1)2001-11-05 ヌーベル・オブザバトワール紙
「イスラエルは仏国の援助で核能力を得た」
シモン・ペレス(現外相)はこの日曜日にイスラエルの第二チャンネルで放映されたTVドキュメンタリーで1956年にパリがユダヤ国家に原子炉とウランを提供することで、イスラエルが核能力を持つ事を助けたことを明らかにした。
1956年10月、パリ近郊のセーブルで2国はエジプトに対する戦争を計画している時であった。ペレス外相は当時は、国防省の局長で原子力プログラムを担当していた。彼は、社会党モレ政権下の政治、軍事の責任者と良好な関係を保っていた。ペレスは「当時は、米国、ソ連、英国、仏国の4ヶ国が核能力を持ち、仏国のみが我々を助ける可能性があった」と今、回顧している。
イスラエルには2つの原子炉があり、南のネゲブ砂漠のディモナと、テルアビブの南のナハル・ソレクである。外国の専門家によると、ディモナ炉により、中長距離用ミサイル用の200個の核弾頭を持つことが可能性なったと見ている。
仏国の協力で、パリ近郊のサックレイをモデルにディモナ炉を建設した。米国はその事実を知らなかった。仏国は、アルジェリア問題に直面しており、エジプトのナセル大統領のアラブ民族主義に対決するイスラエルは盟友であった。ユダヤ国家と仏国の原子力に関する協力は1958年以降は、ドゴール将軍の反対で終局を迎えた。
2)カネギー平和財団報告書
Leonard S. Spector et al., "TRACKING
NUCLEAR PROLIFERATION: A Guide in Maps and
Charts,1998", Carnegie Endowment for
International Peace, 1998
イスラエル
バックグランド;イスラエルの核兵器計画は1956年の秋のスエズ運河危機を契機に進められた。当時、フランスの社会党政権Guy
Mollet首相は、イスラエルと深い関係にあった。イスラエルは中東で孤立し、フランスもアルジェリアでの独立運動に悩まされていた。フランスは秘密裏にイスラエルに核兵器を製造するためにPu生産炉を供給する約束をした。NegevのDimonaに建設された。1957年半ばに、フランスCEAの承認のもとSt.Gobain
Techniques Nouvellesがディモナ炉の使用済燃料からPuを抽出する施設を建設する契約を締結した。この施設で、1986年10月にサンディ・タイムズにイスラエルの核能力を曝露したMordechai
Vanunuが働いていた。フランスは同時にイスラエルに核兵器の設計・製造に関する重要な情報を提供した。仏国CEAのFrancis
Perrinが1986.10.12のサンディタイムズで仏国のイスラエルへの核兵器製造技術供与したことを認めている。
1979年9月22日に米国のVELA監視衛星が南大西洋で、閃光を検知しており、あるものは南アの、他のものはイスラエルの核実験ではないかと疑っている。
イスラエルの初代首相ベングリオンは、nuclear
ambiguity政策をとり、それは1961年にベングリオンの副官であったシモン・ペレスがケネディ大統領と会った時に示された。イスラエルの核能力とその意図について尋ねられ、ペレスは「イスラエルは中東に核兵器を導入する最初の国とはならない」と答えた。
3)2001-11-02 AP電
「フィルムはイスラエルの核ソースを証明」
APが事前に見たこの日曜日にイスラエルで放映されるドキュメンタリー番組で、仏国がイスラエルに対して、原子炉、科学者、技師を提供し、濃縮ウランを供給し、Puを生産する工場を供給したとしている。また、核弾頭を搭載できるミラージェ戦闘機を供与したとしている。"A
Bomb in the Basement, Israel's Nuclear Option"は軍事検閲を受けているイスラエルの報道機関が始めて、自国の核兵器について触れたものと製作者のMichael
Karpinが述べている。
イスラエルは国策で、核曖昧策をとり、核能力について否定も肯定もしていない。本ドキュメントでは、イスラエルは1950年代の後半に、仏国技術で核兵器を開発した、仏国AECの委員長のFrancis
PerrinがGuy Mollet首相に、イスラエルが核兵器を持つように勧告したと、当時の国防省スタッフのAbel
Thomasが証言した。当時、エジプトが英仏の所有するスエズ運河を接収し、それに対して、英仏イスラエルがシナイ半島に軍隊を送り、モスクワが核兵器で脅迫している政治情勢下にあった。Negev砂漠にあるDimona炉は平和目的であるとは述べている。しか、Dimonaの技師であったMordechai
Vanunuは、1986年にサンディタイムズに原子力の内部の写真を供与したため、18年間の刑を受けている。CIAの推定では、イスラエルは200-400個の核兵器を保有している。
米国の軍縮交渉代表のPaul Warnkeは、Dimonaを数回、査察したがよくわからなかったとしている。このフィルムのなかで、イスラエルは、1967年、1973年、1991年の3度の戦争で核兵器使用を検討したとしている。
スエズ戦争 すえずせんそう Suez War
1956年、エジプトとイスラエル、イギリス、フランスとの間に起きた戦争。56年6月の駐留イギリス軍完全撤退に続いて、7月26日エジプトのナセル政府は、多国籍企業であるスエズ運河会社の国有化を宣言、運河地帯はエジプトの主権下に復した。当時、ナセル政府は非同盟中立主義、社会主義国との友好外交を推進、52年以来のエジプト革命は新局面を迎えていた。運河国有化のアラブ民族運動への波及効果を恐れたイギリス、フランス、イスラエル三国は対エジプト共同参戦を約束(セーブル秘密協定)、まずイスラエルが10月29日に、ついで「国際運河の安全保護」を口実とする英仏が10月31日に侵攻。イスラエルはシナイ半島、英仏は運河地帯を占領した。だがエジプト国民の抵抗と国際世論の非難の前に占領は失敗(11月6日停戦)。結果的にこの戦争は、運河国有化を不動のものとしたエジプトが自主独立へ大きく踏み出すのを可能とした。〈藤田 進〉
ペレス Shimon Peres (1923― )
イスラエルの政治家、首相(1984〜86、95〜96)。ポーランド生まれ。1934年パレスチナへ移住。68年の労働党の結成では重要な役割を果たす。74〜77年国防相。77年4月労働党党首。84〜86年リクード連合との挙国一致内閣で首相、86〜88年副首相兼外相。88〜90年シャミール首班下の連立政権で副首相兼蔵相。90年3月中東和平をめぐる対立で辞任。92年労働党党首選挙でラビンに敗北。92年労働党が総選挙で勝利し外相。93年ノルウェーでのパレスチナ解放機構(PLO)との秘密交渉に参加し、9月暫定自治原則合意に成功。94年ラビンおよびアラファトとともにノーベル平和賞を受賞。95年11月ラビン暗殺後に首相に就任し、96年5月の首相公選でリクード連合のネタニヤフに敗北するまで和平交渉に努力した。〈伊能武次〉
モレ Guy Mollet (1905―75)
フランスの政治家。北仏アラスの高等中学校教授兼教員組合活動家として出発し、対独レジスタンスで名をあげた。1945年からその死まで下院議員とアラス市長を兼ねた。46年社会党書記長に就任し、閣僚を歴任したのち56年2月首相。エジプトによるスエズ運河国有化に反対してイーデン英首相と謀り同年10月スエズに英仏軍を派兵するが、米ソの反対を受け失敗し57年5月首相を辞任。ヨーロッパ統合論者で首相在任中にヨーロッパ共同市場とユーラトムを発足させるローマ協定に調印した。〈平瀬徹也〉