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名越に向かう道沿いに政子縁の「安養院」がある。この安養院の裏庭にあるのが、北条政子の供養塔と呼ばれている。何故、この地に政子縁の塔があるのか。政子は、頼朝亡き後、寿福寺以外にも菩提を弔う寺院を創建していて、それが現鎌倉文学館近くにあったと云われる「祇園山 長楽寺」であった。その長楽寺が、鎌倉時代末期に善導寺移ってきて、寺号を長楽寺、院号を政子の法名である安養院に改められたという。この辺りの詳しい背景は良く分からないところだが、長谷時代には、律宗であったが、今の安養院は、浄土宗となっている。

伝政子の墓

伝実朝の墓

寿福寺

総門から山門への参道は、木々に覆われ清々しい気持ちになる。

住宅街の片隅にある「大慈寺」の石碑

寿福寺

古都を歩く  鎌倉編

頼家・実朝・政子

正治元年(1199)1月、頼朝が死去し、長子であるよ言え頼家が後を継いだ。しかし、この頼家も僅か在位4年弱の短命に終わってしまう。その後を継いだのが、弟の実朝だが、実朝も承久元年(1219)1月、頼家の子・公暁によって暗殺され、源頼朝の血統が途絶えてしまう。頼家・実朝の母・政子は、その後の鎌倉幕府危機となった承久の乱にあたって、東の武士団をまとめ乗り切って嘉禄元年(1225)没した。頼朝が鎌倉に入府した治承4年(1180)以来の源氏政権が僅か3代で終わってしまう。頼朝とすれば鎌倉幕府の体制強化と将軍の権力集中を図ったものしていきたかったに違いない。しかし、志半ばにして倒れ、その子らが将軍職につくものの何れも悲劇の結末となってしまう。しかし、鎌倉幕府体制は承久の乱以降強化され、北条氏による執権政治のもと続いていったのも歴史の皮肉とも云えるかもしれない。
2代頼家の将軍としての評価は低い。政務を投げ打ち、蹴鞠などに興じていたと吾妻鏡に記されているが、後の北条氏の命によって作成されたものであり、そのままは信じがたい。確かに、父・頼朝に比べ武士団に対するカリスマ性など劣る面はあったであろう。しかも、それまで頼朝が行っていた裁断が宿老等による合議制になり、頼家を取り巻いていたであろう人々への政務関与を抑えていた面がある。又、最も留意すべきは、比企氏の存在であったと思われる。比企氏は、頼朝の乳母が比企尼であり、伊豆へ流された以降も何かと面倒をみていたという。頼朝鎌倉入府以来、比企谷に住まわせて、甥の比企能員を頼朝の御家人として引き立てた。更に比企尼の女が頼家の乳母となり、更に比企能員の女(若狭局)が頼家の妾となる。このように、頼家と比企氏との関係は強いものであり、それに対して北条氏が強い危機感を持った事は容易に想像できる。そして建仁3年(1203)5月に頼朝の異母弟の阿野全成の反乱、8月に頼家の守護職を、東を子の一幡、西を弟実朝に分けるようになり、これが原因と思われる比企氏の反抗に対し、9月北条時政が比企能員を誅殺、一幡も殺される。更に頼家による北条時政を討とうとするも計画が洩れ失敗。政子の命で剃髪・出家となり伊豆・修善寺へ流され、翌元久元年(1204)7月暗殺されてしまう。これらの流れから、単に頼家が将軍職として不適格という世評とは違った側面が見えてくるような気がする。
頼家を継いで将軍職となったのが弟・実朝である。実朝と云えば、歌人として有名であるが、将軍職としての前半は、父・頼朝の政務記録を学びつつ励んでいたというが、後半は、おかしな行動が目に付く。特に、自らが中国・宋の高僧の生まれ変わりと信じ?宋まで船出するという計画から大船の建造までするに至る経過は理解できないところである。しかし、そうした心境の変化に頼家同様の北条氏の影はなかったのだろうか。事実、実朝が将軍職になっても、争いが絶えず、そこに北条一族の思惑が色濃く残っている。そんな実朝も、承久元年(1219)1月、頼家の子・公暁により八幡宮にて暗殺されるという悲劇のなか、頼朝来の源氏の血筋が途絶えてしまう。頼家の時代に、梶原景時、比企氏が亡ぼされ、実朝の時代になると、元久元年(1204)伊賀・伊勢平氏残党にる乱、翌元久2年(1205)に畠山重忠謀反の疑いから亡ぼされ、続いて北条時政・牧の方により平賀朝雅を将軍に擁立しようとする陰謀が発覚。更にその後の建保元年(1213)には、和田氏による反乱起こり、和田一族も亡ぼされてしまう。これらの政争には、必ず北条氏が絡んでおり、北条一族、政子の影がある。
頼家・実朝と続いた源氏による将軍職も途絶え、その後鎌倉幕府の存続に力したのが、母・政子であり、朝廷から第4代将軍職を送ってもらうよう画策するも、中々決まらいなか、承久3年(1221)後鳥羽上皇による北条義時追討の院宣により、世に言う「承久の乱」が起こるが、政子の言葉により、鎌倉武士団の一致結束により鎌倉方の勝利となり、以降、鎌倉幕府の実質的な政治運営が北条一族を中心とした執権政治となっていく。頼朝亡き後、鎌倉幕府を支え、実家の北条氏を盛り立てた政子も嘉禄元年(1225)に没し波乱の生涯を終えた。

安養院の本堂。本尊は、阿弥陀如来像だが、後ろに千手観音像が祀られている。

本堂の裏手にある宝筺印塔で、徳治三(1308)の銘。左側の小さな宝筺印塔が、政子の供養塔と呼ばれている。

現在の寿福寺は、総門前に横須賀線と自動車道路に面してしるが、道路と総門の間に木立のある広場となっているので、静かさが保たれているよにも思える。朱塗りの総門は、江戸初期の切妻造であり、総門から山門までの参道は、さほど長いものではないが、風情が感じられる。山門から境内へは立入禁止なので、その中に入れないのは残念だが、山門から見る境内は、落ち着いた風情がある。仏殿・鐘楼・庫裏が立ち並んでいるのが分かる。仏殿前の大木はビャクシン。
裏側に広がる墓地には、明治時代の外務大臣陸奥宗光の墓や、高浜虚子の墓、大仏次郎などの有名人の墓がある。更に、山ぎわには、多くのやぐら群がある。そのなかで、北条政子、源実朝の墓と伝えられいるものもある。しかし、実際にこの地に葬られたとは思われない所から、一つの供養塔ではまいかとも云われている。

寿福寺の地は、源氏にとって縁のある所である。即ち、かってこの地は、平直方の館の一つであり、その地を平忠常の乱を平定した源頼義に譲り、以降、源氏の鎌倉での館として使われ、頼朝の父・義朝も屋敷として使っていた。義朝が平治の乱で敗れた後、三浦氏の一族岡崎義実が、義朝の菩提を弔うための草堂が建てられという。この為、頼朝が鎌倉へ入府した際の屋敷として、この地に置かず、大倉に館を造ったとも伝わっているが、実際には幕府の館地としては、十分な広さがなかったというのが事実なのではないだろうか。その地に、堂を創建するのは、政子の命によってであり、それは、頼朝・義朝親子を弔う意味もあったようだ。2代将軍頼家の時に開基され、建仁2年(1202)に逗子市沼間にあったといわれる義朝旧宅の旧材を利用し、建暦2年(1212)には侍所の材木が寄進され、伽藍が整備されたのが、3代将軍実朝の時代という。
この寿福寺の山号は亀谷山、寺号は寿福金剛禅寺という。開山は栄西であるが、栄西は、比叡山から圧力をかけられ、鎌倉に逃げてきたのが、正治元年(1199)であった。その後、政子や源氏の庇護を受け、寿福寺や大慈寺などの開山にかかわり、更に、京都に建仁寺を建立する。栄西は、日本における臨済宗の祖とするのが通例だが、実質的な臨済禅は、建長寺建立時宋から迎えられた蘭渓道隆に始まったと云って良いかもしれない。栄西の禅は、天台密教の一つとしての禅であり、この時期の栄西の法要などの役割を見ると、密教的なものが多い。
寿福寺開山後、鎌倉五山の3位に列せられるまでの盛況ぶりになったもの、応永2年(1395)の火災で殆どの建屋を焼失し、以降衰退していった。それでも、江戸時代中期には、かなり伽藍復興がされていたが、明治維新の混乱期に全ての塔頭が廃絶してしまった。

山門から境内をみる。残念ながら立ち入り禁止となっている。

寿福寺の総門。門前には、写生をする人を良くみかける。

2台将軍頼家は在職期間が短かったせいもあるのだろうが、寺社の建立はしなかったが、実朝は、大慈寺を創建した。しかし、その詳細は伝わっていないが、現在の金沢街道に、面し、明王院近くと云われている。今は、住宅街の一角に、その石碑が立つのみで、往時の伽藍の壮大さを思うことも叶わない。
立柱上棟が行われたのが、建暦2年(1212)4月であった。しかし、その後和田氏の乱などにより、工事が進まなかったが、乱が終わった後造営も再開され、建保2年(1214)7月に落成式が行われた。この落成式の導師は、栄西が務めたという。
それにしても、何故実朝が、この大慈寺を創建したのか、その趣旨が分かっていないが、この地大倉郷内は、景勝の地であり、清和天皇時の六歌仙の一人文野康秀が、この地に在したという謂れから、頼朝がこの地に堂舎を造営するとの約定があったが、頼朝の死で、果たせぬままになっていたとの伝承があり、この辺りが関係しているのかもしれない。

岩舟地蔵

頼朝・政子には、頼家、実朝以外に2人の女子がいた。長女を大姫といい、当初木曽義仲の子・清水義高との婚約により、義高は鎌倉に移住していたが、寿永3年(1184)義仲は、頼朝が]派遣した義経・範頼によって近江栗津にて敗死してしまう。これを受けて義高も鎌倉からの逃亡を図るものの、現埼玉の入間川原にて追手につかまり、僅か12年の生涯を終えてしまう。この事は、大姫に大きなショックを与えたという。その後、頼朝は、この大姫を後鳥羽天皇の妃として入内させようとし、半ば計画が進んだものの建久8年(1197)当の大姫が病死してしまった。この大姫の遺体が葬られたのが、亀ヶ谷切通しの入口にある「岩舟地蔵堂」だと云われている。
大姫亡き後、頼朝は、妹の乙姫を入内させるように進めた。しかし、この計画も頼朝の死去などで延期されてしまう中、正冶元年(1199)6月乙姫も病死してしまった。
時の権力者は、藤原時代から自分の娘を入内させ、より強固なものするという流れがある。平清盛もしかり。頼朝も同じ事を狙ったものであろう。しかし、結果として成功しなかった。ともすれば、男社会が中心と思われる時代、政争の具となってしまった女の悲劇を知る話でもある。
この岩舟地蔵堂は、大姫ではなく乙姫のもではないかという異論もあるようだが、何れにしても、歴史の中に埋もれてしまった女を象徴するお堂である。

今は堂も建て直されている地蔵堂。小さな窓から、大姫の守り本尊と云われる石の地蔵に立つ前立像には、口紅の色の鮮やかさが印象的である。

大慈寺跡