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2001-04-07 宇宙創造について Ludwig Boltzmann (1844―1906)
「聖アウグスチヌスは、宇宙を創造する以前に神は何をしていたのだがろうかと尋ねられ、次のように述べた。時間は神の創造されたこの宇宙の属性であり、宇宙の始まる以前には時間は存在しなかった、と。」について、「時間の無い宇宙、即ち、永遠の宇宙、統計力学の父、ボルツマンの言うところの「死の世界」でしょう」。
あらためてボルツマンを百科辞典で見ると、相当に偉大な学者であり、巨人に近い存在であったことがわかりました。ただ「水晶のように明晰(めいせき)であった」というのが自殺に結びついたのかもしれません。
本日朝日の夕刊の惜別欄で情報通信理論の父、クロード・シャノン氏が2/24に84才で死去、ジャグリングや一輪車乗りが得意で、「自分の興味を追いかけただけで金になるとか世界のためになるとかは考えなかった。何の役にも立たない事にずいぶん時間を使った」と振り返り、晩年はアルツハイマー病を患っていたとのことです。

ボルツマン Ludwig Boltzmann (1844―1906)
オーストリアの物理学者。とくに気体論の研究で知られ、統計力学の基礎を築いた一人として著名である。帝室財務書記官の子としてウィーンに生まれ、少年期をウェルス・リンツで過ごし、ウィーン大学で物理学を修め、シュテファンらに接した。1866年に同大学を卒業後、シュテファンのもとで助手となり、67年に学位を取得、翌年グラーツ大学教授となった。その後、一時期をハイデルベルクのブンゼンとケーニヒスベルガーのもとで、またベルリンのキルヒホッフとヘルムホルツのもとで客員として過ごしたが、73年ウィーン大学を皮切りに、グラーツ、ウィーン、ミュンヘン、ライプツィヒの各大学の教授を歴任、最後はウィーン大学に落ち着き、没年までその職にあった。その学識は該博で、グラーツでは初め数理物理学を、のちに実験物理学の講座を担当、ミュンヘンでは理論物理学を、ウィーンでは物理学のほか哲学の講義をも行った。その講義は「水晶のように明晰(めいせき)であった」と評されている。
 彼の研究はきわめて広範囲にわたっているが、その主題は理論物理学、とくに古典力学と原子論的観点からの熱理論の展開と推進であった。マクスウェルが開拓した気体分子運動論を発展させ、熱平衡状態でマクスウェル分布が実現することの厳密な力学的証明を与えることに努力し、分布関数の時間的変化を与えるボルツマン方程式をたてた。これによっていわゆるマクスウェル‐ボルツマン分布の基礎づけが確立したが、さらにこれを手掛りに熱現象の不可逆性の力学的証明を追究し、ついにH定理を示して不可逆性を証明した(1872)。そしてこれに関連して可逆性の反論(ロシュミット)や再帰性の反論(ツェルメロ)など厳しい困難が指摘されると、それに答えるべくH定理の物理的意味を考究し、やがてエントロピーの増大は単なる力学的法則ではなく確率的な法則であるという解釈に達し、その確率的な意味を明らかにするとともに、エントロピーを状態確率の関数として定義づけた(1877)。有名なS=klogW(Sはエントロピー、Wは状態確率、kはボルツマン定数)の式である。この式の根底には、系の微視的状態がすべて等しい先験的確率をもつという仮定がある。そしてこれは、その背景としていわゆるエルゴード仮説(任意の位相軌道はエネルギー一定の面上、すべての点を通過するという仮説)と密接に関連している。71年にボルツマンが導入したこの仮説は、統計力学の成立への重要な貢献となった。そしてこれらの結果を粘性、拡散などの具体的問題に適用する面でも精力的に研究活動を行った。
 他の分野でも、マクスウェル電磁気学の検討、誘電率と透磁率の測定による伝播(でんぱ)速度のチェック、弾性余効の研究などがあり、とりわけ放射エネルギーの温度依存性(四乗に比例)の理論的導出(シュテファン‐ボルツマンの法則)は重要である。これはやがて熱輻射(ねつふくしや)論の展開のうえで大きな役割を果たすものとなった。方法論的には原子論の立場を推進、擁護したことでも有名で、当時きわめて盛んであったエネルゲティークの人々――その代表者にはマッハ、オストワルト、デュエム、ヘルムらの人々が数えられるが――と論争した。エネルゲティークは、実証主義哲学を背景に現象論的記述をもって自然科学の課題とみなし、そのためにはエネルギーを普遍概念として用いるべきであると主張し、「仮想的」である原子、したがってそれに基礎を置く気体運動論をも激しく論難したものであった。95年のリューベック会議での論争などは著名である。ボルツマンは原子論の立場を徹底して擁護し「最後の原子論者」などとよばれたという。この論争を通じてボルツマンが述べた「エネルギーにも原子がありうる」ということばは、後のエネルギー量子化を暗示した先見性であったとする評者もある。
 晩年神経症を患い、ライプツィヒ時代にも一度未遂に終わったが、結局1906年避暑地ドウィノで自ら生命を絶った。自殺の原因は明らかではないが、原子論論争と無関係ではなかったようである。そして彼の死の直後に、ブラウン運動により、原子の存在の実験的確証が与えられたのも歴史の一つの皮肉であろう。ボルツマン定数〈藤村 淳〉【本】ブローダ著、市井三郎訳『ボルツマン』(1957・みすず書房)

シャノンClaude Elwood Shannon (1916―2001)
アメリカの電気工学者、数学者。情報理論の創始者。4月30日ミシガン州のゲイロードに生まれる。1936年ミシガン大学を卒業後、マサチューセッツ工科大学(MIT)の大学院で電気工学、ついで数学を専攻、40年に数学の学位を得た。当時MITには電気工学科に微分解析機で著名なブッシュ、数学教室に後年サイバネティックスの提唱者となったウィーナーがいた。38年の修士論文でシャノンは、継電器接点回路網の解析に初めてブール代数を応用した。ここで彼は、接点の開閉を論理変数の値0と1に対応させ、回路網の一対の端子が導通しているか否かを論理式によって表した。この理論は、計数型回路の設計をそれまでの経験的な技法から工学に発展させた点で画期的なものであった。41年にベル・テレフォン研究所に入り、第二次世界大戦中は通信の雑音や暗号解読などの研究に従事した。
 1948年シャノンは『通信の数学的理論』A Mathematical Theory of Communicationと題する長大な論文を研究所の雑誌に発表した。この論文は、情報を数量的に扱う方法を考察して「情報量」の定義を与え、この概念を用いて通信の基本問題を論じたもので、通信の効率化をはじめ情報伝達におけるさまざまな問題がどのようにして理論的に取り扱われるかを明らかにした。彼は論文の最初に情報伝送における通信系のモデルを提示、次に「情報源を確率過程として」とらえ、その確率分布に関して統計熱力学と同じ形の「エントロピー関数」を導入し、これによって情報量を定義した。これは、1928年のハートリーRalph V. L. Hartley(1888― )による選択の自由度による定義の直接の拡張であった。そして雑音のない通信路における符号化定理を与え、条件付きエントロピー、相互情報量、通信路容量などの概念を導入、雑音のある通信路を通して情報を伝送する場合の「シャノンの第二符号化定理」を導いた。本論文には、これら情報理論の基本概念や諸定理が与えられていただけでなく、今日データ圧縮の基礎理論として発展しつつある「速度―ひずみ理論」の最初の考察が含まれていた。以後、研究を積み重ね、忠実度規範が与えられたときの源符号化の理論(1959)、多重通信路の出発点となった二方向通信路(1961)、オートマトン理論に関する研究などで重要な成果をあげた。57年以来、MIT教授(電気工学、数学)、ベル・テレフォン研究所の顧問を兼ねる。〈常盤野和男〉【本】C・E・シャノン、W・ウィーバー著、長谷川淳・井上光洋訳『コミュニケーションの数学的理論』(1968・明治図書出版)

アウグスティヌス Aurelius Augustinus (354―430)
古代末期最大のラテン教父、神学者、哲学者、聖人。11月13日ヌミディア(北アフリカ)の小村タガステ(現アルジェリアのスーク・アラス)に生まれる。父パトリキウスはローマ人、母モニカはベルベリ人で中産階級(小地主)に属していた。タガステ、マダウラ、カルタゴで初等、中等教育を受けたが、その後は独学でラテン文学、とくに古代ローマ第一の詩人ウェルギリウスを愛読し、自らも修辞学に秀でていた。女性と同棲( どうせい)して1子をもうけたりする生活のなかで迎えた19歳のとき、キケロの哲学的対話編『哲学のすすめ(ホルテンシウス)』を読んで、にわかにフィロソフィア(知恵への愛=哲学)に目覚めた。こうして真の知恵を求め始める過程で、母の宗教でもあるキリスト教に初めて触れる。だが聖書の素朴な文体やカトリック教会の保守性に飽き足らず、光と闇(やみ)の二元論を説いて当時盛んであったマニ教の合理主義的主張と美的宗教性にひかれていった。以後9年余りをマニ教的雰囲気のなかで過ごし、マニ教的美学書『美と適合』を著すが、383年ローマで新アカデメイア学派の懐疑主義思想に出会って、マニ教からも離れていった。翌年、知事への出世の道を求めて、ミラノの修辞学教授となった。
 386年32歳の5〜6月、プロティノス、ポルフィリオスらの新プラトン主義の書物を読んで、「不変の光」を見るという神秘的体験を与えられ、懐疑主義を去って真理の存在を確信するに至った。さらに、ミラノ司教アンブロシウスの説教を聞いて、母モニカとともに感動し、同年8月ついにミラノの自宅の庭で、「とりて読め」という声を聞いて回心を経験することになる。回心後、彼はただちに教授の職を辞して、ミラノ郊外のカッシキアクムの山荘に仲間とこもり、討論と瞑想(めいそう)のなかから哲学的対話編(『独語録(ソリロクイア)』など)を著し始める。そこで聖書の「詩編」第四編を読んで、高ぶりと正反対の敬虔(けいけん)を学んだことは、彼の精神に大きな転換をもたらした。
 388年に故郷タガステに帰り、親しい仲間たちと修道院的共同生活を営むかたわら、391年ヒッポの司教ウァレリウスの求めに応じて司祭となり、さらに396年ウァレリウスの死とともにヒッポ司教となった。こうして民衆との日々の接触を通して、アウグスティヌスの思索は、聖書の文言の奥に神の言そのものをみいだし、伝達しようとする「解釈学的」な方法をとることによって、いっそう深められていく。その間、マニ教徒、堕落した聖職者による秘蹟(ひせき)を認めないドナティスト、さらに晩年には、人間の自由意志による罪なき生活の可能性を認めるペラギウス派のような異端との論争、ローマの元老院にくすぶる異教主義に対する弁明などを契機に、数多くの神学的、哲学的な作品を生み出していった。430年、ローマ帝国に侵入したゲルマン民族の一部バンダル族がヒッポの町を取り囲むなかで、8月28日世を去った。〔思想〕(1)人間学 若き日のアウグスティヌスはその著書『独語録』において、神と魂のほかにはいかなる関心も抱かないと断じたが、そのとき彼の思想はすでに古代哲学の宇宙論的関心から脱して、人間学的地平を開きつつあった。宇宙のなかの微小な存在である人間存在への、存在の源泉である神によって与えられる特別なめぐみへの感謝と賛美の念こそ、彼の哲学の基底をなす原動力である。そして彼は謎(なぞ)めいた怪物として映る人間への洞察を深めながら、人間を心身一如の統一体としてとらえようとするのである。(2)ウティutiとフルイfrui 人間は幸福を求めてやまないが、幸福とは「魂において神を所有すること、すなわち神を享受すること」deo fruiにほかならない(『幸福な生活』四巻三の4)。『キリスト教の教え』第一巻冒頭部ではさらに、享受は利用utiとかかわると説く。神の享受とは、神をそれ自身として尊び、愛し、神にとどまることであるが、用いる(ウテイ)とは、もの(レース)をそれ自体としてではなく、他のもの(レース)のために利用することである。ゆえに本来利用するにとどめるべき、神以外のすべてのものをそれ自身として愛することは、倒錯的な愛におぼれることである。しかしまた、弱い人間には唯一の神への愛にとどまることはできない。そこでキリストの助けが必要となり、神のキリストにおける受肉の教理の承認は、脱現世的な新プラトン哲学の限界を超えさせる。この世界への執着から脱しながら、しかも積極的にこの世界を用い尽くす彼の思想は、このようにして生まれたのである。〔著作〕17世紀に出版された大型のマリウス版で11巻に及ぶほど多くの著作を全集として残した。哲学的著作、神学的著作のほかに、日常の牧会活動に基づく多くの説教、また『詩編講解』『ヨハネ伝講解』のような聖書注解、異端や異教徒らとの論争的弁明の書も多く、書簡類も残されている。そのなかで今日まで、もっともよく読まれたものを紹介する。
(1)『独語録(ソリロクイア)』二巻(386〜387) 初期の代表的な哲学的小品。「神と私とを知りたい。……そのほかには何も」という有名な自己と理性との対話で知られる。
(2)『キリスト教の教え』四巻(397〜427) 聖書の内容をみいだす方法(第1〜3巻)と、それを伝達する方法(第四巻)としての解釈学的方法が述べられる。
(3)『告白録』13巻(397〜400) 第11〜13巻は「創世記」の冒頭をめぐって将来の生を論じている。
(4)『三位(さんみ)一体論』15巻(400〜421) 神の31性と人間の魂の 31性の類比を論ずる。
(5)『神の国』22巻(413〜426) 第10巻までは異教徒への反論、第22巻までは神の国と地の国の相関を歴史神学的に論じている。告白録〈加藤 武〉【本】『アウグスティヌス著作集』全15巻(1979〜85・日本教文館) ▽山田晶訳『世界の名著14 アウグスティヌス 告白』(1968・中央公論社) ▽中沢宣夫訳『三位一体論』(1975・東京大学出版会) ▽宮谷宣史著『人類の知的遺産15 アウグスティヌス』(1981・講談社) ▽『石原謙著作集8 キリスト教の源流』(1979・岩波書店) ▽金子晴勇著『アウグスティヌスの人間学』(1982・創文社) ▽P. Brown : Augustine of Hippo (1967, London)