはり頭髪は真っ黒、顔は色白、清潔感に溢れていた。所長の四男信定(鈴木研究室室員夫人から、髪は染めていたと教えられていた。当時62歳、梅太郎は66歳。
昭和史の天皇、第4巻、日本の原爆(読売新聞社編s43年)によると、陸軍航空技術研究所長から大河内に原爆の研究が正式に依頼はs16.4頃、仁科なら竹内木正に原爆研究の指示があったのはs17.12.22、仁科研から原爆が可能との報告は18年の初め。
Aマキジャニ/Jケリー共著、ホワイ・ジャパン、原爆投下のシナリオ、1985年教育社に1941.4陸軍、理研に原爆製造依頼とあり。
s28.7.28大河内73歳で死亡、最後の本が翌年、一科学者の随想、として東洋経済新報社から出版、石橋湛山が序文、「一身に学者と企業者の勝れた素質を兼備、学問をもって企業を指導し、企業をもって学問を啓発」
3.敗戦前後
s19.2.1第一回ペニシリン委員会が陸軍軍医学校講堂で開催、
s19.11.24から東京は空襲が始まる。s20.3.9下町空襲
s20.4.13理研空襲、s20.11.24サイクロトロンがGHQにより破壊
s20.12. 7日刊紙1面記事「近衛、木戸両重臣ら9名に逮捕令、近衛文麿、木戸幸一、酒井忠正、大島浩、大河内正敏、緒方竹虎、大達茂雄、伍堂卓雄、須藤弥吉郎」大河内の略歴は次のように報道「永年東京帝大教授を勤めたのち理研関係緒企業を主宰した。連合国司令部では、これら諸企業が日本の戦時経済に重要役割を果たしたことを言明している。彼は1943年3月及び1944年7月に東条内閣の顧問となった」
幻の秘話;s19年秋に犬飼文人がソ連にいった。s60年12月に、犬飼の件について朝永夫人(東京女子大数学科出身)と電話で話「犬飼は仁科研で武見太郎と協同研究、いくら大河内でも仁科の承諾なしにソ連にいかすはずはない。それにしてもなぜ横山(秘書)さんは仁科先生の日記を公開しないのか、理研に関係のあることだけでよい、発表すればこれからの社会にも役立つ、もう40年もたっている、今では仁科研が原爆を研究していたことは誰もが知っていることだし」
清瀬一郎は「秘録東京裁判、読売新聞社s42」においてインドのパール判事(日本人全被告の無罪を主張)が法廷で述べた言葉を紹介「人生の行路は不可解で包まれているのが常である。それには常に数多くの自己矛盾があり、自己撞着がある。調和しない過去の事柄と現在の事柄が常に存在する」

財団法人理化学研究所1917年3月大正6年
株式会社科学研究所1948年3月設立(一次)
(研究部門)株式会社科学研究所1952年8月設立(二次)
株式会社科学研究所1956年2月設立(三次)
特殊法人理化学研究所(1958年10月設立)
(生産部門)科研化学株式会社1952年8月設立
科研薬販売株式会社1951年12月設立
科研薬化工株式会社1956年10月設立
(合併)科研製薬株式会社1982年10月設立
ペニシリンの企業化に見通しがついた段階で昭和23年3月1日に科研が発足。
仁科社長の3/18の会社創立記念式典での言葉は「研究所社員諸君、我々はこの焼け跡から立ち上がり自らの額に汗したパンを食べて自らの将来を開拓して行こうではありませんか」初代のペニシリン製造部長は薮田、s24.4.1で薮田辞任で後任は大山義年。s24.8.1から薮田はストレプトマイシン(ストマイ)委員会委員長として企業化推進。
ストマイは結核の特効薬、米国のワックスマンが発明、製造特許は米国のメルク社が独占、科研は独自の技術、五塩化炭酸を利用、しかしメルク社と特許争いが起る。
4.バイオサイエンス(天然物化学)研究
ギベリン(ジベルリン);種なしのデラウエアは本来は種子のある葡萄だが植物ホルモンの一種であるジベルリンの溶液に浸して種子を結ばずに果実だけ成長するようにしたもの。ジベリンはイネの馬鹿稲病の病原体であるカビのジベルラ・フジクロイの培養液から東大の薮田・住木両先生が1938年に単離。
弟子の一人で今も活躍中の田村三郎(ジベルリンの研究から学んだもの、微生物1968.6号)
高橋信孝東大農学部教授はs59年の日本農芸化学会の60周年記念で「天然物化学研究の流れ」で「筆者の研究歴からいって、祖父にもあたる薮田先生は、世界に冠たる日本の農芸化学の研究成果であるジベルリンの単離」
米ぬか油事件はs43年10月に発生、この米ぬか油を作ったカネミ倉庫の創立者は筆者の父であり、社長は実弟。s62年3.20に最高裁により事故油に混入されたPCBの製造元である鐘化には責任がないと判断された。
5.知らざるプロフィール;洒落ユーモア好き、ゴルフ好き
6.晩年と死;77.7.20死亡(昭和52年)1億円を農芸化学会に寄付

179p 敗戦前後
第三次科研所長佐藤正典の一科学者の回想、s46年化学同人
篠原次官33年の暮れ、大蔵事務次官の森永貞一郎、主計局長石原周夫、34年1.6には科技庁提出予算に科研改組の特別予算2.5億円が認められた.森永は科研の由来とその使命に理解.初代理事長はs33ーs41年、長岡治男、真島利行先生が喜び、桜井錠二の墓前に.