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2001-03-05 「神様のノート、安全学と21世紀の科学・技術社会」、村上陽一郎

 

雑誌の回覧で、以下の対談を読みました。著者の生い立ちから現在まで、またどのような仕事をされているかのか、全てがわかるという興味深いものでした。「科学史・科学哲学の分野のキャリアを大学で歩んだほぼ最初の人間だと思います」と語られるだけに、科学史についてきちんとされた見解を述べておられるます。
また、安全学の主唱者でもあられ、安全についてごくまともな見解をお持ちと思いました。

 

月刊誌「公研」20012月号、第39巻、第2号、No450、発行所;公益産業研究調査会
「神様のノート、安全学と21世紀の科学・技術社会」(私の生き方、第350回)
国際基督教大学オスマー特別教授
村上陽一郎
むらかみよういちろう、1936年東京生まれ。東大教養学部卒、同大学院博士課程修了。科学史・科学哲学。東大工学部教授、同先端科学技術センター長等を経て現職。大学院部長。東大名誉教授。著書に「文明の中の科学」「学者とは何か」など。音楽にも造詣が深くチェロ奏者として有名。

聞き手=本誌藤島陽一

「近代産業技術と近代科学は十九世紀にヨーロッパで生まれた。技術と科学の間に交流はなく、およそかけ離れた存在でした。」

「私は決して科学の敵ではありませんが、「科学主義」の敵ではあるかもしれない。」

「日本では、患者さんが自分の運命を託する病院の情報をきちんと得ることができない。これはおかしいでしょう?

 

<毎日のように空襲があった>

ご出身は東京のどちらですか。

村上;生まれたのは代々木の近辺らしいんですが、一歳になるかならずで三鷹へ来て、疎開中を除いては動いたことはありません。

一九三六年のお生まれですから、小学校三年のときに終戦ですね。戦争中は…。

村上;中島飛行機がありましたから、空襲は凄まじかったですよ。毎日のように空襲があって、道路を隔てた向かいのお宅は、防空壕に直撃弾が落ちて一家五人のうち四人が亡くなり、お一人が重傷を負われた。近所の皆で大八車に乗せて病院へ運んだことがあります。戦争末期になると機銃掃射も行われるようになり、しょうがなくて疎開したんです。当時、父親は築地の海軍軍医学校で教官をやっておりました。学校が松本医専現在の信州大学医学部に施設を移すことになったので、それについて松本郊外に疎開したんです。農家の蚕室を借りて住んでいましたが、辛かったですね。都会の子供はいじめられるわけです。朝になるとおなかが痛くなって、それこそ登校拒否ですよ()。だから、松本の思い出はあまりよくない。しばらく行くのが嫌でした。

父上は海軍の軍医さんだった-…。

村上;もともとは病理の医者で、研究のほうをやりたかったのでしょうが、貧乏でしたからね。あの頃、そういう医学生はたいてい卒業してから軍医になるんですよ。父親も海軍の軍医になりまして、委託学生として大学に戻してもらって学位を取って、連合艦隊の医長などをやりました。いよいよ戦火が激しくなった頃は第一線を離れていて、敗戦時は軍医大佐です。

戦後は……。

村上;敗戦後まもなくGHQのパージと称する公職追放があって、厚生省とか国立病院には勤められなくなりましてね。臨床はあまり得意じゃなかったと思いますが、自宅を改造して小さな診察所をつくって、細々と医療をやっていました。ところが、昭和二十九年、私が高校三年で受験直前の十二月二十日に突然、死んじゃったんです。だから、戦後のいい思いはしていない。もちろん戦争で死なずに帰って来たのだから、亡くなった方々を思えば……。

<父親にドイツ語の歌を仕込まれる>

教育などで覚えていることは……。

村上;大変几帳面で、何でもきちんとしなきゃ気の済まない人でしたから、必然的にそれを見習った部分と、そうならなかったところとありますね。私にはズボラなところもあって、それは母親に似たのかもしれません。私にとって決定的だったのは、父親にドイツのリート(拝情的な独唱用歌曲)を教えられたことでしょう。三鷹の家というのは、まだ桑畑や麦畑や雑木林しかなかった頃に、親戚が集まって土地を買って、それぞれ家を建てたもので、母の長兄が同じ敷地に住んでいたんです。この伯父はもともと官吏でしたが、趣味が高じて能楽師になって、私に四歳くらいから謡を仕込んだんですよ。これに対抗したのかどうか、父親が私にドイツ語でシューベルトなどの歌を仕込みましてね。意味もわからず歌うようになって、歌は下手ではなかったものですから、学芸会というと必ず引っ張り出されて独唱をしていました。私が通った小学校は変わっていて、寺子屋のような小さな私立学校なんです。敗戦の翌年の夏休みに軽井沢で夏期学校が開かれ、そのときドイツ人家庭を訪問して、「野ばら」と「菩提樹」をドイツ語で歌ったことがあります。あとで友人が、その家族の目に涙があったと教えてくれました。おそらく、私が音楽で人を感動させた唯一の経験じゃないでしょうか(笑)。

読書は:…。

村上;父親は大正教養人ですから、決して金持ちではなかったんだけれど、小遣いを貯めてレコードと文学全集を揃えていました。ですから、漱石全集は戦前、小学校の低学年から読んでいましたね。岩波の漱石全集はルビが振っであって、読みやすかったんです。私をつくったのは漱石と賢治だと思います。暗証するくらい読んだもので、例えば漱石の描く男性の中にある嫌な面を、自分の中に見ちゃうわけですね。『明暗』で言えば、主人公の津田は表面的にはエゴイストで見栄っ張りに描かれているでしょう。そういう性格を自分の中に発見して、「ああ、嫌だな」と思うわけ。理解していなかったと言えば、もちろん理解してなかったんですが、子供には面倒な「彼岸過迄」や「倫敦塔」まで読んでいました。賢治は両親が与えてくれた坪田譲治などが編纂した「グスコーブドリの伝記」とか「風の又三郎」などをずいぶん読んだ。これは自然の見方を教わったと思います。私にとっては漱石と賢治は別格です。

<理科と文科の中間>

理科少年と文学少年、どちらでしたか?

村上;それがわからないんですよ。いまでもわからない。いまやっている仕事も理科と文科のちょうど中間ですね。もともと父親が医者で、医学というのは半分科学で半分文学言ってはおかしいけれども、精神科学みたいなところがある。だから、どちらに行くか自分でもはっきりしなかったんじゃないですかね。書くことは子供のときから好きでしたが、一方で『子供の科学』を読み耽って、実験をやったり鉱石ラジオを作ったりしていました。みんなと同じことをやるのが嫌いなので、昆虫採集もみんなが嫌う蛾を集めていたんです。蛾はいまでも好きです。ただ、決定的に音楽が好きだったから、できれば歌を歌う人問になりたいと……。しかし、謡と西欧の歌と両方やっていると声帯がごちゃごちゃになるんですよ。高校に入って、音楽の先生がベル・カント(イタリア歌劇から生まれた歌唱法)の歌手だったものだから、そちらに目を開かれて、ある方にベル・カントの訓練をお願いしたんです。そのとき「君は日本の音楽を歌っていたんじゃないか。もうやめたほうがいいよ」と言われて、本格的に学ぶのは読めました。その上、高校二年頃から胸に影が出て、それがだんだん悪くなったものですから、呼吸器を使う歌は諦めなきゃならなかった。それでチェロを始めたんです。いま室内楽が好きで、四、五人でやるのが無上の楽しみになっています。

高校はどちらですか。

村上;日比谷高校です。高校生活で何がよかったと言うと、親友として付き合える何人かの友人を得たことですね。高校で得た友人が、私にとっては宝物という感じです。`

<米軍の軍人に部屋を貸す>

父上が亡くなられてからは……。

村上;高校三年の十二月に父親が死んで、たちまち貧乏になりましてね。翌年には電話を差し押さえられるなど、ひどい経済的窮乏に陥った。ピアニストになった姉も、その頃はまだ勉強中でしたから稼げないし、私は胸に病気を抱えていたから働けない。それで、家を半分に割って米軍の軍人に貸すことにしたんです。それで、何とか生きていけるようになったんですね。当時、府中に米軍のエア・ベースがあって、いま中央線を挟んでICU(国際基督教大学)の反対側にある武蔵野市の緑町団地は、グリーンバーグと言って米軍の軍人たちの巨大なアパートがあったんです。家族持ちはたいていそこに住むのですが、日本人の二号さんというか正式に結婚していない軍人さん、日系二世で日本人と結婚している軍人さんなどが家を借りたがっていて、府中にあったハウジング・オフィスに登録しておくと、適当に人を回してくれたんですね。そのとき私は高校三年から浪人生でしたが、否でも応でもハウジング・オフイスの人たちと交渉しなければいけない。家族が入ってくれば、彼らとのやりとりも出てくる。そういう中で、英語に対する恐怖心だけはなくなりました。今はいい経験をしたと思いますが、当時は辛かったですね。

<ガンガンやり合った家賃交渉>

具体的には……。

村上;こういうことも一つの歴史の証言になると思うんですが、ハウジング・オフイスが年に一回、彼らの言葉でイシスペクション検査をするわけです。屋根は何で葺いてあるかとか、壁の厚さは何インチ以上あるかといった八十項目くらいのチェックリストができていて、絶対になくてはいけないのが、例えばスクーン(網戸)、それから流しから下水につながるSトラップです。昔はまっすぐなパイプが多くて、トラップがついていないと臭いが上がったり、ハエなんかが上がってくるんですね。そういうのをチェックして点がつくわけです。評価はABCDと四段階あつで、Dは貸すことができない。Aが一フィート平方当たり十二セント、Bが十セント、Cが八セントでした。彼らは建坪では掛けてくれないんですよ。人間の足が踏めるところでなければいけない。だから出窓は面積に計算してもらえないわけね。ウォーキング・クローゼットは、文字どおり歩けるから計算してくれる。− 押し入れはダメなんですか。

村上;そういうのを交渉しなければいけないわけです。「いくらなんでも、これでは家賃が少な過ぎる。ここもここもちゃんと使えるんだから」というようなことを、向こうの連中とガンガンやりあって家賃が決まる。戦後すぐの住宅施設が整う前は、バラックのいい加減なものを建てて高額な家賃を取っていた日本人がいたらしいんですね。その反動で非常に厳しい規制があったようです。私たちが参画した頃は非常に厳しくて、しょっちゅう喧嘩していました。

先ほどのお語では、母上は楽天的な方のようですが……。

村上;まあ、それでなければ生きてこれなかった。いま九十六歳になりますが、戦後はずいぶん苦労したと思います。疎開している聞に家を取られたり、いろんなことがありましたからね。私から見ても大変だったと思いますが、それを生き抜くだけの明るさがあった。多分、楽天的なんでしょうね。

<諦めることを学ぶ>

スポーツのほうは:…。

村上;中学から本格的に野球をやり始めました。杉下茂を育てたことがあるという先生が赴任してきて、私は背が大きかったものだから、「杉下も背が大きかった。仕込んでやる」と言われてね。だけど、ピッチャーの器でないことは自覚してましたよ。ピッチャーというのは音楽のソリストと同じで、失敗してもクヨクヨしないというくらいじゃまだまだなんです。私はソリストとしてオーケストラをバックにコンチェルトを弾こうなんて夢にも思わないんですよね。何か一つでもミスったら、百人を超える人たちを巻き込んじゃうという思いが先に立つと、とてもソリストなんかできない。野球のピッチャーも、例えばフォアボールで歩かせて、「しまった」と思うようではダメなんです。キャッチャーが悪い、審判が悪いと思って、周りにも「ごめんな」とか言ってはいけない存在が、ピッチャーです。周りに気兼ねするようでは、ピッチャーはやってられない。そういう意味では、私は全く資格のない人問でした。ただ、なんでも好きで、やらせれば人並みくらいのことはやったんですが、先ほど言つたように高校二年あたりから少しずつはっきりしてきた病気があって、すべてを諦めたわけです。浪人して大学に入ってからも「一年聞休学を命ずる」と言われて、学校へ行けなかったんですからね。あの頃はレントゲンで胸に影が出たりすると、就職する道も閉ざされていた。残ったのは、大学で勉強を続けることくらいだったわけです。

多感な年齢ですから辛いですね。

村上;諦めることを学んだと申し上げましょう。がむしゃらに何かを獲得しようとは決して思かなくなった。それは弱さでもあると思うけど、私の個性でもあるのかもしれません。<科学と技術の間に交流はなかった>

科学史に関心を持ったきっかけは…。

村上;そういうわけで、受験勉強もそんなに厳しくできないので、当時、一応楽だと言われていた東大の文二を受けたんです。医者は頭より体力だと思っていたから、医者はっとまらんだろうと諦めた。けれども、自然科学を全く捨ててしまうのは嫌だった。そんなことで迷っていたのですが、浪人したり休学したりしている間に、同級生がいろんなところへ進み始めて、教養学科に科学史・科学哲学分科というのがあって、理科と文科の中間みたいなことをやっているという話を聞いたんですね。そこなら文二からでも行ける、そこしかないなと思いました。ただ、その頃の科学史・科学哲学科というのは、必ずしもアカデミックな学者をつくろうという場所ではなかった。すでに先輩が多く出ていましたが、この専門分野に進んだ人は一人もいなくて、例えば朝日新聞の科学部長をやった木村繁さんなど、多くがマスメディアヘ行ったんですね。さもなければ数学、化学、医学などの専門へあらためて進んでおられた。ですから私は、科学史・科学哲学の分野のキャリアを大学で歩んだほぼ最初の人間だと思います。自己韜晦的に言えば、これは新聞社にも行けない、雑誌社にも行けない、教師になるしかない、ということでもあったんです。

ご専門分野に入りますが、よく「科学技術」と一括りに言われます。しかし、科学と技術は実は出自が違うと:…。

村上;近代産業技術と近代科学は十九世紀にヨーロッパで生まれたというのが、私の考えです。まず科学について言うと、その頃、物理学なら物理学、地質学なら地質学というふうに専門家の共同体ができます。そして研究者によって新しい知識が生み出されると、それは論文というかたちで学術雑誌の中に蓄積されるようになるんです。論文を読んでくれるのも、「これはいい仕事だ」と言って評価してくれるのも、「これは自分の研究に使える」と言って使ってくれるのも、全て同じ専門家の仲間であって、近代科学の営みというのは、専門家の共同体の中にしかないんですね。そういう意味で、科学というのは自己完結的、自己充足的であると言えます。一方、技術のほうは全く違う出自で誕生してきます。例えば近代の産業を立ち上げた有名な人々それを表現するには「アントレプレヌール」というフランス語しかないんですが、技術開発をする人、企業を創りあげていく人というのは、エジソンにしてもカーネギーにしても、ダイムラー、ベンツ、シーメーンス、オットー、誰をとっても科学を学んだわけではない。小学校もろくに出ていないような人たちが、自分の才覚と発明の才でジェネラル・エレクトリックを創ったり、USスチールを創ったりしたわけです。科学と技術の聞に交流はなく、両者はおよそかけ離れた存在でした。ちょうど産業革命が起こった頃、科学のほうも盛んになっていくものだから、密接に関わり合っていると考えがちですが、それは神話だと思います。

<ニュートンの仕事は宗教的営み>

近代科学の父というとガリレオやニュートンを思い浮かべますが、科学が誕生したのは十九世紀であると……。

村上;もちろん、ガリレオやニユートンがやったことの中に、いま私たちが物理学なら物理学として正しいと考えていることが含まれていないと言うつもりはありません。しかし、彼らはなぜあれだけ一所懸命、知的努力をしたのでしょうか。彼ら十七世紀の人々が知的努力をしている姿と、十九世紀に生まれた科学者たちの姿とは、本質的にかなり違います。ガリレオにしてもニュートンにしても、同僚なんていませんね。大体、論文は書かなかった。みんなに読んでもらうために本を書いたのです。彼ら十七世紀の人々がやったのは本質的には宗教的な営みでした。神がこの世界を創った。日本語に「結構」という言葉がありますが、神が創ったこの世界の結構 −仕組みがどうなっているのかを明らかにしようと一所懸命、知的努力をしたわけです。

<近代科学の世界のエポニム>

十九世紀に生まれた科学者は…。

村上;十九世紀以降の科学者たちはそうではなくて、好奇心 自分が面白いから努力するんです。だから、ノーベル賞なんてなかった十九世紀、「あなたはいい仕事をした」というときに差し上げたご褒美は何だったと思いますか? 日本語に適切なものがないのでヨーロッパ語をそのまま使うと「エポニム」なんです。エポニムというのは、例えばクック岬とかサンドイッチ諸島というふうに、土地とか場所にゆかりの人の名前をとって付けることだそうです。科学の世界におけるエポニムは、「あなたが見つけたことだから、いつまでもあなたの名前を付けて呼びましょう」ということになるわけで、「シュレーディンガーの波動方程式」とか「ハイゼンベルクの不確定性原理」というふうに、大事なものには必ず発見者の名前をつけて呼ぶようになっている。科学者にとってはエポニムこそが最高の賛辞であり勲章なんです。もうおわかりいただけると思いますが、好奇心を共有する人々が、新しいことがわかるという喜びをひたすら追求しようとし始めて、それが目的になったのが十九世紀だということです。今の科学も、半分はまたそうした科学だと思います。

半分というのは……。

村上;今でも科学者が本を書くと、「あいつは、もうダメになった」というのが、ごく普通の反応でしょう? なぜダメになったと言われるかというと、本は不特定多数の読者を相手にしているからです。論文だけ書いているうちは科学者でいられるんです。論文を読むのは特定少数の仲間です。科学者が頭に思い描いている相手は、いつも自分の仲間以外にない。だから、みんなと喜びを共有しようと考えて本を書いたりすると、「あいつは科学者ではなどと言われるわけです。科学の啓蒙家が育たない理由もそこにあります。これは知的職業としては非常に珍しいことですね。小説家も作曲家も知的職業ですが、仲間にほめられるより、一般の人たちが読んだり聴いたりしてくれるほうが、ずっとうれしいはずです。

<「マンハッタン計画」が科学を変えた>

科学史から見て、二十世紀はどんな時代だったとお考えですか。

村上;二十世紀は、そういった科学が深まって、いろいろな領域で細分化されていった時代です。その一方で、状況はかなり変わってきました。それが現在の科学のもう一つの半分です。わかりやすい例は、第二次大戦中の「マンハッタン計画」です。要するに原子核研究者の内部で自己完結的にやりとりされていた知識を、研究者の外にいる軍部が自分たちの目的に使い始めた。古いタイプの科学では、テーマやトピックスを決めるのは科学者自身でしたが、科学者の外にいる国家や企業がプロジェクト・トピックスを決めていくようになってきたわけで、そうなると、科学というものの性格もずいぶん変わってきますよね。例えば、いま厚生省が高齢社会に備えて新しい車椅子を開発してほしいと言ったら、それを請け負う研究者の側は、工学者もいるし電気屋さん、コンピューター屋さん、スポーツ生理学者、心理学者もいるというように、いろんな分野の人が文字どおりプロジェクトを組むことになります。つまり、科学というものが自己充足的ではなくなってきて、直に社会のあり方や人問の精神を左右するような研究が増えてきたわけです。自分は面白いからこの研究をやっているんだという古いタイプの科学とは、全く違う性格の科学が営まれるようになってきたのが二十世紀の特徴でしょうね。いまや外に向かってそれなりの責任も生まれ、面白いからやっているんだというだけでは済まなくなりつつある。これを達成したら社会がどうなるかということを、考えざるを得なくなっているわけです。

<静諮で敬盧な知的営みとしての科学>

昔の大学では「産学共同」に批判的な学生が多かったのですが、最近は企業との共同研究は当たり前になっていますね。

村上;六〇年代末から七〇年代初めにかけての全共闘時代は、私が助手から講師に上がった頃ですが、あのとき学生たちが突きつけた疑問というのは、「おまえさんたちの研究は資本の論理にそのままつながっているんじゃないか」ということでした。いまや大学は全く逆ですよね。最近、ショックを受けたのは「技術移転」という言葉です。私が最初にこの言葉に会ったのは七〇年代で、そのときは先進国の最新技術を途上国にどうやって移転するかということでした。ところが、今は全く違う意味に使われている。大学の中にある研究の成果が産業技術になって応用されるかどうか、そのチャンネルがあって、うまく移転できるかどうかということなんですね。日本はそれが足りないと、いまや大学は産業と結びつきがないというので非難されるわけで、本当に驚くような変わり方です。

産業に直接、貢献する科学だけでいいのかという疑問も湧きます。

村上; 私も憲法調査会に呼ばれたときにその話をしたんです。国家レベルで科学技術政策を考えて、国際競争力とか産業の振興、雇用の増大を図ることも必要だし、それを全くやらないのは、政府としては無責任だということは認めるけれども、科学や技術-特に科学をそういうものだとばかり思ってくれては困る。自然の前に謙虚に立って、自然の中に見いだした謎を敬慶な気持ちで一つずつ解き明かしていく。そこに喜びを感じて、その喜びを静かに共有することで科学というものが成り立っていくという、静誰で敬慶な知的営みとしての科学があるわけです。国際競争力だとか産業開発力のためだけに使われるというのでは、やっぱり科学の本質とは違うのではないか。そういう種類の本質を持った科学も忘れないでほしいということを訴えたんですけどね。ノーベル賞でさえ、最近は応用技術に近いものに与えられるようになってきているでしょう?

<「科学主義」を批判する>

小平桂一さん(前国立天文台長)が若い頃、留学先のドイツで、肉屋の親父さんに「何をしているのか」と聞かれて、天文学だと答えたら、「何か新しいことがわかったら教えてくれ。おれはお前にうまいソーセージを作ってやる」と言われだそうです。日本と違って、科学が庶民の身近にあることに感動したとおっしゃっていました。

村上;小平君は高校の同級生で、先ほど言った私の宝物の一人です。日本の社会というのは、十九世紀的な科学に対する深い理解と共感が得にくい社会だということですよね。

先生がプロトタイプとおっしゃる科学者たちの仕事は、自己完結的かもしれませんが、ロマンがあります。

村上; ゲーテの言葉に「ものを考える人問にとって至福の喜びは、理解可能なものをとことんまで理解し尽くすこと、そして理解できないものの前に黙ってひざまずくことである」というのがあります。そういう精神ですよね。小平君たちが羨ましいのは、天文学というのは、今でもゲーテの言葉が使えそうな世界だからです。彼らにとっては、逆に悩みも深いんですよ。「すばる」をつくるのに四百億円という税金を使って、産業も潤わなきゃ国際競争力も増えない。そういうことをやっていいんだろうかと、ずいぶん悩んでいました。

二十世紀は、科学神話に一種、影が差した時代でもありました。

村上; 私なんて一部の科学者たちから、科学神話を壊して科学をやりにくくした元凶みたいに非難されています()。私は決して科学の敵ではありませんが、「科学主義」の敵ではあるかもしれない。科学と科学主義は違うんで、科学主義の「科学の名のもとには何でもできる」という類の言説に対しては、私はずっと批判し続けてきました。科学が科学主義としてのさばっているときは、やや科学に辛口になるし、あまりに世の中の科学に対する姿勢が冷たくなれば、科学を擁護する方向でバランスをとりたい。私のような立場にいれば、そういうことになります。

ITはパターナリズムを打破する>

生命科学やITによって成り立つ二十一世紀の社会が朧げに見えてきましたが、一方で「人類は科学技術によって本当に幸福になるのか」という思いを抱く人も少なくないのでは…。

村上; ITのマイナス面を考えれば幾らでも挙げられますが、よりよい社会をつくるために、それを利用していこうという立場で考えたときは、私はあまり悲観していないんです。というのは、特に日本の社会は、今ようやく社会のメンバーが自分の意志と判断で行動するようになってきたわけですね。その対極にあるのがパターナリズムで、お上に任せておけばよいという考え方です。それが「知らしむべからず」につながるんですが、さらに近代というのは、自分で判断して行動する人間の能力を、逆に奪ってきたという一面があります。例えば、東京都内に分宿している三宅島の人たちが、落ち葉が溜まったので掃き寄せて火をつけたら、たちまち近所の人に文句宣言われたという。本土では焚き火もできないのかということになるわけです。いま私たちはいくら落ち葉が溜まっても、自分で処理することができない。袋に入れて指定された曜日の朝に出しておかなければいけないという状況でしょう。教育だって、福祉だって、国家や行政が用意してくれる。近代社会には、善意も含めて国家とか行政に、自分たちが持っている本来の能力を奪われてきたという側面もあるんですね。確かに税金を出しているんだから、それだけの見返りをくれというのがタックス.ペイヤーの権利だけれども、自分でできることは自分でやるということを、もう一回、考えたらどうでしょう。たまたま、いま税収が落ち込んでいることもあって、もうちょっと自分たちで責任を持ってやってほしいと、行政自身がこれまでやってきたことを手放そうとしている。これはコミュニティメンバーが自分たちの意志と判断で行動して、社会をつくっていく方向に転換するいいチャンスです。もう一つのチャンスが、やっぱりITなんですね。自分の意志で判断して行動するためには、どうしても情報が要るんですよ。そのときITは非常に役に立ちます。

<法律で封じられた医療機関の情報>

日本はまだ「知らしむべからず」で…。

村上; 日本の社会はまだ情報が閉じ込められている。最もわかりやすい例は医療機関の中の情報です。いま広告で「当病院は内科の診療をやっています。診療に当たる先生はだれそれです」と、そこまでは言えるんです。ところが、その先生のキャリアどこでどういう訓練を受け、何例の手術経験があって、五年生存率は何%です、というようなこ.とは絶対に書けない。これはまず医師会が絶対反対だし、法律でも広告規制があって、その医師が博士号を持っているかどうかさえ書いてはいけないんですね。カエルの腎臓を調べただけで医学博士になれる世の中ですから、博士号の有無は患者にとっては何の意味もないのですが、それすら法律的には公表できない。医療法の改正で、この三月から多少緩和されると聞きますが……。アメリカの場合は認証機関というのがあって、そこが徹底的にインタビューしたりアンケートをとって、医療機関の中の情報を逐.一調べ上げます。そしてホームページをつくって、われわれもそれにアクセスできるんですよ。だから、私たちがアメリカで病院にかかるときに、ここの救急はダメだ、あそこの病院にしてくれと言えるのです。日本では、患者さんが自分の運命を託する病院の情報をきちんと得ることができない。これはおかしいでしょう? 情報を得ることができて、その代わり最終責任は自分にかかってくる。だけど、それでいいじゃないか、そういう社会をつくろうと言ったときに、ITは非常に役に立つわけですね。今の問題は即、安全の問題にかかっています。この病院では、どのくらいの安全対策が講じられているか。例えば、注射針は必ず使い捨てにしているかというような情報を、いま私たちは得ることができない。これは自信のあるところだったら堂々と公表できるはずです。だけど、それはやってはいけないというのが、いまの法律と医師会です。医師会がなぜ反対するか?言うと、結局は自信のないところは潰れるからです。これはとんでもない話ですよね。

<「安全」は積極的価値である>

先生は「安全学」を提唱されていますね。村上「安全」についてのいろいろな研究は、すでに安全工学とか人聞工学とか、分野としては確立しているんです。そこに多くのノウハウも蓄積されています。実際、安全工学の先生方も、例えば企業に「こういうことが問題になっているんだけど、どうしたらいいだろう」と聞かれれば、コンサルティングみたいなことはなさるわけです。ところが、医療のような領域では全く使われていない。使うことに反発さえある。典型例を言うと、一九九九年一月に横浜市立大学病院で手術患者の取り違えがありました。あのとき新聞に、ある病院の「私たちは患者さんの足首にネームタグを付けて、何をするにしても、まずそれを確認することで取り違えを防いています」という話が載ったら、すぐに反発する投書が寄せられたんです。一つは医療関係者のもので、自分が手術すべき患者がわからないというのはとんでもない話で、それだけ医師と恵者の関係が疎遠になっている。せめて手術の前日に患者さんを見舞って、こういう人だということを見ておくべきだ、というのです。もう一つは医療消費者で、荷物や死体置き場じゃあるまいし、足首にネームタグを付けるなんてことはやるべきではない、という意見でした。だけど、これは間違っていると思います。安全工学では、ネームタグを付けるというのはイロハのイ以前のことなんですね。今はアイデンティファイするためにバーコードを付けて、何か事が起きたとき 例えば不良品が出たときに、何年何月にどこの工場で作ったものだということが、あっと言う間にわかるようになっています。どうして、それを医療の世界でやってはいけないのかという話なんですよ。それは前日に患者さんを見舞うのが理想でしょうが、主治医と執刀医が違うというのはザラにある。そうなったときでも聞違えないためには、ネームタグを付けるべきなんですね。

−社会全体が「安全」に無理解だと。

村上; ずっと言ってきたことなんですが、最近、ようやく主だった病院でインシデント・レポートが制度化されつつあります。これは俗な言葉で言えば〈ひやり、はっと〉体験ですよ。現場でひやりとしたこと、はっとしたこと、しまったと思ったことを全て報告させる。上司というのは部下の責任を負うから上司なんでしょう。だから部下の〈しまった〉は免責にして、必ず報告させる。こうした体験は、致命的な結果にならないようにするためには、何をすればよいのかを教えくてくれる貴重な材料じゃないですか。それを集めないでどうするのか。こんなことは安全工学のイロハのイですが、それが多くの病院で行われていないのが実情なんですね。いま医療だけ槍玉に上げたけれども、安全工学の中ではごく常識になっていて、一部の企業の労働現場や工事現場では徹底してやられていることが、日本全体の中で共有されていない。共有するために、もうちょっと広いコンテクストに「安全」という概念を持ち出して、みんなが議論できる社会的なプラットフォームをつくろう。いろんな現場で「安全」ということを達成すべき積極的な価値として掲げて、社会を動かして行こうということなんです。安全工学の先生方はなかなかそういうことをおっしゃらないので、しようがないから、私が「安全学」と名付けて言いだしたわけです。− 先生はクリスチャンですが、最後に死生観を…。

村上; 私はなまぐさキリスト教徒で、いわゆるクレド(信条)では「死後の世界を信ずる」と言いますけど、具体的には信じられなくて悩んでいたんです。でも、あるときふと悟ったというより感じとれたのは、ベートーベンのカルテットは音楽というものがある限り残る。ゲーテの著作も残っていくだろう。では、そういう人だけが残るのかと言うと、だれも覚えていないとしても、一人の人問が生きたということは、どこかにノートがあって、そこに記録されるということです。それを「神様のノート」と言えば、名も知れずに世間の片隅で生まれて、生きて、死んでゆく私のような人たち一人ひとりが、みんな「神様のノート」に記録される。私も多分、記録されるだろう。そこに私は残る。残るんだったら、少しはいい残り方がしたいなと思っています。

ありがとうございました。