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京都五山を巡る

五山とは、インドの五精舎に由来するといわれ、中国の南宋時代に臨済宗の五大寺を「五山」と称したらしい。それが日本にも伝わり建武の中興の頃から五大寺という意味で五山と云われるようになった。当初は、朝廷が定めたが、その後鎌倉幕府・足利幕府の命により、現在の五山が定められたという。日本に於ける臨済宗は、栄西が五山の一つ建仁寺を創建したことから始ると云われる。しかし、栄西は比叡山延暦寺の天台宗の一派として、禅を広め比叡山の改革の一つとしようとしていた。このため、鎌倉幕府の後ろ盾により建仁寺が創建された。その後臨済禅は、朝廷や足利幕府のの庇護のもと大きく発展してきた。一方、同じ禅宗である曹洞宗は、違った展開をしてきた。しかし、禅宗の基本は異なるものでは、禅を通した悟りに対する方法論での考え方が違ってきていると聞いたことがある。日本に於ける二つの流れは、武士階級に支持された事による、権力と結びつきかたの違いでもあるように感じる。端的な見方では、中央政府との結び付きが強かった臨済宗、地方豪族との結び付きが強かった曹洞宗といった感じだ。決め付けるのは言い過ぎかもしれないが。
五山ではあるが、その上位にランクされたのが「南禅寺」であり別格扱いになっている。これは、その創建が亀山上皇という所からきているのかもしれない。そして、第一位に、天竜寺、第二位に相国寺、第三位に建仁寺、第四位に東福寺、そして第五位に万寿寺となっているが、この万寿寺は、今はない。元の五山上位に入っていた大徳寺は、時の足利幕府の寺院制度に反発したと云われ、それが五山から外れた理由なのだろうか。又、広大な敷地を持つ妙心寺は、何れの五山には入らず、それが結果的に妙心寺の独立運営を進めたと云われる。
そんな五山を中心とした臨済宗の夫々のお寺には、夫々の歴史を持つ風情が感じられる。

尚、京都五山が指定される前に定められた 鎌倉五山は、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺の順となっている。

寺院名 一口コメント 主な塔頭など
南禅寺 石川五右衛門で有名な三門から京都市街を一望できる。境内には、琵琶湖からの疎水事業の一環として赤レンガ造りの水路閣があり、京都を舞台にするTVドラマには必ずといって良いほど登場する古刹。 南禅院
金地院
天龍寺 後醍醐天皇を弔うため足利尊氏が建立した寺院。夢窓疎石の作庭といわれる庭園は、嵐山や亀山を借景とした広大な回遊式庭園だ。 等持院
宝厳院
相国寺 足利義満が無窓疎石を基として10年がかりで造営したが、応仁の乱で大半が焼失し、その後再興されたものの大火で焼失し、豊臣秀頼が再建した法堂のみが残っている。有名な金閣寺・銀閣寺は、この寺の塔頭だ。 金閣寺
銀閣寺
承天美術館
建仁寺 かっては祇園の繁華街までが境内であったといわれるた京都最古の禅寺。国宝にもなっている俵屋宗達作の「風神雷神」は有名だ。
東福寺 東大寺と興福寺から東福寺としたのは有名。特に紅葉の季節には、その素晴らしい景観から多くの観光客で賑わう。 光明院
霊雲院
大徳寺 かっては五山の上位を占めた。織田信長の葬儀をここ大徳寺で行ったことや三門の楼上に千利休の木像を置いたことにより秀吉の怒りにふれ利休が切腹する一因となったという逸話も残る。 大仙院
高桐院
妙心寺 平地では最大級の広さを誇る。塔頭の一つの退蔵院の「瓢鯰図」は、有名。出来ないものを如何に行うかという問いに対する高僧の答えが、絵と共に記されている。石庭で有名な竜安寺は、妙心寺の塔頭。 竜安寺
退蔵院
源光庵 京都では珍しい曹洞宗の寺院。五山ほど大きな寺院ではないが、何か落ち着いた感じをいだかせる。本堂内からの「迷いの窓」「悟りの窓」で己を観る。

臨済宗と曹洞宗の違いの大きな点は、坐禅による悟りに至る手段にあるようで、臨済宗では「看話禅」(かんわぜん)と云われ、曹洞宗では「黙照禅」(もくしょうぜん)といわれている。
「看話禅」は、知識や理屈で解けない悟りの世界に導く言葉「公案」(1700則の公認言行録がある)に対し思索させる、云わば 課題を与えその解を見つけ出し、課題のレベルが上がっていき、やがて悟りの域に達するということなのであろう。一方、「黙照禅」は、ただひたすら坐禅を行い、一気に悟りへの内容を把握させるものだという。その考えが、「只管打坐」(しかんだざ)ということに代表され、日常生活の全てが禅の心に結びつくという厳しい考え方だ。

京都五山には入っていないが、大徳寺、妙心寺も五山に劣らない趣をもっている。
又、臨済宗ではないが、曹洞宗の源光庵も趣きがある。