腰越状(読下文)
(新訂増補 国史大系 吾妻鏡第一 昭和七年八月二十日第一版発行 黒板勝美 吉川弘文館)による腰越状の読下文

左衛門少尉源義経、恐れながら申し上げ候。

意趣は、御代官のその一に撰ばれ、勅旨の御使として朝敵を傾け、累代弓箭(るいだいきゅうせん)の藝を顕わし、会稽(かいけい)の恥辱をそそぐ。抽賞(ちゅうしょう)を被るべきのところ、思いのほかに虎口の讒言(ざんげん)によって、莫大の勲功を黙止せらる。義経犯すことなくして咎を被る。功ありて誤りなしといへども、御勘気を蒙るの間、空しく紅涙に沈む。
つらつら事の意(こころ)を案ずるに、良薬口に苦く、忠言耳逆ふとは、先言なり。これによって、讒者の実否を糺されず、鎌倉中に入れられざるの間、素意を述ぶるに能はず、いたずらに数日を送る。この時に当りて、永く恩顔を拝したてまつらず、骨肉同胞の儀すでに空しきに似たり。宿運の極まるところか。はたまた先世の業因を感ずるか。悲しいかな。
この条、故亡父の尊霊再誕したまはずんば、誰人か愚意の悲歎を申し披(ひら)き、いずれの輩か哀隣を垂れんや。事新しき申状、述懐に似たりといへども、義経身体髪膚(はっぷ)を父母に受けて、幾時節を経ず、故頭殿(こうのとの=源義朝)御他界の間、みなし子となりて、母の懐中に抱かれ、大和国宇多郡龍門の牧に赴きしより以来、一日片時も安堵の思いに住せず、甲斐なき命の許(もと)に存りといへども、京都の経廻難治の間、諸国に流行せしめ、身を在々所々に隠し、辺土遠国を栖(すみか)となして、土民百姓等に服仕せらる。
しかれども幸慶たちまちに純熟して、平家の一族追討のために上洛せしむるの手合に、木曽義仲を誅戮(ちゅうりく)するの後、平民を責め傾けんがために、ある時は峨々(がが)たる巖石に駿馬を鞭打ち、敵のために命を亡ぼすことを顧みず、ある時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ、身を海底に沈め、骸(かばね)を鯨鯢(げいげい)の鰓(あぎと=えら)に懸くることを痛ましくせず。しかのみならず甲冑を枕となし、弓箭を業となす本意は、しかしながら亡魂の憤りを休めたてまつり、年来の宿望を遂げんと欲するの他事なし。
あまつさへ義経五位の尉に補任の条、当家の面目、希代の重職、何ごとか、これに加えんや。しかりといへども、今愁へ深く嘆き切なり。佛神の御助けにあらざるよりのほかは、いかでか愁訴を達せん。これによって、諸神諸社の牛王宝印(ごおうほういん)の裏をもって、全く野心をさしはさまざるの旨、日本国中大小の神祗冥道を請じ驚かせたてまつり、数通の起請文を書き進ずといへども、なほもって御宥免なし。それわが国は神国なり。神は非礼をうくべからず。
憑(たの)むところは他にあらず、ひとへに貴殿の広大の御慈悲を仰ぐ。便宜を伺ひて高聞に達せしめ、秘計をめぐらされて、誤りなきの旨を優ぜられ、芳免に預らば、積善(しゃくぜん)の余慶を家門に及ぼし、永く栄花を子孫に伝へん。
よって年来の愁眉(しゅうび)を開き、一期の安寧(あんねい)を得んこと。書詞に書きつくさず、あはせて省略せしめ候ひおはんぬ。賢察を垂れられんことを欲す。 義経 恐惶謹言
元暦二年五月日              左衛門少尉義経
進上         因幡前司殿(大江広元)

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