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2003-02-03 ランスのマム酒蔵と藤田嗣治、「藤田嗣治、異邦人の生涯, Tsuguharu Foujita, La Vie de l'Etranger、近藤史人」

2003年2月3日(日)は午前9時から、バスでランス見学、途中のエパルネ当たりは雪が10cmくらい積もっていましたがランスでは雪はなし、1:30のドライブで到着、Mumm G.H.というかなり大手のシャンペン会社の見学でした。世界ヨット・レースを主催したり、またドイツ人に聞くと、マーケットによく並んでいるいるそうです。値段は1本7ユーロくらいといいますから廉価です。
日本の酒造所の見学とパターンは同じですが、最初にビデオでシャンペンの紹介、6ヶ国語での紹介が出来るようで日本も画面にありました。地下には昔の酒造の機械がずらりと並べられ、また一次醗酵用のタンク(2週間)、それから、瓶に入れての二次醗酵の貯蔵所を見学二次醗酵(2ヶ月)では25百万本が貯蔵、これで時々瓶を回転させデコラージで澱を取り出して、また砂糖や酵母、酒を加えて3ー5年貯蔵してから販売とか。
ワインの出来がよい年がvintage yearで最近は82,85,87,2001年とか、vintageのものは他の年のワインを混ぜないのが特徴でラベルの色が黄色とか。
シャンペンは、長く置くと気が抜けるので7年くらいが限度とか。
澱抜き(デコラージ)は現在は機械化されていうが職人が実演してくれました。逆さに貯蔵して、瓶の口に溜まった澱を栓を抜いて跳び散らすわけです。面白かったのは、栓を抜いての2ー3時間は静かにしていたら気は抜けないとか、そこで瓶を棒でたたいたらすごい勢いで、シャンペンが3ー4mも吹き出しました。過飽和の状態で、少しでも振動を与えると一気にガスが放出です。
その後は酒造内の地下のレストランで、昼食でした。
3時からは、バスでランスの大聖堂までいき、ガイド付きでの見学。歴代の国王が戴冠式を行った由緒のあるもの、大きさもノートル・ダム寺院と差がないもの、感じとしてはランスのほうが立派でした。
 石造や彫刻が立派なもの、それぞれの由緒の説明、ステンド・グラスにはシャガールの書いたモダンなものもありました。ジャンヌダルクの像、フランス革命で破壊された像の首、第一次大戦での破壊、1962年7月8日11:02にドゴールとアデナウワーがこの聖堂で独仏の和解を行ったとの銘板も埋め込まれていました。

 さて、この昼食のメニューの表紙は、藤田嗣治(1886-1968)の書いたもの「バラを持った幼女, La Petite Fille a la Rose」でMaitre Foujita が1958年にG.H.Mumm & Cie友人の為に書いたものとありました。とても日本人が書いたものには見えませんでした。
最初は魚料理(Bar、すずき)次ぎは、あひる(これは実にうまいもの)した。

 当方はここに、藤田嗣治のチャペルがあり、壁画で有名とは知らず、それを後で知り大変に残念に思った次第です。昼食は、何人かの外国人と一緒でしたが、彼らはこのメニューを記念に持って帰っていました。藤田の作品とは知らずですが、その美しさに惹かれたと思われます。当方もメニューが藤田作とは、ホテルで改めてメニューを見て、気づきました。 

 その後帰国し、近くの本屋で「藤田嗣治、異邦人の生涯, Tsuguharu Foujita, La Vie de l'Etranger、近藤史人」を購入しました。
2002年11月13日第一刷
2003年4月24日第五刷
講談社2000円+税
本の帯;第34回大宅壮一ノンフィクション賞受賞、私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ。日本近代美術史最大のタブーに挑む傑作評伝!
華麗な伝説に彩られたエコール・ド・パリの寵児は、帰国後なぜ「戦争画のスター」となったのか? 戦後フランスに帰化し、二度と日本に帰らなかったのはなぜか? 独創的芸術の変遷、過酷な運命、そして魂の彷徨。未公開資料を駆使して「巨匠の真実」に迫る!

読んで見ると大変に素晴らしい内容の本でした。

「2003年6月30日 朝日夕刊;こと場「近藤史人さん」NHKプロデューサー」
 『藤田嗣治「異邦入」の生涯』(講談社)で第34回大宅壮一ノンフィクション賞を受けた。君代夫人の証言や未発表資料から、奇行の画家の新しい像を描いた。99年に制作したテレビ番組がもとになっている。夫人に面会するまでに2年かかった。「(受賞は)自分が何かしたというより、夫人のおかげだという気持ちが強い」。
 受賞報告で夫人のもとを訪ねた:時、藤田の日記から切りとってあったページを見せられた。亡くなる2年前の誕生日のもので、自分が死ぬことを意識し、心の迷いなど書きつけたなかに、「すべてが消えても自分の絵だけは残るだろう」とあった。
「この本だけでは終わらせたくないなと思います。戦争画を含めた、藤田の生涯の作品を通して見られるような展覧会を開きたい」
 満票での受賞だったが、同時受賞かとも思われたNHKの同僚高木徹氏の『戦争広告代理店』(講談社)の方は選に漏れた。NHKは取材費が潤沢、という選考委員・立花隆さんの言葉に、「最近のご時世で予算はかつかつです」。

目次
プロローグ空白の自伝 7
第一章 修行時代
名門の子17
東京美術学校 26
見知らぬパリー 33
貧乏仲間 39
キキ 49
デビュー前夜 58
ピカソが見ている! 63
第二章 パリの寵児
狂乱の時代 73
絶賛された裸婦像 78
華麗なる日々85
フェルナンドとユキ 90
「軽薄な宣伝屋」 101
パリの日本人杜会 114
「乳白色の肌」の秘密 127
第三章 皇国の画家
数奇な運命の絵画 137
十七年ぶりの帰国 140
彷徨 148
大壁画と「幻の映画」 160
「戦争を背負って歩く男」 172
ノモンハンへ 185
最高傑作 201
戦争画と芸術と
第四章 さらば日本
GHQからの使者 219
不毛な論争 227
「灰色の証言」 232
永遠の別れ 239
戦争画の長い眠り 245
第五章「美の国」へ
ニューヨーク 253
寂蓼のパリ 260
帰化と洗礼 271
心を映すキャンバス 278
夢の中を生きる 284
最後の仕事 292

「一九六六年八月三十一日、作業を始めて三ヵ月後、文字通り骨身を削るような作業を経てついに藤田はフレスコ画を描き終えた。…………礼拝堂は、「ノートルダム・ド・ラ・ぺ 平和の聖母礼拝堂」と名づけられた。………………礼拝堂が作られたのは、ランスの町はずれにある閑静な住宅街だった。通りに面した入り口の門をくぐると、広々とした庭に緑の芝生が敷きつめられている。小さな礼拝堂は、その中央にぽつりと静かにたたずんでいる。内部へ入ると二十坪ほどの広さの空間がある。その四方の壁面には全面にフレスコ画が描かれている。題材は、キリストの誕生から復活にいたる物語である。…………そして手前には十字架にかけられたキリストとその下で祈る群衆の姿。その画面の中には、藤田自身の姿が、小さく描かれていた。…………… 藤田が精魂を傾けた、自らの死に場所としての礼拝堂。そこに描かれた自画像が、藤田最後の自画像となった。」

藤田嗣治「異邦人」の生涯』(講談社)
年譜
年 藤田嗣治および作品(太字)関連 世の中の動き
1886年(明19)11月27日 東京府牛込区生まれる ノルマントン号事件
88年11月、父の転任により熊本県池田町へ
91年8月、母・まさ死去 大津事件
98年このころ東京に転居。東京高等師範付属高等小学校に転入
1990年 東京高等師範付属中学校入学
05年同校卒業、東京美術学校西洋画科に入学 日露戦争終結、ポーツマス条約調印
10年東京美術学校卒業。卒業制作に「自画像」など 大逆事件、韓国併合
12年 鴇田登美子と結婚 中華民国成立
13年8月、パリ到着。ピカソ、ヴァン・ドンゲン、モディリアニらと知り合う
14年 戦争により日本からの送金が途絶え、貧窮 第一次世界大戦勃発
16年 父に留学継続の手紙を送る。登美子と離婚
17年 3月、フェルナンド・バレエと結婚 ロシア革命
17年6月、シェロン画廊で初の個展
18年4月、モディリアニ、スーチンらと南仏力ーニュヘ。ルノアールのアトリエを訪ねる 第一次世界大戦終結
19年 サロン・ドートンヌに6点出品、全点入選を果たす ベルサイユ講和条約調印
21年「私の部屋、目覚まし時計のある静物」など発表、絶賛される 中国共産党結成
22年 前年制作の「自画像」をベルギー王立美術館が購入。同じく「私の部屋、目覚まし時計のある静物」を帝展に出品 この年、サロン・ドートンヌ審査員に ワシントン軍縮条約 ムッソリー二、ローマ進軍
24年 フェルナンドと別れ、ユキと暮らし始める 22年制作の「私の部屋、アコーディオンのある静物」を帝展に出品、日本では冷たい評価 レーニン没 加藤高明内閣
25年 レジオン・ドヌール勲章、レオポルド一世勲章を受章 治安維持法、普通選挙法)
29年4月、仏蘭西日本美術家協会展開催。「欧人日本へ渡来の図」を出品 浜口雄幸内閣29年(昭和4年)9月、ユキとともに17年ぶりの帰国 ウォール街で株価大暴落、世界大恐慌
29年10月、朝日新聞社主催の展覧会、日本橋三越で個展へ
29年12月、『巴里の横顔』刊行
30年1月、日本を出発、パリヘ ロンドン軍縮条約
30年6月2日、パスキン自殺。同夜「死に対する生命の勝利」完成
31年 ユキと別れ、マドレーヌとともにブラジルヘ 満州事変
32年 この年から翌年にかけて南米からメキシコヘ。リベラ、オロスコらの壁画に感銘を受ける 五・一五事件
33年11月、日本へ 日本、国際連盟脱退 
34年銀座聖書館のブラジル瑚俳宣伝所に壁画制作
36年6月、マドレーヌ急死 二・二六事件
36年7月、秋田の平野政吉を訪問 ベルリンオリンピックー
36年12月、堀内君代と結婚
37年3月、「秋田の行事」完成この年、鈴木重吉と分担して制作した映画「現代日本」シリーズで批判の矢面に 盧溝橋事件、日中戦争勃発 日独伊防共協定成立
38年10月、海軍省嘱託として中国・漢口に従軍 国家総動員法公布
39年4月、陸軍美術協会に参加。その直後にパリ行きを宣言し、5月、パリ到着 第二次世界大戦勃発
40年『猫(争闘)』などを制作、5月、陥落直前のパリを脱出し、7月7日、パリ到着に日本到着 6月独軍パリ占領 日独伊三国同盟締結
40年9月、陸軍中将・荻洲立兵の依頼を受け、ノモンハン取材へ
41年1月、父・嗣章死去。日ソ中立条約調印
41年5月、帝国芸術院会員に推挙 6月、独軍、ソ連侵攻
41年7月、第2回聖戦美術展に「哈爾哈河畔之戦闘」を出品
41年10月、文化使節として仏領インドシナヘー 12月、日本、真珠湾攻撃
42年2月、『地を泳ぐ』刊行 2月、日本、シンガポール占領 6月、ミッドウェー海戦 8月、米軍、ガダルカナル島上陸
42年12月、第1回大東亜戦争美術展に「シンガボール最後の日」「十二月八日の真珠湾」などを出品
43年9月、国民総力決戦美術展に「アッツ島玉砕」を出品 カイロ会談、テヘラン会談
44年 秋、神奈川県小淵村藤野に疎開 連合軍、ノルマンディ上陸
45年 最後の戦争画「サイパン島同胞臣節を全うす」を制作 日本、ポツダム宣言受諾、降伏
45年8月、藤野で終戦を迎える 国際連合発足
     GHQ嘱託として戦争画収集に協力
46年 戦争責任をめぐる議論、本格化。日本美術会、藤田を筆頭とする戦争責任者のリストを作成するも非公開 天皇、人間宣言 極東軍事裁判開廷
46年8月、GHQ関係者を対象とする戦争画の展覧会 日本国憲法公布
47年前年に申請したフランス渡航の査証が下りず、情報のみが洩れて藤田の「日本脱出」がマスコミを賑わす コミンフォルム結成
48年『巴里の昼と夜』刊行 世界人権宣言
49年3月10日、羽田を出発しアメリカヘ 中華人民共和国成立
49年8月、「カフェ」完成 ベン・シャーン、国吉康雄、NYでの藤田の個展に抗議
50年2月、パリ到着。「エドガー・キネ・ホテル」など制作 朝鮮戦争勃発
51年1月、アルジェで個展。11月、マドリッドで個展 サンフランシスコ講和条約調印53年 キキ死去
55年2月28日、フランス国籍を取得、5月、日本国籍を抹消 第一回アジア.アフリカ会議
59年10月14日、ランスの大聖堂で洗礼を受ける 皇太子御成婚
61年11月、ヴィリエ・ル・バクルに転居米、ケネディ大統領就任
64年 ペトリデス画廊で最後の個展 東京オリンピツク
65年 ルネ・ラルーの協力によりランスに礼拝堂を建てることを決意 日韓基本条約調印
66年6月、礼拝堂の建築が完成。内部のフレスコ画制作を開始し、8月31日に完成 中国、文化大革命始まる
66年12月、入院
68年1月29日、チューリヒ州立病院で死去 日本、国民総生産で世界第2位に
<この年譜は、清水敏男氏作成の『藤田嗣治画集』年譜をもとに、本文関連事項を中心に作成したものです。>

<マム・シャンパンでの昼食のメニュー>
「 La Petite Fille a la Rose」
Cette composition realise par le Maitre Foujita a l'intention des Amis de G.H.Mumm & Cie. 1958

Dejeuner du Dimanche 2 Fevrier 2003
Caveau du Champagne Mumm A Reims
Mumm Cordon Rouge

Dos de Bar dore aux Herbes Fraiches
Sur un Petit lot de Puree de Cresson
Sauce Champagne

Margret de Canard aux Coteaux Champenois
Sa Poire au Vin
Son Flan de Carottes au Miel

Chaource Marine au Bouzy Rouge
Gratine sur Pain de Campagne

Rive Gauche aux Douceurs de Creme Brulee Framboise
Et son Sorbet

Cafe de Colombie