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=FUJITSU飛翔、2000 No.39=
吉川弘之

印象;著者の「生き延びるために必要な外界の知識を人類はほぼ手に入れた」の言葉は、最近の日本の科学離れの原因を表しているようである。

よしかわひろゆき
1933年生まれ。放送大学学長、国際科学会議会長、日本学術会議会長、日本学術振興会会長、東京大学名誉教授.理化学研究所、東京大学工学部教授、東京大字工学部原子力工学研究施設長、東京大学総長などを経て現職.編著書に「岩波講座現代工学の基礎」シリーズ、「テクノロジーの行方」(岩波書店)など多数。

希薄になってきた自然界への興味
未知なのは外界のしくみというより、人間の行為そのものになった

科学離れに関して、離れていく若者たちを憂慮する声は聞かれるが、見離された当の「科学」のほうに問題はないのだろうか。
学習者が知りたいことと、教育者が教えたいことの間に乖離はないのか。若い世代が学校で教える「科学」に関心を持てない原因を探っていくと、大がかりな「知」の再編成の問題が浮上してくる。

生き延びるために必要な外界の知識を人類はほぼ手に入れた

若い世代の「理科離れ」「科学離れ」、さらには「勉強離れ」とまで言う人がいますが、そのようなことが起こっている原因は多様にあります。
それを考える前に、「理科離れ」「科学離れ」と言うからには、昔はたいてい青少年は理科や科学が好きだった、少なくともそれなりに面白いと思っていた、という暗黙の前提があるはずです。それが今はあまり面白いと思わないから、「理科離れ」「科学離れ」が起きている。現象としてはそういうことでしょう。

では、なぜ昔は面白くて、今は面白くないのでしょうか。少し大きな話をしますが、生物の特徴の一つに「外界への適応」があります。細菌からヒトに至るまで、およそあらゆる生命体は、身の回りの環境に適応しなければ生きてゆけません。人間のように高度に知的な能力を獲得してしまった以上、外界に対して知的な関心が湧き起こるのは当然です。外界のしくみを知ることは生き延びるために最も重要な条件だ、と知性が判断するからです。歴史的に見てもそれは明らかで、何か異常な現象が起きればそれを解明したがり、新種の生物の発見に努力を傾ける.だからこそ科学の発達があったわけです。

ところが――これは人によって意見が分かれるとは思いますが――もはやわれわれは、ある程度以上のことを知ってしまった。かなりの部分が分かつてしまった。言い換えれば、 一人の人間の頭脳が記憶できるキャパシティという観点からも、知識の量は十分になってしまった。

こんなことを言うと、物理学者は即座に反論するでしょう。「人間の知らないことはまだたくさんある。極微の世界なんて、分からないことだらけだ」と。確かにそうです。しかし、物理学者が考える極微の世界の「分からないこと」と、多くの人が夜空の星を見上げてあれはいったい何だろうと思う「わからないこと」とは、まつたくレベルが違う。

極微の世界を探っていくと、まだ見つかっていない素粒子があるとか、それはどのような性質を持っているのかなどは、物理学者にとっては面白い。それは大昔の人が「あの夜空に輝く星はいったい何だろう」と思ったのと同じ知的好奇心だと、物理学者は言います。しかし、はたして本当にそうでしょうか。かつて夜空の星に興味を持った人は数えきれないほどいましたが、いま素粒子に興味を持つのは、人類のほんの一握りである物理学者だけではないでしょうか。この差は重要なことです。つまり人類全体にとっての分からないことというのが、かなり限定的になってきた。生き延びるための条件である外界がおおむね分かつてきた。そうすると、分かつてきたことを吸収するだけで精一杯で、そもそも多くの人が関心を持つような新しい発見自体が少なくなつたし、たとえあったとしても、頭の中に入り込む余地がない。

生き延びるために外界を知る、という人間にとって最も興味深い営為であるはずの科学に対しても、外界を見て面白がる意識が希薄になれば、あまり関心を持てなくなる。これが「理科離れ」「科学離れ」を引き起こしている原因の一つではないか、と私は考えています。

人間の行為こそ最大の未知部分。それを若者は察知している

一方で、科学の「光と陰」の「陰」の部分がクローズアップされています。地球規模の環境破壊の問題や、遺伝子操作にまつわる生命倫理の問題――。学生も敏感で、公害問題が騒がれたときは、大学の応用化学科の人気がガタ落ちしたし、原発事故がたび重なると、原子力関係の学科の志望者は激減します。科学がもたらす弊害は人類の未来を危うくする。専門家のみならず、多くの人はそれに気づいています。だからこそ、そこに最も重要なテーマがあるのです。最初の原則論に戻れば、生物にとって外界の環境は関心を持たざるをえない。かつて外界は人間にとって未知の部分が多かった。未知とは恐怖です。しかし今や未知の部分は少なくなり、地震や火山や台風といった避けられない天災を除いて、たいていの外界のことは人間がコントロールできるようになりました。したがって外界そのものは恐怖ではなくなった。

怖いのは、まさに人間が作り出した科学の「陰」の部分です。このまま二酸化炭素が増え続けると、温室効果で南極の氷が溶けて海面が上昇し、日本列島は水没するかもしれない。それは未知の現象だから怖い。しかも、その未知の現象が起こるかどうかは、外界そのものではなく、自分たちがこれから外界に対して何をするかにかかつている。エネルギー消費量を減らせず二酸化炭素を排出し続けるのか、原発の放射性廃棄物を処理できず放置し続けるのか、という恐れ――。つまり未知のものは、人間の外にある世界ではなく、人間の行為そのものになってきたわけです。そうだとすると、これは伝統的な「理科系」のコンセプトでは解けません。人間の行動はこれからどうなっていくのか。人間というのは本当に環境を上手に維持できる存在なのか。そもそも人間とは何か。――こういったことは、伝統的な言い方に従うなら、まさに「文科系」の関心事なのです。

先に述べたように、「生物としてのヒ卜」が外界に関心を持ち続けてきたことで、理科系の知識が増大されました。特に二十世紀は圧倒的に理科系の知識が増えた時代といってよいでしうつ。国の基礎研究費の九十五%が理科系に行くことを見ても、新しい知識の発見は理科系に集中していたことが分かります。

ところが、若い世代の関心はそちらに向いていません。未知のもの、怖いものは、外界ではなく人間自身である、ということが分かつているからです。最近の若者は論理的でない、とよく指摘されます。けれども、人間を理解するには感性しかありません。論理では理解できない。そうすると、感性が研ぎ澄まされてくるのは当然であり、それは、「生物としてのヒト」の外界への適応戦略、と言ってもよいでしょう。スクラムを組んで自然という外界に立ち向かう時代はとうに過ぎて、人間同士が何をやらかすかを互いに見つめ合うしかない時代になつてきた。そのことを、若者たちは敏感に察知しているのだと思います。

人間という未知に立ち向かうには文科と理科を統合した理論が必要

したがって、いま本当に必要とされているのは、科学の再編成です。大きく言えば、理科と文科の壁を取り払うしかありません。そのためには、文科も含んだ新しい科学理論を構築しなければならない。これは学術会議でも大きな課題となっており、地道な研究が続いています。

やや強引に十七世紀以降の科学史を整理すれば、長い間、物理学は「非生物」を対象にしてきました。DNAの二重らせん構造の解明など、今日のバイオテクノロジーにつながる発見がなされたのは、第二次世界大戦後からですが、それも物理学的手法の勝利だったわけです。物理学の素養を持った野心的な科学者たちが、近代科学が忘れ物として積み残してきた生物をターゲットに挑み、その結果、多くは化学物質の問題であることが分かってきました。しかも遺伝子というのは他の物資とは違って、少し状態が変わっても分子の構造は熱力学的に安定であり、そこに生物の多様性が生まれる原因があることも分かってきた。これはまさに物理学の手法です。つまり物理学の手法は生物にも適用できることが分かったたわけで、いま脳の研究者も物理学の手法を使って脳の解明をしようとしています。

しかし、それで本当に生物のことがすべて分かるのでしょうか。多様性があることまでは分かつた。では、どのような多様性が出てくるのか。進化論を正規に扱う科学的手法は今のところありません。生物の進化の歴史をすべてトレースすることはできないからです。全宇宙を物理学的手法で観測できるなら、そうした大進化のメカニズムも分かるでしょう。しかしそんなことは不可能です。現時点で解明できるのは、化石やDNAを手がかりにウマの系統を特定するような小進化のメカニズムに限られています。

生物はどんな小さな外界の変化にも影響を受けて適応していくわけですから、全宇宙が測定されていない以上、必ず予測できないことが起こってくる。これは単なる方程式を解くといった古典的な物理学的手法では対処できない問題です。影響因子が無限大に近いのですから。外界から常時、ある種の影響を与えられてプロセス自身が変化しています。生物がある種のプログラムを遺伝子の中に書き込む。人間がコンピュータのプログラムを作る。政治家が政策を実現する。企業が商品を市場に出す。――これらはすべて、同じ生物の行為です。しかし、そこには物理法則がない。こうしたことを理解するには、物理法則ではなく、法律や制度や計画が現象を規制するような世界、つまり文科系の世界を取り込んだ科学理論が必要なのです。

環境問題を入口に、自然の仕組みを解明する教科書が作れないか

未知なる人間の行為そのものが理解できる科学理論に基づいた「理科」なら、若い世代は離れていかないはずです。なぜなら、そこから生物として生き延びるための方法を学び取れるからです。生き延びるための方法があったという喜び、未知の恐怖からの解放、そういうものが学間の中にあるからこそ、かなりの犠牲を払ってまで人は一生懸命努力する。これまでは学問の中にそれがあった。それが今はないとすれば、作る必要があります。

話は単純です。これを勉強すれば環境問題、人口問題、南北問題、国際紛争など、人類が直面している危機を回避する手段が分かる。そうなれば誰だって勉強する意欲が湧いてくるでしょう。

若い世代は、そういうことを知りたがっているのに、教育集団の教えたがることは、あくまでも過去の知識の伝達です。この学習者と教育者との動機の乖離が問題です。

一部の識者が言うように、受験は子どもたちを忙殺するから悪いのではなく、過去の知識の詰め込み形式が学習の主体性を失わせるからいけないのです。いま小学校の教科書を見ると、まさに百科全書です。人類の英知がぎっしり詰まっています。これをすべて小学生に教え込むのは無理です。小学校でほとんどあらゆる科目が出てきて、中学校、高等学校で同じことをレベルを上げて勉強する。こんなことをせずに、たとえば小学校では国語と算数を中心に教える。歴史は中学校に入ってからでもかまわない。その代わり、授業時間はむしろ増やして、 一つのテーマについてみっちり一年間かける。

言うまでもなく過去の知識の伝達は重要です。人類全体にとっては既知でも、子どもにとつては未知ですから。ただ、小学校の下級生なら暗闇を怖がるでしょうが、高枝生にもなると、懐中電灯を点ければ暗闇なんて怖くないと分かっている。そんな世代に向けて伝統的な理科系の関心に頼った教え方をしても無駄です。

科学の知識は、人類にとって大切な貯金です。しかしその貯金を次世代に押し付けるだけではいけません。彼ら、彼女らも新しい貯金を蓄える人々だと位置づけるべきです。環境問題や南北問題を解決するためにはどのような知的体系があるのか、それを教えることが、新しい貯金を蓄えることにつながるでしょう。とはいっても、先に述べたように、文科系まで取り込んだ新しい科学理論は、まだ構築されていません。若い世代の知的要求に応える方法論は、まだありません。このバックグラウンドを解決しない限り、いくら小手先の処置をしても、モラルは崩壊するし学習意欲は湧きません。

もちろん、抽象的な理屈ばかりではなく、物理法則をどうやって教えれば分かりやすいか、どんな実験をすれば興味を持ってくれるかといった、現場サイドの地に足の着いた努力は絶対に必要です。しかし、そのことと、科学をどのように再編成するかという「抽象的な理屈」とは、実は関係があるのです。なぜなら、どのような物理法則が理解しにくいか、または理解しやすいかということは、子どもたちが持っている学習動機の反映でもあるからです。それを通じて問題が見えてきます。いま人類が持っている知識を次の世代に伝えようとするときに、どこかでパイプが詰まってしまう。これは日本のみならず国際的な教育の問題です。そのパイプの詰まりは、おそらく科学全体の問題に起因しています。現場の工夫と学問の再編成が協力関係で動き出せば、見通しも立つでしょう。でも残念ながらまだその段階まで行ってはいない。両陣営がお互いにじわじわと努力するしかありません。

さしあたって提案したいのは、たとえば環境問題を入り口にすることによつて強いモチベーションを与え、そこから自然の仕組みを理解させるような教科書づくり。これだけでも、さまざまな分野の専門家の協力を必要とする壮大な実験です。