龍安寺(りょうあんじ)の沿革 |
戦前から名庭として知られてはいたものの、訪れる人も少なかったという。それが、昭和50年に英国のエリザベス女王が訪れ、この石庭を絶賛したことから、全世界に知られるようになり、今では、観光地のメッカになった感。方丈に坐りこみ、何時までも石庭を眺めている人も多い。又、外人観光客も多いのも特徴。皆、この石庭を観て、何を感じていくのだろうか。虎の子が河を渡っていつように見えるため「虎の子渡し」とも云われる石庭だが、作者、作庭時期、作庭意図などがハッキリしていないというのも謎めいている。一説では、足利義政に仕えた相阿弥作とも、あるいは作庭は江戸初期で、小堀遠州作とも云われているが、未だ解明されていない。この石庭、凡人には何を訴えているのか理解する事は、難しい。同じ妙心寺の塔頭である退蔵院の「瓢箪と鯰」の絵のように、正解があるわけではなく、そこから一人一人が何かを悟れれば良いのであろう。まさに、臨在禅の特徴である一つの課題なのかもしれない。
そういった想いで石庭を眺めても、自分なりの解が見つけ出せない。
丁度、桜の季節に訪れた。東西約25m、南北約10m、高さ平均1.8mの築地塀で囲まれている。地面は一見水平だが、排水のため方丈から見て左奥が低くなっていて、右側の塀は、奥にいくにつれ低くなっていて、空間の広がりを感じさせる設計になっている。
塀は。「油土塀」というもので、白砂からの照り返しを和らげるため、菜種油を混ぜ土で練った土塀となっている。
龍安寺には、石庭だけではなく、広い庭園がある。鏡溶池は、徳大寺家によって築かれたもので、平安朝の頃は貴族達が船を浮かべての詩歌管弦を興じたという。
方丈の北東にあるつくばいは、中央の四角を口として見て、「吾唯足知」(われただるるをしる)と読むそうで、徳川光圀の寄進といわれている。現在のは、複製が置かれている。
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