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2001-12-01 岡倉天心、北茨城市・五浦・六角堂

常磐線、大津港駅から数kmのところに話題の岡倉天心の五浦六角堂を見学、なかなかすばらしい景勝の地にありました。
「これが人間の最期かなとか、神様、あなたのなさることには感心出来ないことがある」などとつぶやき、また辞世の歌をみなに聞かせた。
..妻の元子は一枚の写真をとり出して、「あなたも不幸な人でしたね。いま、ここにいっしょに葬ってあげましょう」といって、いっしょに埋めた。それこそは十五年ばかり前、天心と道ならぬ恋に落ちて、天心はもとより元子をも苦しめた美貌の男爵夫人波津子 −哲学者九鬼周造の母− の写真であった....
との伝説の、写真が埋まっているかもしれない土まんじゅうの落ち葉がかぶさった天心の墓地も見学しました。
「亜細亜ハ一なり」Asia is one 1942年の石碑 横山大観揮ごうという、漢字、ひらがな、カタカナ混じりの巨大な石碑もありました。

○岡倉天心(1863-1913)の墓地
「我逝かば花な手向けそ浜千鳥 呼びかう声を印にて 落ち葉に深く埋めてよ 12万年明月の夜 弔い来ん人を松の影」
英詩An Injunction(戒告)にもりこまれた意志に沿い、天心没年の大正2年(1913)東京都の染井霊園の墓から、近代日本美術黎明の地、五浦に分骨、埋葬されたもの平成元年7月24日、北茨城市教育委員会

茨城大学五浦美術文化研究所(1955年に茨城大学に移管午前9:30-午後5時 (入場料200円)六角堂 明治38年6月(1905年)
「亜細亜ハ一なり」Asia is one 1942年の石碑 横山大観揮ごう


○http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/390_2.html
中国美術商「蘭花堂」代表取締役 中村 村愿
もう一つ、一雄さんは『父天心』の中で、没後の覚三を五浦に分骨したさい、妻の基子が、覚三の愛人だった星崎(九鬼)波津子の写真を一緒に納めたと書いてありますが、これはどう考えてもあり得ないことだと思う。岡倉を中心として波津子と基子には女同士の激しい闘いがあったわけで、これも私は、一雄さんの創作だったと思うのです。つまり、そういうことに気をつけなさいと青木先生はおっしゃったというのが、私の受け取り方です。

「天心に近似した思想 」 タゴールは、天心に極めて近似した思想をもっていた。1902年にインド滞在中の天心がタゴールとはじめて出会って意気投合し、影響をあたえあったのは偶然ではない。ともに二人は国際人であるとともに、アジアの伝統に価値を見出す国粋主義者であったからである。 タゴールは、天心と同様アジア的価値観を高く評価し、たとえばこんなふうに語っていた。 「ここでわたしは、国民と国民との間に存在する唯一の自然の絆、緊密な友情の絆により、ビルマから日本にいたる東アジア全体が、インドと結盟していた時代を、諸君の知性に紹介せずにはいられない。そこには、人類の最も奥深い要件について、われわれの間に意見の交換を可能にするような、生きた心の通じ合い、一つの精神的な繋がりができていた。われわれの間はお互いの警戒心によって邪魔されることはなかった。相手を抑制するために、お互いが武装し合うことはなかった」、「〈われわれの関係は自己本位の関係や、お互いに相手の懐中工合いを探り、掠め取ろうとする関係ではなかった。〉〈観念や理想を交換し合って、最高に愛すべき贈り物をしたり、もらったりした。〉〈言語や習慣の相違はお互いの心と心との接近を妨げなかった。〉〈人種的誇りあるいは肉体的、心理的な優越感の傲慢さによって、われわれの関係が傷つけられることはなかった。〉〈われわれの美術や文学は心と心との結合という陽の光の影響の下で、若葉をのばし、花を咲かせた。〉〈そして土地、言語および歴史を異にする各人種が、至上の人間の一体性と最も深い愛の絆に感謝した。〉」(蝋山芳郎訳、「日本におけるナショナリズム」)

<百科事典より>九鬼周造 くきしゅうぞう (1888―1941)
哲学者。九鬼隆一の四男として東京に生まれる。第一高等学校を経て1909年(明治42) 東京帝国大学哲学科に入学、大学院を経て21年(大正10)ヨーロッパへ留学する。以後29年(昭和4)まで、フッサールやハイデッガーなど新しい哲学の胎動に立ち会った。帰国後、京都帝国大学に招かれ、死に至るまでその職にあった。九鬼の業績は三つに大別できる。〔1〕『西洋近世哲学史稿』上下(1944、48。死後出版)に代表される西洋哲学の研究、〔2〕『偶然性の問題』(1935)に代表される偶然性の研究、〔3〕『「いき」の構造』(1930)に代表される日本文化の研究。この三者はそれぞれ独立したものではなく、相互に深くかかわっている。すなわち、西洋哲学の基調に孤立した主体というモチーフを看取した九鬼は、主体と主体の出会いと、その出会いにおいてあらわになる根源的な偶然性に立脚した新しい哲学を志向した。そして、そのような偶然性は日本文化の伝統において豊かな表現を実現していたと考えたのである。「いき」の構造〈渡辺和靖〉【本】『九鬼周造全集』11巻・別巻一(1980〜82・岩波書店)