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安全学

安全学 発行日 1998年 12月 4日
著者;村上 陽一郎 (むらかみ よういちろう)
1936年、東京生まれ。現在、国際基督教大学教授。専門は科学史・科学哲学。
発行;青土社 Tel. 03-3291-9831 定価;1,800円 (税別) 246ページ

この安全学なる本を読みました。著者への昔からの印象は、あまりインパクトのないことをもってまわって言う人だな、ということでしたが、この本を読むと、かなり本質をついていると思いました。
安全工学というのは、充分、定着した工学領域と思いますが、それを超えるメタ学問として安全学を打ち出したのは、これはすごいと言わざるをえません。書いてある内容は、突飛な内容ではなく、きわめてリーズナブルと思えます。
「「思いもかけぬ」ミスが起こったことは、つねに、より安全なシステム運営にとって、決定的に重要なものである。道徳的非難は、そうした構図を覆い隠し、大切な教訓を隠蔽する役割しか果たさない。もっと注意深く行動せよ、という叱責は、無論必要ではあろうが、ことをそれだけで終わらせることは、システムの安全にとっては、何の役にも立たないばかりか、ほとんど自殺行為に等しい。」とのことで、一九七二年に、モスクワのシュレメチェボ空港での離陸に失敗して、雪原に墜落した日本航空のDC8機に関して、当時、マスメディアが「やつこらしょ・どっこいしょ」で酷評された例をあげています。当方の記憶でも、あのボイスレコーダであの事故が語られましたが、この安全学での、どんでんがえしストリー、やはり真相はそういうことかと思いました。

まえがき
第 I 部 文明と安全
1. 安全学の可能性
変わってきた時代 | なくならない危険 | 世界的な規模で | 知識と不安 | 人為による危険 | 医療における死者 | 戦争における死者 | 危険と安全
2. 文明のイデオロギー
現代的問題の基礎 | 18世紀西欧の新事態 | 文明のイデオロギーの終焉 | 環境問題の特質 | 人為の罪 | どうやって自然に戻すのか | 人工物の氾濫と反乱
3. 新しい文明の可能性
第2の自然 | 倫理の根拠としてのキリスト教 | 人間の中の倫理的根拠 | 「人間」のなかの「自然」 | 欲望の制御 | 日本社会での規矩 | 「有り難う」の意味 | 危機の源泉

第 II 部 社会と安全
4. 無駄呼ばわりの危険
避けてほしかった議論 | 頻度の少ない危険 | 空振りに「慣れる」 | 重なった飛行機事故 | もう 1つの例 | 事故原因の吟味 | 「たるみ」非難で済むか | 不注意の意味 | 間違い易いレヴァーの位置 | ミスをする人間
5. 安全概念の基礎づけ
「やっこらしょ・どっこいしょ」 | 欲望の解放 | 「良心」の問題 | 的を射たなかった行為 | 「殺さない」という動物的感覚 | 「自分を殺さない」 | 生存の尊重の範囲
6. 安全を個人の権利と考える
安全を望む基準 | 許容度の多様性 | 機能の外化 | 軍事的な問題 | 対費用効果 | 補償という概念
7. 社会の安全とは何か
治安のよい社会 | 規範と逸脱の構造 | 逸脱のエネルギーの利用 | 芸術というジャンルの社会的意味 | エネルギーの吸収と規範の更新 | 物分かりの悪い・良い

第 III 部 医療
8. 医療の中の安全
医療事故の典型 | 重なった不注意 | 安全工学から学ぶべきこと | 医薬品の場合 | それでも起こる薬害事件
9. 薬害の構造
国際的評価 | 薬害の例 | 問題の構造 | 情報の尊重 | 安全工学的な安全性 | より高度の安全性
10. 「安全」と「危害」
医療における原理問題 | 「安全」を論じるための基盤 | 「侵襲」という言葉 | 医療の原則 | 安全と危害 | 「患者」の要求

第 IV 部 「学」としての安全学
11. 「科学」と「価値」
「学」の意味 | 「科学」の 1つの意味 | 安全の探求 | 「分布型」の学際研究 | 科学は「価値自由」ではない | 「科学」と「価値」
12. 安全工学と安全学
工学的配慮 | 安全管理 | もう 1つの安全管理 | さらなる拡張 | 安全管理技術の中身 | 具体的な手順 | 対策の多様化 | 工学的な哲学 | 安全工学と安全学
13. 唯一解から複数解へ
インタクト・サヴァイヴァル | 自殺者の場合 | 価値のトレード・オフ | 同一の価値どうしのトレード・オフ | 環境問題の場合 | 世代間のコンフリクト | 安全工学的解決 | 唯一解信仰からの脱却 | 複数解の容認

終章 安全学のゆくえ 近代科学を超えて
欧米の反応 | 生命現象との類比 | 政策的な側面
あとがき
表題

4章. 無駄呼ばわりの危険
<もう一つの例>
実際このときは、何故こうも飛行機事故が重なるのか、マスメディアでも騒がれた記憶がある。さかのぼって一九七二年の世界の航空界は、これまた厄年と言わねばならなかった。 ミユンヘン・オリンピック、あさま山荘事件、日中国交回復、テル・アヴィヴ空港でのテロ事件など、一般的にみても多事であったこの年に、まず一月には、イベリア航空の旅客機が墜落、犠牲者は一〇四名。二月にはルフトハンザ航空のジャンボ旅客機がパレスティナ・ゲリラにハイジャックされ、イェーメンのアデンで一応の落着をみた。三月一五日デンマークの旅客機がドバイで墜落し、一二一名全員が死亡。六月一四日、日本航空の旅客機(DC8)がインドのニューデリー空港で着陸に失敗、八六人が死亡。翌日には、香港のキャセイ航空の旅客機が南ヴィエトナムの上空で墜落、八一名全員が死亡したが、この事故に関連して、のちに破壊活動の容疑でタイ警察による逮捕者がでた。八月一四日には東ベルリン(当時)で、東独の旅客機が墜落、一五六名が亡くなっている。
一〇月一三日ソ連(当時)のアエロフロート航空の旅客機がモスクワ近郊で墜落、死者は一七〇名に上った。
そして一一月二八日、またもや日本航空の旅客機(DC8)が、同じモスクワのシュレメチェボ空港で離陸に失敗して雪原に墜落し、六一名の死者が出た。都合、マスメディアでわれわれが知ることのできた事故だけで七件、そのなかの一つは、調査の結果・テロリズムによる疑いが濃厚であったが、それを除いても六件という恐るべき事故の集中振りであった。
少なくともマスメディアで報道されたか否かだけで判断する限り、そうした飛行機事故の全くない手あるいは死者が報告されない年もあることを考えれば、この集中振りは確かに異様な感じを私たちに与える。ちなみに、この年の最後の・モスクワ・シェレメチェボ空港での日本航空機の事故は、回収されたヴォイス・レコーダーの記録の分析か宣離陸時のコックピット内の雰囲気が、「はいよ」、「やっこらさ」などという機長、副操縦士の間の会話を許すようなものだったことから、「お粗末なたるみ事故」という批判がしきりだったことを記憶されている読者も多いだろう。この点にも、私は事故報道や事故の原因の吟味についての、望ましくない傾向を見る。それが何か、という点にも留意しつつ、事故の集中に関して、考えてみたい。
<事故原因の吟味>
(略)それにもかかわらず、「事故の当たり年」などというかんばしからぬ事態が起こるのである。.一つの可能性は、こういうことではなかろうか。一旦事故が起きると、会社も、あるいは航行に携わる個人も、様々な対策と措置を考え、実行に移す。しかし、時が移るにつれて、それが次険第にルーティン化し、当たり前になる。そうした対策や措置が、特に何らかの意味のある措置とは思われなくなる。場合によっては「無駄」と考えられるようになる。そして、大切なことは、その措置が疎かになっても、通常は問題がないという点である。こうして暫くの時間が経過する。その状態のなかで、不幸な幾つかの偶然的要素が重なり合ったとき、事故が起こる。
そして再び様々な対策や措置が繰り返される。大まかに言えば、こうした時間に伴うある種の「波」が、上のような「事故の当たり年」というようなリズムを形成する。
(略)そうだとすれば、「思いもかけぬ」ミスが起こったことは、つねに、より安全なシステム運営にとって、決定的に重要なものである。、道徳的非難は、そうした構図を覆い隠し、大切な教訓を隠蔽する役割しか果たさない。もっと注意深く行動せよ、という叱責は、無論必要ではあろうが、ことをそれだけで終わらせることは、システムの安全にとっては、何の役にも立たないばかりか、ほとんど自殺行為に等しい。
こうして見ると、発生頻度の低い危険に対して、徹底した安全への対策を立てることには、社会的にも、経済的にも、心理的にも、大きな抵抗や障害や負の要素が存在していることが判る。しかし安全学の立場から見るとき、こうした負の要素を可能な限り削減していくための、さまざまな知恵を働かせなければならないことが明らかになる。そうした知恵の提言もまた、安全学の一つの重要な役割ではなかろうか。

5章.安全概念の基礎づけ
「やつこらしょ・どっこいしょ」
前章で書いたことの中で、私の趣意に影響はないが、どうしても付け加えておきたいことがある。飛行機事故に言及した際に、私は一九七二年に、モスクワのシュレメチェボ空港での離陸に失敗して、雪原に墜落した日本航空のDC8機に関して、当時、マスメディアがコックピット内の「たるんだ」雰囲気を猛然と攻撃した事実に触れた。私は、そうした「道徳的」な判断に基づく人身攻撃は、安全の増大を目指すことには、およそ繋がらないばかりか、むしろ有害であることを指摘したかったのだった。それを書いた後で、偶然ある本を読んでいて、文字通り凝然とした。そこには、作曲家服部公一氏の書かれたエッセイが引用してあった。(略)服部氏のエッセイは、その事故に責任があり自らも亡くなった当のM機長を題材にしたものだった。その一部はこんな風に語られている(直接の引用ではない)。
中学で出会った英語の先生の授業はまことに峻烈を極めた。その授業を受けることは生徒たちにとって苦行というに近かった。M少年は教室の最前列に座り、細心の下調べをして、授業に備えちそれでも、彼は、授業が始まるに当たって、「やっこらしょ、どっこいしょ」という声を自分にかけ、自らを励ましながら椅子に腰掛けて、先生が来られるのを待つのを常とした。
服部氏のエッセイの趣好に接するには、こうした紹介ではなく、全体を読んで戴くほかはないが、これだけの大ざっぱな引用でも、当時のマスメディアの反応が笑止であったことが削るだろう。一体あのときの記者諸君は、どのような思いで、このエッセイを読んだのだろうか。このエッセイの存在を教えてくれた本というのは、北村薫氏の『謎物語』一中央公論社)であった。

11. 「科学」と「価値」
<安全の探求>
(略)言い換えれば、「安全」は一つの価値観である。しかも、人間活動を横断的に貫通するかなり広域的な価値観である。そのような価値観に関する探求を「専門化」することが果たして可能であろうか。話は変わるようだが、最近の日本の科学技術政策の中心的な目標の一つは「脳科学」である(この単語をまだワードプロセッサーは知らない)。一九九七年一〇月に理化学研究所に脳科学の研究センターが国家予算によって設立され、本格的な研究が始まった。今は「脳」という言葉が研究題目のなかに入れば、研究費が当たる、と言われる位のブームである。しかし、「脳」についての研究と言えば、コンピュータ工学による「人工頭脳」の研究もあれば、生理学的な研究もある。アルツハイマー病や分裂病などの精神疾患に関する研究もあれば、天才の病跡学もあり、心理学もあれば、脳内物質のミクロレヴェルでの研究もある。心身問題を論じる哲学的研究さえ含まれないとは言えない。つまり、探求の現場は、自然科学や医学のなかに散り散りに分散していて、個々に専門分野を構成している。
しかも、そのスペクトラムの範囲は極めて大きく、まるで、ショットガンのはるか遠方の弾着のようなものである。そこに携わる研究者の数も、足し合わせれば「巨大」になる。しかも、それらは、人間の脳の探求という一点において、一つの雨傘の下にカヴァーされる。それを称して「脳科学」と名付けるわけだ。英語でも(brain science)という言葉が定着しつつある。一般にはあまり聞き馴れない学問の名称かもしれないが、それはそれで違和感はない。このような性格の探求を、最近の言葉では「分布型メガサイエンス」と呼ぶようである。一般にメガサイエンスは、その専門領域そのものが巨大施設を要求し、また携わる研究者の数も巨大だからこそ、その名で呼ばれるのだが、それでも、宇宙科学のように、やはり現場は明確に統一的に専門化されている。一つの目標、一つのミッションに向かって、研究者たちが、それぞれの 果たすべき役割は定まっており、全体として取りまとめ役も必要であるにしても、全体的な統合は自ずから期待できる。
それに比べて、「分布型」の場合には、一見、また実際上もばらばらな各現場から集められた知見を、一つの雨傘の下で統合することになる。そのためには、とてつもない能力と識見を備えた、僅かな数の統合者の存在が不可欠と考えられるのであって、例えば「脳科学」そのものの「専門家」は、存在しないか、または存在が求められていない。その意味で、「安全科学」もまた、極めて広いスペクトラムに亙るさまざまな専門の現場を、「安全」という概念の雨傘の下で統一するメガサイエンスの一つと見なすこともできるかもしれない。
その場合には、もともと存在しない「安全科学」の専門家ではなく、しかし、各現場から上がってくる知見を、「安全」の雨傘の下に統合することのできる、とてつもない能力と識見を備えた巨人が数人いれば、成果も期待できるのかもしれない。
<「分布型」の学際研究>
しかし、安全に関する学問的探求が、「脳科学」のような「分布型」メガサイエンスとしては成立しないであろう、と思わせる理由もある。それは、中心となるとてつもない能力と見識を備えた人物が不在である、という点もさることながら、安全が「価値」の一つだというところにあると私は考える。
例えば「平和」研究というものを考えてみよう。一体「平和」研究が「平和科学」たり得るであろうか。軍事、国際政治、産業、教育、法律などから性差論にいたるまで、平和を論ずる現場は広範に拡がっている。ほとんどの場合、それぞれの現場にはそれなりに専門家が存在する。その数も、「脳科学」ほどではないだろうが、集めればかなり実質的な数になるはずである。しかし、それらを「平和」という雨傘の下に統一することができるとして、それを「分布型」メガサイエンスと呼べるだろうか。あるいは、もしそう呼ぶことに躊躇があるとすれば、その理由はどこにあるのだろうか。言い換えれば、「脳科学」はいとも簡単に受け入れられるのに反して、「平和科学」という概念が、これまでに成立せず、今後も成立しないように思われる理由は、何なのだろうか。それは「平和」が価値であるからだと私は考えるのである。
もともと、科学(ここでは「自然科学」を指す)を特徴付けるもう一つの特性は、あまりにもトリヴィアルではあるが、生起する現象を「物質の振る舞い」として記述し、説明しようとする、という点である。もちろん社会科学という名称を受け入れるとすれば、そこでの「科学」は、ここで定義された特性のなかには収まらない。(略)

12章.安全工学と安全学
<工学的配慮>
前章で、安全という概念が価値である以上、それは「科学」とは馴染まない、と書いた。しかし、当然反論があるだろう。そうであれば、「安全(性)工学」があるのは、なおさらおかしいのではないか。しかし、ここで、科学と工学あるいは技術の間にある(と思われる)概念上の差異を、子細に検討するゆとりはないが、皮相的な場面で考えても、むしろ安全は技術もしくは工学と結びつき易いことは明らかである。というのも、科学が、現象の記述と説明を主たる目的とするのに対して、技術もしくは工学は、人問が特定する目的の実現を意図するものであり、その目的は、人間の価値を含むことはほとんど論理的必然だからである。今日の安全(性)工学は、もちろん一般的な個々の工学を対象とするという意味では、言わば「メタエ学」という立場にある。つまり、様々な個々の工学・技術の実践(プラクシス)を管理するという目的を掲げる分野ということができる。
これまで、そこでの議論に触れながら、直接言及する機会がなかったので、概括的にではあるが、安全工学に関して多少の緩めを試みておきたい。上に「メタ工学」という言葉を使ったけれども、本来、技術や近代的な工学の世界には、潜在的には「安全」という価値が常に介在していた。つまり、個々の要素技術のなかにも、安全性は明示的であるか否かはともかく、副次的目標として掲げられてきた。そこで考慮さるべき安全性とは一視層的である。第一次的には、技術の現場がしばしば当事考にとって「危険」を伴うという点がある。「奴隷」という社会層が比較的一般化されていた、したがって技術の現場に従事する最終担当者が奴隷であることが多い古代的な世界でさえ、奴隷の労働力と技術力は必ずしも安価なものではなかっただけに、その「安全」には配慮があった。親方-徒弟制度で育まれる職人の技術にあっても、同じ問題がある。作業現場は大なり小なり危険を予想しなければならない。如何なる道具であっても、使い方を誤れば、我が身や同僚を傷つける凶器にもなり得る。
土木作業であれば、しばしば、作業者に危険や死が費される。したがって、個々の技術に習熟するということのなかには、常に、「安全」に作業する、ということの習得が含まれており、また当該の要素技術のなかには、そのための知識や技術が必然的に組み込まれていると考えなければならない。
<安全管理>
現代のメタ工学としての安全工学にあっても、その点は変わらない。いわゆる「安全管理」と呼ばれる概念は、基本的にはこのこと、つまり技術の現場に働く人々の安全の確保を言う。近代的な産業の誕生とほとんど時を同じくして生まれたものである。例えばイギリスでは労働者の安全を主たる目的とした工場法という法律が制定される二八〇二年一が、以後改定が繰り返され、世界的にも普及していく。逆に考えれば、この法律の制定は、資李正義の形成期、労働現場としての工場は、事故という点でも危険に満ちており、また衛生管理という点でも劣悪であったことを物語っている。言うまでもなく、こうした法律上の規制も含めて、労働現場での労働者の安全の確保という理念の裏には、少なくとも二つの動機が隠されていたことは見逃すべきでない。その一つは、言うまでもなく、劣悪な条件で、しかし工場で働くことしか生活の手段を見いだせない「賃金労働者」の発生に伴って、その条件の向上を図るという、ヒューマニスティックな動機であって、当時のイギリスの社会改良運動などを支えるものと表裏をなしていた。しかし、他方、作業能率の確保ということがもう一つの動機としてあったことも疑い得ない。
産業技術の現場での事故は、生産(略)
<安全工学と安全学>
このように考えてみると、さらには、これまでの論稿のなかで折に触れて語ってきたことと、本章の内容とを突き合わせてみると、安全学と呼んできたものの相当部分が、こうした安全工学にすでに組み込まれていることが判ってくる。そして、やがて見るように、安全学(かりに安全工学と異なったものとしてのそれが存在し得るとして)の方法論の一部は、ここで概括した安全工学のそれに重なるところが少なくないことが明らかになるだろう。それにもかかわらず、私は、敢えて安全工学だけでは不十分である、主張するものである。あるいは、すでに見たように、安全管理技術という概念を大幅に拡張したとしても、なお、そこからこぼれるものを、安全学は拾い上げるものである、と考える。
そのことを、残された本章の紙数で述べることはできないが、結論的なことだけは、ここに記しておきたい。
安全工学は、言わば「メタエ学」であった。個々の工学を対象として、その上に成り立つべき工学であった。その意味であれば、安全学は言わば「メタ知識論」である。科学も含めて、われわれの知識を対象とし、それについて論じることのできるプラットフォームの建設をこそ目指すものである。
「安全」という価値を掲げて、知識の再編成を目指すものである、という言い換えも許されるだろう。それが全体としてどんなものになるのか、私自身にもおぽろげにしか判らないが、そうした全体像の持つ幾つかの特徴は、指摘できるような気がしている。そのことを、次章に述べることにしたい。
(略)

終章 安全学のゆくえ 近代科学を超えて
<欧米の反応>
(略)トレードオフの存在が不可欠となる。そこに方法論上の一つの特徴、すなわち、ユニーク・ソリューションを求めることを諦める、という特徴を見据えよう、というのが私の提案であった。それを「寛容」という言葉でも表現できるだろう、ということも述べた。この私の提案は、国際的な文脈、とりわけ欧米を相手にしたときには、評判がよくなかったことは、ここで記しておくべきだろう。私は、英語では《less conflicting solutions, LCS》という表現を選んだ。これが《the unique solution》に対置すべき概念というわけであった。《the least》ではなく、したがって《solutions》が「複数形」であるところが味噌である。お互いに、今選ばれる解決が最終的なものではなく、当面価値の衝突が「比較的少ない」と思われるものでしかないことを了解し合う、そして、その解決なるものはいつでも、別の「もっと衝突の少ない」と思われるものに、乗り換えられる余地を残していることを容認し合う、こうした「解決」を私は《LCS》と呼んだのだった。この提案に対して、ある程度予想されたことだが、欧米の知識人の反応は一般に好意的ではなかった。
彼らは、私が日本人であって、日本では黒白をはっきりさせないことが美徳とされるから、そうしたことを言うのだろう、というのである。それは、一種の知的な「オブスキュランテイズム」(厳密さ、明確さを欠くこと)であり、絶対的な理想を掲げることを断念する日和見主義である、という反応もあった。
ある国際会議で私が最初にこの提案をしたのがちょうど湾岸戦争のしばらく後であったので、私はこう反論した。「君たちは、第二次世界大戦の直後、ニュルンベルク裁判でナチスを裁き、東京裁判で東條英機以下を裁いた、では何故今サダム・フセインを平和に対する罪で告発し、東條らに対したように絞首刑にしないのだ、できればそうしたいと君たちは思っているのだろうが、できないではないか、私の言いたいのは、それなのだ」。彼らは一様に嫌な顔して黙った。もちろん欧米にも「妥協」はある。恐らく彼らは、それは絶対的解決を求めるという理想を下ろしたのではなく、色々な要素を勘案した結果の止む得ざる妥協なのだ、と言いたいのだろう。
あるいは「嫌な顔」の一部には、東京裁判が勝者の立場から行われた復讐劇の色彩が強かったことについての後味の悪さのせいだったかもしれない。それはともかく、一部の知識人を除いて、欧米の人々の《LCS》に対する反応は好ましいものではなかった。
<生命現象との類比>
しかし、現実はまさしくそう動いているし、またそのように現実を見ることが重要であることもはっきりしてきた。三次元的でバイアラーキカルな上部で理想的な解が決まるのでなく、同じ平面の上にネツトワーク状に散らばるさまざまな要素どうしの問のダイナミックに揺れ動くトレードオフ、それが時々刻々のある解となっており、それに伴ってシステム全体が静的に定まらい動きを続ける。そのような世界の有り方、あるいは世界をそのようにあるものとして捉える方法(実は、この二つのことが「同じ」ことの表出である、ということの方が、哲学の立場からは興味ある話なのだが、ここでは深入りはしないことにする)、それは、単に、京都で開かれたCOP3のような環境の問題を巡る国際関係などだけではなく実は物理的な系を考えるときにも、現在新しい観点として話題になりつつある(いわゆる複雑な系としての対象)。そこでは、任意の時問後の系の状態は、ユニークに定まらない。それはわれわれの知識の限界であるというよりは、むしろ、われわれが系をそのようなものとして把握する、ということからくる。
しかも、われわれの目標は、一つ、つまり系の安全なのである。繰り返すが、系の安全を規定する視角は一つではない。したがって、一つの目標を定めたとしても、系全体はつねにく<<LCS>>的なダイナミズムのなかにある。そのことを認識することから始めよ、あるいはそのように認識することから始めよう、これが私の提案である。
もう一つ付け加えれば、こうしたダイナミズムのある時間内での経過を切り取って、後から振り返れば、一つの解に結果が収敏しているように記述できるかもしれないにせよ、実は初期条件から結果(仮令「同じ」結果であったとしてさえ)への道程は多岐に亙って可能であったはずであり、実際、仮に同じような初期条件にある二つの系が、同じような結果に到達していながら、たどった道筋が大きく異なる、というような場合を想像することは容易だろう。
このような系に対する認識は、最終的な目的、すなわち系の安全一繰り返すが、その「意味」は多義的である)という目的を持っているということだけは、常に変わらない。誰もが気が付くのは、このような系が生命体もしくは生命系に類似する、という点である。これまでの多くの解釈では、生命系は、最終的に系の「損傷の少ない維持」を目標にダイナミックに変化する。しかも、場合によっては、個体の安全と集団もしくは種の安全とが露骨に対立することもある。事態の経過は、常に定まった法則を崩さずに動いている、というよりは、むしろ、状況の関数としか言いようがないように見える。
例えばダーウィンの進化論を取り上げても、いわゆるラマルク的な立場に比べて、目的論から脱却している、という理由で、科学の世界では受け入れられてきた。そうした解釈が妥当かどうか、それ自体大きな問題ではあるが、ダーウィンの進化論が目的論を免れていないことは、明らかであるように思われる。詳しい吟味は省くが、ダーウィンの説明原理のなかから、「生き残る」という最終目標を排除してしまうと、その理論自体が崩壊することは、ほとんど自明である。社会学者吉田民人は、科学を、物理学を一つのモデルとするような、法則を土台にする科学と、生物学をモデルとするような「プログラム」を土台とするような科学に二分することを提唱している。地球の歴史のなかでの生物の出現が、実は自然のなかでの「プログラム」の出現であり、それまで法則のなかで動いていた世界あるいは自然のなかに、プログラムで動く新しい「自然」が誕生したのだ、という解釈が、その前提にある(今回の国際高等研究所のプロジェクトのメンバーであった吉田氏からは、プロジェクトのなかで氏の理論を丹念に開示される機会があり、蒙を拓かれること多かった。
しかし、氏の理論は、ここで大まかな、また他人の手による概括を許さないよいうな、包括的で精綴に組み上げられたものであり、これ以上私は、その祖述をすることを控えだい)。吉田民人の立場に立てば、つまり従来の科学解釈に変更を加え、その意味を拡張すれば、上に述べたような特徴を持つ「安全学」は、「安全科学」であってもよいことになる。まして、「安全」を最終目標とする系の状況に関して、説明・記述し、そして体系化するものの、一つの典型的な.類型が生物学であるとすれば、そのことは認められてもよいのかもしれない。
<政策的な側面>
しかし、安全学は、明らかにある種の政策的な提言を内包している。例えば、多くの価値から一つの価値を選択することを迫る、という点がそれである。近代社会が、そのことを社会全体として合意したか否かは問わず、「開発」あるいは「進歩」という価値を選択してきたことは明らかである。そして興味深いことに、近代社会の生育とともに生育してきた近代の科学・技術も、結果的にではあったかもしれないにせよ、そうして選択された価値に奉仕してきた。近代科学が目指した方向は、開発や進歩そのものを目標にしたわけではないが、しかし、物質とエネルギーを基本概念に据えることで、まさしく開発や進歩を支えてきた。今人々の目は、物質とエネルギーの重要性の減っていないことを認めつつも、しかし生命へ向かっている。本来ならば物質とエネルギーに次ぐ第三の基本概念となった情報も物質とエネルギーの制御に貢献するべき運命にあったはずだが、ここ半世紀ほど、むしろ生命現象のなかでの概念操作の方に、意味合いをシフトさせてきている。一九九八年の年頭教書でアメリカの大統領クリントンは、二〇世紀は物理学の時代であったが、二一世紀は生命科学の時代だと宣言した。
このようなシフトが認められるとすれば、生命を扱う科学が、物質とエネルギーと情報という概念だけで必要かつ十分であるかどうか、少なくとも議論のあるところである。そして、一九世紀から二〇世紀の社会が物理学のモデルで動き、その結果として「開発」と「進歩」へと向かったのであれば、二一世紀の社会は、生命のモデルに従って「安全」に向かって動く、あるいは動くべきである、ということになる。そして、そのような社会の目的のシフトは、近代社会が近代社会であるがゆえに内包するさまざまな困難を乗り越えるための、政策的課題でもある。この政策的課題を実現するために貢献すべき知的営みとして「安全学」を捉えるとき、われわれは、それを一つの科学の領域として扱うよりは、「メタ科学」あるいは「メタ学問」として見なす方が妥当であると考える。
本書は、そうした「メタ学問」という性格を帯びるはずの「安全学」なるべきもののささやかな事始めであるが、このようなプログラムをいち早く達成し、社会の構造を、そうした方向に再編成することのできた社会こそが、二一世紀のリーダーシップを取ることになるだろ、と予言することはできるように思う。一八世紀啓蒙主義がヨーロッパに起こり、いち早く世俗化された社会となつて、開発と進歩へと、社会構成を編成し直したヨーロッパが、それから二世紀間の世界史のリーダーとなった。この歴史的故事を顧みるとき、われわれは、上のよう見通しに立って、努力を重ねるべきではないか。