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「円はどこに行くのか、体験的為替論」行天豊雄、講談社、1996年3月20日初版、1500円

5冊500円本コーナーで見つけた本で、それなりの有名人が書いたものタレント本に近いものかと思っていましたが内容はかなり真面目なもので、円のことが、為替相場のこと等よくわかりました。著者の視点がかなり公正であり、何故、1980年代後半のバブルが発生したか理解できました。
「米国が円高を脅しの手段に使ったとき、日本は黒字体質の変革という苦痛の多い、時間のかかる道ではなくバブルを選択せざるをえなかったのである。理屈だけで言えば、日本が黒字による円高を受入れそれで産業構造の変革を進め、同時に徹底した規制緩和で新産業の育成と内外価格差の解消をするという方向で動いていればバブルを起す必要はなかったのだろう」
日本は輸出こそ生き残る唯一の道としてきたのですが、行天氏は、それに否を唱えており、これからもポイントになるところ。また、ベイカー財務長官の手腕を高く評価していること、これは、ベイカー氏が現在の大統領選挙結果騒動ででブッシュ陣営の訴訟の總指揮をとっており、なるほど有能な人です。

「円 はどこに行くのか、体験的為替論」行天豊雄、講談社、1996年3月20日初版、1500円

○ニクソン・ショックの啓示
71年のニクソン・ショックとスミソニアン合意、73年の変動相場制への移行、これは明らかに戦後の世界経済、秩序が大きく変わった節目の一つである1971年8月15日、ニクソン大統領は、金・ドル防衛策を発表。金とドルの交換を停止した。よく16日、東京外国為替市場ではドル売りが殺到し、日銀はおよそ6億ドルを買い支えた。12月18日のスミソニアン合意から帰国して後、私は大蔵省の機関紙ファイナンス72年4月にエッセイを書いている。
「随筆、通貨調整を回顧して」
米国人のクリスマス・パーティというのは本当に楽しそうに見えるものです。12月も半ばになると、職場の仲間や友人同士が集まります。夫婦者は夫婦で、独り者はそれぞれパートナーが一緒です。陰影のない会話、甘い酒、盛沢山の料理、官能的な音楽、そして踊り相手のうぶげに覆われた首筋から漂ってくる香水。
16年前に米国に留学していた私がはじめてこのようなパーティに招かれた時の、カルチャーショックは同じ体験を持たれた方には判っていただけるであろう。私にはさんざめく白人の群に一人で飛びこんでいく勇気も持ち合わせませんでした。同じ様な立場にあったケニアの留学生と壁に押し付けられるように立っていました。想いは数ヶ月前に去った祖国の貧しさと、その貧しさを抜け出す為の努力が伝統的な閉鎖社会を浸していた息苦しさでした。
アウトサイダーとして私をさいなんだのは、羨望、あこがれ、劣等感と、その底を流れる憎しみに近い敵意でした。海外にあったすべての時を通じて、無意識のうちに私をかり立てていたのは、あのクリスマス・パーティの夜、私の前に立ちはだかった呪縛の壁を崩さねばならぬという執念だったと思います。
16年間にはいろいろ学びました。外人にも馬鹿や利口や善人や悪人がいて自分とあまり変わらないという当たり前の実感。歴史と文化と宗教がその同じ人間をどう変えてきたかということ。パーティにも馴れました。この上なく自由でフランクで明るく見えた雰囲気が実は軽薄で、利己的で猥雑で孤独な群衆の仮面でもあることを知りました。そして、それはそれと知りながら、外人と一緒になって、その仮面を楽しむようになったのです。
経済官僚である私にとって祖国がなしとげた驚異の発展がどれ程の力になったか量り知れませんでした。外人の私を見る眼が年毎に変わって行くのを、私は復讐を成し遂げる者のほろ苦い満足感で感じたものです。
1971年12月18日、スミソニアン博物館で16.88%の円切り上げが決まり、水田大臣をら日本代表団はマジソン・ホテルに返ってきました。(略)日本 の場合は1949年に1ドル360円のレートが決められてから一度も変更されたことがありません。

○戦後一貫して円安であった日本
1949年に1ドル360円の相場が決まった。これが非常に円安のレートだったと思う。あの当時の適正な相場は300円ぐらいだったのでは。日本を経済的に早く復興させ、米国の極東政策の拠点にするという米国の配慮が反映された非常に円安な日本にとって輸出がしやすいレートだったのだろう。
22年間の360円時代に、おもちゃや雑貨に始まり、次いで繊維、鉄鋼、造船、それから電機、自動車と、円安の30余年間に次々と産業構造の転換を成し遂げたわけである。現在の日本経済の根幹は輸出志向型の機械産業、モノづくりといわれているものだ。
73年に変動相場制になったものの実際には円はそれほど強くはならなかった。360円から308円に切り上げられたレートは、その後も250円ぐらいのところをウロウロしていた。

○第三の革命
カネが生まれたのが第一革命、次にカネそのもの取引き、つまり金融が生れて一人歩きするようになったのが第二革命、そしてデリバティブの出現が第三の革命である。第三の革命の背景には3つの大きな変化がある。
1番目は世界全体が1つの金融市場でありカネは自由に動き回っている。
2番目は金融についての規制が世界的に緩和された。
3番目の要因は、技術革新だろう。
コンピュータが驚異的発達し、同時に情報の伝達が人工衛星や光ファイバーなどを使うことで急速に進歩した。そもそも金融は数字の世界だから、情報技術の発展は金融にもっとも大きなインパクトを与えたのである。デリバティブがリスク・ヘッジの対象である取引きと無関係に一人歩きする投機的取引きとして行われるとリスクを回避するはずのものがリスクを発生させてしまうことになる。
現在、世界中で1日に行われている為替取引きは1兆3000億ドルと言われている。

○崩れ出した大前提
為替需給の変化が起こる直接の原因は、短期の心理的要因であることが多い。これが英語で言う相場のボラティリティである。取引き当事者の一部にとっては、このボ ラティティが商売のタネになるのである。その世界では世の中がシナリオ通りに動くことは喜ばれない。

○資源の配分を狂わせる相場の行き過ぎ
1995年の年初において1ドル100円98銭だったレートはその後わずか4ヶ月の間に79円75銭まで円高が進んだ。

○為替相場は政策の目的ではない
円高になるとまず「さばやく介入して円高を阻止せよ」という大合唱が起きる。円高阻止という目的のためには「公共投資をふやして内需を振興すべき」、「金利こそ下げるべき」「市場介入でドルをかえ」という議論がある。しかし、金融政策はインフレ抑制が主眼であるべきだし、財政政策は安定成長ということに尽きるであろう。住専問題など金融機関の不良債権問題が93年以降、日本経済の大きな負担になっている。不良債権が増えたのはバブル経済で不動産価格が急騰し、それを担保に貸し出しを増やしたところ、バブルの破裂で不動産価格が急落し、貸し金が返ってこなくなったからである。
どうしてバブルが発生したり破裂したりしたのか。それは86年以降、内需拡大、黒字減らしのため、金融緩和、積極財政が行われたからだ。しかもバブルが大きくなっていったのに、引き締めへの転換のタイミングが遅れた。遅れたので急ブレイキをかけたことで破裂した。では、何故、86年以降大規模な刺激策をとったのか。
85年のプラザ合意後の急速な円高に対して国内で激しい非難が起こった。他方、貿易黒字は増え続け、米国は黒字削減のためには利下げと減税による内需拡大が必要だと要求した。経済とは因果関係の連続だからバブルの究極の原因はこれだとは特定できない。しかし後智慧になるけれども、80年代まで日本が恒常的な黒字体質を放置、温存してきたことが最大の原因だろう。
この体質は円高への異常な恐怖心を生んでしまった。だから米国が円高を脅しの手段に使ったとき、日本は黒字体質の変革という苦痛の多い、時間のかかる道ではなくバブルを選択せざるをえなかったのである。理屈だけで言えば、日本が黒字による円高を受入れそれで産業構造の変革を進め、同時に徹底した規制緩和で新産業の育成と内外価格差の解消をするという方向で動いていればバブルを起す必要はなかったのだろう。

○政策協調の場としてのG5
1985年9月22日、ドル高修正のための協調介入を目的としてG5(日米英独仏の五ヶ国蔵相会議)がニューヨークのプラザ・ホテルで開かれた。このとき発表された共同声明がドル安誘導について各国がそろって協調するという、いわゆる「プラザ合意」である。

○転機そして一時代の終わり
では、85年のプラザ合意とはなぜ、歴史的な出来事だったのだろうか。ドル高の行きすぎが修正されたという意味での転機だろう。その背景にはレーガン経済政策の失敗と転換があった。レーガン政権は、軍拡によってソ連を圧倒し、同時に米国経済を再活性化しようとした。規制を緩和し、所得税、法人税を下げた。それによって貯蓄と国内投資が増加すると期待したのである。ところが誤算であった。
家計は貯蓄せず、消費を増やし、企業は設備投資ではなく、M&A(吸収と合併)に走った。財政赤字が増大し、インフレの危険が生じた。連邦準備制度は通貨供給量をコントロールし、そのため金利は高騰し、ドル相場は急上昇した。
国内の景気は良くなったが、米国は財政赤字と貿易赤字を背負うことになった。多額のドルだて債務を持った中南米諸国は利払いに苦しむ。はじめは米国は強いドルは強い米国の象徴と強がって介入でドルを下げることには反対、事態は深刻化。ベーカー財務長官は、レーガン経済政策は失敗だったとか政策を変更するとは言わず、通貨情勢安定のための国際協調を旗印にドル高を修正したのである。
ベーカーの下での米国の国際金融政策は特筆に値するものだった。それまでの市場原理優先の政策に反して、彼は米国の主導権の下で1つの秩序を作ろうという目的意識を持っていた。これは彼が優秀な法律家であったことと無縁ではないかもしれない。
法律家は人間が作った法律により世界は秩序を保つのだという意識がある。他方エコノミストは、市場の力という捉え難いものが世界を動かすと思っている。経済政策の難しさは、法律家の発想とエコノミストの発想をたえず上手に総合していかなければならないことにある。

「円はどこに行くのか、体験的為替論」行天豊雄、講談社、1996年3月20日初版、1500円

著者;1931年横浜生れ、早稲田新聞学科に1年在籍後、東大経済入学、55年大蔵入省、56年プリンストン大学留学64ー69年,IMF・アジア開銀、71年のニクソン・ショック時は大蔵大臣秘書兼通訳としてスミソニアン会議に立ち会う。84年国際金融局長、86年財務官、92年東京銀行会長
第1章「外の眼」「内の眼」(円はどこから来たのか)
日本 の国内経済はまだ弱い、利子平衡税で思い知らされた現実、外から見た変わりゆく日本、ニクソン・ショックの啓示、随筆・通貨調整を回顧して、25年たっても問題は片付いていない。
第2章アメリカの凋落(仕組まれた円安から円高の時代へ)
世界経済の運命を左右するのは誰か、オイル・ショックを克服した日本、一度だけ正気にかえった米国、戦後一貫して円安であった日本、滞日批判のまく明け、円高はよくないという挙国一致
第3章先進国クラブの転機(プラザ合意とは何であったか)
政策協調の場としてのG5、通貨マフィアとは何者か、通貨制度問題はなぜ語られなくなったのか、転機・そして一時代の終わり、クリティカルマスを超えて
第4章第三の革命(市場の何が変わったのか)
実需原則廃止の意味するもの、市場の力はなぜ大きくなったのか、崩れ出した大前提、資源の配分を狂わせる相場の行きすぎ、市場は何に不信を抱いたのか、真の危機感に欠ける日米両国民
第5章日本的なるものをめぐって(日本はなぜ介入好きか)
市場は生き物である、介入の成否を分けるもの、介入好きは性格のなせる業、為替相場は政策の目的ではない、通貨外交は幻想である
第6章ドルの力(基軸通貨とはいかなるものか)
基軸通貨の条件とは何か、価値より重要になった調達と運用、世界で通用しない日本の金融業、ドル安・円高のスピードは遅くなる
第7章通貨のトライアングル(円はどこに行くのか)
ヨーロッパ通貨統合のゆくえ、円の競争相手は元ではない、円の国際通貨化はアジアの成長次第、日本が持っている致命的な壁、産業構造の改革を阻む既得権、内需依存になれば黒字体質はかわる
第8章合意とルール(新しい通貨体制を求めて)
政治的合意は経済政策に優先する、市場の行きすぎを防ぐ方策とは、マクロ政策を含めた議論の場を作れ、通貨の背後には文化がある、制度の変更は人為の問題である
おわりに