若き日の理研生活 小林稔 自然、1979年10月号
感想;読んでいる楽しくなる話です。それと、日本の戦前の雰囲気がわかります。
若き日の理研生活 (仁科研究室理論部で朝永博士と研究生活を共にしただけでなく,夜の散策,週末の観劇、ピクニック行も共に楽しんだ3年間の追憶)
小林稔* こばやしみのる(*京大物理,理研での朝永博士の後輩に当り,協同研究者でもあった.戦後,湯川・朝永両博士に続いてプリンストン高級研究所へ招かれる.京大名誉教授)
前号には小田稔氏の「晩年の朝永振一郎先生」が掲載されており、この号でも何人かの方が朝永さんの学問上の業績や社会的活動についていろいろな方面から書かれることと思うので,ここでは筆者が朝永さんの近くにいた理研時代,すなわち1934〜37年の3年間に焦点をおいて思い出すままに書き,そのころの朝永さんのプロフィールを描いてみようと思う.若い人たちから,また例の昔ばなしかと叱られそうであるが.
<研究室での日常>
それまで京都にいて,病弱をかこちながら焦躁の日を送っていた朝永さんが,理化学研究所の仁科芳雄先生に見出されて東京へ移り,創設後聞もない仁科研究室へ入ったのは1932年のことであった.その翌年には、京都大学を出てすぐ理研へ入った坂田昌一君を相手に,ディラックの電子論を適用して、光による陰陽電子対の創成の計算を始めている.そのころ朝永さんはすでに健康を回復し,仕事の上での自信も取り戻していて,この年の夏には休暇を返上して仕事をつづけるために,仁科先生一家にともなわれた坂田君らと一緒に御殿場へ行き,YMCAの寮で一夏をすごした.この合宿ではよく仕事ができ,またよく遊び,時には温順しい坂田君をからかったなどと楽しかった話をいく度も聞かされたが,仁科先生が他界されてすでに30年に近く,坂田君も意外に早く世を去り,今度は朝永さんの逝去で,もう再びそのころの話を聞くべくもないのは淋しい限りである.
翌1934年には,坂田君が大阪大学に職を得て湯川教授の下へ移り,京大で同級生であった私が同君の推挙によってこの年の5月から仁科研究室へ入れていただくことになった.当時の仁科研の理論部は朝永さんを中心に,東大から入った玉木英彦君と私との3人であり,そのころ理研の23号館二階へ移った理論の室(この室が朝永さんの一番思い出ふかい場所ということで,去る7月9日のお通夜はここでおこなわれた)にこの3人が机を並べた.そのうえ,私は下宿も朝永さんがいた理研のすぐ近くの下宿屋の,しかも隣の室をとってもらい,後に朝永さんがドイツ留学で一時理研を離れるまで,まる3年間,目を覚してから床につくまで,毎日朝永さんと顔をつき合わせているという生活が続くことになった。
以下の話は,ほとんど朝永さんと一緒に遊んだ思い出ばかりになりそうであるから、はじめに理研での勉強ぶりについて少し書いて描こう.
朝永さんが,仁科先生との相談の結果,こんどは光でなく高速電子の入射による電子対の創成の計算をやろうということになり,私は朝永さんに直接教わりながらそのお手伝いをすることになった.そのころの朝永さんの指導ぶりはまことに懇切丁寧であって,研究にはまったく無経験であった私どもにいちいち手をとって教える労を惜しまず,たえず計算の次の過程について構想を練りながら,私らと同じぺ一スで自らも計算を進め,1日のおわりにはその日の結果をつき合せるという親切さであった.この計算は夏休みまで続いたが,初めて仕事の手ほどきをうけた私にはかなりきついものであり,しまいには夕方になると眼がかすんでくるほどであった.夏休みがすんでから、ワイツゼッカーの出した仮想光子の論文を見付け,結局,電子間の二重衝突をまともに追うそれまでの厳密な計算をあきらめて,この近似方法ですませることになったが研究室での仕事は,まいにち大体このような日課のくり返しであった.そのほか当時理研では,毎週1回原子物理学関係者が集るコロキュームがもたれ,仁科研のほか長岡研,西川研,高嶺研の人たちや東大からの人も加わり,なかでも杉浦義勝氏,藤岡由夫氏(菊池正士氏はその前年大阪大学へ移るまで加わっていた)ら元気のよかった人たちの間で始終激しい議論が闘わされていた.理研へ入ったばかりのころ,朝永さんは東京の人たちの頭の回転の速さについて行けず,いつもコンプレックスを感じていたということであるが,私が加わったころには議論が紛糾すると朝永さんの発言が求められ,その明快な解説を一同が傾聴するという場面にいく度も出会うようになっていた.また,プライベートにはhandbuch der Physik 24巻にパウリが書いた“波動力学の一般原理"の項を仁科研理論部のほかに富山小太郎氏、武藤俊之助氏らも加わって輪講し始めたが,ここでも朝永さんがいつでも主導的な彼目を引き受けていた.
<仕事と休養の上手な使い分け>
理研での毎日はこのように充実していたが,下宿へ帰ると,朝永さんは身体が弱いという理由で仕事のことから一切離れ,夕食後は雨の降らない限りほとんど毎晩のように2人で散歩に出かけた.上富士前にあった平和館という下宿から白山本郷辺,あるいは上野あたりへわざと細い道をえらんで歩きまわったり,ある晩など業平の言聞橋をみようといって浅草までの往復を歩いたこともある.あとで有名になった寄席通いにも熱心で,朝永さんはとくに当時のとぼけたような小勝が気に入り,下宿へ帰ってから話しぶりや身振りを上手に真似てみせたりしていた.平和館という名が第一次大戦後の平和ムードで付けたということから判るように,古色蒼然とした旅館兼下宿屋の二階にいたわれわれは,散歩に出られない晩など,下のおばさんの長火鉢の前で,理研の事務室で買ってくる理研ウィスキーという安物の合成酒をちびちび飲み,ある晩など二階へ帰ろうとすると,朝永さんは腰が抜けていて立てなかったというようなこともあった.
やはり遊んだことはかり書くようになったが,いま考えると当時の朝永さんは,非常に大事にされ,また期待をかけられていた家庭を離れた淋しさと解放感との交錯,それにやはり理研ではかなり気を張っていた反動もあってか、下宿へかえると関西弁も通じる手頃な後輩を見つけたというわけで,私を相手に青春というよりむしろ失われた少年期を懸命にとり戻していたように思われる.そのころ朝永さんは30歳前後ではあったが.朝永さんはよく自分は怠けものだといい,事実そのころ下宿では本をひらいている姿をみかけたこともないが,理研では実に集中的にかつ効果的に勉強し,要領よく時間をつかっていて,いろいろな文献などをいつの間に読むのかとおどろくことも多かった.要するに,仕事と休養を上手に使いわけ,もっとも能率よくエネルギーを消費していたのであろう.もちろん,学問での野心はいつも心の奥に秘めていたらしく,時には自分も早くよい仕事をしないとおふくろがごまめの歯ぎしりをするからなあ,と洩らしていたこともある.
<週末の楽しみ>
以上は平日の生活だが,週末には仁科研だけでなく,他の研究室の人たちとも一緒に,というよりむしろ東京に詳しい高嶺研究室の人たちの主導で,銀座のピヤーホールなどへ出かけ,たわいもない歓談に花をさかせたこともたびたびあった.ある晩いつもの仲間で鮨を食いに行ったとき,高嶺研の富山小太郎氏が鮨だねのシャコを見て,朝永さんによく似ているな,といったので,理研では朝永さんのことをそれ以来シャコとかシャコさんとよぶようになった.
このように理研の悪童たちにはほとんどあだ名がついていた.いまでも理研の旧友に会うと,ついあだ名がさきに出てしまうことがある.仁科先生もかげでは親しみをこめてオヤカタとよんでいた.初めて研究の手ほどきをうけた大先達であり,その後もずっとお世話になりつづけた朝永さんも,よほど公式の場でなければ朝水先生とよぶのにかえって抵抗を感じる.それで,ここでも朝永さんとよばせてもらっているわけである。
ついでに,遊んだことの話をもう一つだけ付けたしておこう.先にでてきた富山氏(この大人をつねはタンクとよんでいたが)はわれわれの仲間で一番の文化人であり,とくに新劇などに詳しく,彼のすすめでときどき田村町の飛行館へ当時の築地座や創作座の芝居を観に行った.そのうち今おぼえている芝居を一つあげると,たとえば杉村春子がハイカラ堂のおばさんの役で名演技をみせた「瀬戸内海の子供たち」というのがあった、この芝居も朝永さんはたいへん気に入っていたようである.このような芝居に私どもが興味をもったのは,あの夕凪がかもし出す気だるいような世紀末的ともいえる奇妙な雰囲気が,当時私どものおかれていた環境と何か相通じるものがあったからだろうか.実際,世相が次第にきびしさを加えていたころであったにもかかわらず,研究以外に何の義務もなく,まったく甘やかされた小社会にとじこもり,それでいていつか素賠らしい仕事ができるという保証もなく,また将来どこかの大学に受け入れられる目あても持たなかった私共の心の底に,漠然とした不安もただよっていたような気がするのである.
理研や下宿での生活はずっとこのように続いたが、日が経つにつれて次第に単調さをおぼえるようになってきた.日曜白はそのような気分を転換するためにつかわれ,朝永さんの主張で,天気がよければきまって山登りやハイキングに出かけることにしていた.理研には登山のベテランたちが何人もいて,朝永さんは最初その人たちから手ほどきを受けたようであるが,私共がえらんだのはせいぜい大菩薩峠ぐらいであった.土曜日の夜汽車に乗り,大月あたりで夜があけて,郭公の声を聞きながら歩き出したときの気分は今でも忘れられない.
朝永さんの健康もすっかり回復して,急坂でも私がついて行けないほど元気に登った.このような遠出でなく,武蔵野を歩きまわったり,手賀沼や房州の海岸あたりまで足をのばすピクニックにほとんど毎日曜日のように出かけた.
<よく喧嘩もした北軽の一夏>
理研での2年目の夏は仁科先生にいわれて理論の3人,朝永さんと玉木さんと私とでディラックの量子力学の本の翻訳をすることになり,北鞍井沢の法政大学村でその夏あいていた小山荘を借りてもらい,自炊しながこの仕事を仕上げるという計画がまとまった.この夏の共同生活が私には理研時代のノイライトとして、忘れがたい印象になって残っている.まず3人の相談で一日中の日課を去めたが,午前中に各自が担当の部分を訳し,午後は3人で読み合せて夕食後に清書する, というかなりきついものであった.
最初のすべり出しはよく,野鳥の声で目覚め,食卓を屋外に出して朝食,夕方は手ぬぐいを下げて村の共同浴場へ出かけるという快適な生活を始めたが,天気の悪い日が多かったせいもあって,仕事では3人とも次第に不機嫌になり,一人がそんな日本語の表現はないといえば,他の一人がこの言葉はこう訳そうと咋日君がいったばかりではないかと喰ってかかったり,私の訳を玉木さんがそれは関西弁だと難くせをつけるなど,子供の喧嘩そのままの口論を始終やっていた.朝永さんも同様で,機嫌が悪くなるとしばらく互いに口もきかない日もあった.こういうことはたとえば長い航海で小人数が一つの船にとじこめられているような場合によくおこる現象であろうが,私たちの場合はとくに3人とも多分にまだ子供であったからでもあろう.しかし,天気のよい日は急に機嫌がなおり,皆でハイキングに出かけたり,また朝永さんが甘草をつんできて生け花の真似をしてみせるというようなこともあった.とにかく,こういう具合で次第に自炊もおっくうになり,掃除をおこたったのはもちろん,しまいには台所の流しに大きい茸が生えてくるというありさまであった.大学村の村長格で,ここの生活ではいろいろお世話になり,家具なども貸してもらっていた野上弥生子先生が一度この家を見にこられ,朝永さんが悪戯けてディラックをもじり,自楽荘という表札を出していたのをみつけて,この有様では自楽荘でなく自堕落花でしょうと私共が叱られたこともあった.9月のはじめには何とか翻訳がおわり,3人とも上機嫌で引き上げることだなり,帰途は草津温泉で一泊、つぎの日は白根山から万座温泉へ出るというコースをとり,新秋の山歩きを心ゆくまで楽しんで帰京した.
しかし,理研へかえってからの朝永さんの苦労は大変であって,無理やりに書きおえた原稿をはじめから全部検討しなおし,語調をそろえ言いまわしを直して,ようやく仁科先生に提出されたようである.そのころから朝永さんは,文章にはよく気をくばり,すみずみまで推敲しなければ気がすまないふうであった.私たちはこの翻訳のおかげで作文まで教わったことになる.
<長い間温めていて最後は正攻法で>
これから後しばらくは仕事らしい仕事がまとまらなかったが,宇宙線の硬成分の振舞いが問題になり出し,また翌年にはカスケード・シャワーの理論もでて,電磁量子力学の適用範囲の検討に迫られ,われわれも以後の研究課題を模索するような日がつづいた.のちの朝永さんのくりこみ理論の芽はすでにこのころから育まれていたように思われる.一方,欧米では原子核実験の装置が大型化されて,核反応や放射能の情報が『フィジカル・レビュー』などで大量にもたらされるようになり,研究室でも実験の人たちが主になって論文速報の会が毎週開かれるようになった.速報といってもまだそのころは雑誌が船便で1〜2ヵ月もかかって着く時代であったが.
仁科先生は,それまでの宇宙徽観測だけでなく,核実験を強化するために当時の本格的な加速器であったサイクロトロンの建設を進める活動に一層力を入れるようになり,資金あつめを円滑にするためか,それまでとちがって講演などにも積極的に出かけられるようになった.したがって理論の室へきて立ち話をして行くというようなこともほとんどなくなり,あるとき先生が実業界の人たちの前で放射性物質を溶かした水に草花を挿し,その花から出る放射線でカウンターをならせて見せたというような話をきいて,朝永さんがオヤカタも大分インチキくさいことをやるようになったな,もともと少し山師的要素があったのだろうかなどと,先生にもっと研究を続けて欲しい気持から,冗談まじりの軽い悪口をいうこともあった.もちろん,研究室で世界の第一線の仕事をやらせたいという先生の強い願望と,大きくなってきた研究室を支える苦労はよくわかっていたのであったが.
1936年になると欧米では原子核実験の研究結果が急激に集積され,ボーアの原子核反応についての新しい考察や複合模型などの情報も入ってくるようになり,理論も,以前から梅田魁氏や玉木さんらを相手に核力や重陽子などの仕事をしていた朝永さんを中心に,原子核の問題へも本式に手をひろげるようになっていった.そのころ,朝永さんはブロッホがやった原子内電子の集団励起の論文についてよく話してくれたが,ずっと後の量子力学的集団運動についての仕事の芽ばえがすでにそのころあったわけである.このように,朝永さんのその後のいくつもの大きい仕事は,独創的な研究の多くが一般にそうであるように,長い間温めていて最後に労を惜しまず正攻法で仕上げる,という経過をたどっているということができよう。
理研時代の朝永さんについての思い出はいくら書いても尽きないが,話がだいぶん真面目なところへ戻ったのを潮時に,この辺で筆を欄くことにしよう。