印象;物理学者的な定説が述べられている。日本の第一線のの物理学者が物事をどのようにとらえているか知るためには大変に参考となる。
さとうかつひこ
1945年生まれ。東京大学大学院理学系研究科教授、ビックバン宇宙国際研究センター長。専攻は宇宙物理学。京都大学助手、デンマークニ一ルス
ボーア研究所客員教授、東京大学助教授を経て現職。主な著書に『相対性理論』(岩波書店)「宇宙はわれわれの宇宙だけではなかった」(同文書院)「最新・宇宙創世記」(徳間書店)など。
科学への開心を取り戻すには
社会全体の知的荒廃を乗り越えるために
子どもの「理科離れ」。一般向け科学雑誌の激減。ノーベル賞をねらうような研究者の「野心」の薄れ。日本社会は科学への関心を失ってしまったのか。
科学技術創造立国の掛け声だけがむなしく響く――。
インフレーション宇宙論の提唱で国際的に評価の高い東京大学の佐藤勝彦教授が語る、科学教育の未来。
自然に対する関心のなさは社会全体の知的荒廃が原因
――先生は大学で教えておられて、今の学生たちの科学に対する興味や関心の持ち方をどう見ておられますか。
佐藤: 東大の物理学教室に入ってくる学生の学力が、たとえば十年前に比べて著しく低下しているかといえば、そんなことはありません。首をかしげるのは別の点です。本当に物理が好きで物理学教室に来たのだろうか、と。単に難関だからチャレンジしただけではないか、と感じることがしばしばあります。私は一概に受験勉強の悪口を言う論調は大嫌いなので、難関に挑んだ努力自体は評価したいと思っています。ただ、本当に好きでこの道を選んでいるのかどうか、不信感を覚えることが多い。
三年前、約四千五百年ぶりにヘール・ボップ警星が地球に接近し、夜中の二時か三時に見事な流星群が見えました。私は大学で泊まり込みの仕事があったので、グラウンドに出て見物しました。でも、あとで宇宙を研究している院生や学生に聞くと、半数も見ていません。宇宙の研究者なら当然興味を持ってしかるべきだと思うのですが、実は必ずしもそうではない。もちろん、天文的な事象よりも理論のほうが好きというモチベーションもあるでしょう。それにしても、自然そのものに対する興味・関心が薄れているのではないか、と思わざるを得ません。
――たとえば宇宙のことは、CGやアニメでさまざまに紹介されています。情報が少なく、謎めいたものがたくさんあった昔に比べて、今は情報の多さがかえって満腹感をもたらしているのでしょうか。
佐藤: それは二番目くらいに大事な理由だと思います。」第一の理由は、社会全体の知的荒廃ではないでしょうか。論理を詰めて考えることをしなくなりました。見かけは豊かになったせいで、きちんと物事を考えなくても、あやふやにしたままで何とか生きていけるからです。少し理屈っぽいことを言うと、嫌われたり疎まれたりする。そうしたことが一般社会の科学への興味や関心の薄れとして現れ、ひいては学生の「理科離れ」につながっているような気がしてなりません。
一九九二年、アメリカの大衆的な雑誌『ピープル』が、その年の世界のトップスター十人という特集を組みました。
一位はダイアナ妃でしたが、六位にジョージ・スムートというカリフオルニア大学の教授が入りました。彼は、宇宙の初期状態に関する重大な発見を成し遂げた人物です。日本の週刊誌で、このように宇宙論についての発見が話題になるでしょうか。ちょっと考えにくい話です。
――自然への興味の欠如と論理の軽視が同時に進行しているとしたら大問題です。
佐藤: 自然といっても、決して山や川や空だけではありません。カメラひとつとっても、どうして写真が撮れるのか、というメカニズムに対する興味は、自然界のしくみへの興味と重なっています。
――かつては子どもが面白半分に時計を分解していくと、動いているしくみが何となくわかったものです.しかし今、たとえばパソコンを分解していけば半導体のチップに突き当たって、そこから先はブラックボックスになっています。
佐藤: おっしゃる通りです。ただ、パソコンのハードやソフトに興味を持つことも、自然に対する興味のひとつでしょう。その意識は、われわれが子どもの頃、ラジオを組み立ててやろう、とわくわくした気持ちと大差ない、と思いたい。
あからさまな野心をカッコ悪いとする風潮
――若い研究者たちの研究に対する意欲や熱意はどうでしょう。
佐藤: 大学院の重点化構想によって、大学院生の数がこの十年間で格段に増えました。いうなれば大学院の大衆化が進みつつあるのは事実ですが、博士課程を終えたあたりの研究者レベルになってくると、競争も激しいですから、研究に対する意欲は旺盛です。その点では欧米にひけをとらないでしょう。問題は、学部生から修士課程に入るあたりの学生です。これから研究生活に入ろうという段階で、どうも強いモチベーションが感じられない。みんなスマートになったというか、あからさまに野心を抱くことはカッコ悪いと見なす傾向があります。しかし、研究というものは、ある程度、自己顕示欲によってドライブされる面があるのです。
――先生ご自身はその頃どうでしたか。
佐藤: 博士課程の終わり頃に結婚したこともあって、背水の陣を敷く気持ちでした。パーマネントの職を得られたのは三十歳を越してからですから、その前後はハングリーにならざるを得ませんでした。
――すでに「インフレーション宇宙論」には取り組んでいらっしゃっていたのですか。
佐藤:三十代前半からですね。三十歳前後はどちらかというと、ブラックホールや中性子星がどう作られるかといった、天体物理学的なテーマを追いかけていました。そこで使われる素粒子の理論が実は宇宙初期に使われる理論とつながっていたので、宇宙論に移っていったのです。
――全く新しい理論を提唱するには、それこそ野心や勇気が必要です。
佐藤: そうですね。未踏の領域に手をつけると、それだけ批判も多い。現に私の論文もレフリーからずいぶんきつく言われまし。しかしやはり、人から何と言われようと、自分が面白いと思ったことはとことんやり抜こう、と。他人の論文の改良版を書くのがいちばん楽な道ですが、それではいつまでたっても二番手、三番手の仕事しかできません。
いちばん苦しかったのは、論理に自己矛盾としか見えない点が出てきたことです。インフレーション宇宙論というのは、宇宙全体が急激に膨張するという話なのですが、そう考えると妙なことがたくさん出てくる。たとえば、インフレーションを起こしているある領域がどのような運動をしているかを調べてみると、表面は光の速さで収縮しているのに、体積と半径は急激に大きくなっている。バスケットボールの表面が光の速さで収縮しているのに、中の体積を計算すると急激に増えているようなものです。これはたいへんな自己矛盾で、とてもこんな論文は書けない、と思ったりもしました。そこで諦めていたら終わりだったのですが、きちんと論理を詰めて考えていくと、矛盾ではないことがわかりました。結局それは、ワームホールというブラックホールの兄弟のような時空構造ができているため、見かけ上そうなっているだけで、表面が光の速さで収縮しても、その中に言うなれば「子どもの宇宙」ができて巨大な世界が広がっていくのは不思議ではないことが数学的に確かめられたのです。最初は、計算違いをしているのではないか、とんでもない非常識な誤解をしているのではないかとずいぶん悩みましたが、きちんと論理を詰めることで、おのずと答えが出てきたわけです。
進歩のない平等社会と「ゆとり教育」のうそ
――論理を突き詰めて考えることを後押しするパワーが今の社会には欠けていて、それが社会全体の知的荒廃につながっている、と。そうしたパワーを取り戻すにはどうしたらよいのでしょう.
佐藤: アメリカのようにヒエラルキーがはっきりした社会では、人を押しのけてでも、という発想がすぐに出てきます。その代わり貧富の差が激しい。アメリカは極端な例ですが、それにしても完全平等社会には進歩がないことは誰にもわかっていて、大学の世界でも国立大学の独立法人化や評価に基づいた研究費の支給といった、ある意味で実績や能力によって差をつける措置が取られようとしています。要するに単純なことで、「努力した人が報われる社会」のシステムを作る以外にありません。今の子どもたちは、努力したって先行きが見えているなら、なぜ他人と摩擦を生じてまで努力しなければならないのか、と考えている。それはそれで確かに一理あるわけで、しかし、そんなふうに子どもたちに思わせてしまう社会は、どこか間違っています。
―― 一方で、いびつな競争として受験の弊害が以前から指摘され、受験科目の削減などが行われていますが……。
佐藤: 受験科目を減らすのはけしからんことです。勉学に対する意欲をそぐ結果にしかなりません。だつて、大学を受験するのに三科目だけでよいなら、他の科目の勉強をしますか?
明らかに高等学校の教育が歪んでしまいます。受験は、文科系だろうと理科系だろうと、五教科七科目すべてを課し、学部系統によつて各科目の配点比率を変えればよいのです。小学校でも子どもの負担を減らすために科目の削減が言われています。しかしそれは子どもが勉強しなくなつたことの追認に過ぎない。小学校でできないことは中学校へ、高校へ、大学へと順送りしていく発想です。「ゆとり教育」というのはうそです3科目を減らしても、親は塾に通わせるだけなのですから、むしろ、小学校や中学校は授業時間を増やすべきです。短時間で詰め込むのではなく、余裕を持ってじっくり教えることこそ、本当の「ゆとり教育」ではないでしょうか。
日本の将来を真剣に考えるなら小学校教育の根本的見直しを
――個性化教育、ゆとり教育など、掛け声だけは大きいのですが、なかなか現実の動きに結び付かず、教育改革が進みません。そうこうしているうちに、原発処理施設の事故やロケット打ち上げ失敗など、日本の科学技術の現場ではほころびが目立つようになりました。いますぐに手をつけるべきことは何でしょう。
佐藤: バケツでウランを運ぶような国にならないために日本の将来を真剣に考えるなら、やはり小学校の教育をもう一度見直すべきです。
上から押し付ける管理型の教育ではなく、 一人ひとりの個性を仲ばす教育が大切だと言われています。しかし、個性化教育の美名のもとに、子どもに対する基本的なしつけがなおざりにされているのではないでしょうか。やはり親のみならず、学校や地域社会が断固として子どもに社会生活の基本や規範を教える姿勢が必要です。子どもを好きなようにさせておけば創造性が伸びると思ったら大間違いです。基礎学力と社会適応力抜きの創造性はありえません。ゆとり教育や個性化教育の裏で、学力の低下や社会に対する適応能力の喪失が進行しているとすれば由々しき問題です。何の資源もない国で教育の質が低くなったら、他のアジア諮国に追い抜かれるのは日に見えています。そうならないためには、小学校教育から建て直さなければなりません。
理系の有能な人材が報われるシステムを
――日本の社会がもう少し科学への関心を高めるには、どうすればよいでしょう。
佐藤: もちろんわれわれ科学者にも責任がありますが、ジャーナリズムが自然の楽しさ、科学の面白さを、どこまで伝えているのか、という問題もあります。科学雑誌が激減しているからです。「自然」はずいぶん前に廃刊されましたし、最近も天文関係で「スカイウオッチャー」という雑誌がなくなりました。かつて、「ウ―タン」、「オムニ」、「クォーク」、「ポピュラーサイエンス」など、各社が競ってビジュアル豊富な科学雑誌を出していた時期がありましたが、今残っているのは「ニュートン」だけです。日本の一般向け科学雑誌は、これと『サイアス(元科学朝日)だけになりました。要するに売れないからですが、なぜ売れないかというと、原発・環境・生命倫理などの問題の影響で、どうも最近は一般の人々の科学に対する印象が「性悪説」に傾いているせいではないでしょうか。
――しかし、たとえば立花隆さんが幅広い知的好奇心を喚起するような講座を東大で開くと、教室が満杯になります。
佐藤 :もちろん、テーマによっては人が集まるのです。幸いなことに宇宙論や生命の起源といったダイナミックな話は人気があります。問題は、超電導や半導体技術といった、地味だけれど社会にとって重要な分野に関する反応が鈍いことです。四年ほど前、日本物理学会の会長をしていたとき、高校生向けに超電導の講習会を開いたのですが、三百人のホールに九十人しか集まりませんでした。先生方は熱心に、磁石が空中に浮かんでクルクル回るような面白い実験をしたのですが……。身近に起こる不思議な現象に興味を持つモチベーションがないのでしょう。
――大人にななって頭が固くなってからは、そういう興味はいだきにくいですね。
佐藤:だからこそ、モチベーションを与える教育が早い時期から必要なのです。科学の学習というとつい、これがわかるには数学のここを勉強しなければいけない、といった基礎の積み重ねを強調しがちですが、それだけでは息切れしてしまうのも無理はありません。それより先に、興味を引き付けることが大切です。日本物理学会の東北支部は「出前授業」を実施しています。高等学校から要望があれば、大学の先生が出かけていって講義をする.子どもたちの理科離れを少しでも食い止めるために、われわれ研究者もコツコツと努力を積み重ねていかなければなりません。同時に、理科系の学問を突き詰めた有能な人材が経済的にも報われる社会システムを作り、
一生懸命に努力した人が報われる姿を子どもたちに見せてやる必要があるでしょう。