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天龍寺

紫野、天皇や大宮人が若菜積みや狩猟をした場所に建つ茶づら大徳寺

大徳寺の沿革
 臨済宗大徳寺派総本山
 1315年(正和4)頃  宗峰妙超(大燈国師)が大徳という小庵が起源
 花園・後醍醐天皇の帰依を受け、勅願所となる
 1326年(嘉暦元)  法堂完成により大徳寺と命名
 室町幕府の寺院制度に反発し、衰退。
 応仁の乱後、一休宗純が住持となり復興。
 豊臣秀吉らの戦国武将の崇敬を得る。

紫野という地名は何とも優雅だ。かっては、紫草の生い茂る野原で、歴代の天皇や大宮人が若菜摘みや狩猟を楽しんだという場所に五条の橋下で乞食同然の修行をしていたという宗峰妙超が住したのが大徳寺の始まりという。やがて、一休宗純が住持となり、厳しい禅の教えを受け継いでいったという。茶人・村田珠光は一休宗純、と親交があり、「仏法も茶の湯の中にあり」という境地を得たという。珠光の茶の湯を受け継ぎ大徳寺の僧に帰依したのが、武野招鴎であり、その門下として千利休がいる。このような伝統を持つ大覚寺を「大徳寺の茶づら」と京の人が呼んでいた。この利休も、三門の寄進にて、2階部分に置いた利休像が秀吉の逆鱗に触れ、切腹させられた一つの原因とも云われている。ここ大徳寺は、秀吉が織田信長の葬儀を行われた寺で、秀吉が参拝じ、利休の下をくぐるということになる。利休切腹の真実は、明らかではないが、本筋は別のところに対立点があったのだろう。
信長の葬儀以降、数多くの武将によって塔頭が開設された、戦国武将の有力者という証となった。江戸時代になり、沢庵宗彭が幕府統制化におこうとすることに反発、抗議し流罪となったが、その後三代将軍家光が沢庵に心服し、法堂や仏殿を寄進した。室町幕府に始まり時の権力者達に崇められながら、時に決然とその力に立向かう伝統があるのだろう。

三 門

金毛閣と呼ばれる三門は、大徳寺最古の建物の一つで、応仁の乱で焼失後、連歌師宗長によって一階が創建され、60年後千利休によって二階二層門となった。

唐 門

村上周防守が、聚楽第の遺構を譲り受け、明治になって移建された。日光日暮門の模型になったと云われている。

方 丈

京都の豪商 後藤益勝の寄進により再興された。前庭は、小堀遠州の作庭だ。
丁度訪れた時が、掛け軸などの陰干しの日にあたり、方丈内にそれら掛け軸などが多数吊るされていたのだが、当時は、あまり気に留めずに終わってしまったのが残念だった。

大徳寺及びその塔頭とも記録した写真が少なく、改めて参観する機会があればアップデートしたい。画像はクリックして拡大できます。

大仙院

大徳寺の本坊の庫裡を越えた北側の右手に見える大仙院。1509年(永正6)正法大聖国師古岳宗亘を開祖として、近江の守護職であった六角政頼が創建した塔頭。室町時代の枯山水庭園や方丈が有名で、大徳寺の塔頭の中では珍しく、常時公開・説法が行われている。

芳春院

大仙院の北側にある芳春院。通常は非公開だが、この年は、NHKの大河ドラマで、前田利家とまつの物語が放映されていて、芳春院が特別公開されていた。この塔頭・芳春院は、1606年(慶長13)に前田利家の正室まつ・芳春院が、玉室宗珀を開祖として創建された前田家の菩提寺である。
呑湖閣(どんこかく)と呼ばれる二重楼閣は、大徳寺開山・宗峰妙超を祀ったもので。小堀遠州が造営し、後に焼失。江戸時代後期に再建された。

呑湖閣

総見院

大仙院への道手前を西方向に向かうと、塔頭の一つ総見院がある。通常は非公開だが、芳春院と同じように特別公開されていた。1583年(天正11)に織田信長の一周忌を迎え、その追善の為に豊臣秀吉によって建立された織田信長の菩提寺・総見院だが、明治初期の廃仏毀釈により堂宇伽藍などが焼失したが、大正年間に再興された。
織田信長一族の墓として、信長、徳姫(信長息女)、濃姫(正室)、おなべの方(側室)などの一族七基が並んでいる。

興臨院

大徳寺勅使門の西側にある塔頭・興臨院。1520年代に能登の守護職畠山義総によって建立され、畠山家の菩提寺になっていたが、畠山家没落後 前田利家により修復され以降前田家の菩提寺となった。

龍源院

大徳寺の南派の法源地本院として、大徳寺の塔頭のなかでも最古の龍源院。1502年(文亀2)に東渓宗牧が開山し、能登の守護職畠山義元、九州の都総督であった大友義長らが創建。
方丈、唐門、表門は、創建当初のもので、方丈を中心とした四つの庭は、それぞれの趣きがある。特に、「東滴壺」と呼ばれる石庭は、幅約2m、奥行き約7.5mと日本での最小といわれる石庭だ。

興臨院 庭園

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