トップページに戻る
本のページに戻る

2001-08-12 「よい歴史」と「悪い歴史」 公研2001年7月号 私の生き方 岡田 英弘

以下、公研という月刊誌のインタビュー記事の抜粋です。かなり面白い内容です。
歴史観というものについてかなり明確に規定されています。

公研2001年7月号 私の生き方 <抜粋>

「よい歴史」と「悪い歴史」

〜世界史の統一的叙述をめざして

歴史学者 東京外国語大学名誉教授 岡田 英弘

聞き手=本誌 藤島 陽一

おかだ ひでひろ

1931年東京生まれ。東大文学部東洋史学科卒業。ケルン大学客員研究員、ワシントン大学客員教授などを経て東京外語大アジア・アフリカ言語文化研究所教授。93年名誉教授。東洋文庫研究員。著書に「世界史の誕生」「歴史とはなにか」「歴史の読み方」など

<大変、育てにくい子供だった>

○−きょうは、やはり車洋史の研究者である奥様の宮脇淳子さんがご一緒なので、先生の素顔に迫れるのではないかと期待しているんですが、まず東京はどちらのお生まれですか?

○十四年に学制改革がありますね。

岡田;ええ。それで一九五〇年(昭和二十五年)に大学に入学する者は、旧制大学と新制のどちらを選んでもよいということになり私は旧制を選びました。

○父上は文学部に進むことについては、何もおっしゃらなかったのですか。

岡田;親父は私を跡継ぎにするつもりだったので、がっかりしたようですけどね。

 大学に入って一番最初に考えたのは、だれもやらないものを専門にすれば、その道の第一人者になれるのではないかということでした。それで当時、東洋史でも一番需要の少ないものをやろうと思った。それが朝鮮史だったんです。朝鮮史というのは戦前まで国史の一部、終戦後、慌てて東洋史に組み入れた。そういうわけで朝鮮史は東洋史学科のなかに伝統がなかったんです。

○卒業後は……。

岡田;一九五三年(昭和二十七年)に卒業しまして、何をやろうかと考えた。東洋史を出たって、就職できないんですよ。失業者ですね。それでも四月に学習院東洋文化研究所というのができて、採用されました。アルバイト同然なんですがね。それも一人前のアルバイト料じゃなくて、一人前の半分のアルバイト料だった。これは末松先生が始められた研究所なんです。そこに三年いました。この時代はつまらなかったですな(笑)。ただ、

 この研究は、和田先生が大変骨を折ってくださって、一九五七年(昭和三十二年)に日本学士院賞を貰いました。一冊出たところで貰ったものだから、これはお終りまでやらなければいけないと思って、七冊やったんですよ。

○−史上最年少で、日本学士院賞を受賞されたと。アメリカヘ留学されたのは…?

岡田;一九五九年(昭和三十四年)です。これはその前年、当時、私のいた東洋文庫にアメリカからニコラス・ポツペという人がやって来て、東洋文庫にある満州語や蒙古語の書物の調査をしたのがきっかけなんです。

宮脇; ポッペ先生は二十世紀最大のモンゴル学者です。中国の山東省で生まれたドイツ系の亡命ロシア人で、のちにアメリカで本をまとめるとき、主人が満州語の翻訳で調査を助けたんですね。

岡田;調査が終わったあとポツペ先生が講演をして、どういう題だったか忘れましたが、蒙古語の英雄叙事詩の鈷をしたんですよ。その講演を開いて感奮興起したんです。こんなに面白いものがあるのか、と。それで満洲語から一つ進んで蒙古語を勉強しょうと思って、ポッペ先生に弟子に加えてくださいとお願いした。先生は承諾したんだけど、旅費が出ないからフルブライトの奨学金を貰えというので、フルブライトの試験を受けて留学したんですね。アメリカには二年間おりました。

岡田;それが素晴らしかった。私がいたのはワシントン大学の極東ロシア研究所で、当時、研究所には日本嫌いの人たちが集まっていたんですね。日本嫌いというのは、大東亜戦争が始まる前に北京に留学していて、中国の抗日ゲリラの連絡係をしたというような人がたくさんいたのです。

だけど、私はすごく人気があった。それは普通の日本人と違って、中国の古典を何でも知っていたからです。すらすら書くこともできた。それで、日本人だけれどよく知っているということで、中国専門や言語学専門の連中と親交を深めたんです。

一九六〇年(昭和三十五年)に、二つの大事件が起きました。研究所には韓国の学者もいたのですが、彼らは決して日本語を話さないんですよ。当時、李承晩政権は反日政策をとつていましたからね。一人だけ日本語を話すのがいたけど、それは憲兵司令官の息子だった。憲兵司令官の息子だから、日本人と付き会って日本語を話しても平気なんです。それが、ある日突然、みんな一斉に日本語を喋り始めた。いわゆる四月革命で李承晩政権が倒れたんです。そこで初めて彼らと仲良くなつですね。

もう一つは、日本で起きたハガティ事件で六月のある朝、新開を見たら、大きな文字で「ジャツプス・ライオット・イン・トーキョー」とある。ハガティ(氷大統領秘書)の乗った車が日本の群衆に押し潰されそうになっている写真が載っていました。当時、アメリカの大統領はアイゼンハワーで、そのとき沖縄にいた。沖縄から東京へ行くことになていたんです。ところが、東京は危ないから海兵隊を連れて行くという。私は「これはいけない、日本とアメリカはもうダメだ」と思いました。

それで友達に「おれは日本に帰ることは締る。アメリカに残る」と言ったんですよ。

そうしたら、みんな万歳と叫んだ。「ヒデヒロが日本に帰らないでアメリカ人になる。祝おうじやないか」というんで、みんなで街に繰り出して飲みに行ったのです。とてもいい気持ちでしたね、「日本は捨てた」 と思って。あのときの気分は忘れられないです。日本から自由になった。

<隋書と噛み合わない聖徳太子伝>

○−これは、いま先生がおやりになっている、世界史を統一的に叙述するという試みの原点になつているのでしょうか。

岡田;そう思います。そのときに、もう日本に首根っこを捕まれないというか、足枷をかけられているという感覚がなくなつたんですね。

○―日本の国史や東洋史に疑問を抱かれたのも、その頃ですか。

岡田;それは、もっとずっと前からです。東大の一年のときに日本史の試験があったんすね。そこで日本史について私の知っていことを書いたんです。今でも覚えているけど、隋に宛てた「日出づる処の天子、書を日する処の天子に致す。恙がなきや」という有な国書がありますね。これは聖徳太子が書いたと言われているけれども、そうじゃないですよ。

『隋書』 の「倭国伝」は、六〇七年に倭王マタラシヒコオオキミの使いが国書を持っきたと記しています。これは推古天皇(女)の治世ですが、「倭国伝」には「王には妻があって、キミと号する」とありますから、タラシヒコは明らかに男の王です。そして、太子の名はリカミタフツリという、とある。さらに「倭国伝」には、翌年、隋の楊帝が斐世清を倭国に遣わしたとあって、倭王とやりとりする場面があるんです。

ところが、これらは 「日本書紀」とひとつも噛み合わない。しかも『日本書紀』は、斐世清を大唐からの使いと、間違って書いていんです。試験のときに、そのことを書いたですね。そうしたらバツ、バツとつけられしまった (笑)。

いま出来る言葉が十四カ国語あるんですよ。まず日本語(笑)、それから英語、中国語、韓国語、満洲語、蒙古語、チベット語、サンスクリット語、マレー語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、ラテン語、ギリシャ語です。

宮脇;耳がいいんですね。英語は米軍の放送を開いて覚えたそうですが、ネイティブのように話します。ほかの言葉も並大抵ではないんです。だから、本当は言語学に行こうと思ったそうです。

○ーご専門分野に入りますが、歴史とは何か、歴史はいつ誕生したのかということから…

岡田;どの文明にも歴史という文化があったわけじゃないんです。歴史というものは、一つは紀元前五世紀、地中海世界で生まれました。ギリシア人のヘロドトスが書いた 「ヒストリアイ」という本です。もう一つは、紀元前一〇〇年頃に中国で生まれたもので、これは司馬遷が書いた「史記」です。

 この二つは、どちらも歴史であるということでは同じだけれど、中国では、歴史というのは皇帝が天下を統治する権力の源であるとされました。「正統」という観念です。それに対して地中海文明では、かつて大きかった国は小さくなり、小さな国が大きくなるという栄枯盛衰が歴史なんです。それは政治勢力の対立・抗争によって起こるとされる。そして、当時のペルシャ帝国はいわば悪者、敵側だつた。だから地中海文明型の歴史には、ヨーロッパとアジアは永遠に対立する二つの勢力という考え方が根本にあります。

 もう一度繰り返すと、中国の歴史は皇帝制度−皇帝の正統性の歴史です。一方、地中海文明では、世界は変化するものであり、その変化を語るのが歴史です。この二つは非常に違うんですね。

○−そうすると他の国々、例えば日本の歴史というのは……。

岡田:自生の歴史という文化を持つ文明は、世界にこの二つしかないんです。あとはどちらかのコピーで、この二つの文明に対抗するためにつくられたものです。日本の歴史も、中国の歴史を基に持っていて、それを別の言葉で置き換えているのです。だから中国の歴史とは関係ないように見えるけれども、実は関係があるんですね。

 七世紀に中国を統一した唐は新羅と連合して倭の同盟相手だった百済を滅ほします。倭のタカラ女王(斉明天皇)は、博多まで行って百済復興を武みるけれども、その地で死んでしまう。そして、倭軍が白村江の戦いに敗れたのが六六三年、斉明天皇の皇太子、天智天皇が即位したのが六六八年です。日本の建国は六六八年だと思います。

○−当時の国際情勢では、唐」軍が日本列島に侵攻してくる恐れがあった…

岡田;そうです。それで日本列島に住んでいた人々が団結して倭王を担いだ。そして倭王は、「日本天皇」を名乗る。

六六三年の白村江の敗戦の衝撃が、日本の出発点になったと言っていいと思いますね。

<『古事記』は偽書である>

○−「日本書紀」 では、建国は紀元前六六〇年になってますね。

岡田:これには意味があって、秦の始皇帝が中国を統一して、皇帝を名乗ったのが紀元前二二一年なんです。つまり、日本は中国より古い歴史を持っていると主張しているわけですよ。

もう一つ、紀元前六六〇年から一三二〇年経つと六六一年になるんです。これは斉明天皇が博多で死んだ年なんですね。六六一年は辛酉の年にあたります。建国の年代を六六一年から一三二〇年前の紀元前六六〇年、辛酉の年に置いたわけです。一三二〇年という数     字は、後漢のじょう玄の理論では文明の一サイクルの長さなんです。

○−よく「記紀」と並び称されますが、先生は「古事記」は偽書であると…。

岡田;みんな抵抗があるようですが、公平に見れば偽書であることは疑いないんですよ。実は「古事記」はごく最近まで認められていなかったんです。認められたのは本居宣長が、やまとことばで四十四巻の「古事記伝」を書いてからで、もともと三巻の『古事記』は漢文です。一番わかりやすい例を挙げると、「古事記」には「出雲風土記」にある出雲の神話ところが「風土記」が書かれたのは、『日本書紀』がつくられたのよりずっとあとなんです。そういうものが載っているということが実におかしい。

いろいろ探ってみますと、これは『日本書紀』より百年あとの平安初期に、多朝臣人長が創作したものだということがわかります。

この人は『古事記』を書いたと言われる太朝臣安万侶の子孫です。人長は「弘仁私記」というのを書いていて、その序文で「古事記」は「日本書紀」 の十二年前に書かれたといっているんですが、「続日本紀」 の該当の年に『古事記』に触れた記述は何もない。しかも、「続日本紀」 に大安万侶の名は出てくるけれども、工業関係の大臣なんですね。

<世界史はモンゴル帝国から始まる>

○−ところで、先生のご専門はモンゴル史ということになるのですか。

<国史はみんな「悪い歴史」>

○―先生は「よい歴史」と「悪い歴史」という分け方をされていますね。

岡田;歴史は、書くほうの歴史と読むほうの歴史に分けなければいけません。書くほうは「よい歴史」を書くことが大事で、歴史家がめざすのは普遍的な歴史的真実です。

しかし、それは読むほうに気に入られるとは限らない。読むほうは「悪い歴史」を望みます。それが自分たちの気持ちをくすぐるからです。どこの国民もそうですが、自分たちは立派な歴史を持っていると言いたい。だから書くほうの歴史は「よりよい歴史」、読むほうの歴史は「より悪い歴史」ということになる。これはしょうがないんですよ。

○―日本でも中国でも韓国でも・…。

岡田;国史というのは、みんな「悪い歴史」なんです。悪いというのは、書くほうの歴史の立場から見てのことですよ。

○− いま問題になっている「歴史教科書をつくる会」の歴史教科書については、どうご覧になっていますか。

岡田;今までのものよりはましですね。よりよい歴史、より悪い歴史ということで言えば、よりよい歴史のほうに近い。

○−「悪い歴史」というのを、もう少し具体的…

岡田;それは歴史的真実ではないということです。「国家」とか「国民」という枠組みで歴史を叙述するのは時代錯誤なんです。例えば「日本本書紀」は皇室の君主確の起源を語つたのであって、民族の起源を語っているわけじゃありません。十八世紀末まで世界に「国家」や「国民」はなかった。一七八九年のアメリカ合衆国の成立とフランス革命によって初めて「国民国家」が誕生し、十九世紀に世界に広がったんですね。しかも、この「国民国家」という枠組みは、ここへ来てあちこちに綻びが出ています。

○−こういう時代だからこそ、読者も「よい歴史」を求めていると思いますが……

岡田;それについては、私は非常に慎重ですよ。しかし、私は「悪い歴史」は書きたくない。「歴史とはなにか」という本に書きましたけど、「よい歴史」は文化の違い、書かれた時代を超えて、多くの人々を説得する力があります。

○―歴史に携わってこられて、どういう人間観、死生観をお待ちですか。

岡田;死生観はね、死んだらまあ、お終いということですね。死んだらどうでもいい。

それから、人間というのは今も昔も変わりません。これからも変わらないと思います。

○−ありがとうございました。