源義家の三男・源頼朝は、久安3年(1147)に源義朝の三男として生まれた。しかし、平治元年(1159)に起った「平治の乱」によって、父義朝の軍が破れ、翌永暦元年(1160)尾張にて討たれてしまう。長男・義平、次男・朝長も戦死したのが、頼朝13歳の時であった。頼朝は、平清盛の義母池禅尼の命乞いで助命され、伊豆蛭ケ小島(韮山町)に流され、以来20年伊豆の地で流人生活を送った。その間の鎌倉は、鎌倉の西に大庭御厨(おおばみくりや)の鎌倉党の勢力が延びてきた。これに対し、抵抗していたのが、相模三浦一族等であった。冶承4年(1180)8月に遂に挙兵するが、石橋山の戦いで敗れ、一旦房総まで逃れ、同年10月鎌倉の地に入った。その後、富士川の戦いに勝利した事をきっかけに、平氏を京都から追い出した木曾義仲の軍を破り、ついに壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させ、建久3年(1192)征夷大将軍に任ぜられた。鎌倉の地に鎌倉幕府をつくり、平清盛とは違った武家政権が誕生した。しかし、建久9年(1198)稲毛重成の亡妻追福のため相模川に橋を造り供養する式に臨席、その帰途落馬し病み、翌正治元年(1199)死去してしまう。稲毛三郎重成は、現在の川崎市のかなりの部分を治めていた武将で、妻が頼朝の妻北条政子の妹であった事もあり、頼朝の重鎮の一人だったと云われている。その重成は、郷土史から身近でもあり、しかも重成が行った供養が元で、頼朝が亡くなってしまったのも不思議な関係を感じてしまう。
一般的には、頼朝は好かれていない。一番の要因は、異母弟の義経への対応にあったと思う。しかし、軍事に関する天才的な戦術家だっと云える義経だが、やはり旧体制である朝廷を中心とした仕組みに生きた人物であり、頼朝が目指した武家体制を理解出来なかったものが、義経の悲劇を生んだのではないかと思う。しかし、判官びいきの民衆感情が、今の世になっても残り、頼朝の存在を弱いものにしてしまっている。
そんな「頼朝」が、鎌倉の地にどんな足跡を残しているのだろうか。たどってみたいと思った。
鶴岡八幡宮から由比ガ浜海岸への道、「若宮大路」を下っていくと、横須賀線のガードを潜る。その先の高台のような場所に立つのが「一の鳥居」であり、この位置は、丁度砂丘の頂上になるというが、今の景観ではその辺りが砂丘と云うことが分からない。現在の「一の鳥居」は、徳川第4代将軍徳川家綱が再建・寄進した「寛文8年(1668)」の銘がある石造りの大きな鳥居である。最初に表れる「一の鳥居」の記述は、吾妻鏡に治承4年(1180)とあり、以降何度か再建されてきた。現在の鳥居が再建された江戸時代初期、由比ガ浜の海岸は、この鳥居近くまであったのだろう。事実、一の鳥居に相当する建造物跡も見つかっている。それらによっても、海岸線が下がり陸地化が広がっているのが分かる。
佐助稲荷神社の縁起によれば、源頼朝が伊豆の蛭ケ小島に流されていた時、ある夜翁が現れ、「私は鎌倉鎮座の神である。早く兵をおこして平家を討伐し、天下統一をはかるべし」との宣託があったという。そのため、頼朝が鎌倉に入ると、稲荷の神霊に感謝し、佐介山の隠れ里の地を選び、畠山重忠に社殿を造らせたという。佐助というのは、佐殿(すけどの)と呼ばれた頼朝を助けたからだとも、又、千葉介・三浦介・上総介の3人の介の屋敷が谷内にあったからとも云われている。勝手な判断では、後者の方が正しく、後に千葉や三浦などが滅ぼされてしまった事から、語呂合わせで、前者の伝承が伝えるようになったのではないかと推測する。
又、佐助稲荷神社には、13世紀頃鎌倉に疫病が流行った時、狐を助けた源十郎という者に稲荷が夢枕にたち、佐介谷に大根を作り、それを食すれば病は治ると告げたという。その通り行うと、疫病まなくなり、大根をつくった源十郎も富人になったそうだ。
若宮は、下宮とも呼ばれ仁徳天皇や履中天皇などを祀る。江戸幕府2代将軍徳川秀忠が着工し、3代将軍が家光の代の寛永3年(1626)に完成。拝殿から幣殿と本殿を連ねる権現造となっている。
段葛
今や石碑だけになってしまっているが、鶴岡八幡宮の裏手に二十五坊(院)があった。鶴岡八幡宮供僧の住坊で、源頼朝が建久2年(1191)に八幡宮の本地仏の阿弥陀如来を安置し、25菩薩になぞらえて二十五坊をおいたが、応永22年(1415)院宣によって院に改められた。室町時代後期には7院まで減少したが、徳川家康が12院を再興し、明治維新の神仏分離で廃絶してしまった。御谷と呼ばれるその裏山に宅地造成計画がなされたが、市民運動によって保存が決まった所でもある。草が生茂る跡地ではあるが、静かな環境が守まれているだけに、更なる工夫が欲しい処だ。
舞殿は、静御前が義経を思い舞いを舞った所と言われているが、その頃にはこの舞殿はなく、下社の回廊であった。静御前は、吉野山で捕らえられ、鎌倉に送られ頼朝の舞を命ぜられた。「よしの山みねの白雪ふみわけて入りにし人のあとぞこいしき」と詠ったのは有名。しかも、静御前が身篭った義経の子は、男の子だった事もあり、産まれて直に殺されてしまうという悲劇に見舞われる。その後、静御前は、京に戻ったものの、以後については良く分かっていない。
現在の舞殿は、建久3年(1193)2月に新築されたもので、関東大震災後改築された。
法華堂跡から東へ行くと、荏柄天神社の参道になる。福岡の大宰府天満宮、京都の北野天神と共に日本三大天神に数えられる古代からの社である。縁起によれば、頼朝が鎌倉に入る70年弱前の長元元年(1104)8月、雷雨と共に天神画像が下り、里の人が社殿を建てその画像をおさめ、イチョウの木を植え神木としたという。後に、幕府開府以来、深い信仰を得、大蔵幕府の鬼門に位置する事から、手厚く保護されてきたという。社殿は、元和元年(1622)鶴岡八幡宮造営の時に八幡宮の若宮社本殿を移築したもので、鎌倉に残る最古の木造建築である。境内には、神木のイチョウの木がそびえ、境内には天神社につきものの梅の木が多数見受けられる。
鎌倉の他の社と趣きは異なるものの、京都の北野天神に比べれば、その規模ははるかに小さい。それでも、鎌倉という地で幕府の庇護を得ていたという所から、三大天神社と云われるようになったのかもしれない。
寿時福寺前の横須賀線の踏切を渡る道は、小町通にぶつかるが、この道筋に「巌堂」と呼ばれる小さな堂がある。かっては、ここに岩窟があり、やぐらの前進的な石窟寺院ではないかと見られ、鎌倉時代の初期には存在し、吾妻鏡にも頼朝が参拝した事が記されている。現在は、石窟は閉ざされ、石造りの不動明王が祀られている。窟は、間口6m・奥行き6m余の正方形だという。
佐助稲荷、銭洗弁財天とも隠里にある云々という。何故、この辺りを隠里と云うのであろうか。この地は、葛原ケ岡の麓に位置するが、元々、先住民が葛原ケ岡に住んでいたものを、大和朝廷によりその地を追われ、葛原ケ岡の北に逃げたが、一部は、この地で隠遁生活を送っていたという。時代が下り、この地の人達は、頼朝の時代、通信・伝令などの裏方の仕事をしたという。そうした先住民が暮らした地だけに、彼らを祭る神社的なものがあったと思われるし、その後、佐助稲荷や銭洗弁財天になったとも考えられる。確かに、両神社とも、谷戸の奥まった所にに鎮座している。
元々扇ガ谷の八坂神社の末社であったが、昭和45年に独立し、社名を銭洗宇賀福神社という。神社の縁起によれば、源頼朝が鎌倉に入って間もない巳月巳日、夢枕に現れた宇賀福神と名乗る隠れ里の老人が「西北の谷に湧き出す霊水で神仏を供養せよ。されば、天下は泰平になるであろう。」云う。洞内湧水の功徳に従った所、国内は平穏におさまったという。宇賀神は、福徳をもたらす神とされ、をまつる洞窟の水で金を洗って使うと増えて戻ってくるという伝承から、何時も、硬貨やお札を洗う人があとを立たない。この洞内の湧水は、鎌倉五名水の一つでもある.。聖水により、洗い清めるという意もあるから、その辺りからこのような話が出来たのであろうし、又、鎌倉時代になって大量の宋銭が輸入された事もあり、貨幣経済が発展た事による庶民のささやかな願望が形になったのかもしれない。
頼朝の夢枕に現れたと伝えられる神を祀る神社がある。「佐助稲荷社」と「銭洗弁天社」である。鎌倉駅の西口から佐助ケ谷に「佐助稲荷社」、そこから近くに「銭洗弁財天」がある。何れも、頼朝夢枕伝承が伝わるが、この伝承が何時頃から起っているのか分からない。後世になり作られたものなのか、頼朝在命中に起ったものなのか、興味のあるところではある。古代から近世にかけて、こう云った伝承的な話は多いし、特に神社仏閣など、この種の伝えが多く残っているが、或る意味権威付けのようなキライがある。そんな眼で見たとき、この2社はどうなのであろかと思う。
本宮の西側の脇にある小山にある「丸山稲荷社」は、小さいながらも室町時代の和様で、一間社流見世棚造の様式を持つもので、関東では現存する数少ない神社建築。
境内東隅に頼朝・実朝を祀る「白幡神社」がある。元は、上宮の西にあったもので、明治20年に移した。未だ、上宮の西にあった時代、豊臣秀吉が小田原攻めのあとこの社に参詣したとも云う。
明治時代の始めに起った「廃仏毀釈」運動まで。「鶴岡八幡宮寺」であり、寺と神社の一体したものであったが、この運動を期に神宮という位置づけになってしまった。
創建当所から、時間をかけ鶴岡八幡宮寺として整備され、一別当二十五坊として最盛期を迎えたのが、頼朝没後二十余年たってからであった。この25坊の供僧を見ていると面白い事が分かる。一つは、宗派だが、早くから源氏方であった寺門(三井寺)系が多いのは当然だろうが、山門(比叡山延暦寺)系の僧、更に東寺系などバランスがとれた構成になっている。又出自でも平氏一門の出身も多く、滅亡した平家一門への贖罪という意識があったかもしれない。しかし、それだけではなく、源氏だけの宮寺という位置づけに終わらせず、武士集団全体のシンボル的な位置づけにしたかったのかもしれない。頼朝が挙兵を行い、当初一緒に戦った武士集団の殆どは、平家の流れを汲むものであっただけに、平家一門を含む武士集団という考えを持っていたのではないかと思ったりする。そういった意味では、幅広い視野に立っていた頼朝だったとも云える。そんな頼朝ではあったが、同族の源氏、特に親属には厳しくあたり過ぎたきらいもあり、それが頼朝に対する評価を悪くしてしまったとも言える。
随神像を左右に置く朱塗りの楼門の上には、「鶴岡八幡宮」の額がかかり、八の字は、鳩によって表されている。楼門の中に社殿は、文政11年(1828)徳川11代将軍家斉が造営した。
2代将軍頼家の子公暁(八幡宮寺の別当)の隠れ銀杏と呼ばれる大銀杏。3代将軍源実朝が暗殺されたのが承久元年(1219)1月27日に、銀杏に隠れた甥の公暁に殺されたという逸話が残っている。いまでこそこの銀杏の木は、高さ約30m、周囲約7mだが、800年近い前の銀杏の木で、公暁が隠れるほどの大きさであったかどうか疑問に残る。実朝が八幡宮を訪れたのは、右大臣拝賀の儀式が行われたもので、その帰途襲われたのだが、その場所は、史料によって異なっている。吾妻鏡では、「石階の際」となっている。何れにしても、源氏3代がここで滅んでしまう悲劇の地にもなった。
治承4年4(1180)10月頼朝が鎌倉に入部して、まず手懸けたのが「頼朝御所」であり、現在の清泉小学校敷地辺りになる。続いて、「元八幡」の移転であり、こうして建立されたのが「鶴岡八幡宮」である。「元八幡」は、源頼義が勧請したものであり、鎌倉に於ける源氏縁の宮であった。当初は、極めて簡素な造りであり、現在の石段の下に造られたという。更に、寿永元年(1182)に鶴岡八幡宮への参道道としての「若宮大路」が造り始められた。あわせて、妻政子の安産祈願でもあった。大路の中央部に幅二丈に渡って高さ一尺半(約45cm)盛土し、両脇を葛石で固めたのが、「段葛」となる。段は、「壇」の意味で、葛は「縁石」の意味をさしている。この壇葛は、参道という意味以外にも、防御という意味合いもあったも云われている。即ち、二の鳥居以南は、葦などが群生する沼沢地であり、二の鳥居以北では、段葛の西側は、東側よりもかなり低かったらしい。つまり、西側からの攻撃に備えるという意味もあった考えられる。現在の段葛は、二の鳥居から三の鳥居前まであるが、以前は一の鳥居まで続いていたものだが、取り壊されてしまった。この段葛の面白い所は、二の鳥居では、4.5mの道幅が、三の鳥居前では、3mと狭くした遠近法が使用されている。「元八幡」移転後の建久元年(1190)火災にあい焼失したため、裏山(現在の上宮)の位置に改めて岩清水八幡宮を勧請し、上下両宮とした。鶴岡八幡宮は、鎌倉幕府の儀式の中心的場となり、本来ならば朝廷の内裏で行うべき叙位任官などの拝賀の儀式を行うなど、鎌倉武家政権にとっての神聖な場所でもあった。このような事から推測をすれば、頼朝は、京の御所という位置づけを、新興国家ともいうべき東の武家社会に於いて、八幡宮がそれに替わりうる場として、更に八幡宮という神を祀る事によって、大いなる権威付けを狙ったものとも考えられる。だとすれば、頼朝の持つ世界観というものが、当時の武将達に比べ一段進んだものであったといえよう。
三の鳥居を過ぎると、石造りの太鼓橋があり、その左右に赤い欄干の木橋が並ぶ。このうち「赤橋」と呼ばれるてたのが、中央の太鼓橋で、架け替えられる前(養和2年(1182))朱塗りの木橋だっといわれる。かって太鼓橋は渡れたのだが、今は柵が置かれ、禁止になっている。危ないという事から禁止にしてしまったのだろうか。太鼓橋の左右は、通称源平池が広がる。右側が源氏池、左側が平家池となっている。石灯籠の並ぶ参道が続き、毎年4月と9月に行われる流鏑馬が行われる流鏑馬馬場を過ぎると一段高くなった平地となり、元々の伽藍のあった所で、舞殿や若宮がある。
二の鳥居
源氏山の頼朝像(昭和55年、頼朝の鎌倉入り800年を記念立てられた)