100のお題・014. こぼれた思い

(千と千尋の神隠しより)

 

2007年・お正月企画として、拍手にアップしておいた作品です。

本編時系列でいうと、第4部第3章2近辺のお話。

 

 

「はくったら、まあだ?」

「もう少し。まだ目を開けてはだめだよ。」

「もうずいぶん歩いたような気がするのだけれど。」

春の日差しが木漏れ日となって降り注ぎ

眩しいほどの命が溢れる森を一対の美しい男女が、

手を携えながらゆっくりと歩んでいる。

くすくすと楽しげな笑い声を周囲に振りまきながら

森を逍遥している二人は、この森を司る夫婦神で

まるでこの世界に存在するのは二人だけで

あるかのごとき振る舞いは、傲慢なほどの幸福を

周囲に見せ付けているかのようだ。

どれほど歩いたのか。

この森の女主である神の妻さえも

来たことのないほどの深い森の一角で、

龍神は足を止める。

「ほら、着いたよ。」

「え?はく、ここって。」

そうして、、驚きに目を瞠り、振り仰いでくる妻に

龍神は満足そうに笑ったのだ。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

光の加減で翠に光る黒い髪に白皙の美貌。

翡翠の瞳にあるどこか硬質なほど冷然とした

光が無ければ、黙っていても女神たちが

擦り寄ってくるであろうほどの美しい男は

自身の支配する森の一角に先程から佇み

小さな地霊たちの言葉に耳を傾けている。

しばしの後、納得したかのように軽く頷くと

はるか西方の島国にいるというドルイドのように

持っていた杖を持ち上げ、

すとんと地の1点に向かって振り下ろした。

トン

ポコッ

しばらくは何事も起きなかったそこに

亀裂が入り小さな窪みが出来る。

そうして、湧き上がってきたものに

注意深い視線を注いでいた森の主は

満足げに頷くと、周囲で躍り上がるようにして

喜びを表している小さな地の眷属たちに

何事かを命じ、唯一無二の存在が待つ

自身の宮に戻っていった。

 

 

・・・・・・・・

 

 

千尋は夫の様子に訝しげに首を傾げる。

普段と何も変わらない表情に

しかし、そこは長年連れ添ってきた

妻の勘とでもいうのだろうか。

「はく?」

「何、千尋。」

ほらやっぱり・・・

呼びかけに応える声はどこか上の空で

千尋はそっと真向かいに座ってティーカップを

玩んでいる夫の顔を窺った。

呼びかけただけで続きを言おうとしない妻に

今度ははくと呼ばれた龍神のほうが首を傾げる。

「千尋?」

「・・・・・」

「ち、千尋どうしたの?」

何事か言いたげな黒い瞳を覗き込んだ琥珀主は

にっこりと笑った妻に、しまったというかのように

翡翠の瞳を泳がせた。

「はく?」

「何?」

「何か隠しているでしょう。」

「・・・・・・」

「ここ2,3日なんかそわそわしているみたい。」

そう言いながら見せる視線に

ほんの少し寂しげな影がよぎる。

「お仕事、大変なの?わたし、なんにもお手伝いできないから。」

「いや。」

琥珀主は、首を振ったと同時に手を伸ばし

艶やかな栗色に光る髪を一筋つかむと、

摺り寄せるように唇まで持ちあげた。

「そなたとこうしてあるだけで、

どれほどの助けになっているのか分かっていないそなたに、

どうすれば私の気持ちを伝えることが

できるのか考えていたのだ。」

「はい?」

いつになく長いセリフに目を瞬かせていた千尋は

ボンと音がするほど赤面してにらみ付ける。

「はくっ。私本っ気で心配しているんですけれど。」

そんな様子を相変わらず髪を持ったまま

澄まして見ていた琥珀主は、ふっと笑むと

手の内からさらさらと妻の髪を零した。

「私も本気だよ。」

絶句して何もいえなくなってしまった妻を

楽しげに見ていた琥珀主は、

ふとその視線を背後に逸らした。

一見すると何事もないように見えるその表情は

しかし、千尋の目からは瞬間光りが差したかのように

輝いて見え、思わず後ろを振り向く。

と、そこには今まで見たこともないような小さな

霊がその長い髭を擦るように深くお辞儀をしていたのだ。

赤いとんがり帽子に白い髭。

どこかで見たようなという即視感に遠い記憶を探るまでも無く

それは御伽噺の中に出てくる小人そのもので

千尋はあっけに取られまじまじと見つめた。

「主様、御下命の件、無事果たしましてございます。」

「ご苦労。」

しかし、交わされる会話はまるで冗談のように古めかしく

主のねぎらいの言葉にますます深々と下げた頭が

床に付くと同時に、ぱっと消え去ってしまったのだ。

「え?あれっ?はく、今のって・・・」

「そなたが気に留めるほどのものではないよ。

地霊の一族の一人で、地の上に

出てくることはほとんど無いから。」

「で、でも、あれって小人さん?日本にもいたの?」

「大地の落とし子だ。大昔からこの秋津島にいるよ。

人には知られていないけれどね。」

目を丸くしている千尋に楽しげに返すと

琥珀主は立ち上がる。

「お出で。」

「え?どこに行くの?」

差し出された手に右手を添えると

千尋は訝しげに夫を見上げ小首を傾げた。

「きゃあ。」

と、待ちきれないというように抱き上げられてしまった

千尋は夫の首にしがみ付くと、すぐ目の前にある

翡翠の光を非難するように見やった。

「はくったら、なあに?」

「森に行くよ。」

「え?」

そうして、楽しげに煌いている翡翠の光に見惚れながら

千尋は諦めたように力を抜くと夫に体をあずけたのだった。

 

 

新しいお役目を帯びた琥珀主が、長い仕事から

戻ってほんの数日。

結婚する前からもあわせても、こんなに

長く離ればなれだったことは、かつてなく

離れていたこの数ヶ月を取り戻すかのように

常に傍らにいる夫は、戻ってきたばかりの頃の

どこか疲労と焦燥に就かれたような影は

すでに片端にもなくて、

千尋は、密かに安堵のため息をついた。

が、それは琥珀主のほうも同様で。

隠してはいても千尋自身、

夫が側にいない日々に

気持ちの安定を保つことの難しさを

いやと言うほど味わっていて、その間の

鬱々とした寂しさからはどうあっても、

例え、自身の子の元にあってさえも

晴れることは無く、自分では気がついてはいない、

どこかやつれたような顔に、

琥珀主は愛おしさとやるせなさに胸をつかれる

ような思いをしていたのだ。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「え?はく、ここって。」

目の前の岩陰に広がっている大きな池に千尋は目を見開く。

「まさか、温泉?」

岩の割れ目からは絶えず熱水が流れ落ち、

水面からは湯気が立ち上っているここは

まさに温泉以外の何物でもないであろう。

この森の主に嫁いで百年を過ぎたというのに、かつて

森の中に温泉があるなどということは聞いたこともなく。

千尋は目を丸くしながら温泉と夫を交互に見つめた。

「なかなかの仕事ぶりだな。」

周囲は入りやすいように滑らかな岩で囲まれ

底には白い一枚岩が敷かれているこの温泉は

どう見ても自然の造形というわけではなさそうで

満足げに呟いた夫を千尋は不思議そうに振り仰いだ。

「地霊たちに命じて作らせたのだ。

そなた専用の温泉だよ。」

「ええ?」

散歩に出かける前にこの事態を想定して

それなりの服装に着替えさせていた龍神は

そんな千尋を悪戯っぽく見やると徐に手を伸ばし、

驚きで自失している隙に肩紐を解いてしまった。

「え?きゃあ。」

するりと体から布が滑り落ちる感触に我に返った千尋が

慌てて体を隠そうとするのを楽しそうに見ながら

琥珀主も躊躇い無くするすると身につけている

衣装を落としていく。

「はくっ。」

「大丈夫だよ。ここは結界が張ってあるからね。」

「そういうことじゃ。」

目のやり場に困って瞳を泳がしている千尋に

含み笑いをすると、琥珀主は躊躇いを振り切らせるように

千尋の手を引きながらゆっくりと湯に入っていった。

「ああ、いい気持ち。」

突然の事態に最初は戸惑って

為すがままになっていた千尋も

体に染み渡るような温もりに

肩の強張りを解くと思わず大きく息を吐いた。

「気に入った?」

「うん。びっくりしたけど。」

「ここ半年ばかり寂しい思いをさせてしまったお詫び。」

「はくったら。」

そんな千尋の様子をじっと見つめていた夫の言葉に

千尋は思わず瞳を潤ませると、わななく唇で微笑んだ。

「ありがとう。すごく嬉しい。」

囁かれた言葉に満足げに頷くと、

「本当は私と一緒でなくては、と言いたいけれど

まだ一つ懸念が残っていてね。

私の留守中、女主のお役目に疲れたら、ここに

癒しに来なさい。そなたが教えないかぎり

誰にも見つからない隠し湯だから。」

「うん。」

主の留守を守ることの大変さを労わっての言葉に

千尋は顎を湯に浸けるように頷く。

そうして、そっと肩を引き寄せてくる夫の胸に

体を預けると千尋は静かに目を閉じた。

 

春の盛りの爽やかな風が吹き抜ける中、

誰にも知られぬ神の隠し湯の中で

暖かい温もりに包まれながら

森を司る夫婦神はいつまでも

寄り添いあっていたのだった。

 

 

 

おしまい

 

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昨年(2006年)の3月に温泉の湧き出る某スキー場に

行った時から抱いていた妄想話です。

 

というか、これで終わり?と思ったそこのあなた。

それ以上はあなたの脳内での妄想にお任せしまっす。

 

ちなみに御題の「こぼれた思い」は

互いを恋しく想う気持ちが溢れこぼれた、

ということにしておいてください。

(こじつけっぽいですけど。。)