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2001-04-01 ラブレンチ・ベリア
原爆開発と旧ソ連のスパイ活動についての第二弾です。ベリアが原爆開発に大きな役目を果たしたことが目をひきます。原爆スパイ事件となればローゼンバーグ事件を思い出しますが、小学館百科事典では冤罪としていますが、現実には関与していたと思われます。フルシチョフが夫妻には重要な情報を得たことに感謝すると言った(回想録?)り、遺児が米国で名誉回復の裁判を起こしたが棄却(5-6年前にタイム誌に報道)されています。勿論、処刑そのものについては是非の議論はありますが、生きるか死ぬかの、歴史の影の部分です。

ベリヤ Lavrentiy Pavlovich Beriya ( 1899―1953)
旧ソ連の政治家。グルジア共和国の出身。革命後の内戦期に反革命取締りの活動で名をあげ、同じグルジア出身のスターリンの信頼を得て、1920年代にグルジアの政治警察の実力者となった。31年にグルジア共産党第一書記に就任、34年にはソ連共産党中央委員に昇格した。スターリンは大粛清の総仕上げを行うために、前歴も不確かで中央では無名のベリヤを38年内務人民委員に抜擢(ばつてき)し、前任者エジョフとその配下の機関員に対する「粛清者の粛清」を実施させた。独ソ戦期も引き続きこのポストにあり、クリミア・タタール人その他対独協力の嫌疑をかけられた少数民族の集団追放を命じた。戦後、元帥、政治局員、副首相。53年にスターリンが死去した時点でマレンコフ首相に次ぐ実力者と目されたが、その直後に実権を失った。反党・反国家的行為のかどで裁判にかけられ、同年末銃殺された。〈原暉之〉

ローゼンバーグ事件 ろーぜんばーぐじけん
ジュリアス・ローゼンバーグ(1918―53)とその妻エセル(1915―53)を、当時のソ連に原爆機密を売った犯人として処刑した事件。英原爆スパイ容疑者クラウス・フックスが逮捕されたのを契機に、同じスパイ・リングの一環として1950年2月グリーングラス夫妻とその義兄ローゼンバーグ夫妻が逮捕された。容疑は、夫妻が戦時中に原爆工場に電気工として勤務したグリーングラスから原爆機密を受け取り、これをソ連に売ったというものであったが、唯一の証拠はグリーングラスの自白だけで、ローゼンバーグ夫妻は最後まで潔白を主張して、自白すれば減刑するとの誘いも断って電気椅子(いす)で処刑された。証拠とされたグリーングラスの自白と彼の描いた図面も、アインシュタイン、ハロルド・ユーリー博士らの最高頭脳が米国大統領あて書簡で述べたように、まったく無意味なものでしかなかった。
事件は、前年1949年にソ連が原爆を保有し、アメリカの原爆独占が破られたことに対する政治反動としてつくられたものとして、アメリカ国内でもヨーロッパでも強い抗議運動がおこり、米国大統領への世界著名人の処刑中止の要請も相次いだが、マッカーシズムの吹き荒れる当時のアメリカでは、処刑を中止させることはできなかった。現在では英米でいくつかの周到な調査に基づく研究書も出版されており、ローゼンバーグ夫妻が完全に無実であったことが論証されている。夫妻が獄中から幼い2人の息子たちに送った書簡集(邦訳名『愛は死を越えて』)は有名である。〈陸井三郎〉

原子力工業 1997年1月号 第43巻 第一号
連載 旧ソ連・原子力関連研究所めぐり(5)
旧ソ連の情報収集活動、木下道雄、大田憲司
第1回(1994年9月号)は旧ソ連の原子力関係研究所と原子力開発の歴史概要,第2回(1994年11月号)はアメリカのマンハッタン計画とドイツのハイゼンベルグの活動、および1942年までのソ連の原子力関係の動き,第3回(1995年5月号)はフリョロフのスターリンヘの手紙とクルチャトフによるアメリカの原爆開発に関する分析報告書(極秘文書4)、第4回(1995年7月号)はヨーロッパ諸国における核分製と原子爆弾の研究開発状況、およびイギリスでの原爆構想を伝えたソ連情報収集活動による極秘文書1,2および3を紹介した。今回は,極秘文書1〜13がどのような状況でつくられたかを理解するため、アメリカのマンハッタン計画が発足した1940年から1950年頃までにおけるソ連の情報収集活動を,すでに刊行された各種書籍や月刊誌に発表された資料をもとにまとめた。
4.旧ソ連における原子力開発の歴史的経緯(続々)
4.1 1942年のマンハッタン計画発足当時のアメリカの状況18,28,31,32)
これについては,本誌1994年11月号ですで詳しく紹介したので,ここでは簡単に述べる.
現代物理学に発展に非常に貢献したドイツなら,核兵器を開発するかもしれないというおそれがイギリスやアメリカの物理学考たちにあった.
ナチスのユダヤ入排斥により,アメリカに移住した3人のユダヤ系ハンガリー人亡命物理学者,レオ・シラード,ユージン・ウイグナー,エドワ一ド・テラーは,ヒットラーがアンリカよりも先に原子爆弾を開発する可能性をおそれ,ドイツが原子爆弾を開発する可能性について,一刻も早くルーズベルト大統領に注意を促すべく手紙を作成し、1939年8月2日、アルバート・アインシュタインが大統領への手紙に署名した.この手紙は,大統領の友人で経済顧問でもあったアレキサンダ一・ザックスにより,1939年10月11日,大統領に届けられた.
アメリカの核兵器開発計画は,1940年に6000ドルの小規模な予算で始まり、この政府による交付金はフェルミなどの科学者に与えられた.彼らの多くは,ナチスを逃れたヨーロッパからの亡命者であった.イタリア人フェルミはノーベル賞受賞後,ただちにアメリカに亡命し,1939年1月,コロンビア大学に移った.彼らの最初の仕事は,天然ウラン中にごくわずかしか存在しない核分裂性のウラン235に,核分裂連鎖反応を起こさせることであった.
1941年11月,アメリカのウラン爆弾開発が正式に開始され,またプルトニウム爆弾のプロジェクトも極秘に設置された. 1942年8月,マンハッタン計画が発足し,同年9月23日に40歳代半ばで,すべての仕事に活動的なグローブズ准将がマンハッタン計画の総指揮をとることになった.
フェルミたちは、1942年12月2日シカゴ大学で世界初の核分裂連鎖反応に成功した。テネシー州オークリッジでは,ウラン濃縮工場を建設(1944年にY-12プラントが操業開始),原爆用高濃縮ウランを製造した.また,ワシントン州ハンフォードにプルトニウム生産炉を建設し,1944年にB炉が運転を開始,また1945年初期にD,F炉が運転を開始した。これら3基のプルトニウム生産炉の原子炉熱出力は,それぞれ250MWtであった.
1944年12月26日,B炉で生産された使用済燃料が,同サイトに建設されたクイーン・メアリース・プルトニウム分離プラントまで運ばれ,プルトニウムを分離した.シーボルグによると,プルトニウムの純度は当初60〜70%であったが,1945年2月には90%になったとし,誇らしげに語っている.これらは,ニューメキシコ州のロスアラモスに送られ,原爆(プルトニウム型)に組み立てられた.
1945年7月16日,ニューメキシコ州のアラモゴ一ドで世界最初の原爆実験(プルトニウム型)を実施した.ウラン型原爆は成功率が高かったので原爆実験は行われず,広島に投下されたのが世界最初のウラン型原爆であった.
4.2マンハッタン計画発足当時のソ連の情報収集活動
(1)1940年頃のソ連の原爆に関する調査活動28)
原爆開発に携わったオッペンハイマー,フェルミ,シラードおよびシラードの秘書の名前は,アメリカの原爆開発に関する情報源として,ソ連の内務人民委員会(NKVD)の資料によく出てくる.原爆開発のきっかけは,ヒットラーが原子爆弾の開発をするかもしれないとのおそれが動機であった.
ソ連の科学者たちで構成されていた特別委員会は、1940年,西側で超兵器が開発されているという噂を聞いて,ウランから原子爆弾をつくる可能性を調べていた.ソ連の科学者たちは,理論的には可能だが事実には不可能だという結論を出していた.前記の特別委員会は,政府の情報機関に命じて西側の科学出版物をモニターするよう勧告したが,政府は調査費用を出さなかった.しかし,NKDVの科学情報部長であるレオニード・クヴァスニコフは,アメリカ、イギリス,スカンジナビアの全支局に,ウランを原料とした超兵器開発の情報を特に調査するよう指示した。
(2)イギリスの原爆開発計画に関するソ連の情報収集活動28)
1941年9月,ロンドンのイギリス外務省に勤務していた情報収集員ドナルド・マクリーンから,イギリス政府が原子力を利用した驚異的な破壊力を持つ爆弾に大きな関心を持っているとの報告が届いた.彼は,ウラン爆弾計画に関するイギリス内閣委員会の議事録を含む60頁の報告書を届けてきた.これは,発信年月と内容からみて,1995年7月号に紹介した文書1および文書2であろう.
また,六フッ化ウランの製造に関係していたインペリアル化学工業(ICI)にもソ連の情報源があり,その経営陣は原子爆弾の製造は理論的には可能であるが,現実には不可能であると考えているとの報告がモスクワに届いていた。
(3)アメリ力の原爆開発に関するソ連の情報収集活動25,28)
サンフランシスコのNKDV駐在官であるグレゴリー・ヘイフェッツは,外向的な性格で,英語,ドイツ語,フランス語を流暢に話した.1941年12月6日,スペイン内戦亡命者のための募金パーティーで,彼はソ連領事館の副領事ミスター・ブラウンとして,カリフォルニア大学の優秀な物理学者ロバート・オッペンハイマーと知り合った. へイフェッツは,アルバート・アインシュタインのようなノ一ベル賞受賞者や,大物物理学者たちが秘密計画に関係していると報告してきた.また彼は、オッペンハイマーと彼の同僚たちが,核兵器研究のためにカリフォルニア州バークレーから新しい場所に移ることを計画しているとも報告してきた.
彼は同年12月,オッペンハイマーを昼食に誘い出した.そのとき、オッペンハイマーはヘイフェッツに,ナチスが連合国より先に核兵器の製造に成功するのではないかとおそれていることを語った.また会話のなかで,1939年にアルバート・アインシュタインがルーズベルト大統領に,原子力を利用した核兵器製造の研究を進言する手紙を書いたことを漏らしたという.当時、このことはまた公になっていなかった.
モスクワの対外情報局の副局長だったパヴェル・スドプラトフは,アメリカにいた別の情報収集員セミョーン・セミョーノフに、ヘイフェッツの報告を徹底的に調査するよう指示した.そこで,セミョーノフは、計画に関係している主な科学者の名前を特定し,それぞれどんた役割を持っているかを調査することになった.彼は,マサチユーセッツ工科大学(MIT)を卒業しており,原爆計画に関係している何人かを個人的に知っていた.
彼は,ドイツ人科学者クラウス・フックスと緊密な関係を持ってアメリカで活動したスパイ、ハリ一・ゴールドを指揮していた.フックスは青白い顔に眼鏡をかけ,異様なほど寡黙な物理学着だった。セミョーノフは,MITの友人たちを通じてマンハッタン計画に関係していた有名な科学者の名前をほとんどつきとめた.1942年春、彼はアメリカ政府もウラン爆弾を真剣に考えているとモスクワに報告した.
1942年3月,ロンドンのイギリス外務省にいたマクリーンから連絡が入り、イギリスはたしかに原子力計画を進めていると報告してきた。これは,発信年月と内容からみて,1995年7月号に紹介した極秘文書3であろう.
(4)フリョロフが書いたスターリンヘの手紙14,28)
1942年5月,スターリンは,ゲオロギー・フリョロフから1通の手紙を受け取った.当時技術中尉だった彼の所属する軍隊が,ヴォロネジ市に移動したことがあった。地方大学はすでに疎開していたが図書館は残されていたので、フロリョフは図書館に入り,物理学に関する外国の科学雑誌を見つけ、読書室でそれらを真剣に調べた.時は冬で凍りつくような寒さだった.その結果,ウランの核分裂や原子内エネルギーに関する論文が姿を消していることを再確認した."論文が出ないのは研究が秘密扱いになったからだ.各国で原爆の研究開発がスタートしたに違いない''と感じたフリョロフは,1942年4月,国防委員会の科学責任者であるS・V・カフターノフとスターリンに手紙を書いた.手紙が書かれた経緯および手紙の内容については、本誌1994年11月号,1995年5月号を参照されたい.
モスクワの内務人民委員会は,アメリカのヘイフェッツ、セミョ一ノフおよびイギリスのマクリ一ンからの報告が一致していたので,原子力問題を重視した.
われわれの確信をさらに強めたのは, 1938年秋,ドイツからスウェーデンに亡命したリーザ・マイトナーの証言だった.彼女はニ一ルス・ボーアのはからいで,ストックホルムのノーベル研究所に勤めていたスウェーデンの情報収集員であった有名なフィンランドの作家ヘラ・ウォリヨキが彼女に接触したところ,彼女はウラン爆弾は実用化できると断言した.
(5)原爆開発のためのソ連の情報収集活動28)
1943年3月10日,ラブレンチ・パブロビッチ・ベリヤ(1899〜1953),ソ連原爆開発の最高責任者)はこれらの情報をまとめて,「資本主義国では,ウランの核分裂により発生するエネルギーを,戦争目的に利用する検討が始められた.イギリスでは原爆に関するる研究を強力に進めている」といった内容をスターリンに手紙で知らせた。手紙には"清報活動によってNKVDが入手した極秘資料(極秘文書3:1995年7月号で紹介)が同封されていた.
1942年秋にスターリンと会ったヨッフェは、原爆計画を推進する第2研究所(現在のクルチャトフ研究所)、のリ一ダーに,彼の若い弟子であるイゴール・クルチャトフを推薦した..当時40歳だったクルチャトフが,ソ連の原爆計画のリーダーに任命された背景には、アメリカのマンハッタン計画のリーダー,オッペンハイマー(1904〜1967)が39歳で就任したことも影響していた.
1942年12月2日午後3時53分,シカゴ大学のアメリカン・フットボール・スタジアムの地下にあるスカッシュ・テニスコート内で,CP-1が世界初の核分裂連鎖反応を達成した.この数時間後,セミョ一ノフのもとに,「イタリアの水夫が新世界に到着した」との電話メッセージが届いた.また,この実験の完全な報告書をブルーノ・ポンテコルヴォが入手し,セミョーノフを通じて1943年1月末,NKDVに送ってきた.
1943年2月11日,スターリンは原子力の兵器への利用推進のための特別委員会の設置を命じる命令書に署名し,モロトフを委員長に任命した.モロトフの代理として,ベリヤは情報収集部門を担当していた.同年4月12日,ソ連科学アカデミー第2研究所が設置された.クルチャトフは,1943年3月22日,シカゴ大学での核分裂連鎖反応実験の報告書を受け取ったあと,アメリカではどこまで研究が進んでいるのか,正確な情報を情報機関により調べてほしいと副首相のペルヴーヒンに頼んだ.1995年7月号で紹介した文書4の最初の部分で,クルチャトフは情報機関が集めた西側の情報が,ソ連の研究に非常な影響力を持っていることを次のように書いている。
「ソ連邦人民員会議副議長 M.G.ペルヴーヒン殿
私が資料を考察した結果によると,それを入手したことは,わが国と科学にとっててきわめて重要な意味を持っています。他方,各種資料は,イギリスでウラン問題の研究が真剣かつ熱心に行われていることを示しています.また一方,これらの資料は,われわれの研究に対する大変重要たガイドラインとなります。また問題を検討する場合,非常に多くの労力を必要とする段階を省略することができ、それに取り組む新しい科学的・技術的方法を学ぶことができます」
特に,同位元素分離に関する情報はクルチャトフを驚かせ,ソ連の研究方向を大きく変えた。
1943年3月から4月にかけて、クルチャトフはNKDVの情報収集活動を集中すべき研究所を7カ所,また科学者を26人選び,必要な特定の技術情報を指定した.彼はペルヴーヒンに手紙を書いて,アメリカの原子炉で使用している部品の材料と形状,および核分裂のプロセスに関するいくつかの物理的疑間について,アメリカではどうなっているのか情報機関に調べるよう指示してほしいと頼んでいる。
(6)ベリヤが原子力関係者を優遇26)
ソ連の情報収集活動は,GRU(ソ連国防軍参謀本部情報局)の科学情報部とNKDV(内部人民委員部)の対外情報局が行っていたが,1944年2月,ベリヤの指示によりNKGB(国家保安人民委員部)の特別部門S部(スドプラトフの頭文字)に移管した.GRUとNKDVの情報都門を統合してS部をつくったのは,核情報の収集、利用、伝達をより効率化しようとするものであった.
1944年,ベリヤは第2研究所を訪れ、クルチャトフ,アリハーノフ,キコーインを集め,「原爆開発にはソ連国家の存亡がかかっている.繰り返していうが、あなた方信頼する人々やご家族の運命を心配する必要はまったくない.あなた方が国家にとって戦略的に重要性を持つ課題に安心して専念できるよう,われわれはあらゆる面であなた方とご家族の絶対の安全と生活水準を保障する」と話している.またベリヤの指示により,原爆計画に関係するメンバー全員が,めったに手に入らない食料を手に入れ,設備の整った病院にかかれるようになった.彼らにアパートと別荘が与えられ,切符で良いものが買える特別な商店があてがわれた.このように,原爆開発にかかわる人たちは非常に優遇された.
原爆開発の委員長であったモロトフは,重要な計画を運営していく管理能力が欠けていたので,1945年頃,ベリヤはモロトフを責任者の地位からはずした.
(7)口スアラモスその他の場所で重要情報収集28)
S部の情報収集活動の主要目標は,ロスアラモス研究所と付属の研究施設、テネシー州のオークリッジ濃縮プラントで,政府の委託で実際に設備の製造を行っている企業にも潜入を試みた。こうしてオークリッジ,ロスアラモス,シカゴにある原子力関係施設に,4人の情報提供者を潜り込ませることができた.彼らは,これらの施設の資料をニューヨークとワシントンにある常駐部,および情報収集員が経営していたサンタフェのドラッグストアに送ってきた. ロスアラモスにいたフックスは,1944年夏のある土曜目の午後、ニューメキシコ州サンタフェを車でドライブ中,ある通りで車を止め,待ち合わせていた背丈が中位の小太りの男に大きな裁筒を手渡した.このなかには,サンタフェから約50kmの所にあるロスアラモスで密かに製造されていた原子爆弾の設明書,計算書,数値や縮尺図が入っていた。男はバス停まで歩き,アルバカーキ行きのバスを待った. また,ワシントンのジョージ・ワシントン大学で物理学を教えていたロシア生まれの物理学者ゲオルギー・ガモフは,理論物理学ワシントン会議を毎年主催していた. 最高の物理学者たちを集め、少人数のセミナーで最新の開発について話し合う機会を持っていた.ガモフはソ連に身内がいたので,ソ連の情報収集員は身内の危険をほのめかして彼に協力を迫った.ガモフは身内の安全の保証と物質的な援助と引きかえに,秘密の情報をもたらしてくれそうな左翼の物理学考たちの名前を明らかにした。ソ連の情報収集係は,この物理学者、のネットワークを利用した.ガモフは原爆計画に関係している科学者から意見を求められていたので,この内容を情報収集員たちに口頭で伝え,資料は渡さなかった.
もう一つの情報源は,バークレーのカリフォルニア大学放射線研究所だった.この研究所から得られたものは,総合的な情報だった.
アメリカの核兵器計画には,高性能爆弾の分野の軍事専門家と行政官が指揮していることがわかったので,ソ連も爆薬の権威であるヴァンニコフを計画の長にすえた.彼はマンハッタン計画のレスリー・グロ一ブス将軍と同じ立場にあった.
(8)物理学者で情報分析者のテルレツキーが二一ルス・ボーアと会談28,29)
1945年、ベリヤは増え続ける情報収集活動報告を整理するため,小さな科学者集団を雇った.このチームはヤコフ・テルレツキーという若い優れた物理学者が率いた.テルレツキーのチームの能力はクルチャトフのチームより劣っていたが,完全にベリヤの支配下にあった.テルレツキーは,ソ連が収集した科学情報を分析・編集し,核プロジェクト科学技術委員会の非公開会議で報告してした.
スドプラトフが書いた『KGB衝撃の秘密工作』、およびテルレツキーが書いた「スターリソヘの覚書』によると,ソ連の原爆計画を指揮していたべリヤは,ソ連最初の原子炉(F一1)をどうしても臨界にすることができなかったので,ボーア(1985〜1962,原子核の液滴モデルを提唱)に会うことをもくろんだ。そうすれば、F-1の問題も解決でき、また国際協力の主張者として知られるボーアは、西側の核研究についてソ連側に何か役に立つことをいってくれるのではないかと思った.なお,ボーアはマンハッタン計画に参加後,コペンハーゲンに帰ってきたばかりだった.
ボーアと会談する人は、西側の原爆開発情報に通じていて,彼の相手がつとまらなければならなかった。そうなると選択の幅はせまく,テルレツキーが最適だった.クルチャトフを除けば,彼が最も知識が豊富で,ソ連でも本物の学者だという評判があった.
1945年11月2日,デンマーク議会の共産党議員は,ボーアにテルレツキーと極秘に会うように申し入れた。理由は,テルレツキーがボーアの古い友人であるP・カピッツァからの手紙を渡しにきたという口実であった.ボーアはデンマークの議員に,いかなる会話も公開すること,彼が公にできる情報しか議論しないということの2点を強調した.ボーアはそのことを西側当局(イギリス大使館を含む)に知らせ,当局側はボーアの誘拐を懸念したが,11月14日,デンマーク政府によるボ一ア護衛の下で会談が行われた.当時21歳だった五男のアーネストはピストルで武装し、隣室に控えていた.また,当時23歳の四男オーア(父親と一緒に渡米し、かってロスアラモスで働いた)は、父親の要請により会談中はずっと部屋に留まっていた.
ソ連使節団は,S部の部長スドプラトフの代理レフ・ヴァシレフスキー,物理学者のテルレツキーおよび国際貿易が専門である通訳で構成していた.ボーアは使節団に科学者だけでなく情報収集機関の将校もいることを知り,ヴァシレフスキ一と顔をあわせた後,科学者テルレツキーとだけ話したいといったので,ヴァシレフスキーは席をはずした.
スドプラトフが書いた前記の『KGB衝撃の秘密工作』によると、テルレツキーがヨッフェ,カピッツァ,その他ボーアの知っている科学者を代表して,西側の科学者たちが支援し,助言を与えてくれることに対して謝意を表した.テルレツキ一がF一1の始動で困っていることを話すと,ボーアはすぐに,フュルミがシカゴ大学で最初の原子炉を始動したときにぶつかった問題をテルレツキ一に説明し、ソ連の問題解決に対して貴重な助言をした.ボーアはテルレツキーの示した図面を指して、「問題はこの箇所だ」といった.これはF-1を始動するうえで非常に有益で、1946年12月25日に初臨界を達成した.
テルレツキーがスターリンに提出した報告によると,11月14日の会合で多くの時間をカピッツァとランダウについての話に費やした.またテルレツキーも質問し,ボーアが答えたが,質問は早口のうえ,通訳を介していたので,ボーアとオーアは質問の詳しい内容を理解できなかった.またテルレッキ一も,ボ一アの話し方が低くて小さな声だったので,彼の話した内容を一部しか理解できなった.
ボ.一アと面識のあるH.A.べ一テとK.Z.ゴットフリードによると,ボーアは重大な点を強調するときに,物静かな声のトーンをさらに下げる傾向があり、ボーアが何を話しているのか理解できないことが多かったと書いている.
第2回目の会合は11月16日に短時間行われた.このとき,ボーアはスマイス報告を手渡した.しかしスマイス報告は,この時までにソ連内で10万部以上出回っており,ソ連政府はほとんど翻訳を終了していた.
(9)フックス・イギリスからソ連に情報提供25,28,30)
イギリス人のナン・メイは第二次世界大戦中,カナダのモントリオール研究所で原爆計画の研究をしていたときソ連に情報を流した.終戦後間もなくイギリスに帰り、ロンドン大学のキングスカレッジで教鞭をとっていた.1945年9月5日、オタワのソ連大使館の暗号係である26歳のイーゴリ・グーゼンコが金庫から盗んだ100枚の書類綴りから,カナダ人数人とイギリス人1人がソ連のスパイとして働いていることがカナダ政府に明らかになった.しかし,カナダ政府はソ連との友好をこわすことをおそれ,当分の間,発表しなかった.また,ロンドンでもスコットランドヤードの特別部員がナン・メイの監視を続けた.
カナダのマッケンジー・キング首相は,1946年2月15日,カナダのスパイ組織が摘発されたことを発表した.これを受けてロンドンの特別部員がナン・メイを訪れ,5日後に自供した.ロスアラモスでの仕事を終えたクラウス・フックスは,1946年7月1日にハーウェルの原子力研究機関で開催される運営委員会に出席するため,1946年6月27日にモントリオールからイギリス空軍輪送機でイギリスに飛んだ.彼は1946年8月1日,ハーウェル原子力研究所に着任し,理論物理学部長となった.ハ一ウェルに着いた頃,フックスはカナダのスパイ組織が摘発されたことやナン・メイが逮捕されたことに不安を抱き,しばら く活動をセーブし、ソ連情報機関との接触を再開しないことに決めた.
カナダの摘発後,イギリス保安当局はフックスを含め,秘密の研究にたずさわる多数の外国生まれの科学者を監視下においた.フックスは最初の6ヵ月間監視されたが,疑わしいことは何も発見されず監視は解かれた.
フックスは,1947年秋から1949年5月にかけて,彼の工作管理官であるフィクリーソフ大佐(1995年時点で81歳,年金生活)に情報を流した。イギリス独自の原爆製造の決定は1947年7月1日、アトリー首相と少数の閣僚グループにより行われた.
この原爆計画の存在は,議会での公式質問に答える形で1948年5月に初めて明らかにされたが、フックスはいち早くこの情報を入手し,ソ連に流した.このおかげでソ連は,一部のイギリス閣僚よりも早くイギリスの原爆計画を知った.1947年9月27日,フックスはロンドソ郊外の地下鉄ウッドグリーン駅近くでフィクリーソフと会い,彼はフックスからアメリカのプルトニウム生産炉の詳細な書類を受け取った。モスクワの第2研究所(現在のロシア科学センター・クルチャトフ研究所) に建設したソ連最初の原子炉F-1は,イギリスで入手した情報にもとづいてつくられたコピー炉だといわれている.
1948年には,イギリスとアメリカで研究された水爆製造の基本原理の概要と,開発初期の設計図をフックスはソ連側に渡した.特に重要だった情報は,ビキニのエニウェトク魂礁で実施したウラン爆弾とプルトニウム爆弾の爆発実験結果だった. フックスはソ連に秘密椿報を流す一方で,イギリス原爆製造に最善を尽くし,非常な裏切り行為をしている間ですら,ハーウェルでの秘密保持にい つも極端な関心を示した.ドイツ人の性癖としてよくみられるが,フックスはあらゆる規則に厳格で、守秘規則の厳守者だった.
ソ連は1945年?(1948年) 8月29日,セミパラチンスク原爆実験場で、プルトニウム型原爆実験に成功した.
その少し前,アメリカは在米ソ連外交団とモスクワとの第二次世界大戦末期の暗号交信の解読に成功し,フックスがソ連側に原爆情報を流していた 可能性が強いことをつかんだ.イギリス情報当局の監視下にあったフックスは,1945年?2月に逮捕され,14年の刑を言い渡された.
(10)ソ連情報収集機関が原爆製造に貢献28,30)
アメリカの援初の原爆実験から1,2ヵ月たつとアメリカにいたソ連のスパイたちは,原爆の図面などを入手し,ソ連に送った.クルチャトフや彼の研究所から,「もっと詳しく調べてくれ」との依頼や,具体的な質問が次次にきた.第二次世界大戦中から戦後にかけて、アメリカで情報収集活動をしていたウラジミール・パルコフスキーが1955年に語ったところによると,アメリカの核情報提供者から,臨界点の計算、プルトニウム原爆の連鎖反応発生のための方法,ウラン235抽出のための機械の説明書と図面,プルトニウム生産のための10万kWの原子炉や放射線被ばく許容量計算に関する情報,制御棒の作り方など,1943年から1945年の間に数千頁に及ぶ文書を入手した.
また,イギリスにいたフックスからも重要な情報を入手した.
スドプラトフによると,科学アカデミー会員ユ一リー・ハリトンと科学アカデミー総裁のアカデミー会員アナトーリー・アレタサンドロフは,1988年のクルチャトフ生誕85周年に,「クルチャトフはソ連最初の原子爆弾の設計で大きなミスを何一つ犯さなかった天才だった.手元にわずか数マイクログラムの人工的につくったプルトニウムしかなかったにもかかわらず,クルチャトフは大胆にもプルトニウムを精錬する大観模な設備を即座につくることを提案した」と語った.
なお,1989年10月9日発行の週刊誌「モスクワニュース』は,「ソ連最初の原子炉F-1が初臨界を達成したのは1946年12月25日で,原子炉熱出力は100Wとなり,クルチャトフは原子炉の運転を停止した.この日の運転で,F-1は数マイクグラムのプルトニウムを生産した」と報じている.
ソ連最初のプルトニウム型原爆実験は,セミパラチンスクのテストサイトで1948年8月29日に行われた.すなわちソ連の原爆は2年足らずの短期間でできた.
スドプラトフは,彼の著書『KGB衝撃の秘密工作』で次のように述べている.「もし,情報機関の支援がなかったら,ソ連の原爆はこれほど早くできなかっただろう.私(スドプラトフ)にとって、クルチャトフは天才で,ロシア版のオッペンハイマーだが,ボーアやフェルミのような偉大な科学者ではない.彼が,われわれ情報機関の提供した情報に助けられたのはたしかであり,国内の資源を総動員するベリヤの手腕がなかったなら,彼の努力も何にもならなかったのである」と。
次回は,前回紹介した文書4を簡単に説明し,文書5以下を順次紹介しょう.
参考文献.
14)MOSCOW NEWS weekly,No16(通巻No.3316),1988年4月17日号,P.16,by Mikhail CHERMENKO
18)「マンハタン計画」,ステファーヌ・フルーエフ、中村誠太郎訳,早川書房,1967年11月発行
25)「原爆を盗んだ男クラウス・フックス」ノーマン・モス著,壁勝弘訳,朝日新聞社
28)「KGB衝撃の秘密工作」バヴェル・スドプラトフおよびアナトーリ・スドプラトフ,ほるぷ出版,(原題:Special Tasks)
29)「ボーアは原爆の秘密を漏らしたか?」H・A・べ一テ,K.Z.ゴットフリート,R.ザクデーエ,日経サイエンス 1995年7月号
30)私が盗んだ原爆の秘密:旧ソ連KGB「原爆スパイ」2人の証言,AERA'95 8.14-21,No.37
31)Nuclear Weapons Databook.Vol.II,U.S.,Nuclear War head Production,Thomas B.Cochran, William M.Arkin,Robert S.Norris, Milton M. Hoening, NRDC.
32)The Making of the Atomic Bomb, Richard Rhodes、Simon& Schuster,Inc.