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北条執権 泰時の治世での特筆は、「評定衆」の設置と後の「御成敗式目」の公布であろう。特に、「御成敗式目」は、武士集団に対する法であり、 釈迦堂、北条時政南邸跡、覚園寺、常楽寺、東勝寺跡、宇都宮辻子御所跡、若宮大路御所跡、明王院、竹の御所跡、高徳院(鎌倉大仏)、和賀江嶋 08-03-26
頼朝を支えた武士 鎌倉幕府の重鎮として、これら有力武士団が、頼朝を支えていった。こうした在地武士団と性格を異にしたのが北条一族ではあった。この結果、頼朝亡き後北条氏の直接・間接を問わず有力な武士団が滅ぼされていったのが、 三浦義明(来迎寺)、上総介(千葉)広常(梶原太刀洗所)、梶原景時(御霊神社、八雲神社)、比企能員(妙本寺)畠山重忠(重保の五輪塔)、和田義盛(和田塚)
08-01-11
頼家・実朝・政子 頼朝が死去し、長子であるよ言え頼家が後を継いだ。しかし、この頼家も僅か在位4年弱の短命に終わり、その後を継いだ弟の実朝も承久元年(1219)1月、頼家の子・公暁によって暗殺され、源頼朝の血統が途絶えてしまう。 岩舟地蔵堂、大慈寺跡、寿福寺、安養院 07-12-04
源氏の再興B 異母弟の義経への対応にあった。しかし、頼朝にとって、源氏の嫡流として、頼朝を長とする強固な組織体をつくる事が第一であり、 満福寺、土佐坊昌俊屋敷跡、教恩寺、盛久首座、六地蔵 07-06-18
源氏の再興A 頼朝が、鎌倉に居を構えてから、行政機関を始め神社仏閣の建造をすすめ、鎌倉の都市化をすすめた。 大倉御所跡、勝長寿院跡、永福寺跡、法華堂跡(頼朝の墓)、景清窟 07-10-25
源氏の再興@ 建久3年(1192)征夷大将軍に任ぜられた。鎌倉の地に鎌倉幕府をつくり、 鎌倉八幡宮、白幡神社、二十五坊跡、佐助稲荷、銭洗弁財天、巌堂、隠里、荏柄天神社 07-07-12
 鎌倉と源氏 鎌倉の地は、奈良朝時代から開け、後に前九年の役、後三年の役での源頼義・義家親子の活躍と相模や武蔵の武士団とのつながり・鎌倉を拠点とした源氏の姿を追 染谷太郎太夫時忠屋敷跡、塔の辻、甘縄神明社、辻の薬師堂、(本興寺)、元八幡、八雲神社、大宝寺、御霊神社 07-07-12
古街道 かっての古東海道は、今の東海道とは大きく違い、藤沢から鎌倉の地を通り、逗子の小坪から横須賀の走水をえて、房総半島へ海路で渡ったと云われる。 杉本寺、荏柄天神社、釈迦堂切通し、長谷寺 07-09-29

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古都を歩く  鎌倉編

 京都や奈良といった都市に比べれば、古都のイメージの薄い鎌倉だが、日本の中世時代に政治の中心都市として栄えたのは事実である。同じ県内に住んでいても、鎌倉というのが近いようで遠い感じがするし、京都に比べればその歴史的遺産の目から見ても、何となく物足りない。そんな気持ちの中で、鎌倉を訪れる機会が少なかったが、今一度鎌倉を見直してみようという気持ちになってきた。鎌倉幕府が出来るまでは、政治・文化・経済の中心は、あくまで京都であり天皇を中心とした体制であったものが、鎌倉時代と云う時代によって大きな変換点になった。それは、その後の日本の体制に大きな影響を与えたし、あらゆる価値観が異なってきたのは間違いない。それでは、その大きなポイントになった地が、何故「鎌倉」であったのか、不思議な感じを持っていた。鎌倉は、南側に相模湾を望み、東・北・西の三方を山に囲まれた地であり、都市機能の面から見れば発展が制限される。確かに、防御という側面から見れば、一種の要塞的地理環境だが、政治や文化の中心地としては物足りない。源氏ゆかりの地という側面があったのだろうが、それだけなのか個人的疑問を持ち続けている。この解が解けるかどうか定かではないが、そんな想いを抱きながら、鎌倉の地を散策していきたいと思っている。
そんな鎌倉散策のキーワードを何に求めるか考えていた。一般的には或る地域を中心とした名所・古跡巡りが多いのだが、『鎌倉もののふと伝説の道を歩く』(著者:大貫昭彦 出版社:実業之日本社)という本を見、人物をキーワードにして、気ままな鎌倉の史蹟巡りをしてみようと思う。