建仁寺(けんにんじ)の沿革 |
祇園の花見小路を南に下ると建仁寺の北門となる。京での禅宗・臨済宗がここ建仁寺で、栄西によって開かれた。栄西は、中国・宋に渡り、天台の経典を持ち帰ったが、禅の教えに共鳴し、再び宋に渡り臨済宗黄流派の虚庵懐敞に師事し、印加を得て帰国し、禅の教えを説いたが、天台宗の僧徒から非難され、朝廷からの禅停止の命令も受けた。が、自らの仏教は、最澄の教えと同じであり、比叡山仏教を再興するものという信念であったという。そして、栄西は時の鎌倉幕府の庇護を受け、鎌倉に鎌倉五山の一つである寿福寺の開山を1200年(正治2)に行った。しかし、禅宗の寺院を京の都に開山することにより禅宗を認めさせるという意味で、鎌倉幕府により建仁寺の創建まで至ったが、創建時はあくまで比叡山延暦寺・天台宗の一派という位置づけであったという。それだけ、比叡山の圧力が強かったのであろう。
創建当時の建仁寺は、鴨川まで至る広い寺域であったという。今では、祇園という街中にあるせいか、古刹というより身近なお寺という感じになってしまう。改めて考えると、建仁寺の方丈などの拝観をしていなかった事を今更ながらら驚く。建仁寺には、有名な「風神雷神図屏風」(今では実物は京都国立博物館に貯蔵)など長谷川等伯の「松に童子」などが伝わっている。これは、建仁寺が、漢詩文の素養の高い禅僧が集まったことから「学問づら」と呼ばれたという一面を表しているかもしれない。
お茶は、栄西が日本に伝えたといわれ、茶祖・栄西として知られるが、「建仁寺茶礼」という茶席を清める儀式が毎年四月二十日の栄西誕生日に開かれているそうで、栄西が茶も修行の一つとしていた考えが反映されていて一般の茶席とは大分違うとのこと。
改めて、ゆっくりと拝観したくなる。