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空襲下共同生活の1 山崎文男  自然、1979年10月号

感想;今の現実として、東京が空襲にあうといことは考えられないが、当時の人々が、ある種の平静さで空襲を受け止めていたことを示すペーパーです。

自然 1979年10月号
空襲下共同生活の1
(科学者をも見舞った異常な生活.それは空襲による延焼で終止符を打たれたが、磁電管の輝かしい研究の語ら牝ざる裏面でもあうた.
山崎文男やまざきふみお
戦前理研の仁科研究室にあって大小のサイクロトロン建設などに従事。朝永理事長のもとで仁科記念財団の専務理事を務める。

朝永さんが,1年あまりにわたる治療の甲斐もなく亡くなられた.顧みれば理研入所以来四十余年のおつきあいで,思い出は尽きない.その中で,大戦末期の約1年間の苦難を共にしたころの思い出を、当時のメモを見ながら記してみる.

<疎開やもめの見事な包丁さばき>

昭和19年に入ると,戦局は日に日に悪化して,制空権は米軍の手に渡り,東京への空襲は必至との空気が張ってきた.家族疎開が都民の間で真剣に考えられるようになったのは,春も初めのころであった.理研の仁科研究室でも,幼い児を抱えた室員が多かったので,疎開を実行に移すものも出てきた.朝永さんは当時,理研に歩いて5分とかからない駒込曙町に住んでおられ、長女の滋子さんは3,長男の惇さんが1歳になるかならぬかのころで,同じ曙町に住んでいた私との間に,疎開の話が問題になったのは当然であったろう.

朝永さんの家族は,一応三鷹の奥様の実家へ移られることにきまり,私の家族は鎌倉に移ることになり,そのあと,曙町の私の家で,朝永さんと共同生活を営むこととなった.

ことは急速に進み,.朝永さんの机など身の廻りの品は,当時の天長節の休日に,二階の居室に運びこまれた.今ここで特に机と記したのは、これが朝永さんの結婚祝に,仁科・高嶺・西川等の研究室の友人どもが贈った,一辺3尺あまりの正方形のもので,1年後に焼けるるまで,この机の前に坐って書き物をされていた姿が忘れられないからである.朝永さんが移ってこられたのは5月中旬であった.

家族が疎開する前に飯の炊き方,目玉焼,味噌汁の作り方などを教えてもらっておいたが,おぼつかない自炊生活も,朝永さんがみえると,炊事はとても私のような付け焼刃の出る幕でなく,見事な包丁さばきで料理を作って下さり,私は飯炊きと皿洗いなどの後始末をするようになった.どこで習われたかつい聞き洩らしたが,レパートリ一も豊富で,調理の方法もよく心得ておられ、魚も程よく焼き上り,同じなすでもごまあえ,煮なす,焼なすと食生活に対するこまやかな心遣いに,ただただ感心させられた.

しかし日中家を空にすることは,隣組の方々に対して防空上の責任を感じ,妹の家から手伝いをよこしてもらったりして,その場をつくろった生活を続けた.6月に入ると,中国奥地に基地を持つB-29の北九州への爆撃が始まり,東京でも警戒警報の発令が数多くなった.妻も前から親しくさせていただいていた朝永さんの叔母上よね様が,2週間ほど泊って世話して下さったのもそのころであった.

9月に入って,福田信之君が疎開やもめとして仲間に加わったが,彼は神出鬼没で3人揃うことは珍しかった. 朝永さんが島田へ時折行かれるようになったのは,このころからのように記憶する。

8月にマリアナ諸島が米軍の手に帰し,ここからのB-29の来襲は必至と恐れていたが、果して111日にはその1機が白昼,超高空を後に引く長い飛行機雲の先に光る銀色の点として現われた.空襲警報のサイレンが理研2号館の屋上で鳴り渡り,一度は地下へ退避したが、敵機が見えるとの声で恐いもの見たさにこれを見に外へ出たのであった.こんなことがその後2,3回あったが,これは東京の偵察に過ぎないと、たかをくくるようになった.

朝永さんはもうそのころには,隣組の1人として近所の人々とも路で挨拶を交わすようになり、隣組常会には私と2人で出かけ、私がサイクロトロンの仕事の都合で出られないときには,代って出席したこともあった.5時からの防空訓練にも,出なくてよいといっても聞かず,一緒に出てバケツリレーの列に加わったりした.こういうところにも朝永さんの人柄を感じた.

さて私ども曙町20番地の隣組は、湯沢三千男、石原雅二郎,水溝亨といった法科出が多いのに対し,小路を隔てた北側の24番地は,田丸卓郎,高木貞治,寺田寅彦という理学部教授,それに文学部の友枝高彦教授といった学
者の住居があり
,揃いも揃ってイニシアルが同じなので、T.T.横丁ともいわれたブロックであった.しかし,もうそのころは田丸,寺田両先生は亡くなられていた.
なお仁科芳雄先生は西隣のブロックに住んでおられた.

<焼夷弾の仰角を測る>

ところで空襲に話を戻すと,11月の下旬にはいると,爆弾,焼夷弾による東京への攻撃は,にわかに本格的になり,昼夜を分たず警報は発令されるようになった.そのころ,以前手伝いにきていた新潟県のいでさんという娘が上京して、私共の世語をしてくれるようになり,一同は大いに感熱した.
小雨の降る夜,防空壕の巾で共に寒さに震えたり,朝永さんが島田へ立って行ったあと空襲が始まり、無事を祈ったのはそのころであった.
12月に入って空襲はさらに激しさを加え,連日のように爆弾,焼夷弾の雨を降らせた.しかし高射砲や味方の戦闘機によって落ちていくB-29,幾度となく見られた.
月末近く,朝永さんは眼を患い,歯の具合も悪く、床に就いてしまい,義父の関口鯉吉博士夫妻が弁当持参で見舞いにこられ、元気づけていかれた.昭和20年の元旦は,午前O時に警戒警報のサイレンで迎えた.朝永さんは元気になって,屠蘇、雑煮で正月を祝ってから三鷹へ行く.その日の午後.私は湯島天神へ初詣しての帰り,仁科先生が長男の雄一郎君と,お宅の前で羽根つきしておられたのに加わってひと時を過ごしたが、これだけ連日の空襲に痛めつけられていながら,気分的に余裕があったのは不思議に思われる.朝永さんは2日夕方に帰ってこられたが,腋下の淋巴腺がはれたとて38度の発熱.武見先生が診療にこられ、この発熱は歯槽膿漏と診断され,私は早速処方箋をもって本郷薬局へ赴いたが,主薬のスルフォン剤が無い.朝永さんは以前にもよく正月京都へ帰られてから,内臓に異状はないのに微熱がとれなくて上京できなかったことがあったので心配になる.
空襲はもう休むことなく続き、東京にこない日は名古星,京阪地区を襲っていたが、ついに127日には都心が狙われ、丸の内,銀座方面,近くでは白山下が爆撃された.しかし.今でもはっきり憶えているのは,その翌日夜の1機による空襲である.10時サイレン. 朝永さんは2階から防空頭巾を被って降りてきて,共に月明りの庭に出る.B-291機がよく通るコースを,照空燈に照らされて飛んでくる.まさに私共の頭上を通るコースである.
見ていると弾倉が開いて,白いものがいくつか機体を離れた.朝永さんはその途端に右手を上げてその位置を指した.仰角60度くらいであったようだった.直ちに壕に転げこみ,息を殺して運を天に委せた.やがてごうごうと異様な落下音が頭上を唸り過ぎ,間もなくドシャという音で終った.朝永さんはこの間,仰角,高度,速度,から落下点を推定していたのだろうか.私にはとても恐くてその余裕はなかった.この爆弾,焼夷弾は肴町から根津にかけて落ちたと聞いた.
24日には,仁科先生の朝日賞受賞のお祝いの会が理研の講堂で催された.朝永さんは,まだ微熱があったが喉に湿布を巻いて出席,先生の挨拶のあとお祝いの言葉を述べられた.内容もさすがに立派で,話し方は寄席に通っただけある,とささやく声も聞えた.

<空襲映画のスペクタクルそのもの>
2月に入ると,電源の電圧も低下してサイクロトロンの運転も困難になり,原子核実験の連中は今後いかにすべきかが問題になる。島田へいき,真空関係の仕事をする話もでてきた。その予備知識を勉強しておこうと、朝永さんに磁電管の講義を頼み,曙町の家に新間啓三,杉本柳雄,田島英三君らが集って聞いたのは,2月下旬のことであった.

日増しに烈しくなる空襲のため,朝永夫人と子供さん2人は,39日の夕方一度曙町に集ったあと,福田君に付き添われて,夜汽車で京都へと立って行かれた.その夜12時ごろ,朝永さんは二階から降りてきて,もう火事が起っている,今の爆音は敵のだと教えた.こちらはラジオを信じていたが,二階へ上ると,B-29が照空燈に照らされて低空を飛んでいる.それからの2時間あまり,北西の風がますます募る中での無差別爆撃は,夢かと疑う熾烈な情景の連続だった.朝永さんが,空襲映画のスペクタクルそのもの,といったのが忘れられない.10万を越える死傷者を出した大空襲の一夜である.

長い間,私共の食事などの世語をしてくれたいでさんも,これ以上引き留めることはで事ないと故郷へ帰す.私は家族を42日に鎌倉から信州の富士見へ移した.1人でも多いほうが頼りになるとて,物理学校学生の小林君が私共の共同生活の一員に加わった.

413,ついに最後の日がきた.11時ごろ空襲のサイレンが鳴りひびく.敵はいきなり飛びこんできて,まず理研のあたりに落し,大きな火柱がたつ.続いて原町,曙町に落していく.向いの高木貞治先生の家に落ちて,たちまち火に包まれる.家族の方々が手に負えぬと諦めて,「ではお先に」と挨拶されたので,「先生は?」と聞くと,「先ほど避難しました」と.先生の書斎は私の家から3mほどしか離れていない。それが燃えるときには輻射熱で私の家の外壁の板から,マッチほどの火が燃え上る.朝永さんと火叩きに水をつけては消す.寺田先生の家に移った火はたちまち広がって、大きな音をたてて二階の棟は焼けおちた.

しかし,あらかじめ定めておいた逃げ道のほうへ火は延びて行くので,もうこれまでと3人は立ち去る.道路はすっかり乾いている.あと100mほどで駒込警察署というあたりで,頭上に焼夷弾の束の破裂する音が響き,朝永さんと2人は無意識に道端の塀に身を寄せて伏せてしまった.小林君はとっきに人家の中にとびこむ.私共2人から1mとない道路上に一発油脂焼夷弾がおちて火を吹き出した.どこから現われたか1人の巡査が「火を消して」とどなる.従順な2人はしばらく消火を手伝う.しかし見ると逃げるつもりの道も煙に包まれてきた.急ぎここを通り抜けて,駒込署の北の,すでに1月の空襲で焼けた神明町の焼跡に迫りつく.

やっと生心地を取り戻し,なぜあの時2人は最も大きな「断面積」をとづたのだろうと冗談も出る.遠くからかすかに聞こえてくる解除のサイレンと共にここを立ち去り,理研に行く.49号館の外壁についた火を消すのを手伝ったあと、23号館2階の朝永さんの居室へ入り,2人とも,机の上にごろりとなって深い眠りに落ちた.
このような結末で私共の共同生活は終ったのであった。