相国寺(しょうこくじ)の沿革 |
京都御所の北側に位置する相国寺。現在の相国寺は、東西約350m位だが、最盛期にはその5倍位の大きな伽藍だったそうだ。室町幕府として南北朝の合一など基盤を整備した義満の時代、「花の御所」と呼ばれた邸宅の隣に築いた壮大な寺。足利幕府の威勢を示す意味でも壮大であったに違いない。これは、10年という永い歳月をかけて創建されたことでも分かる。義満は、京都五山でも、祖父尊氏が開いた天龍寺に次ぐ五山第二位に列した。このような足利幕府の威信を示す相国寺だったが、今は、三門や仏殿の跡が残る広大な伽藍が当時の栄華を偲ばせる。しかも、尊氏以来、足利幕府と密接な関係にある夢窓礎石が、南禅寺や天龍寺、そしてこの相国寺まで関与しているのも驚きだ。このように、禅宗である臨済宗が、時の権力と結びついたのは、鎌倉幕府からの流れだが、そこに武士階級から見ての宗教政策の一端が垣間見られる。
京都観光の名所でもある金閣寺や銀閣寺は、この相国寺派に属する寺院であるが、本山より有名だ。
相国寺派では、方丈の正面中央に白衣観音像を掲げ、観音菩薩に過罪を懺悔誦経し悟りを目指す懺法で、長く細く続く独特の声明を用いるそうで、これにより「声明づら」と呼ばれる所以とのこと。
この 相国寺から水墨画の大家雪舟らが出ていてことなど、室町時代の文化サロンの役割も果たしていたといい、如何に時の足利幕府と繋がりを強く持った寺院かが分かる。
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相国寺も3度位訪ねたはずだが、
写真の記録が殆ど残っていません。又の日にアップデートしたいと思います。
桃山時代の再建で、現在ではわが国最古の法堂で、現在は仏堂も兼ねている。内部の中央には釈迦如来像や建物を守護する大権修理菩薩が安置されている。天井には狩野光信によって描かれた蟠龍図が描かれている。蟠龍とは、地上にうずくまり、未だ昇天しない龍を云うとのこと。絵の下で手を叩くと、その反響で鳴ることから「鳴き龍」とも云われている。試しにやってみたが、小さな反響音が確かに聞こえた。立つ場所や、音の大きさで微妙に異なるようだ。しかし、2回目に訪ねた時は、絵の下には行けなかったので、その後は本尊前まで近づくことが出来ないようだ。
1596年(慶長元)に再建された浴室で、浴室の別名でせん泉明という。2002年(平成14)に修復・復元された特別公開時に内部を見せてもらったことがある。内部には、更に小部屋のようなものがあり、その中で蒸気浴をしながら、ひしゃくで湯を取り、身体に注ぐ掛け湯式の入浴方法だったようだが、その後江戸時代中期以降は、蒸し風呂専用になったととのこと。
相国寺創建600年事業の一環で、1984年(昭和59)に建設されたもので、相国寺の重宝及び金閣寺や銀閣寺などの塔頭寺院からの国宝・重文などを収蔵し、展示されている。
三門跡から法堂を望む