2001-03-11 「旧ソ連・原子力関連研究所めぐり(4)」
95年に業界誌、原子力工業にのった記事、「イギリスに住んでいたソ連諜報部長からの報告」、以前読んだ記憶があるのですが、今回再度よんで見ると、大変に内容のある論文でした。原爆開発について、よく知られているマンハッタン計画の始まる前の前史についてソ連のスパイ活動を交えながらダイナミックに描かれています。当時はアメリカは主役ではなく脇役であったことがわかります。1932年に中性子が発見されてからわずか13年で原爆まで作ってしまったのですから、世界の知性がこの分野に集中して相互作用で加速度的に進展したのでしょう。バイオ、コンピュータ、材料開発で、現在同じように爆発的な進展が進んでいると思われます。
原子力工業 95年7月号、第41巻、第7号
連載、旧ソ連・原子力関連研究所めぐり(4)
「イギリスに住んでいたソ連諜報部長からの報告」
木下道雄(技術専門家)、大田憲司(ユーラシア・リサーチ代表)
第3回はフリョロフがスターリンヘ宛てた手紙と,クルチェトフによるアメリカの現場開発に関する現状分析報告書(文書4)を紹介した。今回は,欧州諸国での核分裂の研究状況,特にイギリスでの原子爆弾に関する研究開発状況を紹介した上で,イギリスの原爆開発に関するソ連の諜報活動を報告した文書1,2および3を紹介する。原子力関係研究所の紹介は,文書5〜14の概要を順次説明し当時の欧米における原子力の研究開発状況を踏まえた上で紹介する予定である。
3.旧ソ連における原子力開発の歴史的経緯(続)
3.5.5欧州諸国における核分裂および原子爆弾の研究開発状況10,
24-27)
ロンドンにおける旧ソ連の諜報活動により,文書1,2および3がつくられた背景を知るため,1938年末のウランの核分裂発見からイギリスでモ一ド委員会が設置される頃までの,欧州諸国における原子力界の動きを振り返ってみよう。
原子爆弾の理論は,第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の科学実験期といわれた物理学の黄金時代に登場した。研究の中心地はドイツで,欧州やアメリカの科学者が,ゲッチンゲン,ベルリン,ミュンヘンにある大学に集まった。彼らは,アインシュタイン,マックス・プランク,デンマーク人の二一ルス・ボーアの講義を聞き,感嘆した。コペンハーゲンにあったボーアの原子物理研究所,イギリスのケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所,パリのラジウム研究所も実験と理論の大きな中心地だった。また,ソ連のレニングラード物理工学研究所も原子物理を研究しており,アメリカではコロンビア,シカゴ,プリンストン,バークレーの各大学で,原子力の研究を実施していた。
(1)ドイツ
ベルリンのカイザー・ウィルヘルム化学研究所で,1938年12月19日,オット・ハーンとフリッツ・シュトラスマンの二人のドイツ人化学者が,ウランに中性子を照射すると,バリウムを生成することを発見し,これをスウェーデンに亡命していたハーンの共同研究者リーゼ・マイトナーに手紙で知らせた。これを受け取ったリーゼ・マイトナーは,1938年12月23目,彼女の甥で物理学者のロベルト・フリッシュとともに,核分裂の理論的な説明と物理学的な解釈を成し遂げた。
ドイツの化学者たちは,中性子の減速に重水を利用するため,1940年4月オスロの西約160kmにあるリューカンスのノルスク・ハイドロエ場と,月産100kgの重水供給に関する契約を結んだ。
(2)フランス
1939年3月,カレッジ・ド・フランスで,ジョリオ・キュリーも中性子実験で核分裂の現象を観測し、1つの中性子によってウランの原子核が核分裂する時に数個の中性子を放出することを示した。マリー・キュリーは40年間,「結果の如何を問わず発表すること」を金科玉条とし,これを弟子たちに教えた。キュリーの研究グループは同年4月,ネイチャー誌に投稿し,「1回の核分裂で,約3個の中性子が放出される」と報告した。
これにより,ウランの核分裂の研究を秘密にすることはできなくなり,キュリーの論文に続いてフェルミも論文を発表した。これが引き金となって論文が続々と発表され,核兵器の開発に必要な情報は周知のものとなり,世界各国の科学者に知れ渡ってしまった。ジュリオ・キュリーのチームは,1939年,アメリカの化学者ハロルド・ユーリが1931年に発見した重水とよばれる物質でウランを取り囲めば,核分裂を起こすことができるとを発見した。1939年中頃までに,ジョリオ・キユリ一のチームは,初歩的なウラン爆弾の秘密特許を書き,運用可能な原子炉の略図までつくっていた。
(3)ソ連
レニングラ一ドの理論物理学校で教鞭をとっていたイーゴリ・タム教授は、フランスのジョリオ・キェリーの大発見を知り、学生に向かって,「これは,恐らく半径10kmに及ぶ一都市を破壊するような爆弾の製造が可能なことを意味ナる」と語ったという。後に彼は,ソ連の原爆計画で最長老となった。
ユーリ・バリトンはレニングラード工科大学を卒業すると間もなく,イギリスのキャベンディッシュ研究所に留学した。そこには,世界で初めて原子を人工的に変換するのに成功したラザフォードがいた。2年間の留学を終えたハリトンは,帰国の途中ベルリンに立ち寄り,ナチスの台頭と戦争の足音を知った。彼は,1931年に設立されたレニングラード化学物理学研究所で爆薬の研究に専念し,またウランの核分裂の研究にもとりかかった。
(4)イギリス
前述のように,1938年末にウランの核分裂が発見され,間もたく核分裂を利用した爆弾の可能性が指摘された。当初多くの科学者が考えたのは,後になって物理的に実現不可能なことがわかった天然ウランをそのまま使用した天然ウラシ爆弾であった。1939年9月,ドイツのポーランド侵攻による第二次世界大戦勃発当時,二人のドイツ人物理学者オットー・フリッシュ(リーゼ・マイトナーの甥)とルドルフ・パイエルスは,イギリスのバーミンガム大学で研究活動に従事していた。フリッシュとパイエルスは、ウランー235の連鎖反応について数理計算を行った結果,爆弾をつくるのに必要な量は二人が考えていたように数トンでななく,わずか数ポンドでよいことがわかった。二人はそのウランー235を分離することは可能だとの結論を出した。フリッシュは後に,「その時,われわれ二人はじっとみつめ合い,ついに原爆が可能なことを悟った」と述懐している。
1940年2月,二人はタイプで3000字以内のわずか3頁の報告書の中で推論と計算を書いた。その内容は,「爆弾はウランー235で製造できるだろう。また,ウランー235は,天然ウランからどのようにして分離できるのかの仮説を提示した。二人は,ウランー235が爆発するのに必要な量、すなわち臨界量を計算した。爆弾が爆発を起こさせる仕組みについて,.合体させると臨界量になるようウランー235を二分割しておき,猛スピードで合体させればよいと説明している。放射線を含め,爆発の影響についても触れている」といったものであった。すなわち,天然ウラン中に約0.7%しか含まれていないウランー235だけを使ってウラン爆弾をつくる構想である。これは困難で費用がかかるが,二人は可能と信じた。報告書は「フリッシュとパイエルスのメモランダム」と呼ばれ,必要なものはすべて記載されていた。
このメモランダムは,原子爆弾の製造方法に関する最初の記述で,20世紀における歴史的文書である。二人は,メモランダムを大学の上級物理学者マーク・オリブアントに送った。彼はレーダ一研究に従事しており,国防省当局と接触があった。その後,メモランダムは政府機関に届けられた。その結果,1940年4月に,物理学者G.P.トムソンを長とする「モ一ド委員会」が設置され,核分裂による威力,あるいは爆発を生む出す可能性を探求することになった。委員会は航空機生産省の管轄下におかれ、オックスフォード、ケンブリッジ,リバプールの各大学の科学陣に研究作業が割り当てられた。
1941年初め,パイエルズは研究のため助手を雇うことを決め,以前会ったことのある数理的才能と柔軟性があり,当時エジンバラ大学に勤めていたドイツ人のクラウス・フックスを,国内防諜組織(MI5)に問い合わせて採用許可をもらった。その後フックスに手紙で意向を打診し,1941年5月に彼を雇った。当時,フックスは共産党員でMI5もこの事実を知っていた。
1941年7月,モード委員会の委員会議長サー・ジョージ・トンプソンは,内閣の科学諮問委員会に報告書を送り、現在までの研究を基礎にすれば戦争終結前にウランの核分裂による爆弾が製造できることを明らかにした。その結果、「チューブ・アロイズ」という偽装名をつけた原爆製造計画が認められた。
イギリスとナメリカは,第二次世界大戦が始まって以来,軍事的潜在力をもつ科学研究に関して情報を交換していた。モード委員会の報告には「原爆への使用」という表題がつけられていた。
イギリスの物理学者ジヨン・コッククロフトは,「フリッシュとパイエルスのメモランダム」を持って渡米し,アメリカの科学者と議論を戦わせたが,アメリカには危機感がなかった。
モード委員会が発足して1年後の1941年8月,アメリカのS-1委員会のウラン担当V.ブッシユとJ.コナントは,イギリスのアンダーソン卿に手紙を送り,ウラン問題について英米協力による共同計画で原子爆弾の開発を目指すことを提案した。同年10月には,ブッシュはルーズベルト大統領と会見して,プルトニウム発見のニュースと,原爆をつくるまでには今後も相当多くの実験を重ねる必要があることを報告し,大統領から激励を受けた。イギリスのチャーチル首相は,アメリカ側に全面協力を約束したが,工業的規模で計画を推進しようとする具体的な動きは見られなかった。
一方,パイエルスとフックスは二つの問題に取り組んでいた。一つは核分裂反応の理論計算で原爆1個にどれだけのウランが必要かを明らかにすることであった。もう一つは,ウランー235の分離方法の研究だった。フリッシュとパイエルスのメモに書かれていた分離法は熱転移法であったが,可能でないことが証明されていた。そこで有望視されたのは拡散法で,実験工場がノースウェルズのバレーに建設された。フックスは優れた数学者で,新しい問題に直面すればその本質を把握するのも早かった。
1941年末,フックスがロンドンヘ行った時,彼は旧知のユンゲノレ・クチンスキを訪れ,ソ連に価値のある情報をもっていると告げた。クチンスキは,恐らくソ連参謀本部情報総局の要員であった。彼はフックスの接触相手として,ソ連大使館の軍事アタッシェであるシモン・ダビドヒッチ・クレメルを手配した。フックスは,核分裂とウラン濃縮の拡散計算に関する自分の報告書を,カーボン紙を使ってタイプし,コピーをクレメルに会って渡した。フックスは1943年12月末にイギリス人科学者と一緒に渡米するまで、多数回にわたり自分の報告をソ連側に渡した。彼は,イギリスやアメリカの報告にも目を通していたが、彼がソ連に流したのは自分の研究だけに限っていた。しかし,イギリスやアメリカにおける核分裂爆弾製造計画の一部とか,ウラン拡散法の実験工場の建設や,同様の研究がアメリカでも進められているとか,この分野で英米間の協力があるとかなどを説明した。
1943年8月,イギリス首相チャーチルとアメリカ大統領ルーズベルトがカナダのケベックで会談し,カナダも含めて原爆製造に関する秘密協定に調印した。この内容は,「原爆はアメリカで製造し,イギリスは本計画に対する協カパートナーとなる」といったものであった。すなわちイギリスのチューブ・アロイズ本部としては,原爆製造は,大規模な工業事業で,戦時下のイギリスでは遂行できないことを認めたのである。
原子爆弾を製造するうえでの最大の課題はウランー235の分離で,イギリスの科学者グループが二ューヨークのウラシ拡散問題研究チームに参加する取り決めが行われた。パイエルスはニューヨーク行きを要請され,フックスに同行を求めた。フックスも拡散プロセスの制御について優れた論文を書いていたため,アメリカ研究チームに知られていた。
フックスを含むイギリスの科学者と一部の夫人たちは,政府公務員として1943年11月23日付けでビザの申請を行い、数日後に外洋定期船を兵員輸送用に改造したアンデス号でニューヨークに向け出発した。
3.5.6イギリスでの原爆構想を伝えた文書1,2および3
(1)文書1極秘20-22)
ロンドンのソ連諜報部長A.B.ゴールスキー(偽名:ワジーム)から送られたこの文書は、1941年9月25日付けNo.6881/1065に関する参考資料で,ポターポフが確認の署名をしている。
[概要]
イギリス外務省職員でソ連協力者のDonald Maclean(偽名:リスト)は,1941年9月16日に開催された[モード委員会]の会合についてワジ一ムに報告し,彼はこれをソ連に報告した。なお,会合の議長は戦時内閣の無任所大臣Load
Hankeyだったとの書き込みがあった。
委員会では,ウラン爆弾は2年以内に開発できるとし,特にインペリアル・ケミカル・インダストリーズ社に爆弾を最短期間でっくるよう強制すれば造れるだろうとしている。
インペリアル・ケミカル・インダストリーズ社は,六フン化ウラン製造の契約を結んだが,同社はその製造を始めていない。最近アメリカで硝酸ウランを用いた,より簡単な生産工程の特許が取られた。
3ヵ月前に,メトロポリタン・ヴィツカーズ社に対し,20段の装置の建設を発注したが,これに対して許可の下りたのはごく最近である(木下注:ガス拡散法による濃縮施設だと思う)。委員会では,より良いタイプの拡散膜に関する情報がアメリカで得られるとの報告があった。
1941年9月20日に開催した主査委員会で,イギリスにウラン爆弾工場を早急に建設することが提案された。
(2)文書2極秘20-22)
ロンドンのワジーム(偽名)から送られたこの文書は,1941年10月3日付けNo.7073,7081/1096による参考資料である。この文書にもポターポフが確認の署名をしている。
[概要〕
リスト(偽名)から入手したこの文書は,1941年9月24日に開催されたウラン委員会の活動状況について報告している。この報告書では次の問題に触れている。
ウランの臨界量がどの程度の大きさになるかは,ウランー235の核分裂断面積に依存しており,臨界量は10〜43kgであるとしている。六フッ化ウランの製造は,インペリアル・インダストリーズ社が開発しており,すでに3kg得ている。ウランー235は非常に細かい針金で構成する網の膜を通して,ガス状六フッ化ウランを拡散させる方法が効果的である。六フッ化ウランは腐食性が強く,特別の潤滑剤が必要であること,六フッ化ウランは水蒸気が存在すると分解すること,プロセスは0.4mmの真空下で行われる等を説明している。また,工場は20アール以上の面積が必要としている。
ウラン爆弾の膨大な破壊力に加えて,その爆発地点での大気は放射性粒子で満たされ,その粒子はあらゆる生命を死滅させる能力があると報告された。
(3)文書3極秘20−22)
モスクワにあるソ連内務人民委員L.ベリヤの署名のあるこの文書の宛先は,ソ連国家防衛委員会スターリン同志宛となっており,日付は1942年3月である。
[概要]
これはイギリスの原爆開発に関する調査報告である。いくつかの資本主義国で,ウランのもつ原子エネルギーを軍事目的に利用する研究が開始された。1939年にフランス,イギリス,アメリカおよびドイツで,ウランを新しい爆薬として利用する方法の開発に関する集中的な研究が開始された。イギリスにあるソ連内務人民委員部が,諜報活動によって入手したウランの原子エネルギーに関するウラン委員会の極秘資料によると,次の点が明らかである。
a)イギリスの戦時内閣は,ドイツがウラン爆弾利用の問題点を解決する可能性があるので、ウランの原子エネルギーを軍事目的に利用する問題に大きな関心を払っている。
b)戦時内閣のウラン委員会が,研究業務全体を調整している。研究範囲は,理論的,実験的研究および大きな破壊力をもつウラン爆弾の製造も含んでいる。
C)ウラン鉱石の埋蔵量が大きいのは,カナダ,ベルギー領コンゴ,チェコスロバキアのズデーテフ地方,ポルトガルであると記載している。
d)イギリスに移住したフランス人科学者ハルバンとコワルスキーは,重水処理したウラン酸化物を利用したウランー235の分離法を開発した。また、イギリスの科学者R.パイエルス教授と物理科学者バイスは,シモン博士の設計した拡散装置でウランー235の分離法を開発した。この装置は,ウラン爆弾製造に使用できる実用的なものとの推奨を受けている。
e)ウランー235の工業的方法の開発は,イギリスの研究機関の他に,ウリッジ造兵庁,化学会社であるメトロ・ヴィッカーズ社,インペリアル・ケミカル・インダストリーズ社が参加している。「ウラン爆弾のために原子エネルギーを利用する研究は,大規模に仕事を開始する必要がある。この問題は解決可能で,必要な工場の建設は可能である」としている。
f)ウラン委員会はアメリカの関係研究機関や企業(例えばデュポン社)と,理論的問題に限定し協力している。
バーミンガム大学のR.パイエルス教授が,ウランー235の臨界量は理論的に10kgであることを決定し、これ以下の量は安定かつ全く安全である。10kg以上のウランー235の塊では核分裂反応が起こり,膨大な爆発を起こす。ウリッジ造兵庁の科学研究部門のファガーソン教授によると,混合速度が毎秒600フィート程度でなければならずこれ以下の場合はウランの核分裂連鎖反応と爆発ははるかに小さくなるが,通常の爆発力よりはるかに大きい。イギリスにおけるウランの軍事利用開発を検討した結果,次の結論に達した。すなわち,イギリスでは,@軍事最高司令部は,ウランの原子工ネルギーの軍事利用聞揮は基本的に解決されたと考え,A戦時内閣のウラン委員会は,ウラン爆弾製造のため工場の設計・建設に関する予備的な理論的検討を終了し,B科学者と研究機関およびイギリスの大企業の力が集められ,最高機密であるウランー235問題の解決に振り向けられ,Cイギリスの戦時内閣がウラン爆弾鍾造に関する基本問題の解決に当たっている。
ウラン一235の原子エネルギーを,ソ連の軍事目的に利用する重要性と緊急性に照らして,次のような対策が適当であろう。
1)ソ連国家防衛委員会に付属して,ウランの原子工ネエルギーの研究と活動の方向性を調整する学術諮問機関の設立を検討する。
2)ウランに関する内務人民委員部の資料を使用するよう,著名な専門家に閲覧調査させることを保証すること。
注):ソ連で核分裂問題を研究しているのは,カッピッツァ科学アカデミー正会員、前レニングラード物理研究所のスコベリツィーンアカデミー正会員,ハリコフ物理技術研究所のスルーツキー教授である。
以上が文書3の概要である。
表1に,参考として米国,欧州およびソ連の原爆開発に関する年表をまとめた。
アメリカの原爆開発に関するマンハッタン計画は1942年8月に発足した。次回は,この計画発足当時の米国やソ連の状況を振り返りながら前々回に紹介した文書4を簡単に説明し,ついで文書5から順次紹介しよう。
本稿で紹介する文書1ないし4は,東京工業大の梶雅範氏が「科学史・技術史の諸問題、1993年No.3(季刊)」の107〜116頁をロシア語から全訳され,「東京工大・科学史集刊13,1994年」に掲載された。私(木下)もスドプラ一トフ氏の「Special
Tasks」から全訳を終了し,本誌に投稿」するべく準備していたが,印刷の都合で梶氏の日本語訳が本邦最初となった。本稿では,基本的に「SpecialTasks」から日本語訳をつくり,正確を期するため梶氏の翻訳も随分と参考にさせていただきました。ここに厚く感謝いたします。
参考文献
* 1)〜23)は第3回(本誌1995年5月号p.67)と同じ
24)ソ連原爆プロジェクトの発端(第2回):スターリンと原爆,U.N・スミルノフ,科学史・技術史の諸問題,1994年N02(季刊),科学史・技術史研究所発行,モスクワ(ロシア語)
25)「原爆を盗んだ男クラウス・フックス」:ノーマン・モス著,壁勝弘訳,朝日新聞社
26)「核の人質たち,核兵器開発者の告白」:バーナード・オキーフ著,原礼之助訳,サイマル出版会
27)「アトミック・コンプレックス,核をめぐる国際謀略」:バートランド・ゴールドシュミット著,一本松幹雄訳
表1 米国及びソ連の原爆開発に関する年表
1789年;ウランの発見
1898年キユリ一夫妻が蛍光現象を「放射能」と命名・中性子の発見
1932-2年 中性子の発見
1932-9年シラードがロンドンで核分裂の可能性を思いつく
1934年ジョリオ・キュリーがα線による人工放射性元率の生成に成功
1938年夏ジョリオ・キュリーが,中性子がウランの核に命中するとウラン核が崩壊し,よリ小さい2個の核に分裂することを発見(左記の報道はソ連の物理学者や放射線化学者を興奮させた)
1938-12-19オットハーンとシュトラスマンは,ベルリンのカイザー・ウィルヘルム研究所で,ウランに中性子を照射すると,バリウムを生成することを発見し,スウエーデンに亡命していたマイトナーに手紙で知らせた
1938-12-23マイトナーとフリッシュが中性子によるウランの核分裂を証明
1939-1-26コペンバーゲンで;フリシュから核分裂の発見を知ったボーアは米国に1月16日に上陸した。ボーアは,ジョージ・ワシントン大学で開催した国際会議で核分裂の発見を発表し,このニュースは世界中に知れ渡った。
1939-1-30「サイエンス・レビュー」誌のワトソン・デービスにより上記のニュースが発表された。
1939-2-11 2月11日付け「ネイチャー」誌に,マイトナーとフリッシュの論文「ニュークレア・フィッション」を発表される。
1939-9ドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発
1939-10-11 原爆開発を進言した「アインシュタインの手紙」を,ニューヨークの財界人アレタサンダー・ザックスが自分でホワイトハウスに持って行き,ルーズベルト大統領に訴えた。
1940-3 ウラン238の崩壊によるプルトニウム生成を確認
1940-4 ウラン−235の分離に成功
1940-7英国から米国ヘウラン爆弾は可能と正式報告
1941-11 アメリカのウラン爆弾開発が正式に開始。同時にプルトニウム爆弾のプロジェクトも極秘に設置
1942-8マンハッタン・プロジェクトが発足
1942-12シカゴ大学でシカゴパイルー1(CP一1)が臨界達成
旧ソ連
1934モスクワの数学物理研究所でP.A.チェレンコフがチェレンコフ効果を予言
1936 Y.I.フレンケリが核分裂理論を提唱
1939 レニングラード物理工学研究所で研究していたYu.B.ハリントンとYa.B.ゼリドービチはウラン-235が核分裂反応を起こす可能性を理論的に示す。
1940 G.N.フリョロフとK.A.ペテロジャックらがウランの自発核分裂を発見
1941-9-25文書1:ロンドンのワジーム(ソ連諜報部部長A.B.ゴールスキーの偽名)が1941年9月16日に開かれたウラン委員会「別名:モード委員会」について報告。ウラン爆弾は2年以内に確実に開発できる。
1941-10-3 文書2:1941年9月24日に開かれた戦時内閣に伝達されたウラン委員会に関する報告.六フッ化ウフンの性質,ガス拡散工場について報告
1940-11・モスクワで開催した原子物理学会で、クルチャトフは「ウランボイラー」建設の必要性を提起したが,決定には至らなった。
1942-8文章3:ソ連の治安機関の責任者で内務大臣のベリヤが、諜報機関の情報に基づいて,スターリンに原爆開発について初めて報告。この情報は英国に関するものである。
1942-4軍籍にあったG.N.フリョロフがウラン問題についてスターリンヘ手紙を書き,この手紙は1942年5月にスターリンに届いた。
1942-11 スターリンは,原爆開発の可能性について4人の科学アカデミー会員ヨッフェ、カピッツァ,フローピン,ヴェルナツキーと討議し,ヨッフェはクルチャトフとアリハーノフを推薦し,スターリンが若いクルチャトフ(40才)に決定。