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源氏の再興@ ページのTOPへ 源氏の再興A

江ノ電「由比ガ浜」駅近くの由比ガ浜大通りに「盛久首座」の石碑と庚申塔が混ざっておかれている。平 盛久は、義経に捕らえられた平 盛国の子である。盛久は、無事逃げる事が出来たが、清水観音の熱心な信者で、清水観音に参拝したとき北条時政に捕らえられ、鎌倉に送られた。この地で処刑される所であったが、役人の振りかざす太刀が突然折れてしまう。これも、日頃信心している観音のご利益だったのかもしれない。これを聴いた頼朝は、盛久の処刑を止めたという逸話が残っている。にわかに信じられない話ではあるが、一旦決まっていた処刑を何らかの理由で止めたのかもしれない。そんな話を観音信仰に結び付けたものかもしれない。この首座のある所は、古くからの砂丘の頂部で、古代の埋葬地であったらしい。そして、人骨も出土することから刑場とも考えられる。そうした地であるからこそ、石塔など並ぶ地であり、そこに盛久逸話が残されたとも考えられる。

六地蔵

盛久首座

平重衡ゆかりの寺「教恩寺」

頼朝によって追われる身となった義経が、吉野の地で義経と別れた静御前は、捕らえられ鎌倉に送られてくる。そして、有名な、鶴岡八幡宮での舞いとなる。そのうえ、静御前には、その時義経との間で身籠っていた。為に、頼朝は、その子が男なら殺すよう命じた。そこに頼朝の非情さを示す話となるが、平清盛によって助命された自らの身と、産まれてくるであろう義経の子と思いを重ね合わせたからかもしれない。そして、産まれたのが男の子で、静御前の手から無理やり赤子が取り上げられ、由比ガ浜の坂ノ下海岸に捨てられたと云われている。しかし、吾妻鏡では、油井が浦に捨てたとある。油井が浦だとすれば、現在は埋め立てられた地であり、坂ノ下海岸と異なる。鎌倉の地は、鎌倉時代と地形を異にしている点から、他の跡地も必ずしも正しいとは限らない。仮に跡地が異なっていても、そこに残る伝承を大事にしたいものだ。
静御前は、その後京に戻されたが、翌年(文治3年(1187))失意の中、僅か19歳という薄命で終わったと伝えられている。

平家方の悲劇

静御前の悲劇

古都を歩く  鎌倉編

源氏の再興B

江ノ電「腰越駅」の近くにある「満福寺」は、義経が鎌倉入りを認められず、滞留していた所と云われている。そして、何よりも有名にしているのが。「腰越状」の下書き原文が残され展示しているという点にある。そこに義経の切々たる思いが込められている文書に、多くの人の共感を呼んでいる。この下書きは、弁慶が記したと伝承され、正式な「腰越状」と云うことで「吾妻鏡」に残されている。しかし、これは、後の世に作られたという説もある。真偽の程は分からないが、義経の心情を示す名文ではないだろうか。しかし、何故にそこまで義経が、兄 頼朝より鎌倉入りが拒否されたのだろうか。既に述べた頼朝の嫡庶に対する基本的な考え方によるものであり、特に、義経が、頼朝に無断で後白河法皇から官位を受けた事にあった。寿永2年(1182)義仲・行家が平家を京から追討したものの、御所や法皇を襲ったりして、義仲の追討に義経・範頼が上洛し、翌年義仲を滅ぼす。更に、平家追討の宣勅により、一の谷の戦いで、平氏を破った。この功により、後白河法皇が、義経に左衛門少尉に任官したものだったが、これは、後白河法皇の深慮遠謀によるもので、頼朝の強権化を牽制するものであるとも云われるが、考えられる事である。この任官に、頼朝が激怒し、その後の平家追討から義経を外すが、戦線が膠着状態から脱せず、再度義経に平家追討に任にあたらせ、寿永4年(1185)2月屋島の戦いで平氏を破り、3月壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼす。その戦果を元に凱旋した義経だが、鎌倉入りが認められず、「腰越状」による頼朝への訴えを大江広元に愁訴するものの、なんらの音沙汰もなく、義経は、京に戻る。この「腰越状」は、頼朝には渡されなかったという。御家人達にとっても、義経の存在はその程度であったのかもしれない。御家人から見れば、戦場で目覚しい活躍をした義経の存在を考えれば、二君に仕えるという事にもなりかねず、そうした意味合いに反発したのかもしれない。頼朝の挙兵と共に、東国を朝廷から独立的な存在としたかった御家人達から見れば、朝廷に近いように見えた義経の存在そのもが疎ましかったかも知れない。それにしても、この訴状を、頼朝が読んでいたら、後の悲劇が起らなかったどうか、微妙な所だ。仮に、吾妻鏡に記載されている「腰越状」が義経本人のもであるとすれば、頼朝の怒りをかった任官につき、そのまま使っている点や、頼朝の信頼が厚い梶原景時を虎口の讒言と比喩したり、己の戦果を誇示するなど、頼朝の真意を汲み取った内容になっていないと感じてしまう。或る意味で、素直な肉親の情に訴える内容であるだけに、第三者には心打たれるものとなっている。
そんな悲劇の地「満福寺」は、真言宗の寺院で、眼下に相模湾を見下ろせる高台にある。開山は、行基と伝えられるが、定かでない。本堂内には、義経の生涯を描いた襖絵や腰越状の下書き、江戸時代に作られたという腰越状の版木などが展示されている。
鎌倉見学している小学生のグループが、明るい日差しの中拝観に来ている姿を見ると、かってこの地でやるせない気持ちで日々を過したであろう義経一行の姿との奇妙なアンバランスを感じてしまう。

征夷大将軍として、武家政治を統治した源頼朝ではあるが、先にも触れているように、後年の一般人評価には厳しいものがある。その最大の理由が、異母弟の義経への対応にあった。しかし、頼朝にとって、源氏の嫡流として、頼朝を長とする強固な組織体制をつくる事が第一であり、かっての源氏のように骨肉相争う事によって源氏の衰退・滅亡に至らないようにするという信念があったに違いない。その為、頼朝自身の地位を脅かす存在には、厳しい対応を図った一方、御家人たる諸武士集団には、気を使う態様といった二面性があった。特に清和源氏一族に対しては厳しく、その中で甲斐源氏の武田一族には厳しい取り扱いを受けたという。この背景には、武田一族が、平家につき、木曾義仲に付いたという不信感があるからであろう。武田一族である一条忠頼が、「世を濫らんとする志」を持っているとの理由から、寿永3年(1184)に誅殺している。更に武田有義には、鶴岡八幡宮の供養の式出発にあたり、頼朝の剣を持って随従する役を命じたが、有義がこれを拒否した事に激しく怒ったという逸話も残っている。このような頼朝の追従については、弟・義経に対してもあり、鶴岡若宮宝殿の上棟式の際、頼朝が工匠に与える馬を引くよう義経に命じたという。これらに相共通する考えがある。これらを通して云えるのは、頼朝が源氏の嫡庶の別を厳しく見ていた所にあり、かっての源氏一族内部の対立抗争による没落を起こしてはならないという信念があったからであろう。源氏の最盛期は、頼朝より5代前の頼義の頃であり、その嫡子義家(八幡太郎)と同母弟の加賀次郎義綱との対立・抗争、同じく同母弟新羅三郎義光の勝手な振舞に始まり、義家の長男・義親の反乱や次男・義国と叔父である義光との合戦などで、源氏一族内部の混乱が続くなか、義親の乱を鎮圧した平正盛(清盛の祖父)によって平家への評価が高まる中、源氏の相対的位置付けが弱まったと見る説がある。その後の源氏嫡流も義親の子・為義が継ぎ、義朝の代となる。義朝は、保元の乱では、父や弟達と袂を分かち戦ったものの平治の乱で敗れてしまう。このような源氏の系譜の中で、頼朝が、一族の内部対立の可能性のある対抗者を未然に防ぐという強い意志をもっていても不思議ではない。この象徴が、義経であり、平家追討での大きな力を発揮しながらも頼朝からの厳しい対応にあい、文治5年(1189)4月奥州にての悲劇につながってしまう。頼朝の対応を見ていた異母弟の範頼もその後建久4年(1193)に反逆の罪で伊豆に流されたあと誅殺されてしまう。このような事からも、仮に頼朝と義経との関係が良かったとしても、何れ別の形での悲劇になったかもしれない。そんな、悲劇の将・義経の足跡は、鎌倉には殆ど残っておらず、むしろかって訪ねた吉野の方が義経の悲劇を感じさせる。
しかし、源氏の悲劇は、義経だけではなく、頼朝亡き後のに頼朝が一番に思っただろう源氏嫡流による征夷大将軍は、長男・頼家、次男・実朝で絶えるとは、思ってもいなかっただろう。

教恩寺の本堂。さほど広くない境内だが、落ち着いた雰囲気で、小さな庭園もある。

源氏との戦いに敗れた平家方の武将で、名の或る者は、鎌倉まで護送され、処刑されたりしている。鎌倉入りを認められなかった義経も、平家の大将、平盛国を連れてきている。そんな、平氏方ゆかりの地もある。

「盛久首座」から更に若宮大路の方向に進むと、三叉路となり、そこに六地蔵がまつられている。この地の北側に刑場があったと云われ、ながく荒地で、飢渇畠と呼ばれていた。何とも恐ろしい地名ではある。ここに人々が地蔵をまつったのが始まりで、後に人通りの多い現在の場所に移された。又、雪ノ下に住んでいた松尾百遊が、芭蕉を偲んでの句碑を建てた地と云う事で、芭蕉の辻とも呼ばれているようだ。
そんな地も今の世では、車の行き来が激しい所となってしまっている。まさに隔世の感という事かもしれない。
六地蔵の「六」は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六つの世界を云い、その何処に堕ちた人でも救い出してくれるという地蔵信仰から来ている。

大町四ツ角から西に進んだ右側の住宅街の道を進むと、「教恩寺」がある。小田原の北條氏康が知阿上人を迎えて、材木座の光明寺境内に建てた物を、江戸時代に現在地に移された時宗の寺だが、本尊の阿弥陀如来像が、須磨の浦で捕われた平清盛の子・重衡の念持仏と伝えられている。頼朝は、幽閉されている重衡を慰める為、像を送り、千手という舞姫を差し向け一夕の酒宴を催したという。その後、重衡と千手の絆が固くなり、一年後の重衡が奈良で処刑されると、千手は、長野の善光寺で髪を下ろし、数年後24の若さで亡くなったという。

「土佐坊昌俊」屋敷跡の碑。碑には吾妻鏡の一節が記されている。

義経は、鎌倉入りが果たせず、失意の中京に戻ったものの、頼朝の警戒心がとけず、京にいる義経の刺客として、「土佐坊昌俊」に命じる。時に10月、腰越から京に戻って5カ月後の事であった。しかし、この急襲は失敗し、土佐坊昌俊は、捕らえられ、処刑されてしまう。頼朝は、何故にこれまでに執拗に義経を追い詰めていったのだろうか。義経個人というより、反頼朝派の朝廷や西国武士団が、義経に近づく事を恐れたのかもしれない。そうであるなら、頼朝自身の目に近い鎌倉に置いても良かったにではないかとも思える。この辺りが、頼朝の複雑な心理状態を感じさせる。追い詰められた義経は、叔父の行家と共に、後白河法皇に強訴の上、頼朝追討の勅旨を受け挙兵するものの、従う兵が集まらず、結局四国へ逃亡しようとしたが、悪天候も重なり失敗。以降、悲劇の流浪の逃避となる。吉野から北陸道、そして奥州藤原氏へ逃亡というのが、一般的ではあるが、必ずしもハッキリしていない。有名な安宅の関の出来事も真実の程は不明のようだ。義経の挙兵は、このような急襲にあった事が大きな要因ではあろうが、叔父行家の影響も大きかったと思う。行家は、始めに頼朝との挙兵を目指すが、頼朝の拒否にあい、義仲のもとで、挙兵に成功するもの、義仲が自滅するなか、再度のチャンスを義経に求めていたかもしれない。それに、容易にのってしまった義経、そして勅旨を受ける以上、それなりの武家集団を味方につけるという準備すらしなかった甘さが、その後の義経の悲劇を生んだとも云える。
「土佐坊昌俊」屋敷跡は、小町大路に面した「宝戒寺」の近くに石碑のみ残っているだけである。頼朝は、土佐坊昌俊の母に対し、厚く待遇し報いたと伝えられている。そんな温情を義経に与えていれば、違った世界が拡がっていたかもしれない。しかし、頼朝は、義経を許さず、後白河法皇に、自らの追討の勅旨を厳しく責め、義経追討の勅旨の元、諸国に総追討使・地頭の設置を要求し、これが後の守護・地頭へと続いていく事になる。

土佐坊昌俊屋敷跡

満福寺の本堂は、明るく開放的な感じ

江ノ電の踏切を越えると満福寺の山門

弁慶が座ったとされる石とあるが・・・

満福寺

ーー悲劇への道ーー