実朝が暗殺され、頼朝の血筋が途絶えた源氏にとって、将軍職をどう継続し、鎌倉幕府を存続していくが、政子にとって重要な場面に立たされた。政子は、実朝が将軍職の間にも、その子がいない事から、その時点から後継につき秘かに手を打っていたともいう。政子は、天皇の血筋を求めていたが、朝廷側がそれに対し否定的な立場をとり続け、実朝亡き後将軍不在の状態が続いていた。その混乱をつき、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を出したのが承久3年(1221)であったが、政子の関東武士への直言、義時の迅速な行動で上皇方が敗れてしまい、後鳥羽上皇は壱岐、順徳上皇は佐渡へ流され、以降、幕府の権限が強くなり、この時点で、西国含めた国内の統治が実現できたと云える。この承久の乱後に京都の地で采配を揮ったのが、北条義時の子・泰時であり、元仁元年(1224)北条泰時は執権職となった。泰時は、幼少の頃から頼朝に期待された人物だったという話が伝わる。これは、鎌倉幕府体制の安定化を図った泰時の人物像を伝えるものとした話ではなかったと思う。しかし、泰時が執権職となる時にも混乱が起こった。それは、泰時の後妻・伊賀氏が弟の伊賀光宗らと図り、娘婿の一条実雅を将軍に、実子の政村を執権にしようとしたものであったが、政子の働きにより納まった。政子にとって、幕府の体制維持には、泰時が必要と判断したと思われる。泰時、時に42歳であった。この体制に安堵したか、翌嘉禄元年(1225)政子は69歳の生涯を終えた。泰時の治世での特筆は、「評定衆」の設置と後の「御成敗式目」の公布であろう。特に、「御成敗式目」は、武士集団に対する法であり、そこには、主従・親子・夫婦といった関係での基準を示したものとして評価されている。こうして、北条執権体制が確立していくが、その流れを作ったのは、頼朝の妻・政子の存在が大きい。政子にとって、将軍の補佐としての北条一族という命題を持っていたような感じすらする。その思いに、父・北条時政の深謀と絡み合い、北条氏に対抗する有力武士団を潰していった。もし、頼朝が長生きしていたら歴史は変わっていたかもしれないが、後に云う鎌倉時代といのも短命であったかもしれない。時政の子・義時や孫の泰時によって、執権体制を確立し、安定した幕府を作り上げていった北条一族だが、その評価は、必ずしも高いとは云えない。そんな、初期の北条氏の足跡を訪ねてみた。
都市鎌倉の前面に広がる由比ガ浜海岸は、遠浅であり、大型船の停泊に不都合であった。しかし、全国からの廻船が、鎌倉へ荷物を運ぶには、相模湾への出入りが極めて有効でもある。往阿弥陀仏が北条泰時の協力を得て、貞永元年(1232)に伊豆石で築いた人工の島が、和賀江嶋である。現存する日本最古の築港遺跡である。この港は江戸時代まで使用されていたというから、物資輸送の拠点として近世まで活躍していた。鎌倉時代では、東京湾の六浦港と和賀江嶋港が、鎌倉の都を支える重要な拠点であった。昭和になり、連合軍の上陸に備えて山上に砲台がつくられた時、石が運び去られ、今は干潮時にその姿を表すようになった。
和賀江嶋近くを訪れた時は、既に満潮になろうとしていた頃であり、わずかに海面に小石で出来た嶋を認められる感じであった。
鎌倉の名所として有名な「鎌倉大仏」は、阿弥陀如来像で、与謝野晶子が「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」と詠んだ釈迦像ではない。しかし、奈良の大仏と比べると、確かに美男であると云える。この大仏は、頼朝の時代から計画はあったというから、頼朝自身も鎌倉を一つの都としていこうという思いがあったのではないだろうか。その後、北条政子、九条頼経、更に北条泰時等の支援を得て、僧浄光に勧進させ、暦仁元年(1238)に着工し、6年後の寛元元年(1243)に完成させた。この時は、木造の大仏像で、周尺で8丈(約24m)、坐像の場合その半分の12mという巨大なものであったという。しかし、この木造大仏と、後に造られた現在の銅造大仏との関係が明らかでないし、この銅造大仏が何時造られたかも不明という。最近の調査では、弘長2年(1262)頃完成したという説もある。
かっては、大仏殿もあったが、地震や大風で度々破損や倒壊したようで、江戸時代に入り、芝増上寺の祐天上人が、豪商野島新左衛門の後援により大仏殿再興を目指し、寺地を復興、大仏の修理を行い、野島新左衛門の法名である高徳院をとり、高徳院清浄寺となった。大仏前の香炉や灯篭は、野島新左衛門が寄進した
この銅造大仏は、仏身の高さ約11.3m、耳の長さ約2m、周囲35m、重さ約120tといわれる巨大なもので、建長4年(1252)に鋳造が開始された。
鎌倉を代表する大仏だけに、何時訪れても多くの参拝客で賑う。特に、外人姿も多く、日本を代表する一つであろう。奈良の大仏は、荘厳な気配を漂わせるが、ここ鎌倉大仏は、屋外というせいもあるのだろう、のびのびとした気持ちで見上げ、参拝できるように思える。
滑川を上流に架かる明石橋の近くに明王院(真言宗)がある。正式には飯盛山寛喜寺明王院五大堂という。4代将軍九条(藤原)頼経が、寛喜3年(1231)に鎌倉の鬼門除け寺として建立を発願し、年号から寛喜寺と呼んだと伝えられている。寺伝では、嘉禎元年(1235)、京都東寺より定豪を迎え開山したという。五大明王をまつる五大堂が建てられ、明王院と呼ばれたという。明王院の別当職は、鶴岡八幡宮寺・永福寺・勝長寿院と並ぶ重職であった。
今は、静かに佇む茅葺の本堂がひっそりと建つ。
将軍・頼経の屋敷は、当初、北条義時邸宅の大倉邸の一画に建てられていたが、泰時の代になり、新御所が計画され、反対意見もあるなか、宇都宮辻子御所の成立が行われ、嘉禄元年(1225)12月、頼経は、新御所に移った。辻子とは、大路と大路、大路と小路、小路と小路とを結ぶ新しい小道のことで、宇都宮辻子とは、若宮大路と二の鳥居のすぐ南を東西に走っていた道と考えられる。泰時が、幕府の御所移転を行ったには、怨霊の地となった大倉御所からの移転、更に新たな鎌倉の都造りを行おうとしたものと思われる。
嘉禎2年(1236)8月、御所は宇都宮辻子の北側の若宮大路御所に移転する。その理由は、頼経が大病を患い、その病の原因が宇都宮辻子の土公(土を司る神)が祟りをなしたと云われるが、将軍派が、若宮大路に面していない御所の立地に不満を持ったという面もあるのではないだろうか。
かっての北条氏の館であった宝戒寺の南東側に入った谷間に「東勝寺跡」
がある。今は、何等痕跡も残さず、雑草が生い茂る空間となってしまっている。この地に、北条泰時が退耕行勇を開山として嘉禎3年(1237)頃開いたと伝えられる北条一門の寺院と云って良い。しかし、元弘3年(1333)5月、鎌倉に攻め入った新田義貞により、北条一族が、ここに火を放ち870名余が自害したと伝わる悲劇の地でもある。後に北条一門の霊を慰める為であろう、足利尊氏によって再建されたが、元亀4年(1573)廃寺になったようだ。
泰時の墓と伝えられる「常楽寺」(臨済宗)。北鎌倉と大船の中ほどに位置する常楽寺は、泰時が夫人の母の追善のため、嘉禎3年(1237)に建立した粟船御堂が前身で、その開堂供養を退耕行勇が務めたという。仁治3年(1242)泰時が没した時、この粟船御堂に葬られ、泰時の法名から常楽寺となった。常楽寺が寺院として整えられたのは、宋僧蘭渓道隆の入寺ごであり、常楽寺の開山は、蘭渓道隆としている。道隆は、建長寺に移るまでの間、常楽寺の住持として、鎌倉の禅宗道場として栄えていたという。境内奥には、元禄4年(1691)に再建された仏殿があり、堂内には、禅寺では珍しい阿弥陀三尊像がまつられている。仏殿横の本堂裏手には、庭園が広がり、仏殿裏に泰時の墓がある。
北鎌倉を抜けると、開けた大船の地に出る。常楽寺を建立できたのは、この地を北条が抑えていた事になる。今は、住宅地の中に隠れてしまいそうで、さほど大きな寺院ではない。しかし、一歩境内に入ると、静かな佇まいのなかで、喧騒とした鎌倉市内の有名な寺院に比べ、落ち着くことが出来る。
鎌倉の寺院のなかで、中世の雰囲気を今尚残す寺として、有名な覚園寺は、北条義時との縁が強い。そもそもは、義時が実朝暗殺時の行列に加わっていなかった事から一命を取り留めたという経緯があり、これは、義時の夢枕に亥神(招杜羅大将)が現れ、将軍に供しないよう告げられたというのだ。その事から、義時は、亥の方向(西北)に、十二神将の眷属である薬師仏の堂を建立したのが、建保6年(1218)の大倉薬師堂であり、後に、永仁4年(1296)、北条貞時が異国降伏を願い、心慧智海を開山として、律宗寺院といた。覚園寺は、鎌倉宮前の道を瑞泉寺方向とは逆の西側方向の谷戸を歩いていくと、山門に突き当たる。境内の拝観は、定時毎の案内であり、撮影も禁止。薬師堂の堂内天井の両脇の下の梁の棟札銘に「文和3年(1354)」に足利尊氏が再建したと明記されている。薬師堂以外にも地蔵堂などあり、谷あいの間に開ける覚園寺は、静寂な空間を味わうことが出来る。
金沢街道側
名越側
釈迦堂口切通しは、名越と金沢街道を結ぶ事のできるトンネルであり、三浦氏により作られたものと云われる。その後、この釈迦堂谷に北条時政南邸が作られ、釈迦堂切通の整備・拡充が図られた。この地は、名越、六浦道、更には大蔵幕府にも近接している高台であり、時政がこの地に屋敷を構えたのは、当に地の利を生かしたものと推測できる。釈迦堂は、泰時が父・義時の菩提を弔う為に釈迦堂を建てた(元仁元年(1224))事により、その地名となったが、釈迦堂そのものが、何処に建てられたかは不明。
北条時政南邸があったと思われる谷戸。山合いを平地にしてあるが、これは近代に行われたものかもしれない。今は、屋敷跡だった面影を残すのみの静かな所になっている。この地は、今は立入禁止となっているが、整備して開放して所でもある。
谷戸の平地から山に向かうと「北条時政南邸跡」の立札がある。それによると、頼朝も建久3年(1193)に訪れている事、その後も実朝が雪見に来ているとの事。昭和16年、この辺りを整備中に、青磁の大皿2枚、深皿1枚が発堀されたという。
立札の所から山を上っていくと、「南邸の裏門跡」に出る。山を切り開いた切通のような立派なもので、年を重ねてきた両石壁は風化により、独特の味わいを出している。上部には、赤い太鼓橋がかけられ、更に山の上に続いている。この切通は、釈迦堂口に続く間道になっている。
尾根筋にあるやぐら群、ここが休み所であり、実朝もここから雪見をしたとも云うが、今は木立が生い茂り、遠望がきかない。この尾根を進むと、頼朝が白布で山を覆わせたという伝えのあり衣張山に続く。
北条氏の祖は、真偽のほどは不明だが、平直方という。直方と言えば、源頼義に自分の娘を与え、鎌倉の屋敷を譲り、源氏が鎌倉に勢力を伸ばすきっかけを与えた人物であったし、当時は、平氏の嫡流に位置していた人物でもある。しかし、同族の平忠常の乱に対する追討に失敗し、その地位が低下していった。その後、何代か後に、北条時政が伊豆の豪族として存在していた。その娘・政子と頼朝の出会いによって、北条氏の運命が大きく変わっていった。時政は、祖先の直方の事を思ったかもしれない。見方を変えれば同じ結果となっている。時政が意図した以上に頼朝の力が巨大となった。しかし、頼朝には、相模や武蔵の強力な武士団が支え、政子の父として扱われてはいるものの、それほどの重職を与えられていたようには思えない。但し、子の義時や孫の泰時は、頼朝の下で御家人として活躍していた。頼朝亡き後、時政は、北条一族の未来永劫の存続を考えたであろう。そして、娘の政子も、相模・武蔵の武士団より北条一族の安泰を元に、比企氏、梶原氏、畠山一族、和田一族を滅ぼし、北条一族を強力な集団として拡大していった。更に、これら武士団の土地を北条氏の土地として、鎌倉周辺の地域を北条氏で固めていいた。時政自身、自らを将軍職の地位を奪う事までは考えなかったようだが、北条氏と将軍との強い関係を作るという戦略が、北条一族の基本であったようにも見える。これは、かっての天皇と藤原一族の摂関家と同じような構造に見える。そんな時政も、後妻・牧の方が、娘婿の平賀朝雅を将軍に立てようとして、失敗し、時政は、伊豆の地に引退し、表舞台から消えていったのが、元久2年(1205)の事であった。
源頼家の娘が頼経に嫁ぎ、御所として住んでいたのが、「妙本寺」祖師堂左側と云われ、妙本寺の墓所奥に竹の御所の墓がある。
「若宮大路御所」跡地に建つ石碑。今は、若宮大路と小町大路の間の小道を進んだ住宅地の中にある。
「宇都宮辻子御所」跡地にある宇都宮稲荷。雪ノ下教会から清川病院に至る間にあったと思われる。
源氏3代が途絶え、将軍職を継いだのが、藤原家の九条頼経であった。四代将軍については、政子などが朝廷側に働きかけ、皇子などをあげていたが、結局実現せず、摂関家である九条氏から選び出された。これは、先々で朝廷側と幕府側で、天皇の後継で争う事にならないよう、朝廷側が考えた結果だとも云える。そして、九条家からその子が将軍職として鎌倉に下向したのが承久元年(1219)、わずか2歳であった。更に、源氏の血筋を守るという意味であろうが、2代将軍頼家の女子を嫁がせる。後に竹の御前と呼ばれる女人である。とは云え、将軍職とは名ばかりであり、実質的には、執権北条氏を中心とした体制で幕府運営をされていた。これに対し、頼経が成長するにつれ、反発を持った事は容易に想像がつく。将軍職の実権を取り戻す為、泰時が没した時、その企てを実行しようとしたが、事前に事がばれてしまう。ために、頼経は将軍職を解任され、子の頼嗣に将軍職を譲らせてしまう。更に、頼頼経を京都に追い返そうとしたが、一部の反対もあり、実現しなかったが、その後、頼経は、出家し、正式に5代将軍として、頼嗣が就任したのが、寛元3年(1245)であった。しかも、この時、7歳の頼嗣に対し、北条経時の妹・桧皮姫(16歳)を嫁がせ、将軍の義兄として、北条執権職の権威を高めた。頼経は、後に北条時頼執権職が譲られた際の騒動により、寛元4年(1246)京都に送還され、康元元年(1256)に世を去った。北条執権の犠牲者であったかもしれない。
北条義時は、政子共々、三代将軍源実朝を補佐していたが、和田氏の乱を鎮圧、大きな成果を収めた。しかし、その後、実朝の暗殺という悲劇にあい、幕政は混乱していった。特に、頼朝の血筋たる四代将軍がなく、そのため後鳥羽上皇の皇子六条宮雅成親王か冷泉宮頼仁親王を迎えるよう朝廷に働きかけたが、後鳥羽上皇がそれを承知せず、最終的に左大臣九条(藤原)道家の息三寅丸を四代将軍として鎌倉へ下向させたのが、承久元年(1219)7月であった。後の九条(藤原)頼経で、時に2歳であった。その後、承久の乱が起こり、危機に瀕したが、義時自らの出陣により、朝廷側を倒し、京都には子の泰時が六波羅探題として在京することになった。しかし、その後の元仁元年(1224)6月義時が突然倒れ、62歳にて没してしまった。没する前、義時は出家し、得宗という法名を名乗り、後に、執権職は、北条義時の嫡流が継ぐものとなり、得宗制度などとも云われる。
北条執権体制を確立し、幕府体制の強化を図ったのが、泰時であり、それは、父・義時の死によって執権職を継いだのが、42歳という油の乗り切った年代にあったこと、更に鎌倉幕府開府に功のあった人々が、相次いで世を去り、世代交代が進んだという事もあったのではないだろうか。
泰時が、特に力を注いだと思われるのは、鎌倉の町を幕府の都として整備した事であろう。これは、承久の乱後、六波羅探題として在京していた泰時が、京の都を見、それを思い浮かべ、武士の都として鎌倉を整備しようとした現われではないだろうか。
その主なものは、将軍御所の移転、鎌倉への道路整備(七口の切通し)、和賀江島の港築造支援、大仏造営への支援、更に市街地の治安強化や街の整備として、街内への墓所を禁じ、後に鎌倉の代名詞ともいえる「ヤグラ」の出現である。
一方、泰時は、父・義時の追善の為、釈迦ガ谷に「釈迦堂」を建立、北条一族の縁の寺となる「東勝寺」の建立、「常楽寺」の前身「粟船御堂」の建立などを手がけている。
そんな泰時も、仁治3年(1242)60歳で没した。泰時の嫡男・時氏、次男・時実は共に早世していて、時氏の嫡男・北条経時が執権職を継いだ。この時、幕府の実験を握ろうとしたのが、4代将軍九条(藤原)頼経であった。2歳で鎌倉に下向した頼経も25歳になり、単なるロボット的位置づけに不満を持っていたのだろう。しかし、この企ても失敗した。しかし、経時も25歳という若さで死去し、執権職は、弟の時頼に譲られ、更なる発展を遂げていく。