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南禅寺


京都五山の上位に位置づけされる名刹

南禅寺の沿革
 正式名称:瑞龍山太平興国南禅禅寺
 1264年(文永元)亀山天皇が離宮禅林寺を営む
 1291年(正応4) 亀山法皇が無関普門禅師(大明国師)を迎え開山

 1393年(明徳4)、1447年(文安4)の大火災、そして1467年(応仁元)の応仁の乱により大半の伽藍を焼失。
 その後、桃山時代以降に再建。

京都を舞台とした推理ドラマには、必ずと云っていいほど南禅寺が登場する。特に、三門付近や水路閣は定番だ。こんな南禅寺も時の権力との結びつきから来る栄枯盛衰の歴史といっていいかもしれない。亀山天皇が上皇になり息子の後宇多天皇が即位したのが、1274年(文永11)、そして1289年(正応2)に出家し法皇となる。亀山天皇・後宇多天皇時代に蒙古襲来(文永の役、弘安の役)があったときであり、世情騒然な時代であったと思われるし、後宇多天皇の皇太子には、鎌倉幕府の横槍で自らの直系ではなく兄、後深草天皇の系列が選ばれる、以降南北朝という特異な状況になる。そんな時代環境から、自ら隠遁生活を送る事になった亀山法皇。しかし、南禅寺では法流に拘らず、全国から名僧を呼んで住持とする「十方住持制」をとっていたことにより、五山の上位という地位が守られてきた。特に、亀山天皇の孫にあたる後醍醐天皇が吉野に逃れ南朝として存立していたとき時の足利幕府から見れば南禅寺の格付けは、問題となったはずである。しかし、その地位が変わらなかったのは、その当時の住持が夢窓疎石であったことによると云われている。更に 時代が下がって、桃山時代に37歳の若さで住持になった「黒衣の宰相」と呼ばれた以心崇伝であろう。豊臣家没落の功労者とも云われ、徳川家康のブレーンとして活躍し、ますます権力を強いものとした。そのため、南禅寺は、江戸幕府の上方の目付け的存在で見られていて、京の人々からは、「武家づら」とも呼ばれていた。そして、明治新政府となり、この南禅寺に対して相当な迫害を加えられたようだ。かっては、広大な敷地を持っていた境内も大幅に削り取られ、しかも境内の中を琵琶湖疏水の水路閣を通すなど種々な報復があったという。そんな歴史を持つ南禅寺だが、今はその水路閣が一つの名物になったりする。
こんな南禅寺の流れを知ると、寺院の持つ意味とは何なのかと改めて考えてしまう。
塔頭の一つに「金地院」があるが、この境内内に東照宮がある。最初は、何故このようなところに東照宮なのか疑問だったが、南禅寺の歴史を知って初めて理解できた。又、亀山天皇の離宮跡が南禅院である。


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                                             三 門              

三門楼上から法堂

 南禅寺へは、琵琶湖疏水沿いの道から参道に入るのが一般的だが、地下鉄東西線の蹴上駅から金地院横を通って参道へ出る静かなコースもある。湯豆腐料理で有名な「順正」前から三門に向かう。中門を通り越すと南禅寺境内という感じになる。京都三大門の一つである三門が大きく見える。この三門は、石川五右衛門が、「絶景かな、絶景かな」と大見得をきったところして有名だが、事実は年代的に異なる。この三門は、1628年(寛永5)に藤堂高虎が、大阪夏の陣に倒れた将士の菩提を弔うため再建されたもので、石川五右衛門が、刑死された後のこと。
三門の高さ約22m、柱の間が五つで三つの出入り口がある五間三戸と大きい門。
この三門の楼上に上がる事ができ、そこから京都市街は一望できる。内部には、宝冠釈迦如坐像が安置されている。

京都三大門  知恩院、東本願寺、南禅寺

三門と山門  お寺により使い分けられているが、三解脱門(空・無相・無作門)を通って本堂(涅槃)に至らねばならないという事から三門という。東福寺の三門が最古で、禅宗や浄土宗寺院の門にみられる。一方、山門は、寺院が山号を持っていたことに基づく。

大方丈の庭園

大方丈(国宝)は、京都御所の女院御所の御対面御殿を移築したとされ、内部の襖絵は、狩野探幽筆の虎や竹の絵など数多く描かれている。一方、庭園は、小堀遠州作と云われる枯山水「虎の子渡しの庭」が、細長く広がる。
左側の画像にて、築地塀の前に並ぶ六つの石が、川を渡る親子の虎を表しているというが・・・庭園の右手は、石庭が広がる。

大方丈

水路閣

南禅寺の名所になってしまった水路閣。琵琶湖疏水の支流として作られた水道橋だ。赤レンガのアーチ状になっていて、古代ローマの水道橋を模して作られたという。およそ寺院しかも禅宗のお寺には似合わない光景だが、時の流れのなかいつの間にかこの空間の中に溶け込んでしまったように感じられるのも不思議だ。

水路閣の上には、琵琶湖からの水が流れている

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南禅院

亀山天皇が離宮「禅林寺殿」を造営したが、この南禅院が南禅寺発祥の地と云われる。現座の本堂は、徳川綱吉の母、桂昌院により再建された。桂昌院の再建や寄進という寺院も結構多い。時の権力者の身内という者の影響力の高さを思わずにはいられない。南禅院の庭園は、鎌倉時代末期に作られた池泉回遊式庭園で、夢想国師が手を加えたと云われ、天龍寺、西芳寺の庭園と並ぶ京都三名勝史跡庭園とされている。

龍の頭をかたどった滝

庭園

金地院

金地院(こんちいん)はもともと北山の鷹ケ峰にあった禅寺で、1605年(慶長10)に南禅寺の住持であった以心崇伝によって移され南禅寺の塔頭となった。
金地院の境内には、徳川家康の念持仏を納める東照宮があるのは意外であった。
創建当初は、諸堂が完備し、日光東照宮に比すものであったというから尚更驚く。

方丈正面には、「鶴亀の庭」と称される小堀遠州作の枯山水庭園が広がる。右側の画像で、右手が鶴島、左手が亀島。亀島の中央に敷かれた長方形の石が、遥拝石(ようはいせき)で、背後に建つ東照宮を礼拝するための石。かっては、東照宮も望めたが、今では木立に隠れてしまっている。この東照宮、日光久能山の東西延長線上に富士山があり、西端がここ金地院東照宮となるとのこと。
以心崇伝が、いかに徳川家康に対して忠誠を誓っていたかを知ることができる。
徳川幕府と南禅寺の関係を知ることが出来る金地院だ。

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