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2001-11-09 リベラシオン紙(フランス日刊紙)
「キングコングは50cmであった、ビエンヌ映画フェスティバルはファイ・レイに名誉賞」彼女(94歳、1907年生まれ))は生存している無声俳優で最後のものである。
1928年にはフォン・ストロハイム監督のウェディング・マーチで主役を演じている。1933年のキング・コングで世界的に有名となった。エンパイヤステートビルの上で巨大なゴリラの手の平のなかで泣き叫ぶブロンドの役割であった。30年代にはハリウッドで美人女優として、種々の男優と共演した。ゲリー・クーパ、ケーリー・グラント、メルビン・ダグラス、ジョエル・マクリア...80本の映画で、監督、ウイリアム・ウェルマン、ラウル・ヲルシュ、マイケル・カーチス、ヴィンセント・ミネリ、デルマー・デー ビスの映画に出演した。フェイ・レイは花であった。
<1929年には突然、無声から喋るようになったが>
そんなに酷くはなかった。当時は私は非常に知的な人John Saunders,と結婚していた。彼が種々の訓練をしてくれた。発声を明瞭にした。実際には、再生された音声は満足すべきものではなかったが、なんとかなった。
<多くの俳優が、トーキーへに変換でキャリアが突然終ったが>
私はそうではなかったが、John Gilbertは無声では天才であったが酷いがらがら声であった。
<30年代にはハリウッドで最も有名な女優であったが>
私はもっとも美しく愛されていた。
<キングコングは最初のトリック映画とされているがゴリラは実際にはどうであったのか>
50cmの大きさしかなかった。技師が4mの腕を作った。エンパイヤステート・ビルのシーンはロスの郊外にNYの模型を作った。塔そのものは5mしかなかった。メリアン・クーパー監督と仕事をするのは非常に楽しかった。冒険の精神を持ち、魅力的であった。
<30年代には新聞のためにも私的生活が公になることが多かったが、ゲーリー・クーパー、スペンサー・トレシーと関係があったのでは>
ゲーリーは非常に感じがよく私の父のようであった。彼のユーモアの精神を愛したが、我々の間には何もなかった。私はいつも知的な人に引き付けられ、それはゲーリーでもスペンサーでもなかった。ハリウッドでは知的とは、シナリオライター のことを意味する。私の2人の夫は、シナリオライターとドラマ作家である。私はその想像力だけで世界を作る作家の能力を尊敬する。
<Erich von Stroheimとの関係は>
尊敬と情熱の混じったものである。俳優には専制的に振る舞ったと言われれが、そのエレガンスさと非凡な専門能力に魅惑された。オーストリア・ハンガリー帝国の歴史に関する映画で、農民のように粗野に食事をするように監督に要求されたが、私は拒否した。
<80本のフィルムに出演したが、キングコングの成功により怪物に悩まされる女性のイメージに付きまとわれたのでは>
スタジオは俳優をステレオタイプで分類する悪癖がある。モンスター 、ファントム、動物と似たような役割を種々、演じたが、私は違う役を演じる能力を持っていた。

<百科事典より>キング・コング King Kong
アメリカ映画。1933年作品。メリアン・C・クーパーとアーネスト・シェードサックが製作・監督した怪獣映画の古典的名作。南海の孤島へ乗り込んだ撮影隊が、身長18メートルの巨猿キング・コングに女優(フェイ・レイ)をさらわれる。恋人の機関士(ブルース・キャボット)の決死の追跡によって女優は救われ、生け捕りにされたコングはニューヨークで見せ物になるが、太い鎖を引きちぎって暴れ出し、全市をパニックに陥れる。モデル・アニメーション特殊撮影の開祖ウィリス・オブライエンによる、人形アニメと、実写や書割などの合成によるトリックの入念さと、ダイナミックな演出で押しまくる1時間40分。ふたたび女優をさらったコングが高層ビルの頂上へ昇り詰め、戦闘機の機銃掃射でしだいに力尽き、女優を頂上に残して落ちてゆく結末の「美女と野獣」のパターンは、以後、無数の亜流やパロディーを生んだ。なお、カラーワイドによる76年度の再映画化版では、ほとんどが、縫いぐるみを着た人間によって演じられており、安易で大味な「大作」にとどまった。〈森 卓也〉