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比叡山 延暦寺
東 塔

京の北東にそびえる比叡の山々。そこに延暦寺の伽藍が並ぶ。最澄が奈良の仏都を離れたこの地に草庵を結んで学問に没頭した。794年(延暦13)に平安京への遷都がなされ、桓武天皇により草庵から官寺に準じる一大寺院となる。さらに京都御所の鬼門にあたる比叡山を封じ込める役割もあったからと云われている。最澄が目指したのは、僧侶たちを国の宝へと育てることだった。最澄の言葉として
「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名付けて国宝となす。故に古人言く、「径寸十枚、これ国宝にあらず。一隅を照らすこれ則ち国宝なり」と。」
そんな最澄も、密教に関しては空海を師とせねばならなかった。その後弟子の円仁が唐に渡り、密教の受戒を受け天台密教が出来上がったと云われている。最澄と空海、同時代に並び立つ両雄の目指す姿がここ比叡山延暦寺と高野山金剛峰寺に現れているのかもしれない。人の育成を第一とした最澄。
事実 この延暦寺から日本の仏教界の新しい道を拓いた多くの僧侶が出た。法然、親鸞、栄西、道元、日蓮などなどである。比叡山と並び称される高野山では、こうした事例があまりない。ここに比叡山 延暦寺本来の姿があるのだろう。又、ここ比叡山には、墓地というものがない。これも高野山とは違う。延暦寺は、今でいう総合大学と云えるだろうが、その修行は千日回峰などのように極めて厳しいものだ。そんな延暦寺も 後白河法皇には、自分の意思通りにはいかないとか、織田信長には壊滅的な焼き討ちにあったり、学問の場とはかけ離れた時代もあった。しかし、1200年余たつ今でもその佇まいが霊場として存在している。
こんな比叡山、中々拝観する機会がなかった。一つは交通の便もあったが、再開発されている比叡山を敬遠する気持ちもあった。しかし、前月(5月)に石山寺や三井寺を拝観し、比叡山を一度訪れたいと思った。

出町柳から叡電で八瀬比叡山口に向かう。平日とあって、人手はそれほどでもない。梅雨前の暑さが窓からの風が心地良い。駅からケーブルまで、高野川の清流を見ながらつり橋を渡る。ケーブルで一気に比叡山まで登る。眼下に洛北の市街地が望める。かっては、歩いて登ったであろう比叡山もこうして文明の利器で登れるようになったのは、楽にはなったが、その分霊山の有難味が失われていくのかもしれない。
比叡山は、大きく分けて
 東塔
 西塔
 横川
の三つの道場群の伽藍に分かれている。まず東塔に向かう。

比叡山の総門にあたる文殊楼がある。最澄の弟子である第三代天台座主・円仁(滋大師覚)が修業道場として創建。1668(寛文8)に焼失し、その直後再建された。楼上に祀られたのは文殊菩薩。楼上に上がり、おまいりする。

比叡山に籠った草庵が天台宗の中心道場である根本中堂となった。織田信長の焼き討ちにあい、現在の建物は1642年(寛永19)に再建された。
石段を降りていくと、根本中堂の大きな伽藍が圧倒した姿を見せる。回廊の向こう側に巨大な屋根が頭をのぞかせている。

堂内には板敷きの外陣が広がり、さらに一段低くなった石敷きの内陣がある。内陣には三基の厨子が並び、その前に三つの吊灯篭があり、その中で最澄の時代に灯された「不滅の法灯」がある。
油断の言葉の由来は、うっかり油を注ぎ忘れると法灯が断たれてしまうことから生まれたそうだ。

さまざまな行事や講義に使われる大講堂。
堂内には、比叡山で修行をした各宗派の開祖
の木像や肖像画が見れる。

鐘楼

小高い丘の上に立つ戒壇院。戒壇院は、最澄が定めた大乗戒(天台宗の戒律)を授ける唯一の根本道場。最澄が建立を発願したが、東大寺などの反発にあい、最澄が入滅してから建立された。現在のものは、1678年(延宝6)の再建。

戒壇院から奥に進み、石段を登ると法華総寺院がある。阿弥陀堂や東塔が並んでいる。
最澄の弟子円仁によって創建された天台密教の根本道場であったが、廃れていたものを
昭和に入り発堀調査と復興が行われた。

比叡山から琵琶湖を望む。遠く、大津方面を望む事が出来る。

琵琶湖の竹生島方行を望む。

横川へ

西塔へ

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