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TOM'S Slow Life

奈良を巡る

吉 野

奈良盆地の南に位置する吉野山は、古来からの霊山の一つで有名である。吉野から高野山・大峰山や大台ケ原に続く深い山並みが連なっている。今でこそ、観光地かされた開けた地であるが、かっては、深山として鬱蒼とした木々に覆われ、何処まで続くか分からない山並みが連なった地であったに違いない。飛鳥京の時代から信仰されてきた山、それは奈良盆地を中心に考えてみれば、紀州へと連なる山並み以外の北であれば生駒山や東は室生山、西の葛城山などは、一山越えれば、人里に至る事が出来るが、吉野山だけは、更に何処まで続くか分からない山並が続く所であり、そういった地形の持つ不思議さに、人々が神が宿る山並と考えられたのもうなづける。
吉野と言えば、違った二つの側面があり、対照的である。一つは、豊臣秀吉の花見で有名となった桜、そして今一つは、都から落ち延びた人々の隠遁先という政争の結果として、吉野が歴史上に名を残している。日本書紀に最初に登場するのが、皇極4年(645)の古人大兄皇子である。この前に、中大兄皇子(後の天智天皇)らが飛鳥板葺宮で蘇我入鹿を討った「乙巳の変」が起こっている。古人大兄皇子の母は、蘇我入鹿の娘であり、当然の事ながら入鹿を後ろ盾に次の天皇の第一候補としての皇太子であった。しかし、入鹿の死により、古人大兄皇子は、出家し吉野に入る。しかし、その後、古人大兄皇子は、中大兄皇子によって差し向けられた兵により謀反の罪で殺されてしまう。次に登場するのが、天智10年(671)に大海人皇子(後の天武天皇)が、やはり出家し吉野に入っている。兄である天智天皇の皇太子であったが、天智天皇の実子大友皇子を後継者としようとした天智天皇の思惑を読み、事前に吉野に逃れるという策にでた。しかも、急な近江から吉野への逃避行のていであったという。それだけ事態が逼迫していたのであろう。しかし、天智天皇の死後、大海人皇子は、吉野を脱出し、東国に逃れ、やがて不破の関を突破、近江に攻め入り大友皇子を破る「壬申の乱」が翌年起っている。このような政争に敗れた者が逃避先として吉野を何故選らんのであろうか。そこには、山岳信仰の聖地での仏門に入るという表向きの理由以外に、その地の利があったのではないかと思われる。吉野山麓に吉野川が流れ、神仙郷という特殊な位置づけと攻めがたい山岳地形という面があったのではないか。更に、時代が下って、文治元年(1185)に、源義経が、兄・頼朝の追手を逃れ吉野に潜入、有名な静御前との別れの舞台ともなる。更に延元元年(1336)には、後醍醐天皇が京を逃れ、南朝の拠点となる。そんな暗い感じの歴史を持つ吉野だが、文禄3年(1594)に豊臣秀吉の花見の宴で一気に吉野を明るい世界に飛び出させたような感じとなる。秀吉は、4年後の慶長3年(1598)に醍醐寺への最後の花見の宴を挙行している。その後、秀吉は亡くなり、豊臣家滅亡への道を進むが、吉野への花見の頃は秀吉も元気であったろうし、絶頂期での宴であったと思われる。以来、吉野は桜の名所として、多くの人々がやってくるようになったという。
今では、近鉄で大阪・あべの橋(天王寺)から、吉野行きの急行・特急で簡単に行く事ができるしかし、昔は、京や大阪から徒歩で吉野まで歩いて来たわけだから、大変な思いをしたのであろう。今でも、電車は、幹線である橿原神宮駅を過ぎ、支線に入り飛鳥周辺を過ぎると、吉野川沿いにそって進んでいくが、谷間の中を走っているようで、それまでの奈良盆地の光景と異なる山岳列車の景観となる。
そんな吉野、都合3回程、桜の時期に訪れたが、桜の開花タイミングと上手く合わない。相手は、自然、こちらは何時でも動ける訳ではないから、そのタイミングを取るのが難しい。初めての時は遅すぎ、2回目は、早すぎ、3回目になり、どうやら桜を愛でられたといのが総括である。まずは、吉野の歴史から散策していきたい。

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金峰山寺 (きんぷさんじ)
蔵王堂を遠望 蔵王堂
蔵王堂

白鳳年間(7世紀末)に、修験道の始祖といわれる役行者(役小角)が、吉野山の峰続きの金峰山から大峰山で一千日修行を行い、難行苦行の末、釈迦、千手観音、弥勒菩薩が現れ、ついに憤怒の形相もいかめしい蔵王権現が現れたといい、その像を桜の木に刻み安置し修験道の守本尊としたお堂が、後に金峰山寺として、金峰山修験本宗の総本山となっている。
役行者は、「続日本紀」に文武3年(699)伊豆に流されたという記述があることから実存していたのであろうが、逸話として葛城山と金峰山に橋を架けようとしたというように呪法を修得したと云われる。葛城山は、地主神の一言主であり、新興の仏教と古来からの土着神とのせめぎ合いの話がこのような話として残っているのではないだろうか。
近鉄吉野駅から少し歩くと、ロープウエィの発着があり、簡単に参堂まで到着できる。あるいは、整備された山道を上る。その時の体調や時間的余裕度から使い分けた。金峰山寺の蔵王堂までの参道は、多くの観光客で賑わい、両脇には茶店や土産物などの店が連なっているのは、何処も同じだが、旅館も連なっているのは、やはり吉野という土地柄からであろう。
金峰山寺の蔵王堂と仁王門とが背中合わせに建つのが面白い。これは、下界からお参りする人には仁王門が迎え、大峰山から巡礼してきた人には蔵王堂が迎えるという意だとのこと。

蔵王堂

蔵王権現を祀る蔵王堂は、高さ34m、桁行七間、梁間八間の大伽藍で、東大寺大仏殿に次ぐ木造の堂々たる建屋である。幾度かの兵火にあい、現在の堂は、天正20年(1592)に再建され、国宝となっている。本尊は、三体の蔵王権現だが秘仏となっているが、平成16年末から17年の春ごろまで、世界遺産登録記念で一般公開されたが、残念ながらお参りする事は出来なかった。蔵王権現とは、釈迦如来・観音菩薩・弥勒菩薩の三尊が過去・現在・未来の三世に渡って衆生を救済するために仮の姿として、悪魔降伏の憤怒の相で出現したものだという。堂内は、内陣と礼堂からなっていて、松などの自然木の素材をsのまま使った柱68本は壮大である。
薄暗い堂の中には、本尊を守護する四天王像や三尊の仏像などが安置され、異空間に入った気持ちになるのも、吉野という地が為せる所かもしれない。

仁王門

蔵王堂を後にして、参道を進んでいくと、多宝塔が姿を現す。ここから参道からはずれ、下っていくと吉水神社となる。
この多宝塔のある小さな坊は、東南院と呼ばれ、役行者の開基と伝えられ、蔵王堂の東南の方向に建てられこの名前となった。多宝塔は、和歌山県海南市から移されたという。

多宝塔
吉水神社 (よしみずじんじゃ)
吉水神社 庭園
後醍醐天皇玉座 義経着用鎧 義経の間
神社から金峰神社方向

吉水神社は、元々金峯山寺同様の古さで、修験者達の僧坊であったが。明治に入ってからの神仏分離政策によって、神社となったものである。そんな事もあるのだろう、一見して神社という風情を感じない。それにしても、明治新政府による神仏分離政策は、失政と云わざるを得ない。この政策ににより、多くの寺院が被害を受けたし、貴重な歴史財産も失われたという。本件については、改めて別項で述べる機会があるかもしれない。
そんな吉水神社だが、何と云っても、ここがかっての後醍醐天皇の行宮の一つであった事、更には、源義経が一時身を隠した所であった所という歴史上の貴重な所である。

又、吉水神社から、吉野の桜の全体像を眺める事が出来る。吉野の桜は、金峯神社一帯を「奥千本」、そこから下一帯の丘陵地帯が「上千本」、金峯山寺から如意輪寺一帯が「中千本」、そして、近鉄吉野駅周辺が「下千本」と桜の名所を区分し、下千本から奥千本まで順次開花していくことから、長期間桜が楽しめるという特徴をもっている。この奥千本から中千本にかけた桜を遠望できるロケショーンに恵まれている。
吉水神社の書院内には、歴史の舞台跡が今でも残っている。文治元年(1185)兄・頼朝の追手から逃れ、弁慶や静御前と共に吉野に逃れ、しばし滞在したと伝わる「義経潜居の間」と「弁慶思案の間」がある。といって、当時そのままではなく、室町初期の改築で床棚書院の様式の間となっている。義経と静御前も、逢う瀬も束の間、義経は弁慶等と共に更に奥州平泉へと落ち延びていく。静御前は、残り、やがて頼朝の元に連れていかれるが、ここ吉野で義経との別れに歌ったといわれる「吉野山 峯の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」。静御前の気持ちが伝わってくる。その義経が着用していたと伝わる色々威腹巻の鎧も展示され、タイムスリップしたかのような感覚となる。

更に、後醍醐天皇玉座は、後年秀吉が花見に際し修理したというもので、豪華な桃山時代の風格を残した書院となっている。後醍醐天皇が吉野に逃れたのが、延元元年(1336)、足利尊氏との政争により京より落ち延び、以来、南朝の拠点として日本歴史上初めての二つの天皇朝という南北時代を迎えた。
後醍醐天皇の願いも空しく、京に再び戻る事もなく吉野で崩御してしまう。

後醍醐天皇は、「花にねて よしや吉野の吉水の 枕の下に石走る音」と歌われたというが、今でも玉座の下に流れる瀬古川のせせらぎを聞きつつ、万感の思いがあったものであろう。京の都とは比較にならない侘しい生活、一時も早く京に戻りたかったに違いない。しかし、世情は、後醍醐天皇の天皇中心とした親政への急激な復活が拒まれ、多くの武士集団が足利将軍の基にあつまり、しかも、足利幕府による北朝という大胆とも思える政略に、ただただ時を過すだけであったのであろう。そんな後醍醐天皇が、「身はたとえ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕の天を望まん」と京に戻る事を念じつつ崩御。後醍醐天皇亡き後も南朝は四代続くが、義満の時代、明徳4年(1393)南北朝が統一する。
後醍醐天皇玉座は、壁画など補修したのであろう鮮やかであったが、意外なのは、書院の奥まったところにあり、何となく暗く、日当りが悪いのではないかと思われた点であった。或は、玉座の間の方からだと、上千本や中千本が見渡せるので、そういいた風景を重視したのであろうか。
そして、文禄3年(1594)、豊臣秀吉が、ここ吉水社を本陣とした盛大な花見の宴を催し数日間滞在した。その秀吉が、己が春を謳歌したといわれる「年月を 心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな」を残している。
歴史の裏と表といった異なる要素を感じさせてくれる吉水神社である。

竹林院 (ちくりんいん)
護摩堂を望む 庭園を概観
庭園 庭園の桜 庭園

バス停中千本近くに、立派な門を構えた宿坊・竹林院がある。
伝承によれば、聖徳太子が吉野山に来た時に一宇の精舎を建て椿山寺としたのが始まりという、古い歴史を持ち、その後、空海によって創建されたと伝えられる格調高い宿坊で、今でも多くの旅人の泊まる宿として人気が高い。
大和三庭園の一つとして、群芳園が有名で、豊臣秀吉 花見の宴に当たり、千利休が築造、細川幽斎が改修した庭園が見事である。
23代の尊祐は射術にたけ弓道竹林派の一派を立てた。

吉野水分神社 (よしのみくまりじんじゃ)
楼門を見る 社務所・本殿

中千本から奥千本の間、上千本に位置する吉野水分神社は、古来からの社で、天之水分神などを祀る。特に、吉野は雨乞いの場所として古くから天皇の行幸が行われいて、天武2年(698)に「芳野水分峯神」に詣でたという記録が残っている。飛鳥時代、雨は農耕にとって重要なものであり、日照りが続けば祈祷され、雨を祈願したものだが、ここ吉野もそうした天皇(代行9が雨乞いする神聖な地であったと事が分かる。そんな、歴史ある吉野水分神社は、「みくまり」が「みこもり(御子守)」に通じ、子宝の神、安産の神となった。秀吉がこの神社に参拝したおかげで世継ぎの秀頼が生まれという。その秀頼が、本殿を再建したという。

如意輪寺 (にょいんりんじ)
山門 如意輪堂

多宝塔
多宝塔下に咲く水仙
境内の茶店 境内の桜の花

吉水神社の東側、谷間を挟んだように如意輪寺がある。延喜年間(901-923)に文章博士三好義行の弟で醍醐天皇が帰依した日蔵道賢上人が草創した古刹で、後醍醐天皇が吉野に行宮を定めた後は、南朝の勅願所となった。
後醍醐天皇崩御後即位した後村上天皇の正平2年(1347)、楠木正成の長子・正行が、大阪・四条畷への出陣に際し、堂の扉に鏃で彫り残した辞世の歌が残っている。「かゑらじと かねておもえば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」正行の心中思いやられる素直な歌だと感じてしまう。

この扉が、今でも宝蔵に展示されている。確かに彫ったような跡はみとめられものの、辞世の歌を読めるほど明確ではない。それもそうであろう、700年弱の歳月が流れているのだから。又、金剛蔵王権現木像も展示され、鎌倉時代の源慶作と云われ、桜の一本造りである。
宝蔵の後部の小高い所に、多宝塔が建っている。そばの桜とのコントラストが美しい。更に、多宝塔への斜面には、白や黄色に花開いている水仙が覆っている姿が、印象的であった。
境内にある茶店で一服する。眼前には、中千本にあたる旅館や土産物店が遠くに並び、如意輪寺との間を桜が埋め尽くされたような景観が拡がる。

中千本方向を望む
金峰神社 (きんぷじんじゃ)

奥千本一帯の桜は、未だ蕾の状態であった。この地に金峰神社があり、古来から黄金の守護神として信仰を集めていた。中世以降は修験道の修行の場として有名になり、藤原道長も祈願したと云われている。
金峰神社から、更に足を延ばせば、西行が隠棲したと伝えられる西行庵や源義経や弁慶らが隠れたという隠塔があるが、そこまでは行かなかった。

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